弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年1月20日

ザ・ファイト

アメリカ

著者  ノーマン・メイラー 、 出版  集英社

 カシアス・クレイ改めモハメッド・アリが、1974年、アフリカはザイールで行われたジョージ・フォアマンとのタイトル・マッチを描いた本です。
 私の父はプロレスの熱心なファンでした。テレビにかじりついて、身体をよじって応援していました。同じようにキックボクシングについても、プロレスほどではありませんが見ていました。
 1974年というと私が弁護士になった年です。モハメッド・アリがフォアマンにKO勝ちしたのは記憶に残っていますが、アフリカでの試合とは知りませんでした。そのボクシング試合の観戦記なのですが、さすがはノーマン・メイラーです。心理描写がすぐれていて、格好の読み物になっています。
 リングでのモハメッド・アリの強みは、自分の心理状態に忠実であること。マスコミに向かってしゃべるときには、甲高くもヒステリカルな調子でまくし立てるが、リングに上がったときには、決して半狂乱になったりはしない。
 アリはリングの上で、蝶のように舞い、蜂のように刺す。
 これは、すごいフレーズですよね。
ベストコンディションとは、どういう状態なのか。ボクシングでは他人にはうかがいしれないものがある。ヘヴィ級において、15ラウンドを最良のスピードでこなしうる心身を維持するのは、至難の技である。
 モハメッド・アリは、徴兵を公衆の面前で拒否した。そのときのアリの言葉は、
「ベトコンは、おれを黒人坊と呼んだことなどない」 というもの。
 荒々しい力を養うにはどういうわけか、肉を食べる必要があるようだ。
 重いサンド・バックを長時間たたき続けるほど、ボクサーにとって辛いことはない。それは腕を痛め、頭を痛め、両手によくバンデージを巻いておかないと、拳の骨を折りかねない。
80ポンド以上はある重い物で、タックル用の人形みたいに巨大である。したがって、パンチが正確にあたらないと、身体がショックでしびれてしまう。パンチのひとつひとつに十分にウエイトをかけるため、1分間に40発から50発の間隔に調整しつつ、連打しつづける。
ブロウを1発でもくらったら、ふつうのボクサーなら簡単に肋骨を砕かれてしまうだろう。腹筋を鍛えていない者であれば、背骨まで折られてしまうにちがいない。
 リング上。二人は円を描き、フェイントをかけあい、一進一退をくりかえしてみせた。まるで、おたがいに銃口を向けあっているみたいだった。一方が発砲し、命中させそこなったら、相手に確実に仕留められるといわんばかりの様相である。パンチを放った場合、相手にそれを読みとられてしまえば、逆にしたたかパンチをくらうことになる。これほどショックなことはない。
 高圧線を素手でつかむようなものだ。いきなり、ぶっ倒れてしまうだろう。
アリは防戦一方の形をとって、自分のペースに相手のフォアマンをまきこんでいった。
 アリは、フォアマンに左のパンチを浴びせ、つづいて右を放った。チャンピオン同士が対戦する場合、右のリードパンチなど出さないものだ。第一ラウンドではなおさらである。
 それは非常にむずかしく、かつまた、危険をともなうパンチだから。命中率が悪く、しかも、自分にとってはガードが甘くなる危険性がある。ボクサーにとっては、1インチや半インチのリーチの差が勝敗の分かれ目となる。
 それだけのハンディを負いながら、右をくり出そうものなら、たちまち相手にそのすきを見破られ、絶好の反撃のチャンスを与えてしまう。
連打の雨をくぐり抜けおおせたアリは、何度もフォアマンの首をつついている。それは、家庭の主婦のケーキの出来ぐあいを爪楊枝でつついて試してみるような感じを与えた。フォアマンのパンチの威力は、ますます弱まるばかりである。アリは、ついにロープから放れ、ラウンドの終盤30秒のうちに、めまぐるしいパンチをくり出した。少なくとも20発は放っただろう。そのほとんどが命中した。
 何発かは、この夜の試合でも、もっとも効果的なパンチであった。
アリが狙いすましてパンチをくり出した。パラシュートを背負って、飛行機から飛び出す男みたいに、フォアマンの両腕が横に開き、このバランスを失った姿勢のまま、フォアマンはリングの中央によろめき出た。バランスを崩し、ふらつきつつ、ずっとモハメッド・アリを見つめつづけ、どうすることもできず、つまずき、よろけ、身を沈めた。その心は、チャンピオン・シップの誇りとともに高きにありながら、その身体は大地を求めていたのだった。
 フォアマンは、悲報を受けとった直後の、6フィートも背があり、60歳にもなる老執事みたいに、その場に倒れ伏した。そう、2秒間は、うちひしがれて身動きひとつしなかった。あらゆる階級のなかで最強のチャンピオンがダウンしたのである。
 なんともはや、目の前で実況中継されている気分になる描写の続く本でした。
(1997年10月刊。古本)

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2014年1月19日

維新政府の密偵たち

日本史(明治)

著者  大日方 純夫 、 出版  吉川弘文館

 江戸時代には、忍者や隠密(おんみつ)と並んで御庭番がいた。御庭番は、将軍やその側近役人である御側御用取次の指令を受けつ、諸大名の実情調査、また老中以下の役人の行状、さらには世間の風聞などの情報を収集していた。そして、明治中期になってからは、内務省警保局が情報収集にあたっていた。では、その間はどうしていたのか・・・。それが本書で取り上げている「監部」(かんぶ)です。
 明治維新の当初、弾正台(だんじょうだい)が置かれ、探偵の仕事をさせた。弾正台は、1871年(明治4年)に刑部省(ぎょうぶしょう)とともに廃止され、司法省に吸収された。同時に中央政府の最高中枢機関として正院(せいいん)が設置され、その課の一つとして監部が出現した。監部の下に密偵が動いた。その人数は1874年ころ50人ほどだった。
 第一は、恒常的に探索活動する諜者(ちょうしゃ)、第二に異宗教掛諜者、第三に臨時雇諜者、第四に、探偵。
 1876年4月、正院の密偵機構の廃止以降も、密偵機能はその規模を縮小しながら、大臣・参議のもとで維持されていた。明治政府はキリスト教禁止政策をとり、そのためキリスト教宣教師のもとに密偵を潜入させその動静を探らせていた。
 そして、キリスト教の禁止がやむと、諜者は失職してしまった。
 大隈重信には、お抱えの密偵集団がいた。
密偵たちは、政府要人の目や耳として、世上の噂に耳をすまし、それにもとづく通報活動を自らの生活の糧としていた。
 自由民権運動の内部にも密偵がした。内局第一課の配下にあった密偵たちは、「仮面」をかぶって民権派の内部に潜入し、スパイ活動を展開していた。密偵たちが潜入していたのは、東京の民権運動だけではない。福島事件の安積戦、高田事件の長谷川三郎、群馬事件の照山峻三のように、自由民権運動には常に密偵の影がつきまとっている。
 自由党や立憲改進党の会議の様子などが、発言者と発言内容までふくめて克明に記録・報告されている。警視庁が集めた情報は警視総監から大臣に報告され、各府県の警察からもたらされた情報は、内務卿から大臣に報告されている。
 密偵たちの末路は哀れだったようですが、なかには表街道に出て、出世した者もいます。明治維新政府の裏面の一端が分かる本です。
(2013年10月刊。1800円+税)

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2014年1月18日

狼の牙を折れ

警察

著者  門田 隆将 、 出版  小学館

 公安捜査の実態が紹介されています。
 捜査対象とする事件は三菱重工爆破事件です。三菱重工は原発そして軍需産業のトップメーカーですから、そのことは厳しく批判されてよいと思いますが、爆弾テロの対象としてはいけません。あくまで言論による批判によって、そのあこぎな死の商人の姿勢をただすべきです。
 事件が起きたのは1974年8月30日の昼のことです。私が弁護士になったのと同じ年です。
 東京駅近くの丸の内仲通りにある三菱重工本社ビルが狙われたのでした。
死者8人、重傷者376人という史上最大の爆弾テロ。4000枚もの窓ガラスが破壊され、その窓ガラスの粒が通りを埋め尽くすダイヤモンドの海のように見えた。
 警視庁公安部には総数2500人もの公安部員がいた。本庁に1500人、そして各署に公安係が合計1000人いた。公安一課の5人の管理官は中核・革マル・革労協・赤軍・共産同(ブント)といったようにセクトを担当した。警察がウォッチしていたセクトは5流22派、8派90などと言われていた。
 セクトの情報をつかむうえでもっとも重要なのは「協力者情報」。要するに、警察のスパイをセクトに侵入させているわけです。
 捜査官の腕とは、どんな「協力者」をもっているかにかかっている。協力者のことを「タマ」と呼ぶ。どれだけ重要なタマをもっているか、すなわちタマをどう「運営」していくかによって、捜査官の真価が問われる。誰がタマなのか、それは当事者である捜査官しか知らず、記録にもタマの「本名」は残さない。もし情報が洩れたら、いつタマが消されるかも分からないから。
 1週間が10日に1度、接触し「捜査協力費」という名目での金銭を渡し、次の情報収集を頼む。活動家には生活に困っている者は多い。公安部から貴重な「捜査協力費」をもらっている活動家は少なからずいた。
 警察内部では激しい派閥抗争が展開中だった。政治派と独立派。あるいは、名門組と平民組。三井脩(当時51歳)は、独立派、平民組のリーダーだった。対抗する政治派、名門組のリーダーは警視庁総務部長の下稲葉耕吉(48歳)。
公安一課は、当時、第一担当から第二、第三担当そして調査第一、調査第二という五つの担当に分けられていた。一担は庶務、二担は中核・革マル、三担はブントと日本赤軍。調一は黒ヘルと諸派、調二は事件担当という役割分担だった。
 公安部は尾行と呼ばず、行確(こうかく)と呼ぶ.行動確認の略。
 行確のターゲットが自宅や会社から出てくることを「吸い出し」といい、逆に会社や自宅など目的の場所に入っていくことを「追い込み」と呼ぶ。
 爆弾を見分けるのに大事なのは、爆破装置と雷管。これに同一性があるかどうかを見る。
 行確(尾行)をするときは靴底がゴム製のものを履く.音をなるべく出さないため。革靴のように見えても、そこだけはゴムのものを履く。
 ゴミを捨てるのは、犯人グループにとって、もっとも注意しなければいけないこと。
 犯人と目される男が置いたゴミ袋を回収し、似たようなゴミ袋を代わりに置いておく。そして、この回収したゴミ袋から証拠となるブツを得たのでした。
 このときの逮捕はサンケイ新聞がスクープしています。サンケイ新聞は公安部に「協力者」がいたのです.そして、逮捕の瞬間をサンケイのカメラマンが撮影したのでした。なるほど、本当によく撮れています。
 1975年5月19日に大道寺将司を逮捕した瞬間の写真が紹介されているのです。なんだか気の弱そうな青年が小雨のなか傘を差したまま屈強な刑事4人に取り囲まれた写真です。
いま、大道寺将司は65歳。死刑判決が確定して26年たった今も、東京拘置所に収監中です。共犯者の佐々木規夫と大道寺あや子が超法規的措置によって国外へ逃亡中のため裁判が終了していないことによります。
40年も前のことなので、当時の関係者が実名で登場しています。大変読みごたえのある本でした。それにしても、この二人は、今どこで何をしているのでしょうか。まだ、本当に生きているのでしょうか・・・。
(2013年10月刊。1700円+税)

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2014年1月17日

巨大戦艦・大和

日本史(現代史)


