弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年8月19日

小牧・長久手の戦いの構造

日本史(戦国)

著者  藤田 達生    、 出版  岩田書院 

 天正12年(1584年)に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との間に勃発した小牧・長久手の戦いは、関が原の戦いにも比肩する「天下分け目の戦い」であった。うひゃあ、そうだったんですか・・・・。
 小牧・長久手の戦いでは、織田信長と徳川家康連合軍の陣営は、長宗我部元親、佐々成政、北条氏政、伊勢・紀伊の一揆勢力などと連携しつつ広大な秀吉包囲網を形成して10ヶ月間にわたって戦争を遂行した。
羽柴秀吉は本能寺の変の起こる直前は備中高松城(岡山市)を攻めていた。このとき、秀吉は毛利氏との講和を結び、急いで京都へ取って返した(中国大返し)。なぜ、毛利氏は秀吉からの講和の申し入れに即座に応じたのか。それは、重臣層が離反していて毛利氏は一丸となって戦える状況になく、弱体化していたからである。
 なーるほど、そういうことだったのですね。毛利氏は、長年に及ぶ戦闘で相当に消耗しておりこれ以上の危機は回避すべきであると対極的に判断していた。秀吉にしても今後の信長の西国政策を考慮すると、有力水軍を従え北九州も影響力の毛利氏を滅亡させてしまうのは、水力軍の劣る織田方とって得策ではないと判断したと思われる。
 小牧・長久手の戦いは、小牧・長くてエリアに限定された局地戦ではなく、広範囲にわたる大規模戦役であった。長久手の戦いによる敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいたことがうかがえる。
 信雄・家康は早期に上洛して秀吉を京都から追い払い、天下を取って京都に正当な中央政権を打ち立てることを目ざしていた。それに対して、秀吉の究極的な攻撃目標は家康の領国である三河・遠江への総攻撃であった。
小牧・長久手の戦いは、天正12年3月の羽柴秀吉と織田信雄の戦い、4月から6月にかけての秀吉と家康の戦い、それ以降11月までの和戦両方を見こした戦いという三段階に分けることができる。この全時期を通じて、両陣営とも周辺諸国からの攻撃による相手兵力の分散化を積極的に行っていた。全国の大名・土豪層が信雄・家康対秀吉という図式に組み込まれ、全国を二分する戦争へと拡大することとなった。
 長久手での戦いが徳川氏にとって、華々しい勝利であったことは事実である。しかし、結果的に人質(養子)を出すことになったのは、ここで勝利した信雄・家康方である。この戦いで両者の攻防が終わったのではない。
 確かに秀吉は尾張国では優勢だった。しかし、たとえば本願寺・長宗我部氏が敵方となって秀吉領国まで攻勢に出たとき、その攻勢先に兵力をさかねばならず、そう考えると予断を許さない状況であったと言える。つまり、これまでの戦いとは違って、この戦いは全国的な大規模戦争となったため、たとえ個別に優勢であっても戦争終結までいつ情勢が激変するか分からないことになったのである。
 家康は小牧合戦後、すばやく自覚的かつ一方的に人質を秀吉に出した。なぜか?信雄が戦列を離れた直後の局面で、単独で秀吉に対抗するのは困難だと判断したのが第一の理由だろう。
尾張国での信雄、家康と秀吉の直接退治は、兵力的な差があり、家康から先制する攻撃はなかった。対する秀吉も、大きな被害を伴う直接対決を避けながらの攻略が中心だった。その結果、両陣営は長期対峙することになった。
そのとき、この状態を打破すべく用いた戦術が、周辺諸国からの攻撃による相手兵力の分散化であった。これは両陣営の外交活動は、まさに目に見えない攻撃となった。超陣営とも、このような戦術を大々的に実施した結果、この戦いは尾張、美濃両国に集まった当事者だけでなく、東は関東から西は四国、中国まで、幅広い地域に直接的に影響を与えることになった。その結果、全国の大名・土豪層が信雄・家康対秀吉という図式に組み込まれ、さらには、この戦いのあと、天下を取った秀吉の政権それ自体にも組み込まれていくことになった。つまり、この戦いは、全国を二分する戦争へと拡大した結果、豊臣政権にとっての「天下分け目の戦い」へと発展していったのである。
小牧・長久手の戦いを学者の皆さんがこれほど本格的に研究しているなんて、驚いてしまいました。学者ってすごいですね。とりわけ、秀吉や家康が書いた書状を解析するところなんて、私からすると神業(かみわざ)に思えてなりません。
(2006年4月刊。8900円+税)

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