弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2011年8月31日
トランクの中の日本
日本史
著者 ジョー・オダネル 、 出版 小学館
日本の敗戦直後、進駐してきたアメリカ軍の若き従軍カメラマン(23歳・軍曹)が日本各地を撮影してまわりました。そのとき、彼は自分個人のカメラでも撮影していて、それをトランクに入れてアメリカに持ち帰ったのでした。7ヵ月間にとった300枚の写真のネガです。そのトランクを45年後に開けて公表したのでした。
アメリカ軍が日本に上陸する直前の写真から始まります。佐世保の高いビルの屋上にのぼり、廃墟となった佐世保市内にカメラを向けている状況写真もあります。まさに、今回の東日本大震災と同じ、まるで何もありません。ところどころにコンクリートビルの残骸があるだけです。
武装解除された日本軍の将兵が馬車に荷物を積み、歩いて市内を行進していきます。
子どもたちが、チョコレート欲しさにアメリカ兵に群がっています。
死体を焼く悪臭のため、鼻を着物のそでで押さえながら若い娘たちが歩いて通り過ぎていきます。
アメリカ兵の宿舎となった旅館で風呂に入り、食事をし、仲居さんたちと談笑している状況もあります。
福岡の町並みは、さすがに木造ばかり、パン屋の前には長い行列ができています。
驚くべきことに小さな小学校で運動会があっています。障害物競走の様子がうつっています。子どもたちは皆、元気いっぱい。手伝いをして働いている子どもたちもいます。
広島にも空から行って写真をとりました。佐世保以上に何もない光景が遠くまで広がり続いています。
長崎の爆心地にも立ちました。瓦礫の山です。そして瓦礫の中に人骨が散らばっています。被曝者は、顔が真っ黒、着ている衣服もボロボロ。背中にひどい火傷を負った少年の写真もあります。
同時に、小学校では既に授業が始まっています。ところが、机の上には、まだ教科書がありません。
死んだ弟を背負って焼場に来た少年の健気な様子の写真には心を打たれます。
カメラ片手に広島・長崎をさまよって放射能を浴びたことで、後年、若者は体調をくずしてしまいました。放射能は、随分たってから影響を及ぼすものなのですね。
1995年夏にスミソニアン博物館で展示が企画されたものの、アメリカ国内の在郷軍人などの反対で中止に追い込まれてしまいました。この大判の写真集はそこで展示されるはずの写真からなっています。少し高価(2500円)な写真集ですが、ぜひ手にとってじっくり眺めてください。つくづく戦争は嫌だという気になります。
(2008年8月刊。2500円+税)
2011年8月30日
囁きと密告(下)
ロシア
著者 オーランド・ファイジズ 、 出版 白水社
スターリンの大テロルの直接の犠牲者は大人たちですが、当然のことながら子どもたちも犠牲となりました。大量の親なし子が生まれたのです。
大テロルは家庭を押しつぶし、家族をバラバラに引き離したが、生き残りのメンバーを再び結び合わせる努力の中心には、いつも祖母たちの働きがあった。ロシアのおばあちゃんも、たくましいのです。当局を前にして一歩も引かずに孫たちを守り通していったのでした。
両親の無実を一瞬たりとも疑ったことはなかった。両親への信頼を維持することができたのは祖母のおかげだった。祖母はソヴィエト権力の本質を理解しており、何を言われても負けなかった。革命が起こったとき、祖母は既に40歳に近かったからだ。
多くの場合、親が逮捕されると、残された子どもは一夜にして大人になった。
両親が逮捕されたとき、頼る先をもたない子どもの数は数百万人を下らなかった。多くは孤児院に収容されたが、中には浮浪児となって街をうろつく子どももいた。少年ギャング団が出来た。
孤児たちは、自分たちが世界で一番幸福な孤児だと思い込んでいた。なぜなら、すべての子どもを愛する国父スターリンに率いられる国家が孤児たちにすべてを与えてくれるからだ。なんという皮肉でしょうか・・・・。
10代後半の年齢を迎えた「人民の敵」の子供たちにとって、「ソヴィエト市民」としての社会復帰を象徴する最大の出来事はコムソモール(青年共産同盟)への加盟だった。流刑地や特殊居住地で育った「クラーク」の子どもたちにとって、出征の汚点を克服する唯一の道は、ソヴィエト社会の価値観を全面的に受け入れることだった。
1938年終わりころから政策が変更された。「クラーク」の子どもたちの「鍛え直し」と社会復帰が強調され始めた。