著者  NHK取材班 、 出版  NHK出版

 菊花輝く軍艦は、艦底一枚下地獄。どちらもみじめな生き地獄。そんなこととはつゆ知らず、志願したのが運の尽き。ビンタバッタの雨が降る。天皇陛下に見せたいな。
 これは戦前の海軍でうたわれていた歌とのことです。将来を奪われて、命を奪われた兵士たちが哀れです。戦艦大和を戦前の日本人の大半は知らなかったというのです。これには驚きました。完全な情報統制下に置かれていたのです。
 ところが、アメリカのほうは初めのうちこそ知りませんでしたが、あとでは日本軍の暗号を全部解読していましたので、大和のことは手にとるように分かっていました。日本人に対する情報統制なんて、何の意味もなかったのです。今回の特定秘密保護法も、結局、同じことでしょう。上部の支配層にとって都合の悪いことを国民に隠し、アメリカにはすべて筒抜けにするのです。それも暗号解読ではなく、日本政府がアメリカに法にもとづいて、うやうやしく情報を差し出すのです。
 とんでもない法律です。こんなことをしながら厚かましくも国民に対しては愛国心を押しつけようというのですから、信じられません。
 昭和19年10月、戦艦武蔵はアメリカ軍の飛行機から集中攻撃を受け、あえなく沈没した。
 魚雷20本、爆弾20発が命中した。
 武蔵が目の前で沈んだので、大和の乗組員は皆がっかりしてしまった。不沈戦艦ではないことが実証されたから・・・。「不沈神話」はもろくも崩れ去ったのである。
 昭和20年4月、大和に特攻作戦が命じられた。伊藤整一中将(司令長官)は特攻作戦に反対だった。
 「目的地に到達する前に壊滅するのが必至だ」
 海上護衛総司令部の大井篤大佐(参謀)も反対した。
 「大和につかう重油4000トンがあれば、大陸からの物資輸送が活発にできる。また、日本海への敵潜の侵入をくいとめるのにも大いに役に立つ。大和につかう4000トンは、いったい日本に何をもたらすのか。敵をして、いたずらに『大和、討ちとったり』の歓声をあげさせるだけではないか」
 特攻出撃を主張した連合艦隊主席参謀の神重徳大佐は、次のように主張した。
 「大和が生き残ったままで戦争に負けたとしたら、何と国民に説明するのか。成功率は絶無ではない。もし、これをやらないで、大和がどこかの軍港に繋留されたまま野たれ死にしたら、非常な税金をつかって(当時のお金で1億3000万円)、世界無敵の戦艦大和をつくった。それをなんだ、無用の長物と言われるぞ。そうしたら、今後の日本は成り立たない」
 まことに身勝手な論理です。大和の乗組員3000人の生命をなんとも思っていません。軍当局は人命より軍の体裁、見栄を大切にしたというわけです。
 そして、案の定、大和は目的地に到達する前に、アメリカ軍機にボコボコにされ、巨砲をつかうこともなく、あえなく撃沈されてしまいます。乗組員3000人とともに・・・。
 いまも大和は沖縄近くの海底に沈んだまま。
 海上特攻作戦は戦局に何らの影響も与えずに、大和沈没の事実も終戦まで国民に知らされることもなかった。
 戦争のむごさ、軍上層部の無責任さを明らかにした本でもあります。
 昨年10月、広島県呉市にある大和ミュージアムを見学しました。いまの安倍政権がすすめている世論操作に踊らされてはいけないとつくづく思ったことでした。
(2013年7月刊。1900円+税)

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2014年1月16日

戦争記憶の政治学

朝鮮(韓国)


著者  伊藤 正子 、 出版  平凡社

 ベトナム戦争は、私が物心ついたときには既に進行中でした。大学生時代には、ベトナム反戦デモに何回も参加しました。
 「アメリカのベトナム侵略戦争に反対するぞ」
 こんなシュプレヒコールを何度も何度も叫びました。深夜に、東京・銀座の大通りいっぱいを埋めるフランスデモをしたときには、気分も爽快でした。
 そのベトナム侵略戦争には、韓国軍も加担していました。
 1965年から1973年までの9年あまり、韓国軍の青龍(海兵第二旅団)・白馬(第九師団)・猛虎部隊(首都師団)など、31万人あまりがベトナムに行き、5000人ほどの戦死者を出した。
 この9年あまりのあいだに、韓国軍は1170回の大隊級以上の大規模作戦と55万6000回もの小規模部隊単位作戦を遂行した。そして、韓国軍は4万1400人の「敵」を射殺した。韓国では、ベトナム戦争への参戦は「武勇伝」として語られてきた。
 1999年からハンギョレ新聞はその実情を知らせるキャンペーンを展開し、大反響を呼んだ。
 2000年6月、ハンギョレ新聞社はベトナム参戦軍人2400人に包囲され、パソコンを破壊され、幹部が監禁された。
 ところが、これに対するベトナムの反応は複雑だったのです。
「反韓」感情が国民のなかで強くなり、ひいては外交・経済交流に悪影響を及ぼすような事態になることを懸念して、ベトナム国家はこの問題が全国的に継続的に報道されることを許さなかった。その結果、ベトナム戦争の終結後に生まれた世代が7割を占めるようになったベトナムでは、戦争中に韓国軍が引き起こした事件は当該地域以外であまり知られていない。
 ベトナム戦争によって、ベトナムでは30万人が亡くなり、450万人が身障者になり、200万人の枯葉剤被害者が発生した。でも、アメリカがベトナムに与えた苦痛に比べたら韓国軍の誤りはとても小さいと言える。
 ベトナム戦争に参戦した韓国側のNGOは、「負の歴史を刻んで未来の平和に生かそう」というスローガンで活動している。ところが、ベトナム国家は、それとは逆の「過去にフタをして未来へ向かおう」というスローガンを掲げている。過去に多くの国家から侵略を受けてきたベトナムは、グローバル化する21世紀を生きていくうえで、どの国家とも良好な政治・経済関係を維持・発展させていくために、この方針をとっている。
 2009年、韓国の国会で審議中の法律の条文に「ベトナム参戦勇士は世界平和の維持に貢献した」とあるのに、ベトナム政府が抗議した。
 金大中(キム・テジュン)大統領は、非常に明瞭な形でベトナムに謝罪の言葉を述べた。その後、ODAによるベトナム中部地域への韓国からの投資が増大した。
 しかし、金大中大統領の謝罪は、自分たちの尊厳を冒瀆したとみなすベトナム参戦軍人たちが反撃に出た。「中途半端」な村の虐殺事件の記憶は、経済発展に慢心することこそが至上命題の現在のベトナム国家にとって、掘り起こしても何の得もない「歴史」にすぎない。
 ベトナム戦争をめぐる公定記憶は、人々の苦しいながらも国家に貢献した誇らしい記憶である。しかし、「輝かしい勝利」になんら貢献していない、生き残りの人たちが語る「ハミ村の虐殺」は、ベトナム国家の公定記憶になりえないのだ。つまり、韓国軍による虐殺の記憶は、ベトナムでは、ナショナリズムと結びついた記憶にはならない。結びつけようとした時点で、ナショナリズムがほころびてしまう。この点が、日韓や日中の関係ともっとも異なるところである。
 私が韓国軍のベトナム参戦とその問題点を知ったのは、1989年に『武器の影』(岩波書店)、1993年に『ホワイト・バッジ』(光文社)を読んでからのことです。それが今、ベトナムが経済成長優先策のもとで難しい局面を迎えているのを知り、複雑な気分になりました。
(2013年10月刊。2800円+税)

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2014年1月15日

オバマの医療改革

アメリカ


著者  天野 拓 、 出版 勁草書房 

 アメリカという国は本当に遅れた、野蛮な国だとつくづく思いました。だって、国民皆保険なんて、あたりまえのことでしょ。日本もヨーロッパも,
みんな当然のように古くから実施しているじゃないですか。政府が国民皆保険にしようというと、そんなのは社会主義だ、アカだなんて共和党の議員が絶叫して反対するだなんて、本気ですかと言いたくなります。信じられません。
 クリントン政府が失敗し、今度、オバマ政権がようやく実現したアメリカの国民皆保険制度は、なんと民間保険会社への加入を義務づけるものだなんだそうです。またまた民間の保険会社の金もうけ話になってしまうのです。それでも反対する人が多いなんて・・・。
 アメリカの制度は、日本や多くのヨーロッパ諸国の制度とはきわめて性格が異なる。アメリカのものは民間保険をベースにしている。日本などの国民皆保険制度は、基本的に公的な医療保障制度を中核としている。アメリカの制度は、民間の医療保険を中心とする。既存の医療制度をベースに国民皆保険制度の実現を目ざすものである。
 2010年3月、オバマ大統領が署名して医療改革法が成立した。それまでアメリカでは、1910年代に皆保険を導入しようとして、いずれも失敗に終わっている。医師会は国民皆保険制度は「社会主義化された医療」につながるという反対キャンペーンを張った。
 私などは、社会主義化されても大いに結構だと思うのですが、アメリカでは、とんでもないことの代名詞になっているようです。
 メディケアは、65歳以上や一定の病気をもつ人、障害者などを対象とするもので4700万人15%が加入している。受給者の3分の2が女性であり、6割がメディケアとメディケイドを重複して受給している。
メディケイドは、低所得者を対象とする医療扶助制度。2010年に5084万人(16.5%)の加入者がいる。2001年には3017万人だったから、10年間で2000万人の増加である。メディケイドは、アメリカの医療制度における「セーフティネット」であり、3100万人の児童をカバーしていて、アメリカの出産の4割を財政的に支援している。2011年度のアメリカ人口3億人あまりのうち、民間医療保険の加入者は2億人近い(64%)。
 しかし、戦前の1940年には、総人口1億3200万人のうち、医療保険に加入していたのは1200万人、10%にすぎなかった。戦後になって、民間保険の加入者は急増している。アメリカの医療制度のもっとも大きな特徴は、4861万人(16%)もの無保険者が存在すること。無保険加入者の多くは、19歳から64歳までの成人。無保険者はマイノリティに多い。ヒスパニックの30%(1578万人)、アフリカ系20%(772万人)、アジア系17%(270万人)。
ヒスパニック系の無保険者は1990年に700万人だったのが、2000年には1120万人へ急増している。
無保険者のうち就労者が2800万人で、年に1週間も働いていない人が1310万人もいる。無保険者は家計所得が中程度のミドルクラスのあいだで着実に増加している。
 無保険者問題が深刻なのは、それが個人、家族、コミュニティ、経済などに広範な影響を及ぼすからである。
 アメリカへの不法移民は850万人から1180万人まで増加し、それが180万人もの無保険者の増加につながった。アメリカぜんたいの無保険者の690万人の増加の27%になる。
アメリカは国民皆保険をうたいながらも、2019年時点で2200万人が無保険者のまま取り残される。アメリカは先進民主主義国のなかで、唯一、今後とも多くの無保険者がかかえ続けていくことになる。
民間保険会社は、健康状況の悪い人間の保険加入を拒絶しようとする傾向にある。
 マイケル・ムーア監督の映画『シッコ』をみて、私はアメリカではうかうか病気になれないなと思いました。民間保険会社の査定・選別は営利主義一本槍でありまるで人道に反しています。
 アメリカ人の多くが医療改革を望んでいながら、現状維持を志向し、改革によって負担をこうむるのを嫌悪する傾向にある。
アメリカ先進国のなかで、もっとも医療費が高い国である。国民医療費は2兆7000億ドル(2011年)、1人あたり医療費は8680ドル。前年度より3.9%伸びている。国民医療費がGDPに占める割合は18%である。
 アメリカにおける医療費が高いのは、システムの大半が投資家によって所有されていることにある。医療ビジネスは、投資家を満足させるだけの利益を必要としている。
 病院は、効率的であるよりもむしろ利益の上がるサービスの提供に集中する傾向にある。それがコストの高騰につながっている。
 今日の民間保険の大半は投資家によって所有されたビジネスである。アメリカの民間保険産業は、その保険料から少なくとも5000億ドルの収入を得ている。その管理運営コストと利益が、医療費を何十億ドルも押し上げている。
 こんなアメリカのようにしようというのが安倍政権の考え方です。やめてほしいです。大金持ち中心の国にするなんて、とんでもありません。
 340頁もある。大変貴重な労作です。
(2013年10月刊。3800円+税)

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2014年1月14日

歴史の読み解き方

日本史(江戸)


