弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年5月10日

メルトダウン

社会

著者   大鹿 靖明 、 出版   懇談社

 3.11の起きたとき、東京電力の清水社長は夫人同伴で優雅に奈良を観光していた。そして、実力者である勝俣会長と筆頭副社長は大手メディアの幹部たちを引き連れて中国にいた。
3000人が働く東電の部門は、そこだけが東電全体から独立した王国を形成していた。東電の武藤栄副社長は、この日の来ることを知っていた。しかし、その対策は何ひとつ講じなかった。原子力村のお歴々は、みな巨大津波の想定を知っていた。それなのに、勝俣会長にも清水社長にも知らせなかった。
 東電の原子力部門は東大工学部率が主流を占めていた。吉田昌郎所長は、東京工業大学の大学院で原子核工学を専攻した。日本の原子力行政のトップは、誰も全電源喪失という事態を想定していなかった。
 共産党の吉井議員の想定のほうが、原子力安全・保安院の寺坂院長より勝っていた。ベントが必要だといっても、そんな実務的なことは、協力会社と呼ばれる「下請け」の社長や作業員のほうがはるかに詳しい。
東電の社長は現場に出るのを嫌がった。いざというときに役立つ原発についての知見は「空洞化」し、東電社員の力量だけではいかんともしがたい。
 福島第一原発事故で大気中に放出された放射性物質の量は、半減期が30年と長いセシウム137でみると、広島に落とされた原爆の168個分にもなる。ストロンチウム90で換算しても広島型の2.4個分もあった。このように、すさまじい放射能汚染をまき散らした。
 保安院の寺坂信昭院長は東大経済学部を卒業して経産省に入ったキャリア組の高級官僚だ。直近の仕事は、スーパーなど流通業界を管轄する商務流通審議官だった。要するに、原発のことを何も知らない人が原発の保全を監督するところのトップだったというわけです。恐ろしいことですね。ぞっとします。
 ベントが実施されたのは、古田所長が3月12日午前0時過ぎに準備を指示して14時間もたったあとのこと。しかし、そのときすでに1号機はとっくにメルトダウンしていた。
 メルトダウンとは炉心溶融ともいい、核燃料が高熱にさらされ、どろどろに溶け(メルト)、原型を失って原子炉の底に落ちる(ダウン)のこと。
 東電のなかには、怒鳴りちらした菅首相への嫌悪感やら反発心から「菅降ろし」につながっていった。菅政権への敵がい心が東電の深層に芽生えていった。
 枝野官房長官(元・経産大臣)は、「東電を殺人罪で告訴するぞ」と怒鳴ったそうです。大混乱のなかで、東電は自分たちに風当たりの強い首相官邸への不信感が増幅されていった。
吉田所長は「死」を意識した。社員や協会会社の作業員たちの人命を守らないといけない。吉田所長は制御に必要な要員を残して大半は退避させたいと思った。
菅首相が東電本社に乗りこんできた。「東電が逃げたら、日本は100%つぶれる」と叫んだ。
 福島第一原発には、3.11事故当日、3500人が脱出していき、ゴーストメルト化した。注水作業に必要な70人ほど(「フクシマ50」として有名なんですが・・・)を残して「フクシマフィフティーズ」が結成された。実際には50人ではなく、70人が参加した。
 この70人の肩に日本の将来がかかったわけなんです。不幸中の幸いが続いて今に至っています。こんな危ない原発は即刻すべてを廃止すべきだと思います。
(2012年3月刊。1600円+税)

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