弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年8月 3日

「坂本龍馬」の誕生

日本史(明治)

著者   知野 文哉、 出版  人文書院

維新の会の「なんとか八策」のもととなった「船中八策」が、実は後世のものであったというショッキングなことが書かれた本です。今や代表の連発する非常識な暴言によって、すっかり落ち目の維新の会ですが、まだまだしがみついている人も多いようです。この本を読んだら、きっと目がさめることでしょう・・・。
 司馬遼太郎が坂本龍馬について本を書くまで、つまり昭和38年頃までは、龍馬を「りょうま」というルビをふらないと 読めない人が多かった。それほど世間には知られていなかったということだ。
 「船中八策」は、慶応3年に坂本龍馬が書いた(書かせた)ものではない。いわゆる「船中八策」には、龍馬自筆本はもちろん、長岡兼吉の自筆本も、長岡本を直接写したという保証のある写本も存在しない。
 また、同時代の後藤、西郷、木戸が「船中八策」を見たという記録もない。
 「船中八策」という名称が初めて登場するのは、坂本龍馬遭難50回忌にあたる大正5年(1916年)の講演会でのこと。そして、昭和4年に、「船中八策」が確定した。
 「船中八策」の用語のなかには慶応3年の時点で一般的に通用していなかったと思われる漢語がいくつかある。たとえば「議員」。これは明治初期に使われはじめた新しいコトバ。
この本によると、龍馬がおりようと二人で新婚旅行として霧島に登ったのも史実ではないとのこと。なーんだ、と思いました。出来すぎた話だと思ってきましたので、ナゾが一つ解けた気がしました。
龍馬暗殺が誰だったのか、明治3年9月の時点では正式に「落着」していた。見廻り組の今井らによる犯行だったというのは広く知れわたっていた。
 「船中八策」はなかった。龍馬は西郷隆盛を一喝していない。龍馬は新政府に入るつもりだった。こんな話が盛りたくさんに出てくる興味津々の本でした。
(2013年2月刊。2600円+税)

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