弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年2月10日

天子の奴隷

日本史

著者   ロイ・H・ホワイトクロス 、 出版   秀英書房

 第二次世界大戦中、シンガポールで日本軍の捕虜となり、ビルマのタイメン鉄道建設にに従事させられ、その後、日本へ送られて三池炭坑で働かされたオーストラリア兵の記録です。苛酷な収容所生活のなかでよくぞ生き残ったものだと、つい感嘆してしまいました。
 1942年2月、イギリス軍は改めてきた日本軍に降伏した。
 チャンギ収容所にオーストラリア軍だけで1万5000人が収容された。そこへ、山下奉文将軍が視察にやってきた。
捕虜を乗せた貨物船は、シンガポールに向けて航行中、アメリカ軍艦水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。
 ビルマに連行されて、そこでタイメン鉄道の建設作業に従事された。私はみていませんが、有名な映画になっていますよね。クワイ河マーチも有名です。
 著者は、ここで23歳の誕生日を迎えました。この若さがあったから生きのびることが出来たのです。
 収容所ではコレラが猛威をふるい、次々に死者が出ます。トイレに夜中27回もいったといいます。マラリアも大流行します。隊の死亡率は5割。労働隊320人のうち、200人が病気で寝ていた。毎日のように誰かが脳性マラリアの犠牲になった。
 110キロ・キャンプでは1日に35人の死者を出した。30キロ・病院キャンプでは総員1027人のうち、既に500人以上が死んだ。
 1943年12月。570人のうち295人が働けなかった。1週間後、病人は399人に増えた。著者のところでは43人のうち38人が重体で動けなかった。
 1945年1月、九州になんとか到着した。大牟田の捕虜収容所は九州最大で1500人を収容した。イギリス人、アメリカ人、オランダ人、オーストラリア人がいた。そのうち、オーストラリア人は4棟を占めた。
給料は皆勤すると月に7円が支給された。ただし、これから1日1回のミルク代として2円が差し引かれた。
日本軍は連合軍捕虜への赤十字物資を専断し、倉庫にため込んだ。ときどき、それを勝手に償品として出勤率最高の部隊に贈られた。
 1945年6月、石炭600トンを産出するように勧告され、それから酷使され続けた。
やがて大牟田も空襲されるようになった。空前の規模の空襲は8月9日のこと。
8月15日、突然に戦争が終わり、解放された。大牟田にあった捕虜収容所には、終戦時に、収容者が1737人いた。収容中に138人の捕虜が死亡。オーストラリア人も19人が死亡。その半数は肺炎による。
 大牟田は、大阪や尼ヶ崎と並んで原爆攻撃の2次目標に入っていた。
収容所の初代所長の由利敬は戦犯として第一号に死刑が執行され、二代目所長の福原勲は巣鴨で2番目に紋首刑が執行された。このほか、大牟田収容所関係では2人が死刑となっている。
 著者は1920年の生まれですから、終戦時は25歳でした。2009年に亡くなっていますので、幸いにも89歳まで生きておられたわけです。シドニー大学に学び、またシドニー大学で働いていました。
 大牟田の収容所に入られ、捕虜として三池炭坑で働かされて生きのびた貴重な体験記です。広大な収容所の建物(宿舎棟)がずらりと並ぶ様子は壮観としか言いようがありません。写真をみると海岸沿いにあったようです。
(2010年10月刊。2500円+税)

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