著者  磯田 道史 、 出版  朝日新書

 日本人とは何かを考えるとき、必読文献の一つだと思いました。
室町時代の庶民は家の墓所は持っておらず、家の意識はうすかった。中世までの日本人は近世に比べて流動性が高く、しばしば移住していた。
 「親元と定住」の文化は江戸時代にできたもの。中世的な武士の集団は寄せ集めだった。江戸時代的な武士の集団は石のように固まって密集していた。
 武士の世界は家格によって気質が違う。10石以上の上土は独立性が強く、藩主にも、ずけずけと物を言うように育てられる。傍若無人で、わがままな人が多い。高杉晋作や大隈重信がこの部類。
これに対して福沢諭吉、大久保利通、西郷隆盛など50石以下の徒士(かち)は小役人で実務能力がある。家督を相続するときに筆跡とソロバンの試験があった。能吏タイプが多い。徒士は身分にこだわる上士とちがって学校教育に抵抗がない。旧武士のうち、この薄いこの徒士層が日本の近代化に大きな役割を果たした。及木希典・児玉厳太郎、大山厳・・・。日露戦争の将軍はほとんど禄高50石くらいの徒士出身。日露戦争の将軍に旧農民はいない。旧大名もいない。彼らは徒士の文化で育った特殊な人たちであり、一般の日本人ではない。
テレビの水戸黄門では悪代官だらけだが、あれは嘘。代官は大勢の武士のなかから学問のある清廉な者を選んでいた。
 藩の最高意思決定者は藩主・大名と思われがちだが、これは半分以上、間違い。藩主が藩政をみていたのは江戸前期の100年間くらい。のちには、「家老と奉行の合議」で決めた。ただ、藩主は家老や側近などの人事案には口が出せた。
 江戸中期以降、通常、藩主は家老会議には出席しない。藩主は、企業でいうと、社長というより会長か最高顧問といったほうがよい。
 家老が人事を決める。藩主は報告を受けるが、人事は多くは先例と家格で決まる。家老はほとんど世襲で、秘書役に操られていることも多い。実質、藩の意思決定は誰がしてるのか分からない。
 日本人は追いつめられると強い。どんな変革も改革ものみ込む。
 日本人は、いったん負けの原因を認めると変わるのは早い。安定を好むので、安定が失われそうになると、不安になって一気に改革に向かう。
 日本人は外部から大きな変化の波を受けると、変わりやすい。
日本全国が均一に識字率が高かったのではない。明治前期までの日本では、識字率は京都の周辺と、東海・瀬戸内海が非常に高く、東日本や東北・南九州は低かった。
 江戸時代の日本は、現代の私たちが思っている以上に、銃のある社会だった。人口4000人の村に277丁もの銃があった。江戸時代以来の日本人の家庭から銃や刀が消えたのは、アメリカ軍の占領によるところが大きい。
 江戸時代の奉行所・代官所は税務署と代用監獄ほどの役割しか担っていなかった。今日のこまかな行政サービスは、庄屋と村の仕事だった。犯罪が発生しても、犯人は村人たちが捕まえてくる。奉行所は、牢屋と番人さえおいておけばよかった。
 江戸時代の治安が良かったことの理由として、刑の厳しさがあげられる。事件が起きて領主のところにもちこまれると、その犯人は死刑になる可能性が高い。それで、江戸時代には、「お上」の領主裁判を回避する文化ができあがり、これがこの国の法文化になっていった。
 江戸時代の前半、人はすぐ死刑にされていた。水戸藩では1646年から1666年までの21年間で1000人が捕まり、うち104人が死刑になった。ところが、江戸の後期になると、町の組織が犯罪を抑止した。地域共同体が犯罪抑止に機能していた。そのため江戸時代の治安は良かった。
 幕末の長州藩の意思決定のやり方が紹介されていますが、これは圧巻です。
上段の間の真ん中に藩主が座り、藩主の左手と右手に家老が列座する。会議中、藩主は基本的に発言しない。
 最初に月番の家老が発言する。たとえば・・・。
「今日は攘夷の決行についてどうするか、評議してください」
すると、次の間という一段低い部屋の末席に座っている官僚たちが議論を始める。これが何時間も続き、大声で怒鳴りあったりする。その間、上の段にいる藩主と家老たちは無言で、一切しゃべらない。3時間でも4時間でも聞き続ける。
 下座、末席の者たちがはげしく議論して、そろそろと思うと、家老が意見をまとめる。そして、次の瞬間に、藩主が「そうせい」と言う。これが鶴の一声となって、合議の一同は、反対派も賛成派も一斉に平伏して決定に服する。長州藩では、こうやって藩の意思がしっかり決まっていた。藩主の権威づけのもと、断固たる決定ができたわけであるから、みなが服することになり、決定から実行までのスピードが速い。これがあとで政事堂というものになる。
 明治維新になって、各藩がこれを真似しはじめて、日本中に政事堂ができた。
 こうやって国会の下地が出来ていったわけですね。まったく知りませんでした。
 有名な五箇条の御誓文のなかに「万機公論に決すべし」とあるのも、きっと、このような実績をふまえたものだったのでしょうね。
 この本で語られていることは、どれも近代日本そして日本人の成り立ちにとって大きな意義のあるものばかりです。230頁ほどの新書ですが、いたるところに赤エンピツで棒線を引いて、この新書も真っ赤になってしまいました。
(2013年12月刊。760円+税)

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2014年1月13日

幕末史

日本史(江戸)


著者  半藤 一利 、 出版  新潮文庫

 明治維新と言っても、明治の初めには、ほとんど維新という言葉は使われていなかった。「御一新」だった。へー、そうなんですか・・・。維新の会も馬脚があらわれて、ついに失墜してしまいましたよね・・・。
ペリー提督の率いるアメリカ艦隊が日本にやってくるという情報は、その前から日本に入ってきていた。だから、来た時には、三人の与力が船で近づき、フランス語で「速やかに退去すべし」と書いたものを高くさしあげた。
 英語ではなく、フランス語なのですね。いったい、誰が書いたのでしょうか・・・。
アメリカはオランダに日本との交渉の仲介を頼んだ。オランダは、それを断り日本の長崎奉行を通じて、「アメリカはいずれ艦隊を率いて日本に来るだろう」と幕府に知らせた。ペリー来航(1850年)の3年前のこと。
勝海舟は、中国におけるアヘン戦争が勃発したとき18歳だった。22歳のとき、佐久間象山を訪ねて、世界情勢を学んだ。そして、剣術をやめてオランダ語を学びはじめた。
 日本に来たペリーは、当時59歳。ペリーには、早く帰りたい事情があった。国書とともに持参すべきお土産品を持っていかなかった。国際儀礼に反することの指摘を恐れた。しかも、水と食糧が減っていた。また、中国で「長髪族の乱」というのが起こって、中国にいる在留米人の保護を急ぐ必要もあった。
 江戸幕府は、250年間、「由らしむべし、知らしむべからず」を大法則としてきたが、広く町民をふくめて意見を出すよう布告した。勝麟太郎(31歳)、河井継之助(27歳)も意見書を出した。
明治元年に勝海舟は46歳、岩倉具視(ともみ)44歳、西郷隆盛42歳、大久保利通39歳、広沢真臣(さねおみ)36歳、木戸孝允(たかよし)36歳、江藤新平35歳、井上馨34歳、三条実美(さねとみ)32歳、板垣退助32歳、後藤象二郎31歳、山県有朋31歳、大隈重信31歳、伊藤博文28歳。これは今の官僚なら、部長が課長クラスである。そんな若さで新政府がトップメンバーを占めて、政治を運営していたのだから、てんやわんやだったのも当然のこと。
 それまでの日本人のなかに天皇家に対する尊崇の念があったとは言えない。当時の日本人は、将軍を公方(くぼう)様と呼んで唯一の支配者と思っていた。天皇はミカドであり、朝廷を内裏(だいり)ないし禁裏(きんり)と呼んで、およそ関係のない遠い存在としていた。ミカドはたしかに存在していたが、公方さんの方がずっと大事だった。
 幕末のころ、長州も薩摩と同じく長年にわたって密貿易でお金を稼いできたので、資金はたっぷりもっていた。
天皇という言葉は明治20年代になってから日本人に普及しはじめた言葉であって、それまではコトバとしてあるだけだった。
 共和国の建設を説く勝海舟や大久保一翁は天皇をほとんど意識していなかった。
 大久保利通は、「非義の勅命」は勅命ではないから、従う必要はないと高言した。尊皇なんてどこ吹く風。自分たちの正義にあわなければ、勅命もへちまもない。天皇をうまく使って国家を乗っとる。そのための玉(ぎょく)と考えていた。天皇陛下がすごく尊いものだという意識は藩長の人々にもなかった。幕末の日本人が天皇中心の皇国日本をつくりあげようとしたというのは歴史の事実に反すること。
 幕末の孝明天皇は病的なほどの外国人嫌いだったが、幕府に変わって政権を握るという意思はまったくなかった。ましてや、倒幕なんてとんでもない。むしろ朝廷と幕府が仲良くしながら進めていく朝幕体制に強い希望を抱く、明らかな公武合体論者だった。
 講話調ですから、とても分かりやすくて面白い幕末通史になっています。
(2013年7月刊。710円+税)

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2014年1月12日

変り兜

日本史(戦国)


著者  橋本 麻里 、 出版  新潮社

 こんなにいろんな形と色のカブトがあるなんて、ちっとも知りませんでした。
 戦場のオシャレは命がけ、とありますが、大将たちはまさしく命がけの戦場で精一杯のおしゃれをしたのです。
徳川家康の19歳のときの甲冑(かっちゅう)はゴールド尽くしです。戦場で光り輝いたことでしょう。
 「井伊(いい)の赤備(あかぞなえ)」で有名な井伊直政のカブトは朱塗りです。戦場に朱塗りで固めた一団が現れたら、さぞかし脅威だったことでしょう。
 伊達政宗の重臣の伊達成実(しげざね)の南蛮鎖兜(くさりかぶと)は、なんと、巨大なムカデをその前面につけています。ムカデは怪異なる動物で、毘沙門天の仲間だった。
 蝶兜(ちょうかぶと)もあります。こちらは、優美な蝶のイメージです。
毛利家伝来の兜には、孔雀の羽で装い、ヤクの白い毛がついている。
 ウサギの頭がそっくりカブトになっているのもあります。ウサギの耳がピンと立っています。
 サザエの形をしたカブト、しゃちほこ形のカブト。いろんなものがあります。なんと、ハマグリをのせたカブトまであります。
見るだけで楽しいカブトの写真集です。
(2013年9月刊。1600円+税)

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2014年1月11日

世界の美しい透明な生き物

生き物

著者  澤井 聖一 、 出版  エクスナレッジ

奇妙奇天烈というか、魔可不思議というか、こんな透明生物がこの世に存在するなんて、とても信じられません。
 山にも川にも、そして海底にも無数の透明生物がうごめいているのでした。そして、それを拡大カラー写真で、目の前に見せてくれるのです。よくも、こんな写真がとれたものです。ぜひ、一度、手にとって眺めてください。きっと世界観、生物間が一変すると思います。
ツマジロスカシマダラのメスは、アルカロイドという有毒物質をオスとの交尾を通じて受けとり、有毒のチョウになって自分の身を守る。そして、このチョウの翅(はね)は透明である。
アダラベニスカシジャノメには、透明な翅に、目玉模様までついている。
 透明なカエル、そして魚がいます。内蔵までくっきり見えます。
 天使のかたちで有名なクリオネは、巻き貝の仲間です。
イセエビの椎エビも完全に透明だということです。食品偽装でイセエビの値が高騰しているようですが、日本近海にしか生息していないイセエビが、その幼生は今なおどこにいるのか不明だそうです。謎は多いのですね。イカもタコも透明なものがいます。ですから、海中で、よくも写真が撮れたものです。
 もちろん、海中のクラゲは透明生物です、発光器を備えているクラゲもいて、まるで厳冬の世界を見るようです。透明な魚の一つ、オニアンコウのオスは哀れとしか言いようがありません。オスはメスの体にかじりつき、一体化していって、ついにはメスの身体のおできのようになってしまうというのです。ああ、無情です。
海底にすむサルパやホヤとなると、まるで人工アートの世界です。生き物だとは思えません。
ヤナギウミエラやオオグチボヤの写真を見ると、その滑稽さに思わず笑ってしまいます。
230頁ほどのカラー写真がしばし夢幻の境地に運んでくれる楽しい大判の写真集です。
(2013年8月刊。2800円+税)

