弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2012年7月24日
イワンの戦争
ロシア
著者 キャサリン・メリデール 、 出版 白水社
第二次世界大戦におけるソ連の大祖国戦争で倒れた3000万人もの赤軍兵士の実情を丹念に掘り起こした450頁もの労作です。
ヒトラーを信用して欺されてしまったスターリンの犯罪的責任はきわめて大きいと改めて思いました。それをどうやってソ連の人々がカバー・克服していったのか、さらに、それをスターリンがどうやって利用したのかも紹介されています。ところどころに当時の写真があるのも、本文の記述を理解するのを助けます。
戦争の全期間を通して、ロシア人はソ連軍の多数派だった。ウクライナ人が2番目に多く、他にもアルメニア人やヤクート人まで多彩な人種がいた。多くの人々が、伝統的な区別を捨て、「ソ連人」という新たな呼称で自分を規定した。
兵士の年齢はまちまちだったが、1919年から25年までの生まれが多かった。40代が何十万人もいて、年配の兵士も少なくなかった。
しかし、人員の消耗率が高く、戦死や重傷による移送まで、前線にいる期間は平均3週間。後方からの補充も目まぐるしい。小さな集団の仲間が長く一緒にいるのは、まれだった。
実に苛酷すぎる戦場だったことがよく分かります。
ソ連は戦争の申し子だ。この国以上に暴虐と面と向かった国はない。最初は帝政ロシアがドイツに立ち向かった戦争だった。ロシアは欧州のどの国よりも多くの兵士を失った。
十代の若者がみんなあこがれたのは、プロペラ機の搭乗だった。1940年には、訓練を受けて落下傘で降下できるソ連国民は100万人をこえると推定された。しかし、戦争本番では落下傘部隊の出動はほとんどなかった。
軍隊には政治委員がいた。ポリトルクという政治将校が中隊以下を担当した。このポリトルクは、プロパガンダ担当、従軍神父、神経科医、監督教官、そしてスパイの役割を担っていた。ポリトルクも、プロパガンダの太鼓を叩きすぎると、抵抗を受けた。ポリトルクは、嫌われ者でもあった。規則に関して全権をもっていたからだ。ポリトルクの教育水準は平均より高く、その多くがユダヤ人だった。
トハチェフスキー赤軍参謀総長が逮捕され、裁判にかかったことは、軍のエリートたちを動揺させた。
トハチェフスキーの逮捕は、国家によるテロ第一弾だった。軍だけでなく、国防機関のすべてを新たな政治統制の下に置くプロセスが始まった。
1973年から39年までの3年間で3万5千人余の士官が職を追われた。1940年までに5万人近くが赤軍と海軍から追放された。戦前最後の3年間で、全軍管区の90%の指揮官が降格された。上下関係の転倒は、戦争をまさに目前にして、徴兵・訓練・補給・部隊間の連携を大混乱に陥れた。職業軍人は地位を失うまいと争い、士気も荒廃した。
1940年までに1万1千人が軍に復職した。しかし、粛清は、士官一人ひとりの仕事をさらに難しくした。誰にも、職はおろか生命の保証さえないという事実が既に明らかだった。
士官候補生や初級士官の自殺率の高さは目を覆うほどだった。その自殺の原因で、最も多いのは、「責任を問われる恐怖」だった。
軍は肥大し、1941年夏に500万人を超えていたが、士官の数は絶望的に少なかった。少なくとも3万6千人の士官が足りなかった。戦時動員が始まると、不足数は5万5千人にはねあがった。その結果、兵士は男も女も、実戦経験のない若者の指揮下で戦わねばならなかった。そして、幹部の無能は、すぐに露呈した。士官の力量不足は致命的だった。兵士は初級士官を侮辱し、命令に従わなかった。
ヒトラー・ドイツ軍が侵略を開始して最初の数週間でソ連赤軍は崩れた。これは兵士個人の責任ではなく、官僚的な規則、無理強い、嘘、恐怖と無統制の末路だった。
1941年、ドイツ軍の砲火でやられた戦車より、故障で使えなかった戦車のほうが多かった。ドイツ軍1両に対して、ソ連は6両の戦車を失った。
