弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年11月 1日

ジェラシーが支配する国

社会

著者  小谷 敏 、 出版  高文研

ついつい、なるほど、なるほど、と何度も頭を大きく上下させてしまいました。日本型バッシングの研究。こんなサブ・タイトルのついた本です。
 小泉純一郎や橋下徹のような政治家が熱狂的な人気を博してきた。彼らを英雄に仕立て上げたのは、安定した身分と収入と保障された公務員へのジェラシーである。だから、近年の日本を「ジェラシーが支配する国」と呼ぶ。
他人の不幸は蜜の味。人間は悪口を言うのが大好きな生き物である。悪口を言い合っているときには、強力な連帯感が生じる。
ところで、諸外国でバッシングの標的となるのは、政治家や経済人、「セレブ」と呼ばれる各界の著名人。ところが日本では、権力とマスコミメディア一体となって普通の公務員や生活保護受給者のような弱者を叩く構図がみられる。強者が弱者を叩くのが「日本型バッシング」の特徴である。子どもの世界に蔓延している「いじめ」は、大人の模倣である。
 1990年代以降の日本では、人々の所得は減少する一方。労働運動も市民運動も低調で、自分たちの力で社会を変えることはできないという諦観(あきらめ)に人々はつかれている。自分たちの生活を良くすることができないのなら、自分たちより少しでも恵まれた者を叩いて憂さを晴らすしかない。
 そして、為政者たちのあいだにも、スケープゴート(犠牲になる羊)を提供して人気とりに専心する「ポピュリスト」がはびこった。
 日本型バッシングの主役はテレビだ。テレビの世界から政界に躍り出た橋下徹は「巨大な凡庸」を地で行く人間だ。公務員たたきも、競争中心の教育改革も反原発もベーシックインカムも、俗耳に受けそうなことは何でも自らの政策として橋下は取りあげていく。インターネットは、テレビ的な凡庸さを増幅する役割を果たしている。
 日本人は「世間」から後ろ指をさされ、つまはじきにされることを何より恐れている。
 「週刊新潮」は、日本文化の特異性を象徴する存在である。
オレオレ詐欺がこれほど現代日本に多いのは、「自分の夫や子どもが、いつ間違いを犯しても不思議ではない」という「存在論的不安」を多くの人たちが抱えているからに他ならない。
 「存在論的不安」につかれた人々は、「諸悪の根源」となっている悪魔のような存在を探し求め、それを叩くことに熱中する。「悪魔」として名指しされた人たちを叩くのは、面白くもないことが続く日常のなかでの恰好の憂さ晴らしになるし、「諸悪の根源」を叩くことによって自分が正義の側に立っていることが確認できる。このようにして、バッシングに加わることで、フラストレーションだけでなく、「存在論的不安」も解消される。
ネット上の右翼的言辞の多くは、まじめな政治的信念にもとづくものというよりは、盛りあがるための「ネタ」であり、ネット右翼を特徴づけるのは、狂信的なナショナリズムではなく、理想をあざわらうシニシズム(冷笑主義)である。
自分自身が苦痛を味わっている人間は、他人の苦しみをみることを渇望している。なぜなら、他人の苦しみをみることによって、自らの苦しみを忘れることができるからである。
他人が苦しむのを見ることは快適である。他人を苦しませることは、さらに一層快適である。これは、一つの冷酷な命題だ。しかも、一つの古い、力強い、人間的な、あまりに人間的な命題だ。
 公務員に対する人々の激しい敵意が目立つようになったのは、民間の給与が下がり続け、人々の雇用が不安定になった「失われた10年」(1990年代)以降の傾向である。
 小泉純一郎を支持したのは、若者ではなく、中高年だった。そして、若者たちの中でも小泉を支持したのは高学歴層だった。「勝ち組」となることに希望をつなぐ層が小泉に投票した可能性が高い。同じように、橋本支持の中核を成しているのは、新自由主義的競争と経済のグローバル化の受益となりうると考えている人たちである。
橋下徹の言動には、驚くほど独創性がない。橋下は、「創造の人」ではなく、「模倣の人」なのである。その政策も「凡庸」という印象が強い。
 大変に歯切れの良い日本社会の分析です。読んでいて、胸がすっきりしてきます。ぜひ、あなたもお読みください。
(2013年4月刊。1900円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー