弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2014年3月11日
民主化のパラドックス
アジア
著者 本名 純 、 出版 岩波書店
とても興味深い話が満載の本で、インドネシアの実情をよく理解することができました。
日本にとって、インドネシアは古くからの友好国であり、同時に重要なエネルギー・天然資源供給国でもある。
1970年代から1990年代後半まで、日本のODA(政府開発援助)の最大受け入れ国はインドネシアだった。
2億人をこえる人口は、インドネシアを中国、インド、アメリカに続く、世界第4位の巨大国家たらしめている。
インドネシアで「政治の自由」というスローガンが公に議論できるようになったきっかけは、1989年5月、駐インドネシアで米大使の発言だった。これにまっ先に飛びついたのは、スハルト体制の柱である国軍と、政府の翼賛政党「ゴルカル」だった。国軍は、国会の中に一定の議席を占めていた。軍部は、スハルト大統領との確執を強めていた。
インドネシアの民主化要求の盛り上がりは、体制内部の権力闘争、すなわちスハルト大統領と国軍との勢力争いによって生まれた政治空間だった。
1965年9月30日に勃発した「9.30事件」は、インドネシア現代史のもっともダークな過去である。この「9.30事件」によって、多くのインドネシア国民は、政治がいとも簡単に死に直結することを記憶に植えつけられ、政治に恐怖を抱いた。その一方で、為政者たちは、自らの意志で大衆が操作され、そのうねりで国が動くことに陶酔する。
スハルトは「9.30事件」の前に情報を得ていたが、あえて事件の発生を止めなかった。この機会を利用して、軍内のリーダーシップをとり、共産党を壊滅に追い込み、スカルノ体制を国軍主導の下で再建しようと考えた。
泥沼化していたベトナム戦争をかかえるアメリカにとって、陸軍の反共作戦は、好ましい事態だった。アメリカは、インドネシア各地の共産党幹部のリストをスハルト側に渡し、その排除を手伝った。「9.30事件」による死者は少なくとも50万人、多くて300万人と言われている。
魔女狩りは、地主や宗教指導者などの地方有力者にとって、日頃、敵対する人たちを排除する格好の機会にもなった。
スハルト体制は、国民的なトラウマの上に建設された。スハルトの嫁婿であるプラボウオが「陰の司令官」として軍内で横暴な権限を発揮することに対する静かな不満が、軍内にたまっていった。プラボウオは、陸軍特殊部隊を中心として、不満分子の弾圧工作を展開していった。
大規模な暴動を扇動してスカルノ体制を崩した経験のあるスハルトには、プラボウオのやっていることに脅威を感じた。プラボウオが治安維持回復作戦司令部の復活という時代錯誤の策に走り、暴動を政治利用したことで、社会混乱は深まり、収拾がつかなくなった。
軍内の権力闘争は、スハルト辞任劇の核にあたる部分を演出した。
プリブミとは、インドネシア語で、「土地の子」という意味。華人系インドネシア人は、生まれながらに「非プリブミ」のレッテルを貼られ、構造的な差別を受けた。
自然発生の暴動など、インドネシアではありえない。これは、差別とか怒りではなく、政治の力学である。暴動というのは、イベント企画であり、火付け役から扇動役、暴動役まで準備され、それ相応の報酬が支払われることが前提だ。なかでも、反華人の暴動は、人気のプロジェクトだった。なぜなら、スポンサーは国軍だから、報酬も他と一桁ちがうし、プリブミのためという大義名分があるから、リクルートも楽だった。
