弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年10月 2日

戦場の軍法会議

日本史(現代史)

著者   NHK取材班・北博昭 、 出版  NHK出版 

フィリッピンで死刑になった日本兵の裁判(軍法会議)がインチキそのものだったことを奇跡的に明らかにした本です。NHKスペシャルで放映され、大きな反響を呼んだ番組が本になっています。NHK取材班の執念が見事にみのった貴重な労作です。
 日中戦争が始まった1937年(昭和12年)以降、軍法会議で処罰される兵士が急増した。太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)には、1年間に5500人をこえる兵士が処罰された。
 軍法会議とは、罪を犯した陸海軍の軍人、軍属といった軍の構成員を裁くために、軍の中に特別に設けられた軍事法廷のこと。
戦前の法務官は、司法資格をもち、軍の中で法の遵守をチェックする「法の番人」とされる存在だった。
 軍法会議は通常の裁判所とは別の「特別裁判所」だ。軍法会議の仕組みは、裁判官、検察官、弁護人、被告という構図であり、通常の裁判と変わらない。特徴的なのは、日本の軍法会議では、通常5人いる裁判官のうち4人を軍人が占めていること。軍人の中で階級が一番上の兵科将校が裁判長をつとめた。
 裁判官の階級は、必ず被告人と同等か、それ以上の階級のものが選定された。そして、5人の裁判官のうち必ず1人は「軍人」ではない「文官」の法務官が担当することが法律で定められていた。
 明治42年生まれの馬場東作は東京帝大法学部を卒業し、司法試験に合格できずに海軍法務官となった。馬場は大学生のころマルクス主義を学び、不正義を怒り、軍に不信感をもつ反戦主義者だった。
 中田という海軍上等兵は奔敵(ほんてき)未遂、窃盗、略奪で死刑に処せられた。
敵前逃亡に死刑があることは知っていましたが、奔敵という罪名は聞いたこともありませんでした。
 軍法会議で死刑判決を受けた兵士は、護国神社にも靖国神社にも祀られていない。兵士の逃走は飢えによるもの。日本軍上層部の「現地調達」という無茶で無謀な作戦、食糧を送りこまずに現地で調達せよというのはバカな、無責任な考えである。
 日本軍は、アメリカ軍と違って、前線に行けば行くほど食糧がなかった。
 そもそも食糧さえ満足に与えず、戦わせた軍に逃亡兵を処罰する権利があるのか・・・・。
 食糧難の軍にとって、兵隊の数が減れば、口減らしにもなる。餓死寸前の兵士のなかに、夢遊病者のようにフラフラと部隊を離れる者が続出した。餓鬼道の積み重ねのように、まったく軍とか人の集団というようなものではなかった。
「平病死」とは、軍法会議で死刑になったことや、自殺したことを意味する呼び方。
戦後になって、軍の法務官だった人の大半が弁護士になりました。私が35年前に故郷にUターンしたとき、軍の法務官だったという人が何人も弁護士として活動していました。もっと、いろいろ話を聞いておけばよかったと思いますが、時すでに遅し、です。軍法会議というものの本質がいいかげんなものであること、しかし、死刑になった兵士の遺族が汚名を挽回するのはとても困難なことを伝えてくれる良書です。
(2013年9月刊。1900円+税)

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