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2014年1月10日

この人たちの日本国憲法

司法


著者  佐高 信 、 出版  光文社

 安倍首相は、まるで気が狂ったように日本国憲法を破壊しようと狂奔しています。日本の将来を暗いものにしてしまう安倍首相の支持率が5割というのは恐るべきことです。
宮澤喜一は、最期まで護憲を貫いた。「いまの憲法を変える必要はないと考えている人間です」と言った。
 「わが国は、どういう理由であれ、外国で武力行使をしてはならない。多国籍軍なんかでも、どんな決議があっても参加することはできないと考える」
 「日本は軍隊をもっていて、過去に大変なしくじりをしたしまったのだから、もういっぺんそういうしくじりをしないようにしないといけない。だから、軍隊はなるべくもたないほうがいいんです」
 私は、本当にそのとおりだと思います。
 城山三郎は、自衛隊は軍隊とは違うと強調する。自衛隊の本質は人を救うことにあり、人を殺す組織である軍隊とは違う。人を救う使命を持つ組織というユニークさにおいて、日本の自衛隊は恐らく世界でも例をみない存在であり、これは自衛隊の誇るべきいい伝統だ。日本の自衛隊は、普通の軍隊になる必要はない。
これには、私もまったく同感です。自衛隊は国土災害救助隊でいいのです。
城山三郎は、軍隊に入ってすべてを失い、戦争で得たものは憲法だけだと高言していた。
城山三郎は、佐藤栄作内閣のとき、公安警察がつくった「寄稿の望ましくない著作家」のリストに載せられた。ええーっ、ウソでしょ・・・。
 通産省次官だった佐橋滋は、軍備は経済的にいえば、まったくの不生産財だ。人間の生活向上になんら益するところがないどころか、大変なマイナスであると強調した。
 世界の人類に平和を希求して、自ら実験台になる。これほどの名誉がほかにあろうか。
 非武装国家になれば、軍備に要する膨大な財源がまったく不要になり、国内的には文化国家建設に必要とされる施設に充てられ、対外的には近隣国に対する援助が可能になる。脅威に代えて喜びをまくことになる。佐橋滋の非武装論こそ現実感がある。本当ですよね。
 後藤田正晴は、骨の髄から軍人や軍国主義が嫌いだった。
 「ワシが50年間生き残ったのは、再び日本を軍国主義にしないためじゃ。学徒出陣でいくさに出た学友の3分の1が還らなかった。この死んだ仲間のためにも、ワシは再び軍国主義へ引き金を引いた官房長官とは言われたくない」
まったく、そのとおりです。
 今の自民党には、安倍政権の暴走を止めようという気骨のある国会議員がほとんど見あたりませんね。残念なことです。でも、安倍首相も、そんなに長くはもてないでしょう。アメリカから見離されたらおしまいですから・・・。
(2013年9月刊。1600円+税)

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2014年1月 9日

日本人は民主主義を捨てたがっているのか?

社会


著者  想田 和弘 、 出版  岩波ブックレット

 とても共感できる指摘ばかりの本でした。
もしかしたら、日本人は民主主義を捨てたがっているのではないか。そのような疑念が頭を支配している。少なくとも、自民党議員やその支援者のなかには、捨てたがっている人が一定数いることは間違いない。一昨年暮れの衆議院総選挙、そして昨年夏の参議院選挙、いずれも6割以下という歴史的な低投票率だった。客観的にみて、民主主義の存続そのものが危機にさらされているにもかかわらず、半分近くの主権者が審判に参加することすら拒んだ。
 自民党政権の樹立によって何となく進行するファシズムに、一部のネット右翼は別として、熱狂はない。なにしろ、半分近くの主権者が投票を棄権している。
 人々は無関心なまま、しらけムードのなかで、おそらくはそうとは知らずに、ずるずるとファシズムの台頭に手を貸し、参加していく。低温やけどのように、知らぬ間に皮膚がじわじわと焼けていく。
政権を握った自民党は、かつて日本を長らく支配していた老舗政党である。日本人の多くは、「民主党政権以前に戻した」くらいのつもりなのだろう。したがって、危機感の温度も低く、進行しているのがファシズムであると気づく人すらごく少数だ。危機を察知するセンサーが作動せず、警報音が鳴らない。
 恐るべきことに、たぶん安倍自民党はこうなることを意識的に狙っている。安倍自民党は、「衆参のねじれ」やら「アベノミクス」とやらを前面に「争点」として押し出し、それにつられて、あるいは共犯的に一部を除いたマスコミもそればかりを論じる。それにつられて、一部を除いて主権者もそればかりを気にする。あるいは、何も気にしない。騒がない。投票にも行かない。半分近くの主権者が棄権する。
 その特徴は、真に重要な問題が議論の俎上にのせられないまま選挙が行われ、大量の主権者が棄権するなか、なんとなく結果が決まってしまうというもの。
 選挙が、私たちの社会はどういう方向に進むべきか、重要な課題をかかげ、意見をすりあわせ、決定するための機会としてまったく機能していない。それでも、勝負の結果だけは出る。
 そして、結果が出た以上、選挙戦でスルーされた重要課題も、あたかも議論され決着がついた事項であるかのように、勝者によって粛々と実行されていく。よって、誰も気づかないうちに、すべてが為政者の望むどおりに何となく決まっていく。「熱狂なきファシズム」とは、このことである。
 政治家は政治サービスの提供者で、主権者は投票と税金を対価にしたその消費者であると、政治家も主権者もイメージしている。そういう「消費者民主主義」と呼ぶべき病が、日本の民主主義をむしばみつつある。主権者が自らを政治サービスの消費者としてイメージすると、政治の主体であることをやめ、受け身になる。そして、「不完全なものは買わぬ」という態度になる。それが「賢い消費者」による「あるべき消費行動」だからだ。
最近の選挙での低投票率は、「買いたい商品=候補者がないから投票しないのは当然」だという態度だし、政治に無関心を決め込んでいるのは、「賢い消費者は消費する価値のないつまらぬ分野に関心を払ったり時間を割いてはならない」という決意と努力の結果なのではないか。
投票に行かない人が、テレビの街頭インタビューで、「政治?関心ないね。投票なんて行くわけないじゃん」と妙に勝ち誇ったようにいうのは、自らが「頭の良い消費者」であることを世間にアピールしているのだ。
 しかし、消費者と主権者とは、まったく別のもの。決定的に異なる。民主主義では、主権者は国王の代わりに政治を行う主体であって、政治サービスの消費者ではない。消費者には責任はともなわないが、主権者には責任がともなう。
 わずか80頁の薄いブックレットですが、とても刺激的で意味深い、考えさせられる文章ばかりで、みるみるうちに本が赤くなってしまいました。赤ペンで至るところに棒線を引いていったからです。
 ぜひ、あなたにも一読をおすすめします。
(2013年11月刊。600円+税)

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2014年1月 8日

四分の三世紀の回顧

司法


著者  白井 正明 、 出版  白井法律事務所

 著者は日弁連公害対策・環境保全委員会でご一緒させていただきました。私よりひとまわり年長の先輩弁護士です。このたび大変な大作を贈呈いただきました、まだ全文通読したわけではありませんが、ここに少しだけ紹介させていただきます。
 なにしろ本のタイトルがすごいのです。なんと1分冊目のタイトルは「宇宙・人類・法」です。なぜ宇宙なのかと言うと、著者は都立高校時代に天文気象部に所属し、天文学者になろうとして以来、宇宙に関心を持ち続けているからです。それは隕石やクレーターの踏査に出かけるまでの熱中度です。
そして、人類というと、歴史、それも日本史から世界史まで。なんと古代エジプト史までさかのぼります。世界各地を旅行し、その旅行記も印象深いものがありますが、皆既日食を見に、世界各地へ出かけていく行動力には驚嘆するばかりです。
 そして二分冊目のタイトルが、この「四分の三世紀の回顧」なのです。弁護士生活50年を振り返り、弁護士会活動そして弁護士としての奮闘記をまとめた弁護始末記など、とても役に立つ内容になっています。
 著者は、よほど書くのが好きなようです(私も同じですが・・・)。よくもまあ、ここまで微に入り、細には入り、書きまったくものだと思うほどの弁護士奮戦記になっています。
 弁護士3年目にして、古展ちゃん事件(小原保被告)の上告審の国選弁護人になったとのこと。昭和43年のことです。子どもの誘拐事件です。結局、死刑判決で確定したわけですが、犯人が要求した身代金が50万円だったのを知り、時代の差を感じました。なにしろ、例の3億円強奪事件で世間があっと驚いた時代のことです。
 著者には、ぜひとも引き続き健康で、ご活躍されますよう祈念しています。
(2013年9月刊。2800円+税)

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2014年1月 7日

カラスの科学

生き物


著者  ジョン・マーズラフ、トニー・エンジェル 、 出版  河出書房新社

カラスは世界一賢い鳥だ。こんなサブ・タイトルがついています。
 カラスは人間の顔を識別し、記憶する。
 カラスは針金をいじって曲げ、まっすぐな串から便利なフック(鉤)につくり変える。
 人の音声による命令を学ぶ能力は、犬、カラス、幼児の順になる。
 イギリスの有名な作家、チャールズ・ディケンズは、ワタリガラスをペットとして飼っていた。ディケンズは、このワタリガラスに、「元気だぜ」、「弱音を吐くな」、「やかんをかけて、お茶にしよう」という言葉を教え込んだ。うひゃあ、すごいですね。
 ワタリガラスは、同種の仲間の意図することも理解する。餌を隠した場所をほかの個体に見られ、それを横取りされそうなときには、貯食したものを移動させ、餌を隠したことを知らないワタリガラスが周囲にいるときは、そのままにしておく。
 何年も前にワタリガラスを捕獲して足環をはめた研究者が顔を見せると、ワタリガラスは即座に危険人物として見分ける。
 カラス科の鳥は、ほかの動物に比べて前脳が大きくて、そこで感覚情報への行動反応をまとめ、方向づけるために多くのニューロンとシナプスを費やしている。
カラスは何歳になっても芸のレパートリーを広げることができる。
 カラスもカササギ属の鳥も、「ハロー」と言うことができる。
 カラスのしゃべる能力は、鳴管によって可能になっている。これも知能に依存する。
大きな前脳と、前脳内の声の中枢と視床間にある専用ループが、カラスの耳にしたことを声に出させる主要な特徴である。
 ワタリガラスは、隣家の犬の餌やりの時間になると、定期的に飛んでいって、嫌がらせをした。カラスはタバコより酒を飲むのを好む。そこで、酔っぱらったカラスを見かけることがある。千鳥足になり、やたらに鳴いて飛んでいく。
ワタリガラスは、人間が何を知っているかも理解している。年齢を重ねるにつれて、ワタリガラスの理解力は高まる。
ワタリガラスは、風の強い日、空中で強風に乗ってサーフィンをして遊ぶ。
 遊ぶカラスは、滑りやすい斜面を勢いよく滑り落ちる。うつぶせや仰向けで頭から先に滑ったり、樽に入って遊ぶ子どものように横向きに転がったりする。
 「楽しい」というのは抽象的な観念ではなく、人間だけが体験できることでもない。
 カラスは、自己認識、洞察、復讐、道具使用、頭のなかでのタイムトラベル、欺き、仲間殺し、言語遊び、計算された命知らずの行為、社会的学習、伝統といった、これまで人間特有のものとされてきた特徴を備えている。
人間がカラスに惹きつけられる理由は、カラスが人間に似ているためでもある。
 なーるほど、と思いました。それにしても、私の住む団地はゴミ出しをめぐってカラスとの壮絶な戦いが今なお続いています。わが家のゴミはネットを張って、ブロックで押さえ込んで防いでいるのですが・・・。
(2013年9月刊。2800円+税)

