弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2012年2月16日
昭和天皇
日本史
著者 古川 隆久 、 出版 中公新書
昭和天皇の実像を探求しようとした意欲的な新書です。
昭和天皇の思い通りに軍部が動かない。動いてくれない軍部に対して昭和天皇は妥協を重ねるしかなかったというトーンが一貫しています。ということは、天皇を錦の御旗として、軍部が思い通りに日本を牛耳っていたことになります。そして、その軍部も内部を見れば、決して一枚岩ではありませんでした。強大な天皇がいて、その一言ですべてが決まっていたという見方は認識を改める必要があることを痛感しました。
といっても、戦争中40歳だった昭和天皇の一言は実に大きいものがありました。にもかかわらず、容易に貫徹しなかったというのですから、やはり世の中は単純には割り切れないということです。
少年時代の昭和天皇は、御学問所で歴史の講義を受けている。その時の講義に出てくる最多登場人物は明治天皇(36回)、2位は徳川家康(25回)、3位は仁徳天皇(24回)だった。さらに、アメリカのワシントン大統領やプロシアのフリードリヒ大王も好ましい指導者として繰り返し登場した。それは、天皇神格化とは無縁の内容だった。歴史の授業を担当したのは白鳥庫吉だった。神代については、あくまで神話であることを明示し、その言動が批判された天皇もいた。
語学はフランス語が教えられた。ヒロヒト皇太子のヨーロッパ外遊は日本で大きく報道され、一種のスター、アイドル化していた。
ヒロヒトは摂政時代、東京で発行される新聞全紙と大阪・台湾さらには地方新聞まで読んでいた。パリの新聞も取り寄せ、フランス語の勉強を兼ねて読んでいた。「改造」、「解放」、「中公公論」などの総合雑誌も読んでいた。とくにヨーロッパ旅行のあとは、幅広く読むようになった。
1928年6月4日の張作霖爆殺事件について、昭和天皇は田中義一首相を叱責した。この点に、著者は、ここで政治に介入しなければ、政党政治を擁護するはずの昭和天皇の政治責任が問われることになる事態になると思ったからだと解説しています。
「聖断」によって内閣が退陣したのは、これが初めてだった。その後、右翼は昭和天皇の側近を攻撃していたが、それは実質的には昭和天皇そのものを批判する狙いがあった。
満州事変が勃発するときにも、昭和天皇の権威は揺らいでおり、軍部を抑えることができなかった。西園寺は昭和天皇の威信低下を痛感していた。国際関係の緊張が軍部の発言力を高めたため、昭和天皇が国政を掌握するのはますます困難になっていった。
昭和天皇は美濃部達吉の天皇機関説を理解していた。しかし、対外的には国体論を認めたかたちになってしまった。その結果、昭和天皇は、国内政治に関する思想・政策に関して、もはや完全に孤立してしまった。
1936年に2.26事件が起きたとき、昭和天皇は断固鎮圧を決意した。決起グループは皇道派に昭和天皇は同情的であると聞いていて、実は批判的であることが知らされていなかった。だから、決起グループは、あくまで天皇の真意実現を妨げる諸勢力を粉砕することが目的だった。しかし、昭和天皇からすると、大局的見地から工業化路線を優先した自分の判断が暴力的に否定されたと受けとめた。
事件を即時鎮圧し、陸軍の下克上体質を改めよという意向を昭和天皇は示した。ところが、決起集団に同情的な陸軍は、なかなか鎮圧に動こうとしなかった。天皇と陸軍の意思が異なったとき、天皇の意思が「皇祖皇室の遺訓」に合致していないと陸軍が判断できるなら、最高指揮官たる現天皇の意向に反して問題はない。こういう考え方が陸軍の側にあった。このように、陸軍にとって天皇は絶対的な存在ではなかったわけですね。
2.26事件について、陸軍は天皇から叱責されたという不名誉な事実を組織ぐるみで隠蔽してした。
昭和天皇は、生物学を研究していたが、これについても、陸軍武官がこの非常時に生物学の研究なんてはなはだけしからんと批判していたので、昭和天皇は気兼ねしていた。
うへーっ、好きな歴史学ではなく生物学を逃げ場としていたのに、それすら軍人から批判されていたとは、昭和天皇も大変です。そんなこんなで、昭和天皇は一時期、大変やつれていたとのことです。
1938年7月、昭和天皇は次のように語った。
「元来、陸軍のやり方はけしからん・・・。中央の命令にはまったく服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてはあるまじきような卑怯な方法を用いるようなこともしばしばある。今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」
元老西園寺が老衰で政治的影響力を失いつつあった当時、昭和天皇はますます周囲から理解者を失いつつあった。
結果的に日中戦争の進展を容認し、太平洋戦争開始の決断を下したのは昭和天皇であった。終戦の「聖断」まで時間がかかったのは、少しでも有利な条件で戦争を終わらせたかったため。昭和天皇は、少しでも有利な条件で講和しようと、局地的戦闘の勝利を期待する一撃講和論者だった。
この本を読んでも、昭和天皇に戦争責任があることは間違いないところだと確信しました。
(2011年11月刊。1000円+税)