弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年2月22日

江戸の読書会

日本史(江戸)

著者  前田 勉 、 出版  平凡社

日本人は本を読むとき、明治時代初期までは声に出して読む(音読)が普通だったそうです。ですから、江戸次第も当然のことながら音読です。
 そして、それを何人かで集まってやり、手分けしてその意味を質疑・討論するのでした。これを会読といいます。この本は、その会読の意義を究明しています。
 会読は、定期的に集まって、複数の参加者があらかじめ決めておいた一冊のテキストを、討論しながら読みあう共同読書の方法であって、江戸時代に全国各地の藩校や私塾などで広く行われていた、ごく一般的なものだった。
 会読は、上から下への一方的な教授方法ではなく、基本的には生徒たちが対等の立場で、相互に討論しながらテキストを読みあうもの。そこでは先生は生徒たちの討論を見守り、判定する第三者的な立場にいることが通例だった。
 明治の自由民権運動の時代は、「学習熱の時代」であった。政治的なテーマを議論・討論する学習結社が、全国各地に生まれた。
江戸時代、儒学を学んでも、何の物質的利益もあるわけではなかった。しかし、逆説的だが、だからこそ、純粋に朱子学や陽明学を学び、聖人を目ざした。
漢学塾での読書会読においては、上士も下士もなく、勝負して勝ち負けがはっきりする。
 会読には三つの原理があった。相互コミュニケーション性、対等性、結社性というもの。会読の場では、沈黙せずに、口を開いて討論することが勧められていた。そして、討論においては、参加者の貴賤尊卑の別なく、平等な関係のもとですすめられた(対等性)。
 幕末の佐賀藩が江藤新平、大隈重信、副島種臣、久米邦武などの優秀な藩士を生み出すことができたのは、英明な藩主・鍋島閑叟のもと、藩校弘道館で全国諸藩のなかでもっとも激しい会読において競争させたことに起因する。藩校での成績の悪いものには職が与えられないほどの厳しさだった。
日田で広瀬淡窓が創設した咸宜園では、会読が教育の中心におかれ、徹底した実力主義をとった。
広瀬淡窓は、三奪法と月旦表を創案した。三奪法とは入門時に、年齢、学歴、門地をいったん白紙に戻すこと。咸宜園の入門者2915人のうち、武士が165人(16%)、僧侶は983人(34%)、庶民は1707人(61%)で、圧倒的に町人・百姓の出身が多い。
 江戸の後期になると、各藩で優秀な藩士を遊学させるようになる。各藩の藩校は自藩の藩士しか入学を許していなかったので、遊学先のほとんどは私塾だった。19世紀に入ると、武士たちは、藩士教育機関である藩校に強制的に入学させられ、会読を行うようになった。そして、各地の藩校で、国政を論ずることの禁止令が頻発した。
やっぱり、人は議論することによって目覚め、実力を伸ばすものですよね。 
(2012年10月刊。3200円+税)

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