弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年2月27日

白鳥事件・偽りの冤罪

司法

著者  渡部 富哉 、 出版  同時代社

かの有名な白鳥事件の真相に迫った本です。冤罪ではなかったという主張ですが、読んで、なるほど説得力があると思いました。なにしろ、当時の関係者である北大生立ちが何人も中国へ密航し、亡くなるまで中国で生活していたのです。教養を生かして中国では、日本人教師として活躍していたようです。
 故村上国治氏と話したことはありませんでしたが、遠くから見かけたことはあります。出獄後、村上氏が日本国民救援会の副会長をしていたときのことです。再審事件の審理でも、疑わしきは被告人の有利に扱えという最高裁の判断を引き出しましたが、白鳥事件そのものでは有罪のままでした(と思います)。
 著者は、村上氏は白鳥射殺を指示する立場にいたと断言しています。
 白鳥事件とは、1952年1月21日夜、白鳥一雄警部(警備課長・36歳)が路上で射殺された事件。政府と警察は事件直後から、共産党の軍事方針によって射殺されたと宣伝し、村上国治をはじめ多くの共産党員が逮捕された。1949年7月の下山国鉄総裁怪死事件、三鷹事件、松川事件と同じように警察の謀略・冤罪事件と見る人も多かった。
 1950年6月には朝鮮戦争が勃発していて、レッド・パージも始まっていた。
 村上国治は1922年に北海道に生まれ、軍隊に入り、フィリピンに上陸したがマラリアにかかって国内に生還した。戦後、日本共産党に入って北海道オルグになり、ついには札幌委員会委員長になった。そして、軍事委員長を兼任した。
 日本共産党は朝鮮戦争が進行中の1951年10月、五全協を開いて軍事方針を打ち出した。
著者は白鳥警部を射殺した実行犯は佐藤博だと断言します。
 佐藤博は、戦中は海軍特攻隊員であり、ボルネオ島まで行ったが生還した。そして戦後は井戸堀職人(ポンプ職人)として働いていた。
白鳥警備課長が射殺された翌々日の1月23日早朝から札幌市内のあちこちで、「見よ、点誅堂に下る」という日本共産党札幌委員会の署名の入ったビラがまかれた。これでは、いわば犯行を自白したようなものである。ところが、この点誅ビラに対する市民の反応が厳しいことから、村上国治たちは動揺し、自己批判するに至った。
 なぜ、2種類のビラがあり、警察が増刷したと言えるかというと、増刷したほうに明らかな校正ミスがあったからだ。たとえば、「下る」を「降る」と書いている。よほど印刷を急がせたのだろう。白鳥事件は、スパイ山本らを通じて情報をつかんでいた国警が、あえてこれをなすがままに「泳がせる」ことで、思惑どおりにことを進めさせたものでもある。
うひゃあ、警察って、「大義」のためには身内の幹部の生命だって容赦なく犠牲にするということですね。
 実行犯の佐藤博は、事件のあと北海道内を点々と逃げまわった。石炭の積込人夫になったり、オホーツクのニシン漁場に住み込んだり、千蔵の建設現場に入ったり、そして開拓農家から、ついに九州に来て、それから中国へ渡った。
 1952年10月、日本共産党は衆議院総選挙で前回35議席から、一挙ゼロになってしまいました。得票数は300万票が65万票に激減したのです。極左胃険主義は国民に支持されませんでした。当然です。歴史の闇を明るみに出した労作です
(2012年12月刊。2800円+税)

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