1939年8月、スターリンは英仏両国への期待を維持できなくなった。スターリンは欧州戦争が勃発することを確信していたが、同時に現状ではナチス・ドイツに抵抗する軍事力がソ連にないことも理解していた。とくにかなりの兵力を満州国境に配置しなければならないという条件が対独戦争を困難にしていた。そこで、スターリンはヒトラーと協定を結ぶ以外に選択肢はないという結論に達した。独ソ不可侵条約を結んだのは、長期的な計算からではなく、目の前に発生していた事態への対応策だった。
独ソ戦が始まったときのソ連の壊滅的敗北は、スターリンが情勢の把握に失敗して防衛体制の準備を怠ったというだけでなく、それまでのスターリンのテロル支配が恐怖と不信を生み、その結果、国家の有機的な防衛能力が事実上の機能不全に陥っていたことによる。
赤軍の指導部に対して発動されたテロルは指揮官たちの権威を失墜させ、彼らを萎縮させていた。指揮官たちは処罰されることを恐れ、彼らの一挙手一投足を監視しているコッミサールなどの政治将校たちによって告発されることをひたすら避けようとしていた。そのような指揮官が適切な軍事的判断を下し、主導権を発揮することは不可能だった。指揮官たちは、いきおい消極的になり、上部からの命令を待つだけになった。しかし、命令は常に遅きに失し、現場の軍事情勢に能動的に対処するには、何の役にも立たなかった。
1942年9月、スターリングラードの戦いのとき、優勢なドイツ軍に圧倒されながらも、廃墟となった街路とビルを守ろうとして必死に戦うソヴィエト軍兵士の異常なほど高い士気は記者を驚かせた。厳しい軍規によっても、イデオロギーによっても説明のつかないこの戦意こそがスターリングラード戦の帰趨を左右し、ひいては戦争全体の命運を決した。
テロルより効果的だったのは、ソヴィエト国民の愛国的心情に訴えるというやり方だった。兵士の圧倒的多数は農民の息子だった。彼らには農村を破壊したスターリンや共産党に対する忠誠心はなかった。彼らが愛していたのは、家族と故郷であり、イメージのなかの「祖国」だった。政府は国民の愛国的心情に訴えかけようとして、そのプロパガンダから、次第にソヴィエト的なシンボルを引っ込め、古い「母なるロシア」のイメージを全面に押し出した。
国民が自己犠牲の精神に慣れ親しんでいたことこそがソ連邦の最大の武器だった。とりわけ1941年夏の開戦から1年後、ソ連が全面的な敗北をこうむりつつもなんとかして生き延びようと悪戦苦闘していた時期に、国民の自己犠牲の精神は決定的に重要な役割を果たした。軍事指導部の度重なる失策と政府機能のほぼ全面的な麻痺状態を埋め合わせたのは、膨大な数の兵士と一般市民の自己犠牲だった。自己犠牲の精神がなかでも強かったのは、1910年代から20年代前半にかけて生まれた人々だった。つまり、国家のために自己を捨てたソヴィエトの英雄たちの神話を常に聞かされて育った世代だった。
兵士がその開戦能力を最大限に発揮するのは、何のために戦うのかを知っているときであり、自分自身の運命と戦争の目標を一体のものとして意識するときである。
1943年からソヴィエト軍に勝利をもたらした要因は、兵士の勇敢さと粘り強い抵抗力に加えて、赤軍内部の指揮系統が変更されたことも重要だった。スターリンは開戦後1年間のみじめな敗北を経験して、軍事指導権に対する党の介入が(最高司令官としての自分自身をふくめて)戦闘能力を引き下げていること、軍人たちを信頼して一任するほうが有効であることを認めざるをえなくなった。
1942年8月、スターリンはジューコフ将軍を最高司令官代理に任命して、自分は軍事指導から一歩引き下がった。戦略計画と戦争努力遂行の責任は、次第に政治家の手から参謀本部の軍事評議会の手に移り、主導権を握った参謀本部は党指導部に情報を伝えるだけとなった。コミッサールらの政治将校が軍事的な意思決定に関与する機会は大幅に減少した。党による監視と管理から解放された軍事司令部は新たな自信を獲得した。自立性が勇気ある発意につながり、安定した軍事専門家集団を生み出した。
戦時経済の発展には、グラーグ管理下の収容所の労働力が大きく貢献した。ソヴィエト軍の全弾薬の15%、軍服の大部分、軍の糧食のかなりの部分が労働収容所の囚人労働によって生産されていた。収容者人数は1941年から43年にかけて減少した。50万人の囚人が「罪をあがなうために」前線に送られた。
戦争中、党は党員数でこそ倍増したが、戦前の党の特徴だった自発的精神は大幅に失われた。党の中核を形成していたボリシェビキの多くが1941~42年に戦場で消えていった。1945年になると、600万人の党員の半数以上が軍人であり、3分の2は戦争中に入党した党員だった。党の気風は1930年代とは大きく変わった。
テロルによって労働収容所に入っていた母親と、孤児院育ちの子どもが再会しても、それまでの人生で受けた傷が深すぎて、互いに心を開くことができず、親密な関係になれなかった。
