弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年10月23日

日本兵を殺した父

日本史

著者  デール・マハリッジ 、 出版  原書房

前に『沖縄・シュガーローフの戦い』(ジェームス・H・ハラス、光人社)を紹介しました。
 1945年5月12日から18日までの1週間にわたって繰り広げられた沖縄の首里防衛戦、その西端にある、名もない丘をめぐる争奪戦で、アメリカ第6海兵師団は2000名をこえる戦死傷者を出した。
 最終的に丘を占領するまでに、海兵隊は少なくとも11回の攻撃をおこなった。中隊は消耗し、戦死傷者は500名をこえた。この中隊は2回も全滅したことになる。
 今は、那覇市おもろまち1丁目6番地で、頂上部分には給水タンクが設置されています。モノレール「おもろまち」駅前にあります。
 この本は、ピュリツァー賞作家が父親の死んだあと、その戦友たちから戦争体験を聞き出していったものです。
 アメリカ軍も、太平洋戦争のなかで、
 「敵の捕虜にはなるな。敵を捕虜にもするな」
 としていたという話が出てきます。実際、降伏した日本兵を次々に射殺していったようです。そうなると、日本兵も死ぬまで戦うしかありません。必然的に戦闘は双方にとって激烈なものになっていきました。
 グアム島にいた日本兵の集合写真が載っています。140名もの日本兵は元気そのものです。そして、まもなく、その全員がヤシ林のなかで死んでいったのでした。そのなかの一部の兵士の顔が拡大されています。今もよく見かける、いかにも日本人の青年たちです。その顔をじっと見つめると、こんなところで死にたくなんかないと訴えかけている気がします。
 生き残った元兵士に著者が質問した。シュガーローフ・ヒルの戦術について、どう思うか・・・。
「あれは馬鹿げた戦いだった。やっちゃいけないことばかりだった。オレたちは何度も疑問に思ったよ。あんな丘、迂回していけばいいじゃないかと。周囲に陣地を張って、24時間監視して孤立させればよかったんだ。そうしたら、もっと大勢が助かったよ」
そうなんですよね、まったく、そのとおりです。
アメリカ軍に1万2000人の死者と3万6707人の負傷者を出し、2万6000人をストレスで苦しめた。
「オキナワという無謀すぎる賭け」について、こんな疑問がある。
 「なぜ、これほど多くの戦死傷者が出たのか。それは防げなかったのか。戦術に致命的な誤りがあったのではないか。そもそもオキナワは、どうしても必要な目標だったのか。近くの小さい島々を短期間で占拠したほうが、深刻な損耗はなかったのではないか」
 仮に全長100キロあまりの島を北から3分の2まで制圧できたのであれば、残りは包囲するだけで、日本軍は飢えて戦えなかっただろう。
 アメリカ軍の地上戦死傷者の大半は、島南部にある日本軍の拠点に無謀な正面攻撃を繰りかえし、疲弊した結果、出たものである。だが、日本軍を自ら築いた防塞に閉じ込めることもできた。直接的な強襲にばかり頼る旧来の手法から離れる必要があった。
 日本がアメリカとやろうとしてゲーム、正面対決に、ニミッツ提督はまんまと乗ったのだ。これに対して、マッカーサーの戦略と戦術は、多くのアメリカ兵を生きてアメリカ本国に帰還させるうえで、大いに貢献した。
 海軍主導で戦った沖縄戦の甚大な被害にトルーマン大統領は衝撃を受け、マッカーサー支援に傾いていった。海軍は連合国軍最高司令官にニミッツを推していた。ニミッツは憤然としてAP通信記者にこう語った。
 「死傷者がどれだけ出ようとも、完遂させねばならない任務がある。あれは不手際でも、大失敗でもなかった」
 しかし、著者はニミッツを厳しく批判します。沖縄戦は、あんな戦いでなくても良かったはずだ。ニミッツの愚劣さが、沖縄戦における民間人15万人、日本兵11万人、アメリカ兵1万2000人以上の犠牲を引きおこした。そして、著者の父親も沖縄の戦場での脳損傷の後遺症を一生引きずったのです。
 1950年生まれの著者による太平洋戦争体験記(聴取録)です。アメリカ軍のとった戦術について批判があることを私は初めて知りました。
(2013年7月刊。2500円+税)

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