弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年10月30日

「蛮社の獄」のすべて

日本史(江戸)

著者   田中 弘之 、 出版   吉川弘文館

 天保10年(1839年)5月に起きた「蛮社の獄」はシーボルト事件とともに、いわゆる蘭学者弾圧事件として名高い。前年に起きたモリソン号来航事件をきっかけとして、江戸の蘭学者である高野長英は永牢の判決を受け、のちに脱獄中に死亡した。渡辺崋山は自決した。このほか、僧侶と町人たち4人が取調中に拷問を受けて死亡した。この「蛮社の獄」は事件当時は話題となったものの、その後はしばらく忘れられていて、45年後の明治17年に自由民権運動の論客によって本が書かれたあと話題となった。
 オランダ通詞の本木庄左衛門は、鎖国という排外的閉鎖政策を批判した。
 松平定信が百姓一揆とともに警戒した「おそるべき蛮夷」そして「外国、遠く候ても油断いたすまじきこと」という戒めは、天保の老中・水野忠邦、目付の鳥居耀蔵にも共通していたようだ。「蛮夷」に対する恐れと、「国民」に対する警戒が「蛮社の獄」で崋山が町民たちを「国外脱出」「異国人との応接」という無実の罪を着せてまで断罪するに至った。
 鳥居耀蔵は林家の三男であったところ旗本の名家である鳥居家に養子となって入り、目覚ましい出世を遂げた。目付に登用され、町奉行、勘定奉行という幕府の要職を歴任した。由緒ある旗本の鳥居家の当主としての誇りと使命感が、徳川幕府への異常なまでの忠誠心となって彼の行動を律したと考えられる。
 「蛮社の獄」の首謀者といわれる目付の鳥居耀蔵は天保の改革でも庶民の恨みを買ったため、当時からその悪人ぶりを語るエピソードは枚挙にいとまがないほどだった。鳥居耀蔵は「蛮社の獄」の6年後(1845年)、家禄を没収されたうえ、終身禁固として讃岐の丸亀藩に預けられ、幽因23年に及んだ。73歳で明治を迎えたあと、ようやく釈放された。
 渡辺崋山は鎖国の撤廃を求める開国論者であった。それを知らない江川太郎左衛門は親交を結んだ。この二人は同床異夢の関係にあった。
 崋山は、鎖国海防を批判し、強力な西洋艦隊の前では、わが国の海防強化は無意味だとほのめかしていた。「蛮社の獄」の「蛮社」とは「尚歯会」を指すが、この「尚歯会」それ自体は「蛮社の獄」で追及・弾圧はされていない。
 渡辺崋山について、鳥居耀蔵は、すでに前からスパイをつかって身辺を探っていた。
 北町奉行の大草安房守は、崋山を標的とした鳥居耀蔵の奸計を退けた。
 天保のころの江戸幕府のなか決して一枚岩というものではなかったことを知りました。
 そして、「蛮社の獄」というより「無人島の獄」と呼ぶべきだろうと著者は提唱しています。なるほどと思いました。
(2011年7月刊。3800円+税)

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