戦後スターリンは、すばやく手を打って、政治改革を求めるあらゆる動きを抑制した。終戦直後の最初の粛清の標的としてスターリンが選んだのは、赤軍幹部と党指導部だった。まず、赤軍幹部が狙われた。ジューコフ元帥は改革を求める国民の希望の星だった。そのジューコフは降格され、左遷された。レニングラードの指導者たちも狙われた。
終戦と同時に、国家が無給で利用できる労働力は膨大な規模に増大した。既に存在していたグラーグ管理下の囚人と労働軍に徴用された労働者に加えて、200万人のドイツ軍捕虜とその他の枢軸国軍の捕虜100万人が手に入った。戦後のソ連経済はグラーグ経済と通常の民生経済とが分かち難くからみあう形で発展した。
ソヴィエト・ロシアで生き残るためには、どの 時代であれ、自己を隠して偽装する技術が必要だった。しかし、仮面をかぶって自己を偽る技術が完成の域に達したのは戦後期になってからだった。人々は人前での演技があまりにもうまくなったので、ついには自分が演技をしているのか、それとも、それが本来の自分の姿なのかの区別がつかなくなる有り様だった。ソヴィエト国民の典型的な心理状態は自己分裂だった。
新しいソヴィエト官僚は、必ずしも党と党の理想の信奉者ではなかった。ただし、党の命令に忠実に従うという意味で従順な出世主義者だったことは間違いない。スターリン体制は大小の権力者を通じて機能していた。
スターリンの死が何を意味するにせよ、大多数のソ連国民にとって、それは恐怖からの解放ではなかった。むしろ、恐怖が強まった。次に何が起きるのか分からないという恐怖だった。
囚人たちがスターリンの牢獄から帰還しはじめると、彼らを収容所に送り込んだ側の人々は、当然ながら、恐怖におののいた。
自分たちの運命を左右する力が何であるかを知らないソヴィエト国民の大多数は、依然として混乱したまま、自制心を発揮し、過去についての沈黙を維持していた。
この本で描かれていることの多くは、決してスターリン体制下のソ連だけのものではないと思いながら最後まで興味深く一心に読みふけりました。おかげで、上下2巻の紹介がこんなにも長くなりました。それほど、刺激的な本なのです。この労作を書き、また翻訳した人たちに心から拍手を送ります。
(2011年5月刊。4600円+税)
2011年8月29日
白土三平伝-カムイ伝の真実
社会
著者 毛利 甚八 、 出版 小学館
私が大学に入ったのは1967年のことですから、もう40年以上も前のことになります。6人部屋の学生寮での生活は天国のように快適でした。完全な自治寮で、寮費は月1000円、三度の食事付きです。夜になると、夕食の残りものを残食(ざんしょく)と称して寮委員会がマイク放送して売り出します。すると、育ち盛り、食べ盛りの寮生が走り出し、またたく間に長蛇の行列が出来あがりました。私にとってお昼に百円定食を食べるのはちょっとしたぜいたくでした。なにしろ寮定食なら60円で食べられたのです。ただ、一般学生用の学生会館のランチ定食は120円くらいのがありました。私には高値の花でした(たまには食べましたけど・・・)。
その寮の部屋には毎月の『ガロ』があり、白土三平の「カムイ伝」が連載されていたのです。目を見張るような衝撃的な絵とストーリー展開でした。文字からのイメージしかなかった百姓一揆が視覚的に生き生きと描かれていて、なーるほど、そうだったのか・・・と、頭をひねってしまいました。
当時、大学生だった人のかなりは「カムイ伝」を一度は読んだことがあるのではないでしょうか。それだけ話題性がありました。それは、「少年サンデー」や「少年マガジン」といった子ども向けとは違った、大人向けのマンガであり、ストーリー展開でした。
この本は、『家栽の人』の原作者が、白土三平をずっとずっとインタビューして、本人の了解をもとに刊行したものです。白土三平の生い立ち、生活の様子、マンガ作成の過程が実に細かく紹介されています。
白土三平、本名は岡本登。その父親は戦前プロレタリア画家として活躍し、特高から拷問も受けた経歴の持ち主です。だから、戦前・戦後を通じて白土三平は貧窮生活を強いられています。そして、その中で山野をたくましく生き抜いてきた情景がマンガに結実しているのです。
それにしても「カムイ伝」は長大なマンガ絵巻です。1964年(昭和39年)に始まり、2000年まで37年がかりで描き継がれたのは38巻。そして、いまなお未完というのです。その息の長さには恐れいります。
白土三平は1932年(昭和7年)の生まれ、今、79歳。まだまだ大いに活躍してほしいマンガ家です。
(2011年7月刊。1500円+税)
2011年8月28日
