弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年12月27日

米軍が恐れた「卑怯な日本軍」

日本史

著者  一ノ瀬 俊也 、 出版  文芸春秋

アメリカ軍は、日本軍は卑劣な戦法を使うから気をつけろと内部で教えていました。
 おとりの兵士が夜間に忍び寄って軽機関銃を乱射する。物陰から狙撃する。地雷や仕掛け爆弾を死体にまで仕掛ける。さまざまな奸計をつかってアメリカ軍をあざむこうとする。
 日本軍といえども、敵の機関銃には、機関銃で対抗することにしていた。実は、小銃は白兵格闘戦のとき以外には、ほとんど重要視されていなかった。
 実際には、満州事変の時点からすでに、夜襲の難しさは認識されていた。1932年の満州事変の時点で、日本陸軍にも、「装備劣等」な中国軍の陣地に対する夜襲すら難しいのに、装備優秀な外国軍相手のそれが果たして成功するのか、そういう疑問を抱く者がいた。
 1937年の上界戦線では、戦場で技量優秀だったのは中国軍狙撃兵のほうだった。その狙撃兵は優秀で、とくに我が指揮官・監視者の発見・狙撃はいずれも迅速。我が死傷者の多くはこれによるものだった。この狙撃兵は遮蔽が良好で、位置の発見がすこぶる困難であった。
日本軍には、ドイツ軍などのような狙撃兵を特別に養成する学校はなかった。ある日本軍兵士の回想によると、実弾射撃で5発に3発は標的に当たると、狙撃兵になることを上官から勧められた。
 中国の戦場で、中国軍兵士が死んだふりや偽りの降伏、便衣による民間人へのなりすましという行為が横行した。これを日本軍がとりいれて、後にアメリカ軍から卑怯だと非難されるようになったのは歴史の皮肉である。
 1939年に起きたノモンハン事件では、日ソ両軍は当初は同じような歩兵の突撃戦法をとっていた。ところが、不利と分かってソ連軍は即座に戦法を変更するという柔軟性があった。
 1944年4月段階で、日本軍の戦訓マニュアル上では、日本軍の「劣勢かつ火力装備の不足」が公言されており、アメリカ軍基地を突破する「良法」はもはや存在しなかった。つまり、打つ手なし、だった。
何もしないとアメリカ軍の物量に蹂躙される。だから、アメリカ軍の弱点を曝露させることが必要だというものの、実はアメリカ軍には本質的弱点らしき弱点はないことが日本軍にも痛いほど分かっていた。
 当時の日本で唯一豊富に使えた人命という資源の乱費を前提として戦法を組み立てた。
突撃には勇敢な歩兵も地雷を極度に恐れた。なぜか?
 その理由は地雷の残酷さにある。小銃弾の死は眠るがごとく壮烈で神々しい。これに対して、地雷の死は、あまりに酸鼻である。死体の有り様が、銃弾によるそれと比べて、あまりにも無惨である。弾丸に当たって死ぬのはよいが、地雷で死ぬのは嫌だ。
 セブ島の日本軍も後の硫黄島と同じように水際防衛を放棄し、内陸部の地下陣地にこもった徹底抗戦を意図していた。セブ島の山中いたるところに横穴を掘り、貯蔵庫もつくって、補給なしに3年間は大丈夫といわれていた。横穴は、土木機械がないのに、本格的に要寒化されていた。
 第二次大戦における日本軍の戦法の実際を具体的に検証した本でした。
(2012年7月刊。1600円+税)

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