弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年8月 3日

天皇と天下人

日本史

著者   藤井 譲治   、 出版   講談社

 信長、秀吉そして家康が天下の実権を握っていたとき、天皇はどうしていたのか、日本の天皇制を考えるうえで知りたいところです。
 正親町(おおぎまち)天皇は、元禄8年(1565年)、キリシタン禁令を発した、豊臣秀吉のキリシタン禁令より22年も前のこと。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸(1549年)し、ヴィレラが元禄3年(1560年)に足利義輝から布教の許可を得たあとのことである。
 信長が京都にのぼり、永禄12年(1569年)にフロイスが京都での布教の許可を得た。ところが、正親町天皇は、同月に再び宣教師追放を命じる綸旨(りんじ)を出した。しかし、フロイスたちが信長に泣きつくと、「気にすることはない」との言質を得て、天正3年(1575年)に信長の援助を得て教会を京都に建設した。強制力を持たない正親町天皇のキリシタン追放例は将軍義昭や実権を握る信長から無視されて終わった。
 信長は朝廷から副将軍にすると持ちかけられても無視した。副将軍になることで将軍義昭の下位に位置づけられることを嫌ったのである。
足利将軍義昭は正親町天皇に従順ではなく、両者の調停者は信長であり、かつ、信長も言を弄して正親町天皇の意向どおりには動かない。
 年号を決めるとき、正親町天皇は信長に案を示し、信長が「天正」を選び、それを天皇が追認した。年号も天皇は自由に決められなかったわけです。
信長は内大臣そして右大臣に昇進した。ところが、信長は天正6年(1578年)に、突然、右大臣、右大将の官を辞した信長は、嫡男の信忠に譲与したがっていたのを、正親町天皇がこれを無視した。信長は信忠に朝廷での地位を譲ることによって、自らはさらにその上位に立つことを目論んだのである。しかし、それを正親町天皇は封殺した。
 信長は、朝廷に接近したときもふくめて、正式の参内を一度もしなかった。信長は、予が国王であり、内裏(天皇)であると語った。信長は、自らを天皇の上位に置いていた可能性が十分にある。
本能寺の変のあと実権を握った秀吉は即位費用として1万貫を朝廷に拠出することを約し、官位が授与された。
 天正13年(1585年)には、秀吉は正二位内大臣となった。さらには関白に就任した。秀吉は年に一度は朝廷に参内している。
 御陽成天皇は、秀吉の朝鮮渡海を思いとどまらせ、天皇の北京移徒をやんわり拒否した。
 秀吉は明皇帝からの日本国王に冊封することは受けいれたものの、その怒りの矛先を朝鮮に向け、朝鮮に「礼」がないことを責めて、朝鮮体節には会おうともしなかった。
日本軍が朝鮮半島において劣勢に追い込まれていくなかで、秀吉の関心は徐々に朝鮮から薄れていき、代わって自らの政権の将来へと移っていった。
秀吉は神号を新八幡か正八幡にすることを望んだが、結果は秀吉の思い通りにはならず、豊田大明神に決まった。
 家康は右大臣を辞し、秀吉以来の現職の官から退いた。秀忠が将軍となっても、秀忠が家康にとってかわって「天下人」となったのではなく、依然として天下人は家康だった。
 家康・秀忠は、禁中ならびに公家中諸法度を定めた。史上はじめて天皇の行動を規制したものである。その第一条で、天皇が政治に介入することを間接ながら否定している。  
家康の神号については、明神とするか権現とするか争われたが、幕府の意向によって権現と定められた。このように、天皇の役割は、将軍優位で決められたものを調えるだけに過ぎなかった。天皇が、それなりの権威は認められつつ、当時もほとんどお飾りだったことがよく分かる本です。
(2011年5月刊。2600円+税)

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