弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2013年5月24日
毛沢東と中国(上)
中国
著者 銭 理群 、 出版 青土社
戦後の中国、そして現代中国を語るときに欠かせないのが毛沢東です。私が大学生になったとき(1967年)には、とっくに文化大革命が始まっていましたが、その実情は日本にほとんど伝えられていませんでした。断片的に伝わってくる情報は、あくまでも文化面での大きな改革がすすんでいるというもので、かなり中国を美化したものでした。権力闘争、しかも厳しい奪権闘争であると思わせるものではありませんでした。ただし、そのうちに馬脚をあらわしてきました。中国がすべてで、日本人もそれに従うべきだという押しつけが始まったのです。それは、私も、いくらなんでもとんでもないことだと思いました。赤い小型の毛沢東語録(日本語版)は、私も入手しましたが、こんな語録を振りまわして世の中が変わるだなんて思いませんでした。それでも日本人のなかにも毛沢東を神のように盲従した人たちが少なくなかったのです。今となっては信じられないところでしょうが・・・。
この本は、自らも若いときに毛沢東主義者だった学者が自己分析をふくめて中国の戦後史をふり返っています。中国史そして毛沢東についてはかなりの本を読んだと自負する私ですが、この本の掘り下げには、まさしく脱帽です。なるほど、なるほどと、何度も深くうなずきながら、必死に700頁近くの本を読みすすめていきました。
中国人が、現在のように好戦的、熱狂的、興奮症になったのは、まさしく毛沢東文化の改造の成果である。
毛沢東は、自らを豪傑であり、聖人でもあるとした。毛沢東が望んだのは、人の精神をコントロールし、人心を征服し、人の思想に影響を与え、改造し、専政を人の脳まで浸透させ、脳内で現実化することであった。しかも、そのための系統的な制度と方法までつくりあげた。
毛沢東は、文化大革命の初期に、すべてを疑えと提唱したが、その裏には、越えてはならない一線があった。つまり毛沢東本人への懐疑は絶対に許されなかったのだ。ところが、すべてを疑った人は、ついに毛沢東まで疑ってしまった。そのとき、毛沢東はためらいなく弾圧した。
農民出身であり、農民運動で名を成した毛沢東にとって、自分こそが農民の利益を代表していると考えるのは当然であった。個人的な感情としても、毛沢東が自分を完全に農民の子どもとみなしていた。
毛沢東は、1953年ころ、高崗を自分の後継者として指名するつもりたっだ。そして、「高饒事件」は毛沢東が発動したものだった。「高饒反党集団」というのは、実際には冤罪事件であり、党内闘争の産物にすぎなかった。毛沢東は高崗に手のひらを返し、高崗を「資産階級の党内における代理人」として追い出した。そして、毛沢東は高崗をつかって劉少奇の譲歩を引き出し、党内の知識人、農民革命家の両者を骨抜きにして勢力図を再編させた。
中国の政治は瞬時に全てが一変する。1957年の整風闘争のときにもそうだった。
ハンガリー動乱を知り、毛沢東は中国にも同じことが起きるのではないかと心配した。北京大学に大字報が貼り出されたのを知り、毛沢東は不安にさいなまれ、夜も眠れないほどだった。毛沢東と共産党の幹部がもっとも恐れていたのは、学生が労働者や農民と連帯することだった。そして、毛沢東は、軍隊で学生を鎮圧することだけは絶対に避けようと考えていた。それをしてしまえば、全体の統治が危機に陥るからである。
毛沢東は、旧知識人を消滅させることを求めていた。毛沢東は次のように語った(1957年、反右派闘争のとき)。
「ブルジョア教授の学問などは、とるに足らないもので、まったくムダで、さげすみ、過小評価し、蔑視すべきものである」
1958年に、モスクワで全世界共産党会議が開かれ、毛沢東も出席した。毛沢東は会議の中心人物となった。スターリン亡きあとの共産主義運動のリーダーとなった。毛沢東は、1958年に人生のもっとも輝かしいときを迎えた。
1958年に毛沢東は、奔放に宇宙やら時空やら生死やら有限無限やらを語り、矛盾論や認識論を大いに語った。国産的問題を処理するときですら、毛沢東はまずは哲学を語った。毛沢東は、終生、孫悟空に特別な感情を抱き続けた。
1958年8月の会議で、毛沢東は公開の場で、法制によって多数の人を治めてはいけないと語った。民法や刑法によって秩序を維持しないという。毛沢東は、恥じることもなく、個人の意思を法律、とくに憲法の上においた。
毛沢東が戦争上手であることについて、党内で異議を唱える人はいなかった。しかし、毛沢東が経済を指導できるかどうかは、別の問題だった。毛沢東は、戦争をやるように、工業そして農業をやろうとしていた。毛沢東は詩人の想像力で国を治めようとした。毛沢東の空想的社会主義は、実際には小農原始社会主義であり、それに中国農民の近代化の想像がまざっていた。
毛沢東が人民公社を発動したとき、食事がただ、病院がタダ、住宅がタダの三代要求は確かに中国の貧窮農民の基本的な願望を反映していた。しかし、食事と住民について解決していた富裕農民、そして、これから個人の自由労働によって富裕になろうとしていた中農民の抵抗にあった。
毛沢東の構想では、家庭も最終的には削減するものだった。
1958年、またたくまに大躍進は大飢饉に転じた。1959年4月。食事はタダから、わずか半年足らずだった。大飢饉と大死亡は1960年に頂点に達し、1961年まで続き、1962年にようやく好転した。3年間で餓死者が3600万人も出た。毛沢東は、1958年、完全に自己の意思によって理想の国づくりを試みたが、それはまたたくまに失敗し、災難となり、天国から地獄となった。これは毛沢東にとって、初めての挫折だった。それ以後、毛沢東の人生は、自己の権力と理想をかたくなに守りながら、総体として下降していった。
工業化、国防建設、都市の安定を保証するため、つまり富国強兵のためには農民を犠牲にする。たとえ農民が餓死しても、いとわない。それが、中国の農民が大量に死亡したことの本質だった。
中国共産党指導下の中国政権には二つの面があった。一つは強いイデオロギー性であり、もう一つは、強烈な民族性だ。毛沢東を代表とする中国共産党はマルクズレーニン主義者であると同時に民族主義者だった。現実には、最終的に本当に根をおろし、本当に民衆の支持を得られたのは、民族主義だった。民族主義の凝集力は長く続き、しかも力強かった。
1964年、アメリカのCIA報告は興味深い。CIAの分析によると、毛沢東の後継者になりうる人間は3人。周恩来、劉少奇、林彪である。劉少奇は毛沢東と同じ世代であり、個性に欠け、ユーモアがないという欠点がある。もっとも可能性が高いのは鄧小平である。うひゃひゃ、CIAもよく見ていますね・・・。毛沢東は劉少奇を基本的に信頼していた。劉少奇は軍隊への影響力が毛沢東に遠く及ばず、軍を掌握していなかった。これが劉少奇の致命的な弱点だった。
1964年末ごろ、毛沢東は、劉少奇を主要な打撃目標にしようという決心を固めた。
いよいよ文化大革命がはじまります。続きは下巻で・・・。
(2012年12月刊。3900円+税)