弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年11月 5日

藤原 道長

日本史(平安時代)

著者  朧谷  寿    、 出版   ミネルヴァ書房   

 平安貴族の栄華を極めた藤原道長が、実は、長く病気に苦しめられていたことを初めて知りました。決して順風満帆の生涯ではなかったのです。
 平安貴族の上層部においては、地位や生活が安定していたとは言えないようです。藤原道長は、嫡男の頼通が具平新王の娘である隆姫女王と結婚したとき、こう言った。
「男は妻がらなり。いとやむごとなきあたりに参るべきなめり」(男の価値は妻次第で決まるものだ。たいへん高貴な家に婿取られていくのがよいようだ)(『栄花物語』巻第八)
この言葉は、道長が天皇家との縁組により、力をつけていったことを象徴している。この世をば我が世とぞ思ふ、望月の欠けたることもなしと思へば。この歌をよんだとき、道長は病に苦しんでおり、実は、悲哀もないまぜになっている。道長は、病とたたかいながら頂点を極めた男だった。
院政の主である上皇と摂関とでは似て非なるものがある。上皇には選択の余地が少なく、自ずと決まってくる。摂関では、個人の力量とその結果とが必ずしも一致せず、他力本願的な要素に左右される面が強い。その第一は娘に恵まれること。第二に、その娘が成長したあかつきには天皇ないし将来天皇になりうる人に配すること。第三に、そこに皇子が誕生すること、である。外戚の地位を確立するためには、このように人力を超えた要素が介在する。これに成功を収めたのが道長だった。
道長は関白にはなっていない。道長の日記自筆本が14巻(計7年分)が現存し、これが最古の自筆日記を位置づけられる。この道長の日記を読むと、病む人・道長の像が浮かびあがってくる。
道長には、正式の妻が2人いた。その倫子も明子も、ともに源姓であり、藤原姓にはならない。当時は夫婦別姓の時代だった。ですから、いま夫婦別姓にしようという動きに対して右翼・保守側から、そんなのは日本古来の伝統を破壊するものだ、という意見が出ていますが、これは明らかな間違いなのです。
妻は墓も父親と同所でした。当時の女性は、生家と深い関係を維持し続けた。
有名な紫式部と道長との関係も取り沙汰されています。著者は二人の関係は親密だったとします。紫式部が道長と出会わなかったら、『源氏物語』は生まれなかった。この物語の内容形成にも道長は深く関わっている。
内覧と関白は違う。内覧は宣旨、関白は詔勅による任命という違いがある。内覧は、太政官と天皇との間を往復する文書のみで、関白はすべての文書に目を通すことができた。道長は内覧であり、1年ほど摂政になったが、関白にはなっていない。チャンスを待っての道長の動きは、機を見るに敏なるたとえそのもの。焦らず、着実にという道長の心情は生涯の重要な局面でよく見られる。
道長は出家してもなお、政治への介入になお健在ぶりを示した。
藤原道長、そして平安貴族の一生を改めて考えさせてくれる本です。

(2011年6月刊。3000円+税)

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