弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年7月 5日

「ローマの休日」を仕掛けた男

アメリカ

著者  ピーター・ハリソン 、 出版  中央公論新社

ご存知、かの有名なダルトン・トランボの伝記です。ええーっ、ダルトン・トランボなんて聞いたことがないんですって・・・。でも、映画「ローマの休日」なら見たことがあるでしょ?オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックは、これで映画史上、不動のスターになりました。私も、この映画は何回かみました(テレビでも)。みるたびに泣かせてくれますよね。
 そして『スパルタカス』『ジョニーは戦場へ行った』など、たくさんの映画史に残る名画の脚本を書いています。アメリカ共産党員だったダルトン・トランボはマッカーシズムの赤狩りで映画界を追放され、他人の名前で脚本を書くようになりました。その一つが『ローマの休日』なのです。すごいですね。そして、見事に映画界にカムバックを果たすのでした。
 「ハリウッド・テン」といって、赤狩り旋風の吹き荒れるなかで、仲間を裏切らなかった一人なのです。その点、『エデンの東』のエリア・カザンとは違います。人生の最後まで見事に信念を貫き通したのでした。
 ダルトン・トランボは見事なたたかいをした。才能あふれた芸術家であり、情熱的な活動家であり、そして真の「アメリカ市民」である。トランボはハリウッドにおける1940年代でもっとも卓越した脚本家の一人としての地位をいかし、信念を貫く理想的な人間像を描いた。そして、自らの信念を貫いたがために脚光を浴びる立場を失うと、トランボはまったく新しい生活を始め、1976年に亡くなるまで、言論と思想の自由を一層声高に訴え続けた。
トランボは1年近く警務所に入れられた。アメリカの映画産業で最高の報酬を得ていた作家から、一転して、失業した囚人となった。
 しかし、収監されても、トランボの生活の糧(かて)を奪うことも、市民の反抗というトランボ作品の代名詞をねじ伏せることもできなかった。トランボはハリウッドの闇市場で13年間にわたって脚本を書き続けた。
もっとも大切なことは、トランボは政治をムダ話に終わらせなかったこと。トランボの作品に登場する人物が抱いているのは、怒りというより悲しみだ。多くの右翼政治家が「卑怯なアカ」を悪者にして自らの名を上げようとしていた時代に、トランボは毅然とした左翼だった。同時に、トランボは人道主義者であり、詩的とも言える作品を描く類い稀なる職人だった。
『東京上空30秒』という映画があるそうです。知りませんでした。日本への空爆に志願したB25戦闘機の乗組員のストーリーのようです。トランボは、兵士たちが東京の空襲に備える様子を綿密に描いている。
 戦後、1947年10月、トランボはアメリカ連邦議会に召喚されます。
 トランボは、簡単に答えるように求められたとき、次のように答えた。
 「非常にたくさんの質問にイエスとかノーで答えられるのは、間抜けな奴か奴隷だけだ・・・。これは、アメリカの強制収容所の始まりである」
 1950年夏、トランボはケンタッキー州の連邦刑務所に入れられた。そして1951年11月、出所してメキシコに移住。
 トランボは、最盛期に1本の脚本で7万5000ドル稼いでいた。それが地下潜伏中には、1本わずか1000ドルしかもらえなかった。だから、トランボは質ではなく、量に専念した。
 『ジョニーは戦場に行った』は、いかにも衝撃的な反戦映画でした。上肢も下肢もなくし、実は顔まで奪われた元兵士が、モールス信号で自分の意思を伝達するという話です。といっても、それ以上は思い出せません。トランボは、この小説を自分で書いて、この映画の監督になったのでした。ところが著者は、この脚本の出来はひどいものだと酷評しています。そうなんです。この著者はトランボを天まで高くもち上げているのではありません。冷静に客観的に分析しようとしています。ですから、一味ちがった面白い評伝になっています。
私のような映画好きの人には、こらえられない本です。
(2012年5月刊。3200円+税)

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