弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年8月16日

活劇・日本共産党

日本史

著者   朝倉 喬司   、  出版  毎日新聞社  

 戦前の日本の現実の一端を深く知ることができる本でした。戦前って、激しい社会だったんだなあと思わず慨嘆してしまいました。
 三人の高名な共産党員が登場します。うち二人は、戦後は財界そして右翼の親玉として活躍しました。そんな人って、意外に多いのですよね。残る一人の徳田球一は弁護士ですが、法廷で活躍したというより活動家だったようです。
 初めに登場するのは南喜一です。大正12年9月1日の関東大震災が起きたとき、まだ30歳をこしたばかりの若さで、すでに70人以上の従業員を雇う工場の主だったのです。
ところが、亀戸警察に実弟が引っぱられていき、そこで陸軍の兵士らに銃剣で刺殺されたのでした。それを知って、南喜一は工場を売り飛ばして、大金をもって運動に飛び込んでいった。もちろん、弟の仇を取るためである。うひゃあ、なんとすごい兄弟愛でしょうか・・・・。
亀戸の虐殺は、権力側の意図とは逆の結果を招いた。「こんなひどいことが世の中にあっていいのか?」という義憤にかられ、かねて定評のあった南葛の労働運動に飛び込む若者が激増したのである。うむむ、なるほど、これこそ階級闘争の弁証法というものなんですね。
 南喜一は、その後、浜松の「日本楽器争議」に関わります。ダイナマイトを会社の役員宅に投げ込んだり、決死隊が組織されたり、さながらヤクザの出入りのような状況です。
 1925年(大正14年)9月、共産党の合法機関紙「無産者新聞」は読みやすくもないのに、売上が一気に1万部を突破した。そして、南喜一は1926年に起きた文京区の共同印刷の大ストライキにも関わります。
 次の徳田球一は、ソ連に福本和夫と一緒に渡りました。そこで、ブハーリンの主宰するソ連共産党の権威のもと、福本イズムは完敗させられたのでした。すると、徳田球一も手のひらを返したように福本を冷たくあしらうようになります。
 徳田は、モスクワに着いて、どうも形勢がおもわしくないと感ずると、ガラリと態度を一変した。この余にもあからさまな豹変ぶりは、一堂のひんしゅくを買い、本人にとっても大変な逆効果となり、たちまち党委員長を解任された。
このころって、ソ連とコミンテルンの影響が今日では想像できないほど強大だったのですね・・・・。
徳田球一は沖縄に生まれ育ち、大正年に、貯金局に勤めながら、夜間の日大法律学科に通った。大正10年に、弁護士資格を取得した。苦学3年である。うむむ、実は私の父も大川から上京して通信省に勤めながら法政大学の夜間部に通い、苦学して昼間部に移ったあと、合格はできませんでしたけれど、司法官試験を受験したのでした。
三人目の田中清玄は、戦後右翼の親玉の一人でもあります。戦前の田中清玄は共産党の指導者にまでなりましたが、その指揮下にわずか2ヶ月足らずのことですが、あの有目な太宰治(津島)がいました。武装共産党というのを始めた田中清玄たちは間もなく逮捕されます。要するに、共産党・アカは怖いんだというイメージを定着させることが出来たら、その役目は終わったのでした。
著者の死によって未完となった本ですが、よく調べていると感嘆させられました。

(2011年2月刊。3000円+税)

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