トキワ荘、最後の住人の記録
社会
著者 山内 ジョージ 、 出版 東京書籍
楽しい本です。私にとっては、イヤミだの、シェーだの、思い出深いマンガがつくられた舞台裏の話が満載なので、面白く読みふけってしまいました。
トキワ荘というと手塚治虫を連想しますが、著者は少し後の世代なので、残念ながら住人としては手塚治虫は登場してきません。トキワ荘の住人として登場してくるのは、石ノ森章太郎と赤塚不二夫です。
著者はトキワ荘の住人としてアシスタント稼業にいそしんでいました。惜しいことにトキワ荘は今はありません。目白駅近くの目白通りにあったオンボロアパートにそうそうたるマンガ家たちが、みんな卵だったころ、ひしめきあって住んでいたのです。一度は現地に行ってみたいなと思います。
著者が宮城県から上京したのは昭和33年の夏のことです。中学校のときの修学旅行以来2度目に東京でした。トキワ荘を一路目ざし、高校の先輩である石ノ森章太郎をたずねていったのです。
著者のマンガもなかなかのもので、私なんかうまいと思いますが、やはり世の中には上には上がいるものです。石ノ森章太郎にはとてもかないません。アシスタントは辛いものです。3日間で合計6時間しか眠れず、仕事が終わったらふらふらしていた。こんなんじゃ長生きはできないだろうなあとしみじみ思った。漫画家はタフじゃなければつとまらない。と言いつつ、著者は70歳の今も元気なのです。
赤塚不二夫のアシスタントをしていたとき、原稿が遅れに遅れ、とうとう印刷所に連れていかれた赤塚さんについていった。印刷現場に隣接する校正室で執筆し、描き上げるそばから一枚ずつ印刷現場に持っていく。赤塚さんを手伝い、仕上げの消しゴムを当てる。その消しゴムを当てないうちに、時間がないと言って持っていかれた・・・。それにしても漫画家というのは、まことに心臓によろしくないと、つくづく身にしみて思った。というのです。弁護士の仕事でも、そんなことがありそうな状況です。はい、時間に追われ、時間との戦いになることは弁護士だってあるのですよ・・・。
シェーという振り付けが流行したのは昭和40年。ゴジラもシェーをする。長嶋茂雄もシェーをし、果ては昭和41年に来日したビートルズまでシェーをしたという。本当かいな・・・?
九州には、東日本漫画研究会九州支部ができたというのです。なんと変てこな名称でしょうか。松本零士や内山安二(私は知りません)が会員だったとのこと。
昔なつかしいマンガの舞台裏をひととき味わい、楽しみました。
(2011年6月刊。1600円+税)
2011年8月27日
僕は、そして僕たちはどう生きるか
社会
著者 梨木 香歩 、 出版 理論社
不思議な小説です。
子ども向けの本のようだと思いながら読みすすめていくと、突然ゴチック体で場違いのような状況が描かれています。その場面だけはどうしても子ども向けではありません。そして、それに関わる人物はとうとう最後まで登場してこないのです。
自然と人間の関わりがいろんな角度から焦点をあてて考察されています。主人公の一人は長らく登校拒否で引きこもりでした。
兵役を忌避して山中にこもっていたという老人も登場します。その代わり、山の中のことには滅法詳しいのです。
私も自然に近い環境の中で生活しています。ホタルは5分も歩いていけば見れます。ところが自然に近いということは、大変な面もあります。昨日も、明け方になって頭上のところで、小鳥が飛び立つ音のあとガタガタ音がしました。少し前に見た光景から推測するに、ヘビがスズメの巣を襲ったのではないかと思われます。2階までヘビがどうやって柱をのぼってくるのか不思議でなりません。しかし、その不思議さは現実のものなのです。そして、虫によく刺されます。ヤモリも部屋の隅をチョロチョロしますし、クモも大小さまざま畳の上を闊歩するのは日常茶飯事です。ですから、虫さされ、かゆみ止めの薬はすぐ手の届くところに置いてあります。ヘビもマムシだったら、咬まれたらすぐに病院に駆け込むしかありません。身近に家人がいなくて、ケータイもなかったら、どうしましょう。手遅れにはなりたくありませんが・・・。
ずっと一つのことを考えてたんだ。僕は、そして僕たちは、どう生きるかについて。
主人公のセリフです。なかなか口に出しては言えない言葉です。
僕も集団から、群れから離れて考える必要があった。しみじみそう思って決行したのは、しばらく経ってからだった。それが、学校に行かなくなった理由なんて、誰も分からなかったと思う。誰もまた、分かりたくなかっただろうし・・・。
人間の心の微妙な動きをよく描いていると思いました。
(2011年6月刊。1600円+税)
2011年8月26日
大泥棒
社会