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2014年1月 6日

ミツバチの会議

生き物


著者  トーマス・シーリー 、 出版  築地書館

タイトルがいいですね。あれ、何のことだろうと好奇心をかきたてられます。
 ミツバチは蜂蜜をつくって人類に貢献してくれるだけでなく、もう一つ、民主的な意思決定の力を存分に利用できる集団の作り方を教えてくれる。
 ミツバチのコロニーの女王は、王として決定を下す存在ではない。王として産卵する存在なのだ。唯一知られている女王の統治行為は、新たな女王の育成を抑えること。女王は、決して働きバチの上司ではない。
 晩春から初夏にかけて、ミツバチの群れは分蜂し、新しい家探しをはじめる。
 分蜂群は、数百匹の家探しバチを派遣して、周囲70平方キロメートルから巣の候補地を探す。十数カ所以上の使えそうな場所を特定すると、それぞれいくつもの基準で評価し、新居としてもっともふさわしいものを民主的に選ぶ。十分な広さがあり、しっかりと保護された空間が基準である。ミツバチの尻振りダンスは有名です。これは、一連のダンス周回からなり、1回のダンス周回には、尻振り走行と戻り走行が含まれる。
 女王バチは驚くほど多くの卵を産む。1分に1個以上、1日に1500個をこえる。一つのコロニーの女王は夏中かけて、15万個ほど、2年から3年生きるとすると、50万個の卵を産むことになる。
 女王バチは、生涯の最初の1週間に、女王はコロニーの巣から飛び立ち、同じ地域の別の巣から生まれた10匹から20匹の雄バチと交尾して、一生涯分のおよそ500万の精子を受けとる。雄バチは、コロニーで、もっとも怠慢なハチである。
 働きバチが蜂児を育てる時期は、周囲の気温がマイナス30度からプラス50度に変動しても、コロニーの内部温度は常に34度~36度である。これはヒトの深部体温よりわずかに低い。
 分蜂群には、およそ1万匹の働きバチがいる。そのうち、2~300匹が巣作り場所の探索バチとしての役割をもつ。分蜂群の探索バチは、尻振りダンスで宣伝する価値のある巣作り場所を2~30カ所探し出す。
 招集バチは、候補地を宣伝するダンスに追従し、飛んでいった宣伝されている場所を突きとめ独自に評価する。候補地を詳しく調査して満足すると、分蜂群に戻って、自分もその場所を支持するダンスを行う。
 よりよい候補地を報告するハチが、より強いダンスをする。ハチは、ある場所を、すでに訪ねたことのある他の場所と比較して、相対的な質を評価しているわけではない。分蜂バチは、さまざまな情報源からの情報をまとめ、他のハチに何をするか命令するリーダーがいないなかで新しい巣を選ぶ。もっとも大切な女王バチですから、この選出にあたっては傍観者にすぎない。
 リーダーなしに機能することで、探索バチは、よい集団意思決定を脅かすもっとも大きな要因の一つである。独裁的な指導者をうまく避けている。
ミツバチの新しい巣の探し方、その決め方がリーダーなしで民主的にやられていることを知って、感嘆しました。人類は、ミツバチにも学ぶべきなのですね。
(2013年10月刊。2800円+税)
 11月に受験したフランス語検定試験(準1級)の結果が判明しました。3点たりなくて不合格でした。残念でした。自己採点では68点でした(これでも不合格と思っていました)が、実際には64点でした。合格点はいつもより低くて67点(120点満点)ですので、3点足りなかったというわけです。
 今回は書きとりを見直して、かえって間違ってしまったということもありますが、要するに実力不足です。このところ、ずっと準1級は合格してきましたので、本当にガッカリです。でも、めげずくじけず、毎朝、NHKのラジオ講座を聞いています。頭のリフレッシュには最高です。

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2014年1月 5日

マダガスカルへ写真を撮りに行く

アフリカ

著者  堀内 孝 、 出版  港の人

もう若くないカメラマンが、若いころの撮影の苦労話をふくめて語っています。
 アフリカ大陸の近くにあるマダガスカルは大きな島というべきでしょうね。バオバブの木で有名です。そのバオバブも減っているようなので、心配です。
 マダガスカルでの撮影の苦労話は、まことに悲惨なものです。秘境ツィンギーに至る旅程は、読むだけで背筋が凍ってしまいます。
村までの30キロは歩くか牛車で行くしかない。牛車に乗ると、車輪が金属製なので、石や段差があると衝撃が背筋を直撃し、とても座ってなんかいられない。
 仕方なく歩くと、今度は、汗がとめどなく流れ出て目に入って、開けていられない。
 足の露出した部分にアブがたかって血を吸うのにも参った。初めは気がつかないが、数分もすると、気が変になるほど痒くなる。日本から持参したキンカンを塗っても、全く効かない。
 歩く途中で、ミネラルウォーターを飲み尽くし、道沿いにある溜まり水を飲んで歩いた。下痢が心配だったが、脱水症状を起こすよりはましだ。一か八かだ。
 うひゃあ、これは、なんともすさまじいですよね。次は、さらに怖い話です。
 道に迷い川岸に着いたころには、どっぷりと夜が更けていた。月明かりのなか、ブーツと短パンを脱いで頭に乗せ、パンツ一枚で川に入る。「ワニがいるから気をつけろ」と言われたが、もう運を天に任せるしかない。ときどき、川の中で何かが足に触れるとヒヤッとしたが、なんとか無事に渡りきった。
 ええーっ、ワニのいる川をパンツ一枚で夜中に渡るなんて・・・。小心者の私には、とてもできないことです。
ヒルだらけの湿地を抜け、夜も歩いて家の軒下を借りてゴザを敷き、野宿をする。無数の蚊の攻撃を受けたが、運良くマラリアにかかることはなかった。若さとは恐ろしい。いま考えたら、かなり無謀だ。
ええーっ、かなりどころではありませんよ。私なんか、絶対に、ゼッタイ、できないことです。
 マダガスカル人は、20もの民族集団に別れている。中央高地にいるアジア系の人々は、インドネシア系の祖先をもつ。西海岸地方に暮らすのは、イスラム教が多い。
 この本を読むと、若いときには、多少の無茶は付きものだし、必要不可欠なものだとつくづく思います。40、50、60歳になると、とても、そんな無謀なことはできなくなるのです。
(2013年3月刊。1200円+税)

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2014年1月 4日

魚影の群れ

生きもの(魚)

著者  吉村 昭 、 出版  ちくま文庫

 ノンフィクションのようなすばらしいフィクション(小説)を作り上げる著者の短篇小説集です。
マグロとりの漁師の世界では40歳以上の漁師は老齢者に入る。大きなマグロとの戦いは、体力を消耗させ、それが長時間に及ぶだけに若い強靱な肉体が要求されるのだ。
それに、マグロ漁は、睡眠不足との戦いであった。マグロの餌である烏賊(イカ)は夜のあいだに沖へ船を出してとらねばならない。烏賊は中型のものが最適で、少なくとも30尾ほどは船の生簀におさめる必要があった。餌をとって帰るのは夜明けに近く、短時間仮眠するだけで、朝食を済ますと、再びマグロをとりに沖へ出て行く。そうした生活を半年間つづけるため、マグロとりの漁師は眼に見えてやつれてゆく。自然に、マグロ漁の漁師は20代から30代までの男に占められていた。
 マグロは、漁の群れを追っている。その中に餌を投げ入れても、食う可能性はほとんどない。釣り上げることができるのは、小魚の群れが逃げ散って、マグロの群れが小魚を追うことをあきらめ一定の方向に秩序正しく泳ぎはじめた折りにかぎられる。そうした状況をつくり出すには、船をその海面に突きこませて、小魚を円散させる以外に方法はなかった。
このように、下北半島の大間のマグロとりの状況が活写されています。
短編小説が4つあり、いずれも味わい深いストーリーです。というか、ネズミやカタツムリの話は正直いって、薄気味悪さを覚えました。それくらい、情景描写が真に迫っているということです。
(2011年9月刊。680円+税)

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2014年1月 3日

アメリカ連邦最高裁の素顔

アメリカ


著者  ジェフリー・トゥービン 、 出版  河出書房新社

アメリカという国は、実に遅れた国だと思います。
 妊娠した女性に中絶する権利を認めるかどうかがアメリカという国では今なお重大な政治的争点だというのです。信じられません。宗教的観点があまりにも強すぎます。
妊娠中絶を支持するかしないかという問題は、民主党と共和党の分水嶺となってきた。
 祈禱と聖書朗読は、アメリカの公教育における柱として代々行われてきた。ところが、アメリカ連邦最高裁は公立学校での聖書朗読を義務づけることを禁止した。
 当然のことですよね。キリスト教を公立学校で教えるなんて、とんでもありません。
 スーター判事という変わった判事がいます。昼食は毎日おなじ、りんご丸ごと1個(芯と種まで)にヨーグルト1カップ。ものを書くときは万年筆をつかう。自宅にテレビはない。
 最高裁のロークラークは、ほとんど20代後半で、著名なロースクールを主席で卒業したあと、下位裁判所の判事の下で1年クラークとして働いていた。クラークを定期的に最高裁に送り込む判事をクラーク供給係と呼ぶ。クラークは、裁量上訴の申立を精密に調べ、8000件ほどの事件を選りすぐって審理の価値のある80件前後にしぼる手伝いをする。判事と事件を議論し、口頭弁論の準備をする。そして、判決理由となる意見書の最初の草案を書く。
 アファーマティブ・アクションの恩恵者としてアメリカで一番有名なトーマス(黒人判事)は、その措置を公然と批判する激しい意見を書いた。
 このように世の中は矛盾に満ちています。アメリカの連邦最高裁の矛盾した激しい対立が描かれています。同じように日本の最高裁の内情も誰か紹介してほしいものです。
(2013年6月刊。3200円+税)

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2014年1月 2日

HHhH

ドイツ

著者  ローラン・ビネ 、 出版  東京創元社

チェコのプラハでナチスの最高級指導者の一人が暗殺された事件を扱った小説です。
 暗殺されたハイドリヒの生い立ちが語られています。
 ハイドリヒは、ナチスのエリート部隊である親衛隊(SS)の指導者になります。
 ハイドリヒは、陸軍中将に相当する親衛隊の集団的指導者に任命されたとき、まだ30歳だった。ハイドリヒが創設した組織のうち、もっとも悪魔的な「特別行動隊」は、特攻隊やゲシュタポのメンバーからなる親衛隊の特別部隊で、「敵性分子」を始末する任務をになう。共産主義者は言うに及ばず、あらゆる改草の有力者、反体制分子・・・。そして、すべてのユダヤ人。
 そして、このハイドリヒを暗殺するため、ロンドンから二人のパラシュート部隊員が送り込まれた。そして、それを支援する人々。さらに、仲間を裏切る人間もいた。
 この暗殺作戦に賛同しないレジスタンス指導者もいた。成功しても、その報酬が恐ろしいことになるからだ。
ハイドリヒの乗る車が市内にやって来た。暗殺犯が銃を撃つ。しかし、不発だ。別の男が爆弾を車に投げつけ、爆発する。しかし、ハイドリヒはケガをしただけ。
 やがて病院に運び込まれ、見かけ以上に傷は深刻だということが判明する。そして、容態が急激に悪化して、死に至った。
 その報復としてヒトラーは、リディツェ村を地国から消し去ることを命令し、大虐殺が始まった。
 しかし、このリディツェの虐殺によって、ヒトラーはもっとも得意とする分野で、惨憺たる敗北を喫した。国際レベルの宣伝戦争において、とり返しのつかない失敗を犯した。1942年6月のこと。
 緊張感あふれる小説です。少し、変わった構成で話は進行していきます。
(2013年8月刊。2600円+税)

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2014年1月22日

シベリア抑留全史

日本史(戦後)


