弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年12月20日

ヒトラーに抗した女たち

ドイツ

著者  マルタ・シャート 、 出版  行路社

ヒトラーとナチス・ドイツに反抗した女性を紹介した本です。信念に生き、死をも恐れなかった女性の姿が光り輝いています。
 1934年から44年までの間、ナチス・ドイツで1万1900人が処刑されたが、そのうち女性が1100人いた。1933年にナチ党員の中の女性は6%。全女性の1%にも満たなかった。
 ヒトラーが政権をとると、女性国会議員は地位を失い、懲役刑や禁錮刑に処せられた。女性は、あらゆる公式の場から追放された。ヒトラーは、政治問題に首を突っ込むような女は、身の毛がよだつと公言した。女性には、選挙権も被選挙権も与えられなかった。そして、市民レベルの女性団体はすべて解散させられるか、ナチスに吸収された。
 アメリカ人の女性ジャーナリストはヒトラーに会ったときの様子を、次のようにレポートしました。
 彼は不恰好、ほとんどこれといった特徴がなく、顔立ちは戯画めいて、体は軟骨からできているような男だった。口から出まかせに矛盾したことをべらべらとしゃべり、気分にむらがあって落ち着きがなく、まさしく器量の小さい男の典型だった。
 顔には、内的葛藤や自己抑制を経験した痕跡が皆目みられない。
 眼だけは注目すべきものがあった。濃いグレーで、甲状腺痛みの典型的なもので、しばしば天才やアルコール中毒者やヒステリー患者の特徴である、特異な輝きを放っていた。答えるとき、質問者の顔を一度も見ず、部屋の奥に視線をすえて、うわの空ののような印象を与えた。
 彼は劣等感をかかえている男である。劣等感を持った庶民とはうまがあう。
 ヒトラーが政権の座につけば、政敵のうちでもっとも弱い者に襲いかかるだろう。
 ヒトラーは、仮面をはががされる瞬間に、不安なり、不機嫌になる。そして、権力のある背後に、身を隠す。
 1943年8月5日に処刑された女性、ヒルデ・コッピについて、教誨師が小さなカードに次のように書いていた。これを戦後、大きくなった息子が見つけた。
 ヒルデ・コッピは人の心をうつ人物で、やさしく、繊細で勇敢で、まったく無私である。彼女は、人間による「恩赦」をあてにしなかった。
 また、あるゲシュタポの警部は次のように語った。
 被告人は、ユダヤ人にしても、道徳あるいは職業の面からいっても、質の悪い人間とは言えなかった。エリートであることが問題であったと言える。国家に対して彼らが抱いていた敵意は、事実にもとづいた動機によってしか説明できないもので、この印象こそ、ドイツ国内外の人々にきわめて用心深く隠しておく必要があった。
 ヒルデ・コッピは保険会社に働く共産党員であり、妊娠中だった。刑務所で出産した8ヵ月後に処刑された。
 1943年3月、ベルリンで何百人もの女性が集まり、自分たちの夫や家族であるユダヤ人の強制移送された抗議の声をあげた。ナチス親衛隊は、ベルリンの通りに集まった女性たちに機関銃を向けたが、撃つことはなかった。女性たちは、既に数多くの辱めや心配事、困難を経験ずみなので、全体主義的な政権の命令にさえ反旗を翻す覚悟ができていた。
 ベルリンでは、結局、8000人ものユダヤ人が戦後まで生き延びた。
 1943年2月、有名な「白バラ」グループが逮捕され、処刑されています。大学生グループです。3人は毅然たる態度を貫き、看守たちに感銘を与え、看守は3人に対してタバコを1本回して吸うあいだの面会を許した。そして、ゾフィー(女性)から先に斬首された。続いて、兄と友人も斬首された。
 ゾフィー・ショルは、自分と兄が処刑されたあと、学生たちがこぞってヒトラーに対して起ちあがると固く信じていたが、彼女が期待した叛乱は起こらなかった。
 かえって、学生たちは、足を踏みならして告発をした大学の用務員に賛意を示した。
 そうなんですね、大衆はすぐには反乱に起ちあがらないものなんです。でも、やがて、自らの死でそれをあがなうことになります。その大半が戦場に行かされて・・・。
勇気ある女性の起ちあがりがあったからこそ、今ここに私たちが平和に生きているわけですよね。本当にありがたいことです。
(2012年3月刊。2800円+税)

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