著者 清永 賢二 、 出版 東洋経済新報社
窃盗犯で捕まった人物が刑務所のなかで6年間に書きためた膨大な日記を解読し、ドロボーの心理と技術を分析・公表している珍しい本です。春日井市の住宅街で、このドロボー氏に実験してもらった結果が紹介されています。きわめて有能なドロボーだったことが立証されました。防犯ブザーなんか、てんで役に立たなかったのです。
ドロボーの狙うのは、お金持ちかどうかではない。銀行に大金が預けてあるのではダメで、現金を家においているような家が狙い目。周囲から取り残されたような家は、家を建て替えようとし、そのためにお金を貯めている。すると、ここはドロボーの狙うターゲットになりえない。ええっ、そうなんですか・・・・。
外からのぞいて、干し物と風呂。これがどう使われているかで、その家の人間関係がほとんど分かる。プロのドロボーは、きわめて自己抑制的(世俗的禁欲主義)であると同時に、一瞬のうちにがらりと豹変し、狂気に支えられた衝動的行動に走るという分裂的傾向にある。
プロのドロボーは普段から人目につかないことを基本的な生活態度とし、何事につけ過度に抑制的であることをモットーとして生活している。しかし、その抑えた分だけ、自分の日常生活圏とは異なる「我を忘れても安全な別の世界」を得ようとする。たとえば、それは競馬であったり、パチンコであったりする。
そして、非常に執念深く、非常に妄想的である。勝手な思い込みで自分に都合のよい物語をつむぎ出していく才に長けている。ふむふむ、なるほど、なるほどと思いました。
5歳までに親がきちんと子どもに向きあって、ときには温かく、時には世の中の常識を厳しく体得させることが大切。つまり、男親が男の子の子育てに関わっているか否かである。ダメな父親よりも、真剣に生きる母親は父親以上の意味をもつ。
家庭で子どもをワルにするための原理が紹介されています。ほとんど同感・共感できる内容です。
〇子どもがどんなに立派にしても、「それで何なんだ・・・・」とけなす。
〇小さな子どもを抱きしめてあげる必要はない。
〇何かを立派にやりとげても、「それで何なのだ」とケナせ。それが親だ。
〇鉄拳こそが子ども教育の基本だ。遠慮なく見境なく殴れ。それが親だ。
〇子どもが警察に補導されても、いじめにあっても一切かまうな。
とんでもないことのオンパレードです。
ドロボー御殿なるものが現存するそうです。写真をみると、窓がほとんどなく、侵入する手がかりを与えない異様な建物です。たしかに、これだったら忍び込めないと思いました。反面教師として役に立つ本です。
(2011年6月刊。2400円+税)
2011年8月25日
キリスト教とホロコースト
ドイツ
著者 モルデカイ・パルディール 、 出版 柏書房
ヒトラーによるユダヤ人絶滅作戦が進行するなかで、自らの生命を賭してユダヤ人を救った人がいたのを知るのは本当に救いです。
ホロコーストの時代、ナチからユダヤ人を救命するために自分の生命を賭した非ユダヤ人2万1000人以上が「正義の人」として栄誉をたたえられている。残念ながら、日本人はセンポチウネただ1人である。
キリスト教の聖職者は、そのうち600人ほどです。本書は、その聖職者を主として紹介しています。
ユダヤ教とキリスト教の関係は、まぎれもなく親密な性格を有している。そもそも、キリスト教の崇敬の主たる対象は、ユダヤ人に生まれユダヤの信仰を実践し、唯一かつ万物の造り主である神と同じ位格の神であり人であると考えられる一人の人物である。彼の直の弟子は皆ユダヤであったし、最初に彼の復活と再臨を信じたのは数千人の人々であった。
彼の故郷ナザレにおいてのみ受け容れられなかったが、その行く先々で群衆は彼を追った。宗務当局は彼を逮捕しようとしたが、群衆の人気に押されて手を下せなかった。
イエスについて、人々は好意的に受けとめるのが通例だった。
中世のカトリック神学者の一人であるトマス・マクィナスをはじめとする神学者たちはユダヤ人が教勢促進も挑発もせず、騒々しい戦いを避ける以外に何も望まなかったにもかかわらず、ユダヤ人を激しく非難し続けた。プロテスタントの偉大な改革者であるマルティン・ルターは、後期中世のもっとも悪質なユダヤ人迫害者の一人として突出している。うひゃあ、そうだったのですか、ちっとも知りませんでした。
1933年1月、ヒトラーが権力を握ったとき、ドイツ全土にユダヤ人は52万人ほど、ベルリンに7割近い38万人がいた。ユダヤ人の多くはドイツ人の暮らしの中に完全に同化していた。
ヒトラーは、自らの反キリスト教の見解を表明するのは注意深く、公衆の面前では教会の忠実な支援者という建て前を装った。