著者  長勢 了治 、 出版  原書房

 終戦直後、中国東北部(満州)にいた日本軍将兵がソ連軍によってシベリアに連行され、極寒の地で捕虜として働かされたシベリア抑留について、あますところなく明らかにした教科書的な全史です。600頁もの大作なので、読み通すのに骨が折れてしまいました。ともかく、大変な労作です。シベリア抑留を知りたい人にとっては欠かせない一冊だと思います。これを読んだら、あとは香月泰男や宮崎静夫・山下静夫などの画文集でイメージをつかむ必要もあるように思います。飢えと寒さと重労働というシベリア三重苦は想像をこえる辛さだったことでしょう。今の私たちには、ほんの少しだけ想像できるにとどまるのでしょうが・・・。
満州にいた日本人は、建国時の1932年に24万人、1936年に52万人、敗戦時には155万人だった。それにも増して毎年100万人もの漢人が流入し、3000万人に達していた。だから、終戦後は満州人は大量の漢人にのみこまれて、民族としてはほとんど消滅するに至った。
 実際のところ、どうなのでしょうか。満州族は消滅してしまったと言ってよいのでしょうか・・・。
 スターリンは、最終的に対日参戦を決意した段階で、日本兵のソ連領への連行を決めていたと思われる。ソ連は5年にわたる苛烈な独ソ戦を戦って、国土が荒廃し、経済が疲弊していた。2500万人といわれる膨大な犠牲者を出し、とりわけ若い男性労働力が決定的に不足していた。戦後の国民経済復興には、新たな労働力を必要としていた。
日本軍の将兵を1000名単位の作業大隊に再編成したのは、将官や上級将校を分離し、旧軍組織を解体することで日本兵の団結や抵抗を防ぐためだった。
ソ連は日本兵を一貫して「戦争捕虜」として取り扱った。シベリアに抑留された日本人にとって不幸だったのは、弾圧機関NKVDに管理された捕虜収容所に入れられたことだった。
 冷戦が始まり、米ソの対立が深まるなかで、捕虜が冷戦の人質となった。これが捕虜の本国送還が10年以上も遅れた要因の一つである。最初に本国送還されたのは、アメリカ人、フランス人、ルーマニア人であり、祖国への道が最も遠かったのがドイツ人と日本人だった。
 寒さに強い体質のロシア人が平気で耐えるシベリアの酷寒も、温暖な気候で育った日本人には殺人的な寒さとなる。日本人に凍傷が多かったのは、粗末な衣服と相まって体質に一因がある。ソ連人は、自分たちと同等もしくはそれ以上に食料を支給し、同じ酷寒で働いているのに、なぜ日本人に犠牲者が多いかといぶかった。
 ソ連の調査によると1946年(昭和21年)1、2月は、ドイツ兵に比べて日本兵の死亡率は3倍近かった。
 ソ連のノルマの大きな特徴の一つは、多少とも技術的な作業のノルマは低く、単純作業は高いことにある。
収容所では、日本人は、酷寒、飢餓、重労働の三重苦に耐えて、よく働いた。
 ドイツ人捕虜は、対照的に、出来るだけ仕事をサボろうとし、決して無理な労働はしなかった。収容所では、小さな配給食(パン)ではなく、大きな配給食が死をもたらす。少しでもパンを多くもらうために費やす体力は、増配されるパンのカロリーより大きく、かえって体力を消耗して死を早める。
 ラーゲリではパンを減らされようとも、なるべく働かないこと。空腹に耐えるほうが生きのびる確率は高い。
体格検査ではパンツをおろさせ、お尻の肉づきを見る。お尻の肉を手でひっぱってみる。体力のあるものの肉には弾力とつやがある。衰弱している者のお尻はたるんでいて、空気の抜けた風船のようにだらっと、たれている。
 日本人は、収容所のなかのないない尽くしの生活で、創意工夫と器用さを発揮した。最盛期には35ほどの劇団があった。
巻末の参考文献を見ると、シベリア抑留に関しては体験記をふくめて、たくさんの文献が出ていることに目を見張ります。『夢顔さんよろしく』(文春文庫)もその一つです。かの瀬島龍三の闇も知りたいところです。
(2013年10月刊。6800円+税)

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2014年1月21日

セブン・アイ9兆円企業の秘密

社会


著者  朝永 久見雄 、 出版  日本経済新聞出版社

 私はなるべくコンビニを利用しないようにしています。なるべくなら普通の小売店で買物したいからです。ところが、今は町に出てもコンビニしか店がないところばかりで、やむなくコンビニに入らざるをえません。困ったものです。
 この本はコンビニ礼賛で貫かれています。世の中すべてをコンビニが支配してしまったら怖いですよね。そうなったら統制経済みたいなものではありませんか。
 季節、天候その他で人間(ひと)の好みを推測して商品を並べて買わせる。食材も調理ずみ料理も、すべてコンビニで買うようになったら、味気ないと言うだけではなく、生産統制にまでつながってしまいかねませんよ。
 怖い、こわい、おおコワ・・・、と思いながら読みすすめた本です。セブン・イレブンがロフトや赤ちゃん本舗まで買収していることも知りませんでした。
 そして、なによりコンビニ内にATMがあること、セブン銀行設立で利用者が急増したことなど、知らないことばかりでした。
アメリカではリッチ層は高級百貨店をつかい、一般階級の人はショッピングモールを利用する。このショッピングモールにもABCのランク分けがあるというように階層分化がはっきりしている。しかし、日本では高級ブランドを買う人が安い商品も買うというように階層分けがはっきりしていない。
 セブン銀行の設立によって、1万8000台もの現金の入出金拠点をもっている。
 セブン・アイ・ホールディングはコンビニから百貨店まで幅広い商品を取り扱っている。グローバルで5万2000店、毎日5300万人以上が来店している。年に194億人となり、世界中の人が1年に3回も来店していることになる。
 セブン・イレブンの雇用者は14万人。パート・アルバイトをふくめると、50万人以上を雇用している。
 セブン銀行は2003年11月、開業2年半で黒字になった。誰も予想しなかったことが起きた。1年間のセブン銀行の利用件数は7億件。1日120件の利用のうち8割100件が出金で、1回あたり4万円。18件が入金(平均5万円)。ATMのなかには2500万円入っていて、毎日150万円ほどしか減らないため、警備会社による現金の補充は2週間に1度で足りる。
 セブン・イレブンのお届けサービスである「セブンミール」の利用者(会員)は40万人。65歳以上が45%。80歳以上の会員が全体の2割を占める。年代が上がるほど、利用頻度が高くなる傾向がある。
 コンビニの販売管理費の内訳を見ると、人件費が低く、賃借料の比率が高い。セブン・イレブンは1店あたり300万円という広告・宣伝費を投入している。
 2000年2月に8153店舗だったのが、2013年2月期には1万5072店と、倍近い6919店の純増となった。
 セブン・イレブンの商品を配送するトラックの総数は4300台。かつては客の6割が30歳未満だったが、今や40歳以上が半分になった。
 コンビニ、とりわけセブン・イレブンの躍進ぶりには目を見張るばかりです。でも、昔ながら商店街も残しておかないといけないように思うのですが・・・。
(2013年9月刊。1600円+税)

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2014年1月23日

魂の経営

社会


著者  古森 重隆 、 出版  東洋経済新報社

 フジ・フィルムがコダックを抜いたかと思うと、写真の現像はなくなり、コダックはついに倒産してしまいました。そして、富士フィルムとして、見事に経営を立て直した社長が力強く経営哲学を展開しています。その指摘には共感できるところが多く、勉強になりました。ただ、あまりにも自信満々の社長(CEO)のようで、従業員の受けとめはどうなのだろうか、その評価を聞いてみたくなりました。また、日本のTPP参加を当然とし、農業の在り方を変えろという主張は、実は、足が地に着いていない主張なのではないか、メーカー側の経営者として、あまりにも勝手なことを言っているという気がしました。安倍首相のお気に入りの経営者だそうで、少しガッカリもしました。
 写真フィルム市場は、10年間で世界の総需要が10分の1以下にまで落ち込んだ。
 かつて、カラーフィルムなど写真感光材料は富士フィルムの売上げの6割、利益の3分の2を占めていた。
 かつては、2700億円の売上げがあったのが、750億円と4分の1になった(2007年)。印画紙をふくめた写真事業全体で6800億円あったのが、380億円にまで激減した。
そうなんですよね。私はまだフィルムカメラも使うのですが、フィルムが店で買えなくなってしまいました。本当に不便です。でも、安心したのは、富士フィルムはこれからもフィルムは作り続けるということです。よかった、よかった、です。
2012年、長年のライバルであったコダック社は、アメリカ連邦破産法11条の適用を申請した。
世界で最初に、フル・デジタルカメラを開発したのは富士フィルムである。これは知りませんでした・・・。
 どれほど業績が良くても、来るべき危険性を予測し、それに備えなければならない。
 これは、私にとっても少しばかり耳の痛い話でした。私の事務所も、ひところ過払いバブルで「恩恵」をこうむっていました。ですから、バブルがいずれ終わるのが分かっていたのですが、それなのに何も手をうっていなかったのです。今、大いに反省しています。
 富士フィルムは、デジタル・ミニラボを写真店に設置して、デジカメの現像を引き受けている。自宅のプリンターでプリントするよりも、はるかに美しく、ハイクオリティで保存性の高いプリントができる。
 3.11の被災地の写真復旧についても、しっかり再生できるのは、水でインクが流れてしまう家庭用インクジェットプリンターで印刷した写真ではなく、表面にコーティングが施されている銀塩写真であり、写真店でプリントされた写真だった。なーるほど、ですね・・・。
 富士フィルムは写真文化を守り続けることを宣言した。企業は算盤勘定だけで存在しているわけではない。写真文化を守ることは富士フィルムの便命である。もうかる、もうからないの話ではない。頼もしい宣言です。
経営者が最終的な判断を外部の人材の助言に頼ろうとしているのであれば、そんな経営者はすぐ辞めたほうがいい。
 富士フィルムは年間2000億円を研究開発費に充てている。先進研究所には、1000人近い研究者が一堂に会して研究している。
円高がもたらした一番深刻な影響は、大多数の日本人経営者や社員から、仕事に向かう気迫をかなり奪ってしまったことにある。
会社の史上最大の危機に直面したとき、社長が学級委員のように、「多数決で決めましょう」などとやることは、ありえない。悠長に民主的に議論している場合ではない。誰かが皆を引っ張っていくしかない。それがリーダーの役割であり、リーダーシップの本質なのだ。
 決断すべきときがきたなら、たとえ、まだ迷っていたとしても、とにかく決断するのだ。そして決断したなら、選んだ道で成功すればいい。たとえ、はっきり答えが見えなくても、決断し、それを成功させるのだと確信し、皆を引っ張っていく。そして実際に成功させる。それがリーダーの力量であり、仕事なのだ。すごい迫力です。
いくら本能、直感が備わっていても、健康でなければ機能しない。いくら体力、気力があっても、精神的に疲れていれば、やはり判断に支障をきたす。
 だから、リーダーは、日々、リフレッシュにつとめ、活力を養い続ける必要がある。
 基盤になる力とは、人間の根本の力とも言える。物事に誠実に向き合う力であり、感じる力であり、考える力であり、実行する力である。
 基盤になる力は、どのようにすれば身につくのか。一つは、社会や会社で体験するあらゆる機会を学びにすることだ。そして、もう一つの方法が、哲学、歴史あるいは文学などの教養書を読むことだ。これらは、歴史観や大局観、価値観を養ってくれる。大事な決断をするときには、これがなければ出来ないのだ。
 部下に役割を与え、悪かったときは、「ここが悪かった」と必ず厳しい評価を与えなければならない。そうすることが、人が育つうえでは欠かせない。叱らない上司は無責任なのだ。ほめるところはきちんとほめる。しかし、ほめてばかりでは、やはり成長はない。
 著者は、ニーチェの著作をほとんど読んだそうです。これには参りました。降参です・・・。
(2013年11月刊。1600円+税)

