弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年1月26日

昭和天皇伝

日本史

著者   伊藤 之雄 、 出版   文芸春秋

 私にとって昭和天皇というのは、高校生までは「あっ、そう」としか言わない、よぼよぼの老人。大学生になってからは、日本を戦争に導いた最大の戦犯なのに、マッカーサーにこびへつらって戦犯になるのを免れた、こんなイメージでした。ですから、第二次大戦に至までの戦前、30代から40代という若さだったという感覚がまったくありませんでした。
 天皇の戦争責任について、日本では真正面から議論することがあまりに少ないと思います。戦後すぐには退位すべきではなかったかという意見も有力だったわけですが、今ではなんとなく昭和天皇は平和主義者であって、開戦は自分の意思ではなかったけれど、終戦のときは身を挺して戦争を終わらせたという雰囲気の論調です。だけど、昭和天皇が本当に根っからの平和主義者だったら、やはり日本が太平洋戦争に突入することはなかったと私は考えています。
 この本は、天皇が軍部との関係で絶えず緊張関係にあったことを明らかにしています。軍部は天皇を利用しようとしていたし、天皇は軍部が自分の言いなりにならないことから、妥協しつつ自己の意思をつらぬこうとしたようです。
 即位したばかりの若い昭和天皇は、陸軍将校とつながる平沼騏一郎などの右翼、倉富枢密院議長などの保守派からの不安の目で見られていた。
 張作霖爆殺事件のとき、昭和天皇は田中義一首相に異例の「問責」をしたが、このとき、若い天皇が右翼・保守派・軍部に対して威信を失ってしまい、軍部の統制を確立できない結果をもたらした。
ええっ、昭和天皇は若いから威信がなく、周囲から不安の目で見られていたのですね。つまりは、信用されていなかったということです。
 昭和天皇はフランス語は学んでいたが、英語は生涯自由に話せなかった。でしたら、イギリスを訪問したときは、フランス語で会話していたのでしょうか・・・?
 右翼は、天皇制を支持し、天皇親裁を唱えるが、彼らはあるべき天皇像を持っており、それと異なると、なかなか従おうとはしない。
つまり、右翼にとって、天皇は絶対的存在ではないのですね。自分に都合のよいときには、それを錦のみたてとしますが、気にくわなければ天皇を追放(代替わり)するのもいわないというわけです。
 昭和天皇は、若いころ歴史に非常に興味を持っていた。しかし、元老たちが「歴史は、かえってお悩みの種になる」と危惧し、次に好きな生物学を選ぶようにすすめた。なるほど、生物学は俗世間との結びつきがより少なくて、無難なものでしょうね。
 昭和天皇は、若いころは毎朝、何種類かの新聞に目を通していた。昭和天皇の言動について、宮中内部の有力者のなかに、細かいことに関わりすぎるという、その人格への不満や批判まで出てきた。
 田中義一首相が辞任することになって天皇批判が出てきた。このことは、自らの誠実さに対する国民の人気を信じ、はりきって政治との関わりを求めてきた若き昭和天皇にとって、大きなショックとなった。
満州事変のとき、軍部の独断専行について、昭和天皇は問責をあきらめた。このとき30歳の昭和天皇は、浮き足立ち、弱気になっていた。
5.15事件が起きたとき、31歳の天皇は何かをせずにはおれなかった。クーデターで首相が殺害され、陸軍が政党内閣の拒否を公言するという初めての異常事態に直面したのだった。
 昭和天皇は、一貫して美濃部達吉の天皇機関説を支持していた。しかし、公式に支持表明はしなかった。陸軍が機関説排撃に加わっているため、「公平な調停官」としてのイメージを傷つけないようにしたのだった。
 2.26事件(1936年)のとき、陸軍はクーデター部隊を容認する方向で動いていた。これに対して、昭和天皇は反乱部隊の鎮圧を督促した。ところが、速やかに鎮圧せよという天皇の意思は、10数時間ほども陸軍当局に無視された。昭和天皇は大元師の命に従わない陸軍への憤りと、大きなあせりと、恐怖を感じた。大元師としての自らの命令がさらに一日実行されないことに対し、陸軍への不信を強めていった。そして、3日後にようやく収拾することができた。これによって昭和天皇は、陸軍に対して強い不信感をもつとともに、陸軍統制の困難さを考えたはずだ。
 日米開戦が現実化することについて昭和天皇は大きな不安を抱き、ためらいがあった。もし天皇が開戦論を止めたなら、本当にクーデターが起きたかどうかは分からないが、2.26事件で陸軍が長時間、昭和天皇の命令を無視したことなどの経験から、昭和天皇がそう信じたことはありうる。昭和天皇は、米、英との開戦に最後まで躊躇していた。
昭和天皇は、太平洋戦争のころは40歳代の前半であり、身体にとくに悪いところはなかった。
 昭和天皇は1943年3月末の時点で戦争に勝てないと考えはじめた。ニューギニアで突破された1943年9月には勝利の見込みを失っていた。もっとも、昭和天皇は、完全に日本の敗北を確信していたのではなく、1945年5月に沖縄戦の敗戦が確定するまで、講和へのわずかな望みを抱いていたと思われる。そこで昭和天皇は、アメリカ軍に大打撃を与えて講和に持ち込むしかないと考えていた。
 1944年10月、神風特攻隊のことを知ると、昭和天皇は驚きつつも激励し、「もう一息だよ」と参謀総長を励ました。
 1945年4月からの沖縄戦でも、上陸したアメリカ軍の背後をついて日本軍が逆上陸するように参謀総長にすすめるなど、積極的な戦争指導は沖縄戦の敗北が確定するまで続いた。
 本土決戦を唱える陸軍主流をそれほど考慮することなく、昭和天皇が終戦に向けての行動を開始できたのは、ポツダム宣言が出され、広島への原爆投下とソ連参戦で、戦争終結に反発する陸軍の抵抗が弱まったからである。
 天皇が「聖断」を出しても、万一、軍部が受け入れなかったなら、「聖断」は効力がない。昭和天皇は、天皇制維持の確証があるという姿勢で日本を終戦に持っていこうとした。
 戦後、昭和天皇は沖縄についてアメリカが軍事占領することを希望すると表明した。これは象徴天皇として明らかに逸脱した行動であった。
 昭和天皇の実像を知るための貴重な労作だと思いました。560頁ほどもありましたが、読みやすく、なんとか読み通しました。
(2011年9月刊。2190円+税)

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