弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年2月 7日

危機のなかの教育

社会

著者  佐貫 浩 、 出版  新日本出版社

子どもたちが取り組んでいる学習は、競争に生き残る訓練のための苦役と化している。そこで知識は、現実を批判的に吟味し、新たな社会のありようを探求する知恵や方法として働いていない。しかし、原発の「安全神話」をはじめ、生存権の剥奪や地球環境の破壊などに対する批判の目を子どものなかに育てることなしには、この時代閉塞を打ち破ることが出来ない。
 新自由主義とは、単なる市場主義イデオロギーの自己運動でも、規制緩和という「自由化」が本質でもなく、巨大化した多国籍資本による国家権力の再掌握のもとで、国家政策と社会のしくみが、この支配者の意図にそって、強権的に組み替えられるその手法、しくみ、制度、理念の総体である。
 日本の新自由主義のきわめて大きな特徴は、国民の生命と生活、日本の自然を、資本がただ自己の利益のための「鉱山」と「市場」として搾取、乱開発するだけで、その後に巨大な空洞、格差・貧困と環境破壊が出現してもお構いなしという姿勢であり、政府が企業集団にのっとられ、国家装置を動員してそういう新自由主義を一途に推進してはばからないという異常さにある。
 新自由主義国家が、人権切り下げや国家主義の強制を進めるためには、この教育の現場に働いている人権意識や教育の自由についての感覚、そこから起こってくる新自由主義的教育政策への抵抗を突破しなければならない。その「抵抗勢力」を沈黙させる教員の服従態勢が必要となり、東京の石原都政はその露払いとして「君が代・日の丸」強制を行ったとみることができる。そして、学校教育の達成目標を国家や自治体が決定し、それをどれだけ達成したかを学校評価、学力テスト、教師の成果主義的な人事考課制度と給与への反映などによって、国家と行政が管理するという教育内容と教育価値達成への強力・緻密な評価制度をつくり出した。
今日の学校には、恐ろしいほどの非教育的で非人間的な、現代社会の論理を反映した、そしてまた学校に特有の隠れたカリキュラムが無数に組み込まれている。具体的には、競争に勝たないと人間らしく生きられない、学力・能力が低いのは本人や家庭の自己責任だ、人間の値打ちは学力で決まる、能力の低い人間は給料が低くても仕方がない、能力のないものはワーキングプアとしてしか生きられない。
 これらは、能力がない→勉強ができない→自己責任→希望・誇りの喪失という自己否定を強要する意識回路をつくり出し、学力底辺に押しやられるものの人間としての誇りや希望を根底から打ち砕いてしまう。その恐怖が、また子どもたちを過酷な生き残りゲームへ送り込んでいく。どれほど多くの子どもたちがこの過酷なメッセージのなかで、自身を奪われ、未来への希望を喪失し、教室空間を死ぬほど嫌な場として耐え忍び、学校の時間を苦しみやあきらめをもって生きていることだろう。
新自由主義は、学校教育を競争的に再編するだけではなく、教室空間に浸透する「自己責任」と競争のメッセージとして、日々子どもたちに襲いかかってくる。
新自由主義は、つながりを奪い、セーフティー・ネットを破壊する。
いま学校に子どもを通わせている親たちは、1980年から2000年ころ学校に通っていた。その親たちの学校体験からすると、学力競争に勝ち抜いてきた階層は、学校を自己責任でサバイバルすべき競走場ととらえ、多くの挫折を経験してきた階層の親は、冷たく差別的な視線にさらされた場ととらえているのではないか。そして、その体験に、人間としての尊厳や学習権の実現を温かく支えてくれた学校や教師の記憶を求めることは難しくなっているのではないか。
いま教師が子どもに対する教育力を発揮できず、困難に直面している背景には、教師が人間として全力で生きられていないということがあるのではないか。教師は多くの場合、競争をあおり、未来への希望を奪いかねない自己責任社会を押しつける壁として、自分の弱さに悩んでいる子どもの悲しみを踏みつぶしていく社会の強者として、子どもたちの前に立ち現れているのではないか。
危機を危機として人間の感覚で受けとめる感受性を失った日本の大人が行動が、子どもをいじめや絶望や時には自殺にも追い込んできたのではないか。
教師の責務は、困難を抱えた者にたいしても希望を保障することであり、そのために子ども・若者の思いに寄りそって生きることである。
日本の教育をとりまく実情に鋭い考察を加え、対処法を示している本です。大変深い感銘を受けました。
(2012年8月刊。2200円+税)

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