弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2013年2月 4日
敗戦と戦後のあいだで
日本史(現代史)
著者 五十嵐 恵邦 、 出版 筑摩選書
大変教えられることの多い本でした。たとえば、私は40年前の大学生時代、毎日が暴力に向き合う日々でした。私自身も、ヘルメットをかぶり、角材を持ったこともあります。幸い、殴られたことはなく(飛んできた石が頭にあたってケガしたことはあります)、誰かを殴ったこともありません。でも、もみあいの現場にいたことは何回もあります。そして、その騒乱の1年が過ぎると、すっかり忘れてしまったかのように、誰もそのことを話さなくなりました。まるで、そんなことはなかったかのように話題にすらのぼらなくなりました。
それを話題にしたら、そのとき、どちら側にいたのか、敵か味方か、そして、それは何を目ざしていたのかをはっきりさせなければならなくなります。でも、それは意外にも難しいことなのです。幸いにして、学内でのリンチ事件というのはほんの少ししかありませんでしたし、学生が殺されることもありませんでした(病死とか、精神的におかしくなってしまった学生はいました)。
この本は、戦争というもっとも極限状態に置かれた元兵士の人々が、なぜ過去をそのまま語ることはないない理由を明らかにしています。
大多数の日本人は、戦後日本の債権のプロセスに敗戦直後から参加することによって、自らの日本人としてのイメージを修復する機会をもった。しかし、シベリア帰りのように遅れて還ってきた者たちには、そのような機会が与えられなかった。彼らが帰ってきたときには、既に、戦争全般だけではなく、復員、引揚げの体験についての国民的な物語がすでにできあがっていた。その結果、遅れて還ってきた者たちは、怖れ、好奇あるいは哀れみの目で見られ、その異質な戦後体験はメディアによって封じこめられてしまった。
大日本帝国が崩壊したとき、688万人の日本人が外地に取り残されていた。内地の人口7200万人の9.6%にあたる。そして、そのうち367万人は帝国陸軍の将兵であった。
引揚者は、劣った日本人として日本社会の周縁的な位置を与えられた。引揚者との対比で、本土を離れることのなかった日本人は、自らより恵まれた境遇を言祝(ことほ)ぎ、より純正な日本人として優越感をもつことができた。
帰還者たちは、日本人の負の遺産を背負った周縁的な存在として差別されながらも、より純正な日本を照らし出す鏡として必要な存在となった。彼らは日本社会に受け入れられながらも、つねに懐疑の目で見られる両義的(アンビバレント)な存在であった。
五味川純平は『人間の条件』全6巻を書くことで、過去を生き直した。何百万という同時代の読者も五味川の作品をとおして過去を再体験した。この再体験は、戦後という現在と戦時という過去との距離を確認するためのものとなった。
五味川は東京商科大学に入学したあと1年で退学し、東京外国語学校に入学し直した。唯物論研究会に参加していたため、西神田警察に1ヵ月拘留されたこともある。中国満州にある製鉄所で働いていたが、兵隊にとられ、日ソ会戦のあと、全滅に近い部隊で生き残った5人の一人となった。シベリアに送られる途中で脱走し、日本人による民主化運動に参加して、1947年暮れに日本へ帰国することができた。
主人公梶のようなスーパーマンでさえ戦時下にあって効果的な異議申立ができないのであれば、誰にも歴史の流れを変えることはできないのであり、ただ生き延びて戦後にたどり着くことが最良の選択であったというのが妥当な結論となるだろう。
梶は、「俺が日本人だってことは俺の罪じゃない。しかも、俺の罪の一番深いのは、俺が日本人だってことなんだ」と嘆く。
シベリアに抑留された日本人は80万人ほど。広大なシベリアに散在する2000ヶ所以上の収容所で長期に抑留された。そして、そこで10万人以上の日本人が亡くなった。この抑留体験は忌まわしい記憶であり、戦後日本の反ソ感情の核となった。
1949年、ソ連の「民主化教育」によって熱心な共産主義者となった抑留者が日本各地でさまざまな騒ぎを起こした。多くのものは、日本に帰り着いてしばらくもしないうちに、その教育の成果を見捨ててしまった。メディアは帰還してきた「赤い」抑留者たちの攻撃的な行動を、あくまでも好奇の目で見た。
抑留者たちの帰郷は、シベリアの収容所で思い描いたような、バラ色のものではなかった。さまざまな理由からその抑留体験は思い沈黙につつまれ、元抑留者たちの個人的な体験記も多くの読者を得ることはほとんどなかった。
日本語でよく使われるノルマが、シベリアでの元抑留者たちが日本に持ち帰ったロシア語だというのを初めて知りました。
捕虜にとって、収容所で生きのびることの代償はあまりに高かったし、多くの者はシベリアでの非人間的な条件を生き抜くため、自らのそして仲間たちの苦しみに目を閉ざさねばならなかった。
苦境のなか、捕虜たちは二度打ち砕かれた。最初は肉体的に、そしてそのような状況をおとなしく受け入れなければならなかった屈辱のために。多くの抑留者にとって、戦後日本は居心地のよい場所ではなかった。抑留者の帰還が国をあげて祝われることもなかった。
1972年1月、グアム島で発見された横井庄一の28年にわたるジャングルでの潜伏生活は理解をこえるものだった。
1974年3月、フィリピンのルバング島からの元陸軍少尉、小野田寛郎が生還した。
この二人が日本社会にどのように受け入れられたか。また、彼らがその後、日本でどんな生活をしたのか、大変興味深い論述がなされています。そして、なぜ彼らは30年近くジャングルに潜んでいたのか、本当に終戦を知らなかったのかという重たい問いかけがなされています。
320頁の本ですが、読み終わったとき、戦後日本の負の重みが両肩にどっしりかぶさってきた気がしました。アメリカの大学で教える50代前半の日本人学者の本だと知って、その点でも驚きました。日本は、よそから眺めたほうがかえって、よく見えてくるのでしょうね。
(2012年9月刊。1700円+税)