弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年7月15日

人間・昭和天皇(下)

日本史

著者  髙橋  紘  、 出版   講談社

 下巻は戦中・戦後の昭和天皇の歩みをたどります。
 戦中、国民が疎開するより早く、皇族は安全な地へ疎開しはじめていたことを、この本を読んで初めて知りました。
日米開戦前の1941年(昭和6年)7月ころから皇族の避難先を選定しはじめた。そして、学習院の疎開は1944年、一般人より2ヶ月も早い5月に始まった。
 昭和天皇は、あらゆる意味で孤独だった。陸士(陸軍士官学校)でも海兵(海軍兵学校)でも学んだことはなく、兵営生活も軍艦に乗り組んだこともない。自分のまわりに上司も部下をもつこともなかった。
 両親から早くに離されて大きくなり、心を許して語りあう友もいない。生涯、身のまわりには自分より下の位の人ばかりだ。
 昭和天皇は、終戦時に45歳そして皇后43歳、皇太子は13歳だった。天皇は働き盛りだった。昭和天皇は、酒をたしなまなかった。お酒の練習もしたが、やはり合わなかった。
戦後、アメリカは占領コストを考えて昭和天皇を利用することにした。昭和天皇の命令によって700万余の兵士は武器を捨て、軍隊は解散した。そのおかげで数十万のアメリカ兵が死傷することがなかった。
 1946年の日本占領費用は6億ドルかかったが、1945年に40万人をこえた連合軍兵士が1946年には20万人と減らすことができた。
1946年元旦の人間宣言はアメリカ軍(CIE)が発想し、原文を書いたものだった。昭和天皇の国内巡幸もCIEの作戦だったが、大成功をおさめた。
 戦後、昭和天皇の退位論が出た。裕仁という天皇個人はどうでもよく、皇統を維持して国体を護っていくことが宮廷派の基本的な考えだった。しかし、昭和天皇が退位することは、反共の砦としたいアメリカやマッカーサーの構想をつぶすことになり、戦略的に天皇を守ってきた意味がなくなってしまう。
 中曽根康弘は天皇退位論を唱えた。昭和天皇は戦争責任について、何の表明もせずに生涯を終えた。それで、いつまでも責任が問われ、「永久の禍根」となった。
 昭和天皇の人間としての生々しい実際を知ることのできる本です。
(2012年2月刊。2800円+税)

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