弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年8月18日

囁きと密告(上)

ロシア

著者    オーランドー・ファイジズ  、 出版   白水社

 人間とは社会的存在であることがよくよく分かる大作でした。スターリン時代のソ連で人々がどのように生きていたのか、なぜスターリンの暗黒政治があれほどまで大々的に、かつスターリンが死ぬまで続いたのか、ようやく謎が解けた気がしました。
 一番の心の深手は「クラーク」(富農)の出身という烙印を押されたことだった。出身階級によってすべてが決まる社会だった。高等教育を受ける権利も、まともな仕事につく機会を認められない「階級の敵」の烙印がつきまとった。テロルの波はスターリン支配の全期間を通じて国中に吹き荒れたが、その波をかぶれば、「階級の敵」はいつでも逮捕され、処刑される危うい身分だった。自分が社会的に劣等な存在であるという意識は心を離れることがなく、その意識は一種の恐怖心となった。
 数百万人がテロルの犠牲となったが、犠牲者の家族も同じように被害者だった。
 この四半世紀の間に確立された独裁体制はスターリンの死後も簡単には終わらなかった。スターリン支配の四半世紀にソヴィエト体制の抑圧の犠牲となった人々は控え目にみても2500万人を下らない。これは、当時のソ連の人口2億人の8分の1に相当する。
 スターリン支配が生み出し、現在まで残る影響の一つは、体制にひたすら順応する沈黙の大衆の存在である。多くの人々が過去を口にしない習慣を身につけた。
 1930年代、そして40年代には、日記を書くこと自体がきわめて危険な行為であり、危険を冒して私的な日記を書き残す人は、きわめて稀だった。
 1917年から55年の38年間に行われた政治犯の処刑の85%が1937年~38年の2年間に集中している。なぜか?
 もし、善良なスターリン主義者というものが存在しうるとしたら、シーモノフは間違いなくその一人だった。正直で誠実、礼儀正しく、上品で、思いやりにあふれ、魅力があり、人を喜ばせることが得意な人物だった。幼少期以来、ソヴィエト体制にどっぷりとはまり込んでいたシーモノフは、教育の結果としても、気質上の傾向からも、独裁体制の精神的な圧力と要求から自分を解放する手段を持たなかった。
 