推定で2万人のユダヤ人がドイツ国内で生きのびた。そのうちの1万5000人は地下生活に潜ることなく、非ユダヤ人配偶者との結婚によって保護された。推定5000人近くのユダヤ人が潜伏して生きのびた。
ドイツでは、ほとんどのプロテスタント聖職者、とりわけルター派が1937年1月のヒトラーの権力掌握に際して、強い高揚感を表明した。
フランスには30万人のユダヤ人がいて、パリには18万人いた。ビシー政府はドイツの圧力を待たずにユダヤ人を差別する法律を布告した。フランスの解放までに7万5000人以上のユダヤ人がドイツに引き渡された。フランス警察が、ドイツ軍以上に多くのユダヤ人を逮捕した事実は、フランスの名と民族的名声に汚点を残している。しかし、ユダヤ人を助けるため、カトリック司祭とプロテスタント牧師が共に連携して動いたことも事実である。フランスにおけるユダヤ人の生存率は、他の西側諸国に比べて相対的に高かった。
1980年代のフランス映画『さよなら子どもたち』は私もみましたが、ユダヤ人の子どもたちを救おうとするフランスの取り組みが描かれています。
ゲシュタポは、ユダヤ人の所在の通報者には報奨金100から1000フランを約束していた。重要人物については5000フランだった。当時の平均月収は3000フランだったので。月収に匹敵するものだったが、人々は応じなかった。
イタリアのユダヤ人の80%はドイツ軍の占領時代を生きのびた。ファシストと呼ばれるムッソリーニ政府が1943年9月にドイツによって占領されるまでユダヤ人をナチスに引き渡すことがなかったことをはじめて知りました。イタリア人は、ナチの論理にしたがって、ユダヤ人として生まれたことだけを理由として人間の命を奪い取る気になれなかった。そのため、官僚的な口実や嘘をふくめ、想像しうる限りのありとあらゆる計略、逃げ口上を弄して、ドイツの要求に応じなかった。
うへーっ、すっかりイタリア人を見直しましたよ。たいしたものです。
イオニア海にあるザキントス島では、ドイツ人将校がやって来てユダヤ人の引き渡しを求めたとき、カトリックの主教がユダヤ人リストに自分の名前を目の前で書き加え、「あなたは私を逮捕できる。それで満足できないのなら、私もユダヤ人と共にガス室に直行するつもりだ」と宣言した。ドイツ軍将校はあっけにとられ、折れた。
560頁もの大部な本です。キリスト教会がユダヤ人絶滅にいかに関与したのか、よく分かる本となっています。
バチカンはユダヤ人絶滅策が進行していることを熟知していたにもかかわらず、公にホロコーストを非難することはなかった。しかし、イタリア全土のカトリック施設に数千人のユダヤ人をかくまっていた事実はある。
ユダヤ人絶滅について、キリスト教会が全体として手をこまねいていたことは争いようのない事実です。しかし、そのなかでも、個々の聖職者は自分の生命と家族を危険にさらすことを承知しながらユダヤ人の救出にあたっていたのでした。その矛盾をどう考えたらいいのかを改めて考えてみました。
(2011年5月刊。4800円+税)
2011年8月24日
日露戦争諷刺画大全(下)
日本史(明治)
著者 飯倉 章 、 出版 芙蓉書房出版
日露戦争とは一体いかなる戦争だったのかを知りたいと思ったら必読の本だと思いました。当時の世界各国のとらえ方がポンチ絵(政治マンガ)として紹介されているのですから、見逃すわけにはいきません。
1904年に始まった日露戦争で、1905年1月下旬、ロシア軍が突如として大規模攻撃を満州にいる日本軍に仕掛けてきて黒溝台(こっこうだい)の戦いが始まり、1月25日から29日まで続いた。これは、ロシアの血の日曜日事件の3日後に始のことである。ロシア国内では、世界の注目を血の日曜日事件からそらす目的でツアー(ロシア皇帝)がクロパトキンに攻撃を命じたのではないかと推測されている。
うむむ、なんと、そういうこともありうるのですね・・・。
この戦いでは、日本側は対応を誤った。ロシア軍大移動の情報を軽視し、厳冬期で積雪もあるので、ロシア軍による大掛かりの攻撃はないと判断して油断していた。
このあと、奉天会戦が続きます。日露戦争中の最大の陸戦である。3月10日、日本軍は奉天を占領して勝利したが、敵ロシア軍に一大打撃を与えて戦争の勝敗を決するという目的を果たすことはできなかった。
日本軍の黒木将軍は奉天を陥落後まもなく61歳の誕生日を迎えた。現役の勇猛な将軍と評価されていた。奉天会戦は、日露両軍ともに多大の死傷者を出した。日本側の戦死者は1万6千人、ロシア側は2万人。負傷者は日本側が6万人、ロシア側は4万9千人。ロシアは2万人が捕虜となった。
日本海海戦についても、いくつものポンチ絵で紹介されています。