ハビビ大統領の後ろ盾を得たウィラント国軍指令は、軍内「改革」のキャンペーンをあげて、プラボウオの勢力の一掃に動いた。この浄化は、陸軍特殊部隊に対してのみ行われた。処罰するかどうかは、ウィラントの意志次策だった。これを読みとった多くの将校が、ウィラントへの忠誠を高め、結果としてウィラントの軍内掌握がすすんだ。その意味で「国軍改革」は、ウィラントにとって政敵排除の道具であり、権力闘争のカモフラージュでもあった。
東ティモールを切り離して損をするのは、コーヒー農園や砂糖農園の利権を牛耳っているスハルト家と国軍であった。
5年の任期をまっとうすることなく、ワヒド大統領が政権の座を追われた(2001年7月)ことで、民主化時代における政治エリートの権力闘争にある種のコンセンサスが形成された。それは、いくら自由な選挙を経て選ばれた大統領であれ、与党連合の力学を無視して好き勝手はできず、連立を組む他党にきちっと利権を分配し、そのパイプを切るようなことはしないという暗黙のコンセンサスである。与党連合に加わって、大臣職や国営企業へのパイプを獲得し、あらゆる公共事業で与党政治家が一枚かむ仕組みをつくり、そこで吸い上げた金を政党運営にあてる。つまり、主要政党エリートで権力と利権のパイを分けあうことで、政治の談合体制をつくる。これが政権安定のカギであることを、メガワティはワヒドの経験から学んだ。
国民はメガワティに抱いていた「期待」が幻想であったことを徐々に認識していった。独立の父スカルノの娘として強いカリスマ性、そしてスハルト時代の抑圧のシンボルとして社会がメガワティに抱いてきた「人民の母」「弱者の味方」というイメージが急速に崩れていった。
スハルト時代、メガワティ支持者のNGOや学生運動は、片っ端からコパススの弾圧を受けた。コパススは、旧体制の抑圧と裏政治工作のシンボルとして、スハルト後、急速に存在力を失った。そのコパススの地位回復をメガワティが助けたのは、なんとも皮肉な話だった。
2003年5月の戒厳令は、一方で軍の失態を外に漏れにくくし、他方で特定エリートの利益拡大に大いに貢献した。メガワティ政権は、このような国軍のフリーハンドを容認した。
ほとんど国民に対して語りかけないメガワティに対する不満もユドヨノ評価につながった。ユドヨノにはマシーンがなく、あるのは人気だけだった。
マシーン政治が勝つのか、イメージ政治が勝つのか。
ユドヨノは得票率60%を確保し、圧勝した。しかし、実行派のイメージとは裏腹に、決断力がないことでユドヨノは有名だった。みんなにいい顔をしたがる。ユドヨノは、ストレートに本音を言うのを嫌うジャワ人の典型だった。2009年のユドヨノ再選は、国民が政権の継続を望んだ結果である。
スハルト体制下、公然の秘密として国軍はさまざまな「治安サービス」を提供し、ナイトクラブやディスコ、賭博場、売春宿などのビジネスの警備を通じて、多額の自己資金を調達した。これは巨大な利権ビジネスであり、国家の軍事予算の2~3倍にのぼっていた。そこに警察が参入した。国軍のライバルとして台頭してきたのだ。
違法ビジネスをめぐる軍人と警官の対立が生まれた。
国軍は新地開拓を求め、人身売買や密輸を手がける犯罪集団との関係を深めていった。
反対に警察は、国軍から縄張りを奪うと同時に、世間に対して治安維持能力があることを示すためにも、国軍と近い犯罪組織の摘発に力を入れた。
スハルト時代に強行された開発ビジネスや国軍の利権活動が地方経済をひどく歪ませ、その不平等で不正義が蔓延する経済状況こそが住民紛争の根本原因である。
アンボンの陸軍兵士は積極的にイスラム教グループを支援し、キリスト教集団への攻撃に加担した。地元警察はキリスト教民兵集団をテコ入れしていた。アンボン市警の警官の7割はキリスト教徒だった。
国軍は、全国各地で地方政治を弱体化し、国軍改革を骨抜きし、ビジネス利権を確保している。
インドネシア政治のダイナミックな推移がよくも分析されていると驚嘆しながら、一気に読了しました。
(2013年10月刊。2700円+税)