 ソヴィエト・ロシアの国民生活は、ほぼ全面的に国家管理の下に組み込まれていたので、そのために必要な官僚機構は膨大な規模に膨れ上がった。1921年の官僚機構の規模は帝政時代の官僚組織の10倍以上となった。国家公務員の数は240万人に達したが、それは産業労働者の2倍以上だった。公務員こそがソヴィエト体制を支える主要な社会層だった。
 1920年代に盛んになった粛清システムの中で中心的な役割を果たしていたのが密告の奨励である。
 ボリシェビキによれば、子どもを社会的な存在として育てるための最大の障害物は、他でもない家族だった。
1920年代にはいると、多くの家庭で世代間の溝が深まるという現象が始まった。家庭の価値観と学校の方針との不一致は多くの家庭で摩擦を生んだ。家族から聞かされる話と学校で先生から教わることが矛盾するので、子どもたちは混乱した。
 ボリシェビキの上級幹部になればなるほど、賃金の高い有能な乳母を雇う傾向があった。そして、皮肉なことに、有能な乳母の多くは反動的な意見の持ち主だった。
 モスクワにいるユダヤ人は1914年に1万5000人で、1937年には25万人になった。これはロシア人に次いで2番目に多い人種集団であり、ユダヤ人はソ連邦の一大勢力だった。
 党を与えるプロレタリア階級の大半はレーニンの始めたネップに対する強硬な反対派だった。ネップが引き起こした物価上昇に耐えられなかったからである。だから、革命期と内戦記の階級闘争を再現しようとするスターリンの激しいレトリックは、党を支持するプロレタリアから幅広い支持を集めた。
 「クラーク」と呼ばれた農民の大半は、勤勉な篤農家であり、そのささやかな財産は家族全員の勤勉な労働の結果だった。「クラーク」が勤勉な篤農家であることは、農民の大半が認めていた。「クラーク」撲滅キャンペーンとは、「もっとも勤勉で、もっとも優秀な耕作者」をコルホーズから追放する運動に他ならなかった。「クラーク」の消滅はソ連邦の経済的破局を意味していた。それは、この国でもっとも勤勉な農民の労働倫理と農業技術を集団農場から奪い去り、最終的にはソヴィエト農業部門に末期的な衰退をもたらす結果となった。しかし、「クラーク」との戦争に踏み切ったスターリンには、経済問題への配慮はまったくなかった。少なくとも1000万人の「クラーク」が1929年から32年までの間に家を失い、故郷の村を追われた。そして、「クラーク」の子どもたちの多くが、成長後は熱烈なスターリン主義者となった。
 コルホーズに加入していた農民のうち、3人に1人が完全に農業を放棄し、その大半が工業地帯に逃げ込んで賃金労働者になった。1932年の前半には数百万人が国内を流浪していた。家族の崩壊が進み、農村部の若者たちは家を出て、都市を目ざした。
 スターリンが5ヶ年計画で結束した急激な成長率を確保するためには、強制労働が不可欠な要素だった。1920年代の労働収容所は基本的には刑務所であり、囚人たちが労働を強制されたのは、本来、囚人の食い扶持を囚人自身に稼がせるという趣旨からだった。
多くの家族が農業集団化と都市化という二重の圧力に屈服させられた。集団化こそ大変動の中で農民の生活にもっとも深い傷を残した。集団化は、ソヴィエト式の生活様式を受け入れるか否かをめぐって、父と子を争わせ、家族を分裂させたからである。
 「自己改造」は、ボリシェビキの間では、ごく普通の概念だった。旧世界から受け継いだプチブル根性や個人主義的な性癖を排除して自分を浄化し、より高度の人間、つまりソヴィエト人に成長するというボリシェビキの思想の中心的な位置を占めるのが他ならぬ「自己改造」だった。
不純分子への恐怖心は共産党指導部が抱えていた深刻な問題、つまり自信欠如の表れだった。幹部の自信欠如こそが粛清を繰り返すという党風をつくり出すことになる。
 シーモノフは、自分の継父が逮捕されたとき、それは誤解によるものだと思った。それは、親族を逮捕された人々の大半が示す反応と同じだった。
党内には表立ってスターリン路線に反対する勢力は存在しなかった。しかし、膨大な人的被害をともなって強行された1928~32年の粛清に対しては、水面下で異議と不満が鬱積していた。
 1932年11月、スターリンの妻ナジェージタが自殺する。スターリンは妻に自殺されて狂乱状態となり、周囲の人間全員に対して一層深い不信感を抱くようになった。
 1930年代が進むにつれて、多数の古参党員が、粛清され、代わって新規党員が入党したために、党の性格自体が次第に変化を見せはじめる。古参ボリシェビキの影響力は弱まり、その代わりに一般党員の間から新しい党官僚グループが台頭してきた。この新・管理職層こそがスターリン体制を支える主要な柱となる。平均7年程度の教育しか受けていない新エリート層の大部分は自分の頭で政治的問題を考えるだけの能力を持たなかった。彼らは、新聞発表の党声明を自分の意見とし、宣伝スローガンと政治的な決まり文句をオウムのように繰り返すだけだった。
 1934年12月に、レニングラードの党書記長キーロフの暗殺事件が起きたが、その直後、スターリンは、旧貴族とブルジョアジーの大量逮捕と流刑を命じた。
 NKVDは1930年代の半ばまでに情報提供者を組織して、膨大な密告ネットワークの構築を完成させていた。すでに、あらゆる工場、事務所、学校などに密告者が配置されていた。元来、相互監視方式はロシア国家の根幹をなす制度だった。広大すぎて警察組織だけでは管理できないロシアという国家は、ギリシェビキ体制になっても、帝政時代と同様に、国民の相互監視という統治スタイルに大きく依存せざるを得なかった。
 人々にストレスをもたらした最大の原因はプライバシーの欠如だった。トイレと浴室は軋轢と不安の絶えざる発生源だった。
大多数の市民は、自分たちが生きている間に共産主義のユートピアが実現することを期待しつつ、賢明の努力を重ねていた。1930年代のソヴィエト体制を支えていたのは、人々のこの期待だった。何百万人もの人々が、毎日の苦しい生活は共産主義社会を建設するために必要な犠牲であると信じ込まされていた。今日の辛い労働は、明日には報われるだろう。明日は、ソヴィエトの「素晴らしい生活」を全員が享受することになるだろう、と。
 1930年代を振り返って、当時は目先の問題よりも未来を考えて生きるという生活感覚が一般的だったと回想する人が少なくない。この楽観的な雰囲気に押し流されて、ソヴィエトの知識人たちはスターリン体制が進歩の名の下で犯していた恐るべき犯罪の実態を見ようとはしなかった。
 1937~38年の大テロルは、当時の情勢認識に対応してスターリン自身が全体を綿密に計画立案し、指揮監督した大作戦だった。迫り来る戦争へのスターリンの恐怖心と国際包囲網の脅威に対するスターリンの恐怖心は、1936年11月にベルリンと東京が反コミンテルン防共協定を締結したことで、さらに増大した。
 1937年の時点で、ソ連邦はヨーロッパではファシスト諸国と戦争、アジアでは日本との戦争の瀬戸際まで追い込まれているとスターリンは確信していた。
 1936年にスペイン共和国政府が喫した軍事的敗北の原因は、共産主義者、トロツキスト、アナーキストなど、さまざまな左翼グループが分派行動に走り、内部抗争を繰り返したからだとスターリンは見てとっていた。したがって、ソ連邦では政治的抑圧が緊急に必要であるというのがスターリンの得た教訓だった。単に「第5列」「ファシストのスパイ」「敵性分子」などを粉砕するだけでなく、すべての潜在的反対派を対ファシスト戦争が勃発する前に殲滅しておく必要があるとスターリンは考えた。
 1937年6月のスターリンの発言によると、逮捕された人々の中に本物の敵が5%もふくまれていれば逮捕作戦は大成功と言うべきだとされた。すなわち、大テロルは迫り来る戦争に備えるための必要不可欠の準備作戦だった。
人々は逮捕される順番が来るのを待っていた。NKVDがドアをノックしたらすぐに対応できるように必要な品物をカバンに詰めてベッドの横において寝る人が少なくなかった。逮捕される側の人々が示したこのような受動的な態度は、大テロルの時代の人々のもっとも驚くべき特徴のひとつである。
 逮捕されるという運命に直面してとりわけ受動的だったのは、ボリシェビキの幹部たちだった。彼らは、あまりにも深く党のイデオロギーに浸りきっていたので、抵抗しようとする意思よりも党に対して自分の無実を証明したいという要求のほうがはるかに強かった。
 ずしりと重たく、画期的な分析にみちた大変な労作です。
(2011年5月刊。4600円+税)

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