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2014年1月24日

砂川事件と田中最高裁長官

司法


著者  布川 玲子・新原 昭治 、 出版  日本評論社

 日本に司法権の独立なんて、実はなかったということを暴露した本です。
 ときは1959年3月の東京地裁・伊達判決のあとに起きたことですから、今から50年以上も前の話ではあります。ときの最高裁長官(田中耕太郎)が最高裁の合議状況を実質的な当事者であるアメリカ政府にすべて報告し、その指示どおりに動いていたのでした。そのことを知っても、今の最高裁は何の行動も起こそうとしませんので、結局、同罪なわけです。
 この本は、まず、そのことが明らかになった経過を明らかにしています。
 砂川事件に関するアメリカ政府の解禁文書が日本で明らかにされたのは、新原昭治がアメリカ国立公文書館(NARA)で2008年に発見した14通の資料に始まる。その後、2012年に末浪靖司が同じくNARAで2通の資料を発見し、2013年に布川玲子がアメリカ情報自由法にもとづく開示請求で入手した資料1通によって、一審の伊達判決が日本とアメリカ両政府に与えた衝撃、安保改定交渉に与えた影響、そして跳躍上告に至る経緯をリアルタイムに知る手がかりが得られた。このなかに、田中耕太郎・最高裁長官が自らアメリカへ最高裁内部の情報を提供していたことを明らかにする資料がふくまれていた。
 ダグラス・マッカーサー駐日大使が本国へ送った電報が紹介されています。このマッカーサー大使は、かの有名なマッカーサー将軍の甥にあたります。よくぞ、こんなマル秘電報が開示されたものです。このたび成立した日本の特定秘密保護法では、このようなマル秘電報の電文が将来、開示されるという保障は残念ながらありません。
 「内密の話し合いで、田中長官は、日本の手続きでは審理が始まったあと、判決に至るまでに少なくとも数ヶ月かかると語った」(1959.4.24)
 「共通の友人宅での会話のなかで、田中耕太郎裁判長は、砂川事件の判決はおそらく12月であろうと考えていると語った。
 裁判長は、争点を事実問題ではなく、法的問題に閉じ込める決心を固めていると語った。
 彼の14人の同僚裁判官たちの多くは、それぞれの見解を長々と弁じたがる。
 裁判長は、結審後の評議は実質的な全員一致を生み出し、世論をゆさぶる素になる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っていると付言した」(1959.8.3)
 「田中裁判長は、時期はまだ決まっていないが、最高裁が来年の初めまでには判決を出せるようにしたいと語った。
 裁判官のいく人かは、手続き上の観点から事件に接近しているが、他の裁判官たちは法律上の観点からみており、また他の裁判官たちは憲法上の観点から問題を考えていることを田中裁判長は示唆した」(1959.11.5)
 ところが、厚かましいことに田中耕太郎は1959年12月16日の判決後の記者会見において、「判決は政治的意図をもって下したものではない。アカデミックに判決を下した。裁判官の身分は保障されており、政府におもねる必要はない」、などと高言したのです。
 田中耕太郎にとって、「秘密の漏洩」は問題ではなかった。なぜなら、アメリカと共同関係にあるのだから・・・。この田中耕太郎は、「裁判所時報」において「ソ連・中共は恐るべき国際ギャングと公言していた。
 しかし、このような田中耕太郎の言動は裁判所法75条などに明らかに反するものであり、即刻、罷免すべきものであることは明らかです。そして、少なくとも最高裁長官としてふさわしくなかった人物だとして、裁判所の公式文書に明記すべきです。
 そんなこともできない日本の最高裁であれば、司法権の独立を主張する資格なんてありません。日本の司法の実態を知るうえで欠かせない貴重な本として、一読を強くおすすめします。
(2013年12月刊。2680円+税)

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2014年1月25日

裏切り淳山

日本史(戦国)


著者  中路 啓太 、 出版  講談社

 裏切り者というと、いやなイメージですよね。私も、裏切り者とは呼ばれたくありません。
 戦国時代は、主君を裏切ることが横行していた時代でもあります。下克上の世界です。
一年をこす兵糧攻めでも落ちない難攻不落の三木城。業を煮やした秀吉が送り込んだ、最後の使者。
 それが、この本の主人公です。朝倉義景が本拠地の一乗谷を織田信長より攻め滅ぼされ、浅井長政も自害したころのことです。
 秀吉は信長に命じられて中国道に進出するのですが、なかなか思うように成果が上がらず焦っていました。尼子氏の再興を願う山中鹿介ら尼子十勇士も結局、見捨ててしまうのです。
 竹中半兵衛そして黒田勘兵衛が脇役のように登場します。秀吉も、ちょい役でしかありません。
 戦国時代にタイムスリップ気分に浸ることのできた本でした。
(2007年12月刊。1700円+税)

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2014年1月26日

新・検察捜査

司法


著者  中嶋 博行 、 出版  講談社

 14年ぶりの書き下ろし小説とのことです。
 横浜の弁護士が江戸川乱歩賞を受賞(『検察捜査』1994年)したのには驚きました。弁護士会の内情を多少とも知るものにとってはいささかの無理もありましたが、読ませるストーリーではありました。
 今回もまた、かなりの無理はあるものの、官僚機構、そして精神医療の問題点も考えさせるストーリーとして、緊迫した展開が続いていきます。弁護士は大没落の時代を迎えている。超難関だった司法試験が骨抜きになり、弁護士人口のビッグバンが起きた。
 生き残るには競争相手を蹴落とし、限られたパイから収入を確保しなければならない。
 大手法律事務所は、依頼人をごっそり取り込むためにマスメディアを利用した派手な広告合戦をくり広げている。法律家の世界が、今や家電の格安量販店なみに、客寄せにしのぎを削っている。
 広告資金を捻出できない個人弁護士が手っ取り早く有名になるには目立つ事件の弁護士を担当すればいい。なかでも、異常犯罪は世間の注目を集めるには再興だ。
法テラスと目される「法ロビー」が登場します。
 法ロビーは、もともと法律上の紛争をかかえた市民に向けて、敷居の高い弁護士へのアクセスと手助けする公的制度だった。若手弁護士の多くは、「法ロビー」から依頼人の紹介をうけてささやかな報酬にありつき、事務所経費を工面していた。
 弁護士人口が過剰になって、いまや逆転現象が起きている。「法ロビー」は、仕事のない貧乏弁護士に依頼人を斡旋する「弁護士の職安」へと変貌している。
女性検事と警察官のコンビのようなスタイルで捜査が展開していきます。
 官僚機関のなかに特殊な部隊があるという設定です。自衛隊になら、ありうるのかなという印象をもちました。
 ハードボイルド小説として読めば面白いと思います。
(2013年10月刊。1600円+税)

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2014年1月27日

生き延びるための思想

社会


著者  上野 千鶴子 、 出版  岩波現代文庫

 女は平和主義だろうか?
 歴史は、その問いにノーと答える。日本の女性は「聖戦」の遂行に熱心に協力したし、英米の女性も戦争の「チアガール」をつとめた。女だからというだけで、自動的に平和主義者だということにはならない。
アメリカでは保守派の女性たちと家父長的な女性たちが女性の兵役からの排除を支持し、フェミニストの女性が兵役の男女平等を要求するという、ねじれた構図が生まれた。
軍隊とは国家暴力を組織化したものであり、国防軍とは市民社会で犯せば犯罪になる暴力行為が、非犯罪化される特権をもった集団である。
 戦闘訓練とは、より効果的に敵を倒す殺人訓練にほかならない。
 1991年の湾岸戦争は、大量のアメリカ軍女性兵士が登場して全世界に大きなショックを与えた。参戦した女性兵士は4万人、全体の12%にあたる。アメリカでは女性の参戦の歴史は長い。1783年の独立戦争において女性は銃をもってたたかい、戦傷者は年金を受けている。
 第一次世界大戦は3万4000人、第二次世界大戦は40万人が参戦した。これが兵員不足のせいではなかったことは、日本やドイツが女性の兵力化をすすめなかったことと対照的である。
 1972年に、アメリカ軍には4万5000人の女性兵士がいた。全体の2%。これが湾岸戦争直前の1990年には22万人、全体の11%に達した。1997年には33万人、13%。海兵隊にも5%いる。
 女性兵士の参戦は、湾岸戦争を「きれいな戦争」とフレームアップするために、象徴的に利用された。女性が軍隊を変えるのか、それとも軍隊が女性を変えるのか。
 兵士は、ある程度ゲタモノになる必要がある。なぜなら、戦闘は非人間的なものだから。だから、軍隊が女性を変化させる。
 この本は、女性にまつわる視点を根本から問い直そうとするものです。新しい発見というか観点がいくつもありました。
 さすがに鋭い分析だと驚嘆しながら、読みすすめていきました。
(2012年10月刊。1300円+税)

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2014年1月28日

しんがり、山一證券、最後の12人

社会


著者  清武 英利 、 出版  講談社

 1997年11月、山一證券は自主廃業を迫られた。
 山一證券は1897年(明治30年)に「小池国三商店」としてスタートした老舗。日清戦争の「戦勝相場」に便乗して成長し、日露戦争から関東大震災、太平洋戦争へと、恐慌、好景気の大波の狭間で100年間、兜町の雄として在った。
 「人の山一」と呼ばれ、身分の上下に関係なく、社長以外は互いに「さん」づけで呼びあった。
 「社員は悪くありません。悪いのは我々なんですから・・・。お願いします。再就職できるようお願いします」
 野澤社長が泣きながら頭を下げる写真は全世界に配信された。
 後軍(しんがり)とは、戦に敗れて退くとき、軍列の最後尾に踏みとどまって戦う兵士たちのこと。後軍に加わった社員たちは、会社中枢から離れたところで仕事をしてきた者ばかりだった。
 証券会社では、人柄や倫理観よりも数字が優先する。人格的に少々問題があっても稼げる社員に稼がせ、出世させるという不文律で固められている。そうした空気に疑問を投げかけたり、上司に不正や疑問を直言したりすると、業務管理本部(ギョウカン)に追いやられる。
 「旗をとる」という言葉が山一證券にあった。営業ノルマを超えて優秀な成績を上げた支店は、「優績営業店」と呼ばれた。その営業店の支店長が半期に一度、本社に集められ、社長から表彰状と金一封、そして「第○期社長表彰」という刺繍の入った小さな旗を授与された。それを「旗をとった」という。
 旗をとるほどの成績を上げるということは、自分を追い込み、どこかで部下に無理をさせているということ。證券知識の乏しい個人顧客に株や投資信託商品を売り付け、勝手に売買を繰り返して売買手数料を稼ごうとする者が現れる。これを「客を痛める」と言った。ときには、「客を殺す」こともあった。
 これは、証券会社特有の恥ずべき体質だ。手数料収入を上げるために値上がりが予想されるときでも買いを勧め、ときには客に無断で売買して損させる。相手が悪く、ねじ込まれれば、損失補償する大口顧客なら、あらかじめ「ニギリ」という利益保証をしておき、どこかで儲けさせ、つじつまを合わせた。損失補填や利益保証は水面下の裏取引である。
 「仕切り販売」とは、証券会社が投資家の注文なしに大量の様式を買っておいて、組織的に何人もの顧客にはめ込む違法な営業手法である。よりわずかでも株価が上昇していれば「もうかる株がある」などと言って売り、すでに下落している株についても、知識の乏しい顧客に売りつける。
 野村證券の酒巻社長は総会屋の小池から「もうけさせてください」という要求をのんだ。
 当時の金融界のトップは、総会屋やフィクサーたちに自ら会うことが珍しくなかった。むしろ、彼らはうまくあしらうことが力量のうちと考えられていた。しかし、あしらうどころか、逆に要求をつきつけられ、トップと総会屋が癒着し、闇の勢力をさらに会社の奥深くへと引き入れ、不正や悲劇の連鎖を招いていった。
 「あんこ」とは、証券会社の儲けをそのまま顧客の口座に移す証券界の隠語。
 客にも受けさせる手口には、値上がりが確実な証券類を提供する方法と、もうけが確定した証券会社の売買益を提供する方法の二つがある。会社は、同調しない人間を排除する組織である。抵抗する者を中枢から追い出し、同調する人間を出世させていく。この「同調圧力」という社内の空気のなかで時には平然と嘘をつくイエスマンを再生していく巨大なマシンでもある。
証券会社が社内に異常がないかどうかをチェックするのが「監査」、特別に調べるときに限って「調査」と呼ぶ。役所側が実施するのが「検査」。
 山一證券が倒産したあと、優秀な山一社員を採用しようとする会社が殺到した。求人数は社員数の2倍以上、2万人をこえた。
握り(ニギリ)とは、法人顧客の資金運用に関して、取引を事実上、一任させてもらい、その代わりに一定の運用利まわりの獲得を強く匂わせる勧誘行為。握りを実行する証券会社の営業マンにとっては、巨額の資金を一任的に運用できることから、積極的な様式売買で多額の手数料収入を稼ぎ、優績営業マンとして人事評価を高めた。もちろん、証券会社は、これで大きな手数料収入を得た。
 握りは株価が永久に上昇し続けることを前提とする。株価が長期反落期を迎えると運用ファンドに損失が発生し、顧客法人の期待にこたえられなくなる。そこで、顧客法人と担当営業マンとのあいだに「約束を守れ」「守れない」といったトラブルが発生する。
 会社という組織をどうしようもない怪物にたとえる人は多い。しかし、会社を怪物にしてしまうのは、トップであると同時に、そのトップに抵抗しない役員たちなのである。
 山一の社長も会長も逮捕され、有罪判決を受けている。
 山一證券のあと始末の顛末記として興味深く読み通しました。
(2013年12月刊。1800円+税)