日本側は、バルチック艦隊の動向を把握していて、戦術開始前に十分な準備をし、訓練を重ねていて、士気も盛んだった。
ロシア側は、ニコライ皇帝が講和を拒んでいた。なぜか?賠償金の支払いには強い抵抗感があった。それに応じたら、ロシアの体面は維持できないとニコライは考えていた。そして、強気だったもう一つの理由は、軍事的な情勢判断だった。ロシア側にはまだ戦力に余裕があった。
他方、日本側は、辛勝が続いているので、いつ戦況が逆転しないとも限らないという心配があった。
写真だけでなく、マンガ(画)でも事の本質はよく捉えることができることを実感させられる良書です。
(2010年11月刊。2800円+税)
2011年8月23日
慈しみの女神たち(上)
ドイツ
著者 ジョナサン・リテル 、 出版 集英社
ずっしり重たい本です。読みすすめるのが辛くなる物語です。
上巻だけで上下2段組、500頁あります。ユダヤ人を大量虐殺したナチ親衛隊将校の手記という構成なので、大虐殺状況を目撃して、それをずっとずっと語っていくのです。気が滅入ってしまいます。
いくらユダヤ人を豚以下の存在だと言われても、目の前にいるユダヤの人々はやはり同じ人間なのだから、どうしても、そこにためらいが生じる。
女性や、それ以上に子どもたちの場合、私たちの仕事はときに非常に困難で、胸を抉られるようなものとなった。兵士たちは絶えず不満を漏らしており、とりわけ家族のいる年長のものたちがそうだった。無防備なあの人々、子どもたちを護ることもできず、ただ殺されるのを見ていなければならない。そして子どもたちとともに死ぬことしか出来ないあの母親たちを前にして、わが軍の兵士たちは極度の無力感に苛まれ、自分たちもまた無防備であることを感じていた。
このような状況に何ヶ月もさらされたなら、健康な精神の持ち主であれば、後遺症、それもときに重大な後遺症に見舞われないことは不可能なのだ。
あるSS少尉は正気を失い、幾人もの将校を殺害したのちに、自らも射殺された。上層部は前代未聞の命令を下した。良心からにせよ、弱さからにせよ、ユダヤ人を殺すことを自らに課すことが出来ないものは、他の任務への配属や、さらにはドイツの送還のために全員が幕僚部へ出頭しなければならないというもの。
恐るべき虐殺が証明していることがひとつあるとすれば、逆説的なことに、それはまさに人類の、痛ましい、変わることのない連帯である。
どんなに獣のようになり、どんなに慣れてしまっても、我々の兵士の誰ひとりとして、自分の妻、妹、あるいは母を思うことなしにユダヤ女性を殺すことはできないし、目の前の穴に自分自身の子どもたちの姿を見ることなしにユダヤ人を殺すことはできない。
彼らの反応、彼らの暴力、アルコール中毒、神経衰弱、自殺、私自身の悲しみ、これらすべてが証(あかし)立てているのは、他者が存在すること、他者として、人間として存在することであり、また、どんな意志も、どんなイデオロギーも、どれだけの量の愚行やアルコールも、細いけれども堅固なこの絆(きずな)を断ち切ることはできないということだ。これは事実であって、意見ではない。
38歳のアメリカ人が大量の本を読みつくして4ヶ月で書きあげたというのです。恐るべき筆力です。
(2011年2月刊。1000円+税)
2011年8月22日
ノーザン・ソングス
ヨーロッパ
著者 ブライアン・サウソールほか 、 出版 シンコーミュージック・エンタテインメント
なつかしのビートルズの著作権をめぐる本です。ビートルズは私が高校生のころ一世を風靡しました。「イエスタデイ」とか「ミッシェル」と言ったポール・マッカートニーのバラードなんかも最高でしたね。
夏に市営プールで泳いでいると、ビートルズの「イエローサブマリン」の曲が流れてきたことを今も鮮明に記憶しています。これは高校生というより中学生のときかもしれません。
ジョン・レノンがアメリカで射殺されたのもショックでしたね。アメリカって、本当に恐ろしい国だと思いました(実は今も思っています)。
音楽の分野で天才だった四人組も、商売の分野ではなかなか苦労したようです。
音楽出版の世界において著作権ほど重要なものはない。ソングライターと出版社にとって、「著作権は絶対に手放すな」という金言は不変である。
レノン&マッカートニーは、自分たちの曲の著作権を実際に放棄したわけではなかった。相次ぐ契約によって、作品がどんどん資産価値を上げていく渦中で、気がつくと手元から消え失せてしまっていたのだ。
