弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2012年5月 7日
情熱の階段
ヨーロッパ
著者 濃野 平 、 出版 講談社
スペインで日本人闘牛士が孤軍奮闘しているなんて、ちっとも知りませんでした。ユーチューブで、その活躍ぶりがきっと見られるのでしょうね。見てみたいものです。
著者は世界唯一の現役の日本人闘牛士です。一人前の闘牛士になるための悪戦苦闘ぶりが生々しく、その苦しい息づかいとともに伝わってくる迫力ある本でした。なにより、単なる成功譚で終わっていないところが素晴らしい。決してハッピーエンドの世界ではなく、これからも闘牛士として苦難の道が続くことを想像させます。がんばれ、日本人青年。つい、こう叫んでしまいました。
私は、この動物を殺す。剣の一撃によって。食べるためではない。毛皮を剥(は)ぐためでもない。この大きな角をもった猛獣を、大勢の観客の前でただ殺す。
人によっては、血に飢えた残酷な者たちによる野蛮な儀式だという。
人によっては、危険な恐れない勇者たちによる偉大な芸術であるという。
スペイン闘牛、それは生と死をめぐる見世物だ。その舞台上では、動物への感傷が入る隙間はない。
著者は世界唯一の現役の日本人闘牛士。
牡牛の前に立っているときは、それほど怖さを感じない。やるべきことや考えるべきことが多くて、恐怖を味わう暇があまりないからだ。むしろ、恐怖は闘牛の始まる前と終わってしばらくしたころにやって来る。
この試合さえ無事にすんだら、もう二度と闘牛なんかやらないから、自分を護ってほしいと、何かに祈ってすがりつきたくなることもある。牡牛は怖い。大怪我をする危険はいつだってある。観客は、もっと怖い。そこにあるのは、自分自身とのたたかいだ。その背中、肩甲骨の間の小さなくぼみ、そこに剣を正しい角度で突き入れると、牡牛は死ぬ。
過去に日本人でプロ闘牛士の世界に足を踏み入れたのは2人だけ。著者は3人目になります。
闘牛士が優れた縁起で観客の心をつかみ、「真実の瞬間」と呼ばれる仕留めをうまく決めることができれば、褒賞として牡牛の耳一枚が与えられる。それ以上の価値がある闘牛であったと判断されたら、耳二枚、さらに尻尾まで闘牛士に贈られる。
闘牛士たちは一頭あたり20分、全6頭からなる2時間あまりの興行がつづく。闘牛につかわれる牡牛の血統は、乳牛や食用牛などの飼い慣らされたおとなしい動物ではない。自己防衛本能により、あらゆる外敵に対して攻撃を仕掛ける性質がもともと備わっている。自分以外に動く、あらゆる対象物へとためらうことなく攻撃を仕掛けるのが大きな特徴だ。
スペイン全土には1300をこえる闘牛牧場がある。そして闘牛場はスペイン全土に500もある。それは3つの格式にクラス分けされている。闘牛は年間2000回も開催されている。ただし、入場料は高い。田舎町で3~4000円もする。
牛は、たった一度しか闘牛に使えない。牛は闘牛士と10数分ほど対峙することによって、闘牛士本人とおとりであるカポテやムレタとの区別がつくようになり、2度目は迷わず闘牛士の体を攻撃する。だから、闘牛で使われた牡牛は、演技終了後に殺されて食肉となる。闘牛場内で直ちに解体されて、販売される。
牡牛の死に至るまでの過程こそが、もっとも重要視される。
面白い闘牛に出会うのは簡単なことではない。10回みて、1回か2回、面白い闘牛があれば良いほうだ。
闘牛術は、あくまでも勇気という前提条件の上に成り立っている。闘牛士には、自らがもつ本能的な恐怖を理性によって抑えることが求められている。だから、実際には、闘牛士と牡牛とのたたかいでは決してない。牡牛は、闘牛士のつくり出す作品の素材にすぎない。恐怖心に負けず果敢におのれの限界にまで挑む、自らの弱い心と常に争い続ける闘牛士の内部にこそある。つまり闘牛とは、自分自身との闘いなのだ。
試合に出される牡牛は、過去に一度も闘牛士と対峙していない牡牛から選ばれる。
闘牛術の習得の難しさは、生きた牛相手の練習機会を得ることが、きわめて難しい点にある。
なーるほど、そうなんですか。私はてっきり、あの牛たちは何回も挑戦しているとばかり思っていました。
闘牛士として挑戦するためには大変なお金がいります。そのため、著者はオレンジ農場で働いたり、日本に戻って東京の築地市場でアルバイトをしたりしていました。
スペイン闘牛界において、闘牛収入だけで生計を立てられる闘牛士は、スペイン全土でわずか数十人程度でしかない。
いやはや、とんでもない厳しい世界です。そんななかで、よくも日本人闘牛士として頭角をあらわしたものですね。すごいものです。日本人の青年(ここでは男性)もたいしたものではありませんか。この本を読むと、思わず力が入り、また、元気が出てきます。のうのさん、体に気をつけてがんばってくださいね。
(2012年3月刊。1400円+税)