弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年7月21日

素顔の伊達政宗

日本史(戦国)

著者   佐藤 憲一 、 出版   洋泉社歴史新書y

 戦国武将として名高い伊達政宗が大変筆まめな文化人でもあったことを知り、驚嘆してしまいました。なにしろ残っている手紙だけで1260通だというのです。娘にあてた自筆の手紙だけでも328通といいます。すごく筆まめな人だったんですね。ちなみに、織田信長の自筆の手紙は3通、豊臣秀吉は130通、徳川家康は30通です。
 伊達政宗は18歳のときに家督を相続し、翌年、父は戦死してしまうのでした。
 そして、豊臣秀吉の小田原攻めのときに、遅れて駆け付け、あわやというときを迎えたのです。家臣は主戦論と参陣論に分かれて激論をたたかわした末の参陣でした。案に相違して、秀吉からは手厚くもてなされたことは、有名な場面です。
 このあと、政宗は弟の小次郎(秀雄)を手討ちしたことにして逃したのではないかと推測しています。そのとき、母は山形へ出奔し、28年後に政宗と再会した。なんという劇的な再会でしょうか・・・。
秀吉が亡くなったあと、政宗は家康に味方します。ところが、家康は政宗を警戒していたのでした。
 政宗の必要上の動きが家康の警戒心をあおり、心証を悪くした。
 家康にとって、政宗は見方としては頼りになる存在であっても、敵となった場合の恐ろしさは十分に承知していた。そこで、覚書で100万石するとしていたが、脅威になるので反故にして、ほおかむりした。
 伊達政宗は、広く海外にも目を向けていた。家臣の支倉常長を大使とする遣欧使節を派遣した。自分の家臣を自分の建造した船で欧州まで派遣した大名は政宗のほかにいない。これは、政宗がスペイン王国とローマ教皇に対して、当時酢終え印の植民地であったメキシコとの通商と宣教師派遣を要請するために送り出した本格的な外交使節だった。7年に及ぶ海外での旅を経て元和6年(1620年)に使節は仙台に戻ってきた。ところが、当時すでにキリシタン取り締まりが強化されていた。
 1640年3月、常長の嫡男常頼は、切腹を命ぜられ、改易された。
 政宗は和歌をたしなみ、源氏物語などの古典にも親しんでいた。伝統にかなった書法を身につけ、流麗な仮名文字にも定評がある。
 ただし、酒豪であり、酒癖は悪かったようでもあります。
 政宗の知らなかった素顔をのぞいた気分になりました。
(2012年2月刊。890円+税)
記録的な大雨でした。私の住む町は幸いなんともありませんでしたが、周囲は大変でした。なかなか梅雨が明けないため、セミの鳴き声も心なしか弱々しげです。
 筑後川が氾濫したのは昭和28年のことですから、今から60年もの前のことになります。今回はそれに匹敵するほどの大災害でした。自然の脅威をつくづく感じます。
 原発再稼働反対の声が首相官邸を取り巻いているのは頼もしい限りです。人間の無力さをもっとみんなが自覚すべきではないでしょうか・・・。

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