弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年9月26日

二世兵士、激戦の記録

アメリカ

著者   柳田 由紀子 、 出版    新潮新書 

 第二次世界大戦当時、アメリカにいた日系人がいかに行動したかを概観した新書です。
 明治18年(1885年)、日本政府は官約移民制度をはじめ、ハワイに日本人を送った。それ以降、9年間で3万人が3年契約でハワイに行った。出身地で多いのは広島、山口、熊本、福岡。私の父の出身地(大川市)からも移民が行き、成功して帰国すると、「アメリカ屋」と呼ばれました(今も、その子孫が八女にいます)。
 3万人の官約移民のうち1万4000人が日本に戻り、2000人がハワイで亡くなり、9000人近くがアメリカ本土に渡って、残る1万3000人がハワイにとどまった。残留率は4割。
 1941年12月の日米開戦のとき、ハワイには全人口42万人の4割15万8000人の日系人が生活していた。
 日米開戦により、アメリカ軍は2世兵によって第100歩兵大隊を編成した。「ワンプカプカ」と呼ばれた。「プカ」とは、ハワイ語でゼロのこと。アメリカは日系人を強制収容所に入れた。アメリカに忠誠を誓わない日系人が1万9000人近く、ツールレイク収容所に入れられた。
 戦争が始まると、日本では敵性語として英語が禁じられたが、アメリカは逆に必死になって兵士に日本語を教育した。この情報語学兵の中核になったのは日系2世兵である。
 アメリカの日本攻略の2本柱は、暗号解読と捕虜情報だった。
 アメリカ軍が獲得した5万人の日本人捕虜のうち、5000人の日本兵がアメリカ本土に送られた。
 ハワイ第100歩兵大隊は、ヨーロッパ戦線に送られた。イタリア戦線そしてフランスで目を見張る大活躍をして歴史に名を残した。上陸したとき1300人だった歩兵大隊が、激戦のあと、半分以下の521人までに激減してしまった・・・。
 モンテカッシーノの戦い、ビフォンテーヌの森の戦いが有名です。ナチス・ドイツ軍に包囲されたテキサス兵211名を救出するため、第100歩兵大隊は800名もの死傷者を出したのでした。
 決して忘れてはならない日系人の努力だと思いました。
(2012年7月刊。740円+税)

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