弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年2月 4日

「反省させると犯罪者になります」

司法

著者  岡本 茂樹 、 出版  新潮新書

 私も長く刑事被告人(被疑者)とつきあってきましたが、上辺だけの意味があるのが、崩壊的でした。ですから、反省文というのを押しつけたことはほとんどありません。新兄弟への手紙を書くようにすすめていますが・・・。
 この本のタイトルは、あまりに刺激的なので、よくあるキワモノ本かもしれないなと、恐る恐る手にとって読みはじめたのでした。すると、案に相違して、私の体験にぴったりくる内容ばかりなので、つい、「うん、うん、そうだよね」と大きくうなずきながら、最後まで一気に読みすすめてしまいました。
 著者は大学教授であり、刑務所でスーパーバイザー・篤志(とくし)面接委員です。
 反省させると、悪い受刑者がさらに悪くなる。それより、否定的感情を外に出すこと。それが心の病をもった人の回復する出発点になる。
 犯罪は、人間の心の中にある「攻撃性」が表出したもの。自分が起こした問題行動が明るみに出たときに、最初に思うことは、反省ではない。
 悪いことをしたにもかかわらず、重い罪は受けたくないというのが被告人のホンネ。
 裁判という、まだ何の矯正教育も施されていない段階では、ほとんどの被告人は反省できるものではない。
 人は、自分がされたことを、人にして返すもの。優しくされれば、人に優しくすることができる。思春期の親子関係のなかで素直さを失った子どもは、大人になっても、周囲のものに素直になれない。反省文を書かせることは危ない方法なのだ。反省は、自分の内面と向きあう機会を奪う。
子どもの問題行動は歓迎すべきもの。なぜなら、問題行動とは、「自己表現」の一つだから。問題行動を起こしたときこそ、自分のことを考えるチャンスを与えるべき。寂しさやストレスといった否定的感情が外に出ないと、その「しんどさ」はさらに抑圧されていき、最後は爆発、すなわち犯罪行為に至ってしまう。
 被害者の心情を理解させるプログラムは、驚くべきことに、再犯を防止するどころか、再犯を促進させる可能性がある。それは、自己イメージを低めさせ、心に大きな重荷を背負わせることになるから。自己イメージを低くしていくと、社会に出てから他者との関わりを避け、孤立していく。そして、孤立こそ、再犯を起こす最大のリスク要因となる。
 孤立とヤケクソがセットになると、大きな事件が起きる。
 刑務所で真面目につとめることにこそ、再犯に至る可能性をはらんでいる。自分の感情を押し殺し、心を開ける仲間をつくらないまま、ただ刑務官のいうままに、真面目に務めることによって、出所していく受刑者はどうなるだろうか・・・。彼らは抑圧している分だけ、「パワーアップ」して出所していく。社会に出しても、常に他者の目を気にする人間になる。そして、容易に人間不信となり、人とうまくつきあって生きていく意欲を奪ってしまう。
 単調な毎日を漫然と過ごすだけの受刑者にとって、被害者のことを考えるのは、もっとも向き合いたくないこと。まじめに務めていることで積みを償っているのに、なぜ、被害者のことまで考えなくてはいけないのか。これが、身勝手だけど、受刑者の言い分なのだ。
架空の手紙を書くロールレタリングは、反省の道具として使われていて、うまく活用されていない。
 抑圧していた感情を吐き出すことによって、はじめて相手の立場というものを考えられる。まずは、心のなかに抑圧されていた感情を吐き出して、一つひとつ気持ちの整理をしていくことが必要なのだ。
受刑者は、例外なく、不遇な環境のなかで育っている。受刑者は、親などから大切にされた経験がほとんどない。彼らは孤独がこわいので、居場所を求めて人と群れたがる。しかし、そこはたまり場でしかない。居場所とは、本来、ありのままの自分でいられるところ。なぜ、他者を大切に出来ないのか。それは自分自身を大切にできなくなっているから。自分を大切にできない人間は他者を大切にすることなどできない。自分を大切にできるからこそ、他者を大切にできる。
 自分を大切にできないのは、自分自身が傷ついているから。自分が傷ついていることに鈍感になっていたり、麻痺していることがある。自分の心の傷に気がついていない受刑者の心の痛みなど理解できるはずがない。
 真の反省とは、自分の内面とじっくり向きあった、結果、最後に出てくる謝罪の心。反省は最後なのだ。
よくよく納得できる本でした。
(2013年11月刊。720円+税)

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