弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年8月21日

未完のファシズム

日本史

著者   片山 杜秀 、 出版    新潮選書 

 第一次世界大戦そして戦前の日本について鋭い分析がなされていて驚嘆してしまいました。まだ40歳代の思想史を専門とする学者の本です。さすがは学者ですね。着眼点が違います。
 第一次世界大戦で、日本は中国の青島(チンタオ)にあるドイツ軍の要塞を攻略します。そのあとのドイツ軍捕虜が日本各地に収容所で暮らし、伸びのびと生活していたことは有名です。
 1914年、第一次世界大戦が勃発した。日本軍は9月より中国・青島のドイツ軍要塞の攻撃をはじめる。総攻撃開始は10月31日。ドイツ軍が白旗をあげたのは11月7日。1週間で陥落したことになる。
 日露戦争の旅順戦の経験から、歩兵を突撃させても堅固な要塞の前では屍の山を築くだけ。やはり、移動の容易な大口径砲、遠戦砲、破撃砲で、遠くから撃ちまくることにこしたことはない。45式24センチ榴弾砲は1912年に新採用されたばかりの大砲。28センチ砲は、24センチ砲より大口径だが、移動させるのに苦労するという難があった。
 青島は、日露戦争後の日本陸軍近代化のほどを試すための恰好の実験場となった。歩兵突撃の時代は既に終わった。
実は、この青島攻撃戦には久留米から師団が派遣されて大活躍したのでした。私の母の縁者が英雄として、登場してくるので少し調べたことがあります。私の母の異母姉の夫は中村次喜蔵という軍人でした。青島要塞攻略戦で名をあげ、なんと皇居で天皇に対して御前講義までしたのです。のちに師団長(中将)にまでなりましたが、終戦直後に自決(ピストル自殺)しています。偕行社(戦前からある由緒正しい将校の親睦団体です)に問い合わせると、その状況報告書が残っているとのことでコピーを送ってもらいました。そして、その報告書には地図までついていました。
 この中村次喜蔵は、陸軍大将・秋山好古の副官にもなっています。その足どりを調べているうちに、『坂の上の雲』が急に身近なものに感じられました。
青島戦は、何よりも火力戦だった。榴弾砲よりも一般に砲身が細くて長い、射程も伸びる大砲をカノン砲と呼ぶ。山砲とは、バラして人や馬で運べる大砲のこと。山にも担いでいって、頂上からでも撃てる。だから山砲だ。
 ドイツ軍の青島総督は、敗戦後、日本軍の長所は、大砲の射撃と斥候の明敏と塹壕つくりの巧妙なるにありと語った。
日露戦争のときの日本軍は、当時の工業生産力や資金力では、ロシアの大軍そして旅順の要塞を相手に撃ちまくれなかった。だから、人命軽視といわれても仕方のない、やみくもな突撃に頼った。ところが、1914年の青島では鉄の弾が足りた。
この青島戦役で、日本は新しい戦争をした。近代戦は物量戦でしかあり得ないことを大々的に世界に証明してみせた。世界大戦は物量戦で、総力戦で、長期戦で、科学戦なのだ。
 ところが、日本軍は、その後、兵隊や兵器や弾薬が足りなくてあたりまえ、それでも戦うのが日本陸軍の基本だと完全に開き直ってしまった。
 玉砕できる軍隊をつくること自体が作戦だった。玉砕する軍隊こそが「もたざる国」の必勝兵器だった。玉砕できる軍隊を使って、実際に玉砕を繰り返してみせれば、勝ちにつながる。つまり、玉砕は、作戦指導部の無策の結果、兵を見殺しにすることではなく、勝利のための積極的な方策なのだ。
うへーっ、とんでもないことを真面目な顔をして言うのですよね。おお、クワバラ、クワバラという感じです。助けてくださいよ。これでは誰のために戦争するか分からないですね。兵隊を見殺しにして、権力者だけはぬくぬくと助かるということなのでしょうが・・・。
(2012年3月刊。2800円+税)

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