弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年8月21日

王朝びとの生活誌

日本史(平安時代)

著者  小嶋菜温子・倉田実・服藤早苗 、 出版  森話社

『源氏物語』の時代について、生活の視点でとらえた本です。
 「三日夜餅」(みかよのもち)は、現在の皇族も行っている。現代まで続いている婚姻儀礼の象徴である。三日夜餅を食べるのが正式な儀礼であり、正式な儀式をした女性が正式な妻である。
 平安貴族の女性も子育てをしていた。授乳すると妊娠しにくくなるので、授乳は一つ下の階級にまかせる。しかし、子育てはしていた。
古代の日本では、女性も男性と同じように、老いることは目出たいことだった。だから、古老の知っていることは、証拠書類と同じくらい重要視されていた。
 平安朝の後宮(こうきゅう)には宦官(かんがん)という去勢された男性官人がいなかった。この宦官のいない後宮が、日本の特異なところだった。それが、『源氏物語』のような密通の物語を成り立たせる基盤となった。平安朝の後宮は、江戸時代の「大奥」と違い、男性禁制の空間ではなかった。
 女文字とされた「かな」文字によって、平安朝の女たちは男とも和歌による手紙(恋文)を交わしたりしていた。これが、王朝女性文芸の基盤である。
 日本の後宮にのみ宦官がいなかったことは、王朝の交替がなく、天皇を中心とする貴族社会による王権が継続したことと関わる。天皇は絶対的な王ではなく、後宮が男子禁制でなかったのも、殿上人たちが特権的な貴族に限られていたからで、あえて言えば、密通も許容される社会だった。
 王朝びとの生活において、恋愛は大きな意味をもつ行為である。こと貴族においては、誰と恋愛し、結婚するかは、個人の問題におさまらない。公達・姫君の婚姻は、家の将来を左右し、どの家と結びつくかは、社会的にも影響を及ぼす大事だった。お披露目の場となる婚儀は盛大にとりおこなわれた。儀式は3日を要し、その手順は多岐にわたった。
 いまも太宰府で行われる曲水宴は奈良時代の光仁天皇から桓武天皇の時代にかけて続いていた。ところが、奈良時代に定着していたはずの曲水宴は平安初期に中絶した。
 藤原道長も曲水宴を主催した(寛弘4年、1007年)。
物忌(ものいみ)は物忌人が外出したり、社会と面会するのを防ぐことが本儀ではない。そうではなくて、災厄が物忌人の身に及ばないために行うものだった。
 『源氏物語』の生まれたころの日本人の生活がよく分かります。相も変わらぬ、日本人の心象風景がそこにありました。
(2013年3月刊。3100円+税)

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