弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年4月27日

人間、昭和天皇(上)

日本史

著者   高橋 紘 、 出版   講談社

 宮内記者会にいて、昭和天皇と出会って40年という記者の手になる本です。人間としての昭和天皇の実像がよく描かれていると思いました。
明治天皇は側室を6人置き、うち5人から15人の皇子皇女が生まれたが、成人したのは嘉仁親王(大正天皇)と4人の内親王のみ。ええーっ、3分の1の生存確率だったのです。十二分に保護されていたはずなのに、どうしてこんなに生存率が低かったのでしょうか・・・。
 皇子の名は「仁」がつき、皇女は「子」がつく。これは平安時代からの遺風である。幼少時代の裕仁親王について、神経質だと書かれている。それには、将来の天皇を事故のないように育てようとする神経質な大人の気持ちが伝わったからだろう。
 大正天皇は子煩悩で、また子どもたちも父親が大好きだった。「親子別居」が制度化されていたが、両親はそれを何とか崩そうとした。
 明治天皇は糖尿病を患っていた。酒が好きで運動が嫌いで、医者の言うことに耳を傾けなかった。日露戦争中の1904年に診断が下っていたが、病気が知れると将兵の士気にかかわるので、極秘事項とされた。
 皇太子嘉仁(大正天皇)は病弱だったので、側近は腫れものに触るようにして育てたので、身勝手でわがまま放題に育った。親王教育は5歳から始まったが、しばしば病に伏せたので系統だっていなかった。
 裕仁親王への歴史教育は皇国史観ではなく、批判的、客観的なものだった。裕仁の御学友は「陸海軍志望者に限る」ということだったが、実は、ご学友のうち軍人になったものは一人もいない。
 宮中ではトイレを「御東所」という。御東とは大便のこと。尿は「おじゃじゃ」。昭和天皇は生涯、便のチェックを受けていた。トイレはもちろん水洗だが、使用後は流さない。待医が見て、「拝診日記」に記録する。たとえば、「御東午前10時30分硬中」というように。
訪欧まで、裕仁親王はテーブルマナーも知らなかった。また、身体を動かすクセがあり、それは晩年まで直らなかった。
伝統墨守派の皇后からすれば、帰国後の裕仁の拳措は軽薄な外国かぶれとしか映らなかった。
20歳の青年皇太子(裕仁)には奔馬のような勢いがあった。その皇太子に対し手網を巧みにさばき、次代の天皇としてバランスよく育てあげるのが牧野伸顕の役目だった。
皇后は何事にもマイペースなところがあった。
 昭和天皇(裕仁)は、人の前で他人を貶(おとし)めたり、批判したり、まして怒ったりしたことがない人という天皇像は伝説でしかない。実のところ、「側近日誌」では何人もが批判の対象になっている。
 田中義一内閣の倒壊は、西園寺以下の宮中側近が天皇の政治関与を認めた結果だった。これ以降、昭和天皇は、「もの言わぬ人」になった。しかし、意に召さないときは、昭和天皇は態度や質問で抵抗することがあった。内閣が上奏するとき、同意のときは「そう」と言うが、不同意のときは黙っている。書類も不賛成のときは、手元に留めておいてしまう。
 昭和天皇は、生涯、朝・昼食に牛乳を飲んだ。戦後も御料牧場から皇居に数頭ずつ3ヵ月交替で送られてきた。牛の世話をする人が少なくとも130人ほどいる。
朕の軍隊は大元師の意向を無視して独断専行する。30歳の若き天皇の悩みは日ごとに増幅していった。陸軍の幹部は、自分たちの思うようにならないと、陛下はあまりに平和論者だとか神経質すぎるとか、かれこれ不平をもらす。結局、側近や元老が悪いからそうなると言いふらした。
 皇太子(平成天皇)は、満3歳3ヵ月で両親の膝元を離れた。昭和天皇は、せめて皇太子が学齢に達するまで手元に置きたいと願ったが、貞明皇后と西園寺が旧慣をがんとして割らなかった。昭和天皇は、自分は両親の愛情が感じられず悲しかったと思い出を語った。
 昭和天皇の悲しく寂しい生い立ちが明らかにされています。帝王って孤独な存在なのですね。
(2012年2月刊。2800円+税)

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