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2014年1月29日

見た、聞いた、キューバ改革最前線

アメリカ

著者  千葉県AALA連帯委員会 、 出版  AALA連帯委員会

 昨年2月の10日間のキューバ訪問の旅が160頁ほどの小冊子になっています。キューバの現状とかかえている問題点がよく分かりました。
 私も、一度はキューバに行ってみたいと思うのですが、世の中、思うようにはいきません。そこで、旅行体験記を読んで、行ったつもりになるのです。
 それにしても、この冊子はよくまとまっています。半年近くの研究・編集作業が結実したもののようです。
 カリブ海にあるキューバは、アメリカから150キロメートルしか離れていないのに、アメリカによる経済封鎖が続いています。残念なことに、わが日本もアメリカに命じられ、いつものようにアメリカに逆らうことなく、キューバへの経済封鎖に加担しています。
 キューバの人口は1125万人。白人65%、黒人10%、混血25%。カトリック人口が85%。
 キューバ人の平均寿命は79.3歳と高い。60歳以上の人口は18.3%。
キューバでは、選挙権は16歳以上。国会議員の被選挙権は18歳以上だが、県会議員のほうは16歳以上。日本でも18歳以上に早くすべきだと思います。自民党が抵抗しているのです。
 キューバは共産党の一党独裁ということになっているが、国会にも20%の非党員の議員がいる。
キューバは物不足。スーパーの品ぞろえも少ない。そのため、買い物を楽しめるほどの選択の幅はない。欲望をあおり立てない社会なので、落ち着いている。しかし、物不足だから、欲望をあおり立てたら国民の不満が噴出することは十分に考えられる。
1990年からソ連経済が悪化し、キューバは非常時体制に入った。それまでソ連圏から輸入していた燃料や農業機械の補修部品が入手困難になり、機械化農業ができなくなった。そこで、都市農業運動が本格化した。
アメリカによるキューバ経済封鎖によって、キューバ経済は、いかなる緊急事態にも対処するため、「戦時経済」という性格を与えられ、過剰な在庫の保持など、経済構造が歪んでしまった。
 キューバの医師養成は目を見張るものがあります。累計では世界128ヶ国から、のべ5万人の学生が学んだ。アフリカからも、35ヶ国から学生がキューバに来ている。
 医学校では、入学金、授業料、宿泊料、食費、インターネットの使用が、すべて無料。ただし、キューバまでの往復の旅費は自己負担。
 修了するのに8年かかり、卒業後にキューバで医療活動をする義務はない。
 キューバの医療は、基本的に無料。アメリカのマイケル・ムーア監督の映画「シッコ」に、アメリカ人が病気を治すためにキューバへ行ったときの情景が出ていました。
ただ、キューバの医師の賃金はタクシー運転手のそれより低い。そのため、キューバの誇るファミリー・ドクター(家庭医)が激減している。
キューバの教育も素晴らしいものがあります。ユネスコは、フィンランドとともにキューバを教育のモデル国として推薦している。
 キューバでは、保育園から大学まで学費がすべて無料で、高校も基本的に全入。一学級の定員は15~20人。うらやましいですよね、これって・・・。
アメリカのキューバ制裁が解除されないのは、国会で3分の2以上の賛成を要するところ、オバマ政権は他の重要案件を先行させ、キューバ問題の比重を軽くみて、後まわしにしているから。
 なーるほどと思いました。大変勉強になりました。ありがとうございます。
(2013年9月刊。1000円+税)

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2014年1月30日

第二次世界大戦・影の主役

アメリカ


著者  ポール・ケネディ 、 出版  日本経済新聞出版社

 1943年秋、ドイツ空軍は押し寄せる米軍機の大編隊を相手に、明白な勝利を収めていた。
 ノルマンディー上陸作戦の開始当時、フランス鉄道網は年初と比べて30%にまで減少していた。7月当初には、わずか10%に減っていた。だから、ドイツ軍は、フランス西部に応援部隊を送るどころか、前方部隊を引き揚げることもできなかった。
 1946年6月から10月までのあいだに、ドイツのパイロットと搭乗員1万3000人が戦死した。ドイツ空軍の編隊長クラスは、おもにマスタングに撃墜されていた。その痛手からドイツ空軍は立ち直れなかった。このようにして連合軍がヨーロッパ西部の制空権を握ったのは、Dデーのわずか3ヵ月ほど前だった。
 1944年2月から5月にかけてのドイツ空軍打倒は、接戦だったかもしれないが、史上最大の勝敗を決する軍事行動でもあった。
 戦略航空攻勢は、ドイツ国民の士気を打ち砕くことはできなかった。いくら打ちのめされても、ドイツ人は戦いをやめようとはしなかったし、ナチス政権打倒に立ち上がろうともしなかった。英米空軍の無差別爆撃は、かえってドイツ国民の戦意を高揚させてしまった。
 1943年2月、アフリカ大陸はチュニジア中部の岩山の戦略的要路カセリーヌ峠をめぐって、アメリカ軍部隊が初めてドイツ軍と本格的に交戦した。カセリーヌ峠の戦いは、1942年始めにフィリピンでマッカーサーのアメリカ軍が日本軍に敗北して以来、アメリカ軍が第二次世界大戦で味わった最大の屈辱だった。カセリーヌ峠の戦いにはアメリカ兵3万人が投入され、そのうち6000人を失った、戦車183両、半装軌車104両、砲20門以上、ジープとトラック500台以上を失った。これに対してドイツ軍の死者はわずか201人だった。
 ところがドイツ軍の電撃戦も、その後は停止させられた。それはイギリス軍のシャーマン戦車ばかりではなく、広大な地雷原と、大量の砲とバズーカ砲を使用する特殊な対戦車大隊が功を奏した。
 イギリス軍のモントゴメリー将軍は全面的な攻勢をかけ、ドイツのロンメルは苦戦した。壮絶な戦いが終わったとき、イギリス軍の戦車は200両が大破し、走行不能に陥っていたが、それでも600両が残っていた。これに対して、ロンメルには30両しか残っていなかった。
 ドイツは3つの戦線で戦い、いっぽうソ連はドイツとだけ戦っていた。連合軍が北アフリカと地中海に進出したことにより、ドイツ国防軍最高司令部は、もっとも精強な師団をスターリングラードの戦いから引き抜かざるをえなかった。そもそもドイツが全方面で強力な軍事力を発揮するのは無理だったのだ。北アフリカに上陸した英米連合軍は、スターリングラードの戦いにも影響を及ぼした。また、シチリア上陸も、クルスクの戦い(戦車戦)に影響を与えた。
 ソ連のつくった初期のT-34戦車は、欠陥の塊で、戦場では全く信頼できなかった。T-34戦車が真価を発揮したといえるのは、1944年初めから半ばにかけてのこと。
 T-34戦車は、ドイツ軍とのクルクス戦車戦で敗退したあと、望まれていた改良が修理・製造工場で進められた。
 ジューコフは、大規模な地雷原の敷設に専念した。これは、ロンメルやモントゴメリーが地雷を重用したのと同じだ。アメリカ軍は地雷戦をあまり利用していない。エルアラメインの戦いで示されたように、地雷原は攻撃側がそれを突破するのに苦労するため、防御側に行動する貴重な時間をもたらす。
 クルスクの戦いでは、これがさらに大規模に実証され、世界最大の地雷原戦とまで呼ばれている。ドイツ軍の高速の装甲攻撃を擾乱するのに、縦深地雷原にしくものはない。
 赤軍の防御地雷原は、優秀な土木工兵部隊が敷設し、奥行が25~40キロあった。
 1943年半ば以降、アメリカからソ連に対して、スチュードベイカーのトラックが陸続と送られ、ジープも至るところにあった。赤軍の車両の半数以上(66万5000台のうち58%)は国産だったが、アメリカ製のトラックとジープのほうが、はるかに頑丈で信頼できた。アメリカ製の車両はもっぱら戦闘部隊の武器弾薬の輸送に使われ、ソ連製のトラックは予備の補給品の輸送や傷病者の後送に使われた。
 アメリカ製トラックをイギリスの輸送船国が運び、ジューコフの前線部隊の機動性が向上したというのは不思議な共存関係だ。
 赤軍のクルスク防御の成功と翌年の着実な西進には、赤軍がドイツ軍よりも優れていた三つの事柄が役立った。架橋能力、欺瞞の技術、そして膨大なパルチザン網だ。
 第二次世界大戦の戦史を読むときには欠かせない視点が満載の大変な力作でした。知らなかったことが多く、最後まで興味深く読みとおしました。
(2013年8月刊。3500円+税)

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2014年1月31日

管理組合物語

司法


著者  二木 朋子 、 出版  文芸社

 マンションの管理組合をつくり、その理事会を運営していくのが、いかに大変なことか、この本を読むと本当に痛いほどよく分かります。
舞台は東京から少し離れた風光明媚なところにある、大きなリゾートマンションです(総戸数262戸)。マンションを建設した会社は、さらに大きくもうけるため、タイムシェア制を売り出し、マンションは大混雑します。そして、管理会社を設立して、そこでも法外な利益を手にするのです。
 その仕組みに不満をもつ税理士は一人たちあがろうとするのですが、仲間(同志)は簡単には見つかりません。リゾートマンションなので日常的な交際が乏しいうえ、規約上も建設会社と管理会社の意向が貫徹する仕組みになっているからです。
 負けじと立ち上がり、苦闘するなかで、共感する住民が少しずつ増えてきます。
 かと思うと、裏切り者も出てきます。自分だけ管理会社と手打ちして、有利な条件をもらうのと引きかえに昨日の友が脱落していくのでした。
 いやはや、マンションで同志を見出すって、大変なことなんですね。
専有部分と共有部分の使い分けも微妙なところがあります。
 管理会社に対抗するため、管理組合をつくり、理事会を設立します。それも大変でした。管理会社がさまざまな嫌がらせをしてくるのです。郵便だって、きちんと配達されません。宅配便も冷凍物が玄関前に放置されて、溶け出してしまうのです。
管理会社のひどさをマンション住民に訴えようとしても、あまりに「過激」だと反発を買って、みんなから敬遠されてしまうので、それなりの配慮が必要です。
マンションの修理・修繕についても、どこからお金を出すのか、誰に頼むのか、どうやって決めるのか、いろいろ大変です。それを面倒だと思って管理会社に任せっきりにすると、とんでもなく高額になったり、手抜き工事をされたりします。
 議事録作成も、なあなあで、やっておくと、あとで後悔することも起きます。むしろ理事会のメンバーはどんどん変わっていくので、きちんと記録しておかないと、みんなの記憶に頼っていたら、すべてが曖昧になってしまうのです。
 この本では、いちおうハッピーエンドで終わっていますが、実際にリゾートマンションの管理・運営の大変さ、そして、それを解決するための手順と問題点が実践的によく分かるものになっています。貴重な小説だと思いました。
(2013年10月刊。1100円+税)

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