1941年末まで、ドイツ軍にとって赤軍の捕虜の生命なんかどうでもよかった。戦争初期、赤軍兵士は、簡単に降伏した。1942年、ソ連兵はドイツ軍の捕虜となれば残酷な仕打ちか死を覚悟しなければならないことを確信した。それを知ってから、ソ連軍の戦いぶりは激しくなり、敵への増悪は深まった。ドイツ軍は捕虜を虐待し飢えさせ、殺したことで、結果としてソ連軍を助けた。
ソ連軍の捕虜のなかで、ポリトルクとユダヤ人は見つかり次第、どこでも射殺された。ドイツ軍の虐待行為がなければ、ソ連国民は再び戦いの持ち場につかなかっただろう。
スターリン主義のもとでは、個人が目立つことを嫌う傾向が強かった。しかし、今や兵士一人ひとりが奮起して命がけで行動しなければならない局面を迎えていた。
1941年から45年までに、ソ連軍は1100万個の勲章を授与した。アメリカ軍は140万個だった。軍人は立派な仕事をすれば必ず報酬があると理解した。物資面でも優遇された。
1942年7月、スターリングラードに50万人をこえる将兵が終結した。このうち30万人をこえる人命が失われた。そして、このとき一定の法則があった。誰でも、10日間はなんとかなる。だが、どんなに頑丈でも、8日目か9日目になると、死ぬか、死ななくても負傷は免れなかった。
兵士を奮い立たせたのは、言葉を超えた感情だった。愛といっても差し支えのないものに裏うちされた、まっすぐな憤怒だった。生きている限り、略奪者を撃破しなければならないことが分かっていた。
ドイツ兵に比べて、ソ連兵の要求水準は常に低かった。ソ連兵はクリスマスツリーも、お菓子もケーキも夢に見なかった。そのようなものは、もともと知らなかった。
1943年1月、赤軍は10万人近いドイツ兵捕虜を得ていた。粗末な食事と飢餓がドイツ兵捕虜の死因の3分の2を占めた。
1943年7月、クルスクで赤軍とドイツ軍との大戦車戦が始まった。兵器の性能の優劣では、ドイツがソ連より上だった。しかし、数量ではソ連に分があった。しかし、勝敗を分けた最大の要因は技術や兵器ではなく、人間だった。我が身をかえりみない、決死的ともいえる勇気が勝つためには不可欠だった。40万人の赤軍戦車兵のうち31万人が死んだ。戦争は初日で決した。
戦争は若い女性には残酷だった。戦争中は、男性より女性のほうが早く年老いた。とくに戦闘に直接従事した女性はそうだった。
赤軍がドイツに入ったとき、兵士が感じたのは怒りだった。これだけ豊かなドイツ人が、なぜ東隣の国を略奪したのか。こんなに満ち足りているのに、どうしてさらに多くを求めたのか、誰にも理解できなかった。ポーランドでも、赤軍兵は相手の豊かさに同じような衝撃を受けた。怒りこそ、兵士たちの力の源だった。ドイツ人がすべての悪の根源だった。
兵士は戦争で心労を深め、際限なく寄せ来る悲しみにうちひしがれ、疲労、恐怖、不安、極度の緊張にとられていた。彼らをそそのかすのは容易だった。
ソ連は大暴れをはじめた。街は焼かれ、公人は殺され、レイプはもっとも広く行われた犯罪だった。モスクワの指導部が指令こそ出さなかったものの、兵隊の行為をそそのかした事実は疑いようもない。
多くのものが夢うつつの状態だった。酒が一つの理由だった。大多数の兵士が意識を麻痺させるために酒に手を出した。情欲は情欲として、大多数の兵士には女性をうとましく、増悪さえする理由があった。戦争が始まってからというもの、家からの手紙は悲しい内容ばかりだった。飢餓やレイプ、死の知らせも届いたが、多くは別れの手紙だった。家族は崩壊し、個々の生活が別々の世界で生まれつつあった。兵士と家族の間の緊張は、戦場にいるものと民間人の亀裂から生まれた。軍隊が男社会であるのも一因だった。女性は疑いのある対象であり、女性嫌いの世界にあっては邪魔者だった。
赤軍は史上例をみない大掛かりな規模で、ありとあらゆる犯罪に手を染めた。赤軍は他のどの国の軍隊よりも苦渋をなめ、損失も大きかった。今や、その代償を求めていた。
36万人を超える赤軍兵士たちがベルリンを目ざす作戦において死亡した。
ドイツ、とりわけベルリンでの赤軍兵士のレイプは悪名高いわけですが、その背景事情をはっきり認識できました。もちろん、だからといってこの大々的な蛮行が正当化できるわけではありません。赤軍兵士イワンの実体をよく知ることのできる画期的な大作です。
(2012年5月刊。4400円+税)