音楽出版社と契約をかわすことで、ソングライターは楽曲の所有権(つまり著作権)の一部を譲渡する。その代わりに出版社は、その楽曲を売り込み、そこから得られた収入をソングライターと事前に合意した割合にもとづいて分配する。通常は50対50がいいところだが、売れ行きによっては作家側の取り分が増えることもある。普通は純利を分配するので、音楽出版社側はデモ録り、事務所経費、交通費などの費用を控除することができる。したがって、作家とり分50%というのは、総収入を100としたときの50ということではない。
出版社と作家が受けとる使用料を徴収するのは著作権管理団体であり、その徴収の範囲は、演奏、放送、録音に及ぶ。
スナックがカラオケを無断で利用していると、この著作権管理会社から請求書が届き、裁判を起こされるというのは、日本でもよくあります。
1962年の音楽ビジネスは、現在と同じくロンドン中心部に拠点をもつレコード会社と音楽出版社を中心に回っていた。彼らは業界を何十年にもわたって支えてきた不動の原理原則を行使し、才能あふれる若きミュージシャンたちの運命を握っていた。そこでは、クリエイティブな人間よりも、決定権を持つ企業が常に優位な立場にあった。
1963年、わずか2枚のヒット・レコードを出しただけなのに、ビートルズは既にイギリス業界を席捲しつつあった。ツアーは売り切れ、テレビやラジオに出演すると、ティーンエイジャーにとって、それは「絶対に見なくてはならない」ものになった。たしかに、すごい熱狂でした。
1963年、「シー・ラブズ・ユー」は数週間のうちに100万枚をこえて売れた。
1964年の「キャント・バイ・ミー・ラブ」は英米で250万枚の予約注文数を記録した。
1965年の時点で、四人組は若き大金持ちになっていた。
ところが、イギリスの高額所得税は83%、それに異進付加税として、さらに15%が足された。なんと98%の税率です。これは、いくらなんでもたまりませんね。
そこで、節税対策が始まります。しかし、それはそれで四人組の仲間割れにもつながるのでした。四人組が全員そろってレコーディングスタジオに入ったのは1969年8月が最後だった。
そして、その結果、ポール・マッカートニーが自分の出演映画で「イエスタデイ」を使おうとすると、会社(ATVミュージック)に許可申請しなければならなかったのです。なんということでしょう。曲をつくった人が自分の曲を自由に使えないなんて・・・。
音楽著作権の世界の難しさをなんとなく実感させられる本でした。
(2010年4月刊。2400円+税)
2011年8月21日
想定外シナリオと危機管理
司法
著者 久保利 英明 、 出版 商事法務
企業法務の第一人者として名高い著者は、全農全国中央会や原発被害を受けた農家の代理人として東電との交渉にあたっているとのことです。
著者は、本件は、東電対国民の事件であり、自分は生産者と消費者である国民の側に立つと宣言した。すなわち、福島原発事件は、東電が真面目にリスクと向きあい、時代の変化に応じたリスクマネジメントを採用していれば、防げたという意味で人災であり、東電の責任である。本件については、東電や原子力安全保安院には予見可能性も回避可能性も認められ、巨大津波の影響ではなく、さまざまな人災の集合として重大な注意義務違反が認められる。
東電の想定は考えられないほど甘いものであり、それに対して運転許可を与えてきた保安院など政府の対応は国民の安全を軽視したものであった。東電も国も、最悪事態を想定し、そこで発生する過酷事故対策マニュアルを用意する義務を怠った。
福島第一原発だけで合計5000本もの高温の燃料棒が浸かっている。原子力発電とは、サイクルが完結していないものであり、それを安価、経済的と説明してきたことの説明責任も問われる。
謝罪するのは社長でなければならない。これがなされなければ何一つ始まらない。真摯な謝罪の意思を社長が表明したうえで、その後の会見は担当役員(総勢3人以内)で行うことを明示する。
被害者への謝罪はできるだけ低い姿勢で、目線をすりあわせるコミュニケーションが必要である。説明は定性的でなく定量的に、具体的かつ論理的に、また平易に述べる。
記者会見終了のタイミングは難しい。概ね1時間がすぎたころ、一瞬発言がとぎれたタイミングをすかさず、「それでは本日のところは、この程度とさせていただきます」とびしっと締め、出席者は全員が素早く起立して淡々と一礼し、特設した退場口から引き上げる。
お詫びの礼は、長めに5秒。一斉にお辞儀をし、一斉に顔を起こす。服装もクールビズはやめ、ダークスーツで、前のボタンをかけ、白いYシャツに地味なネクタイをキッチリ締めておく。汗を拭いたり、眼鏡をずらしたりなどの動作はしない。カメラの前で絵になってしまうから。
さすがは長らく企業法務を手がけてきた弁護士らしく実践的かつ説得力があります。東電だけではなく、一般に企業の不祥事対応としても役立つ書物だと思いながら読みました。
(2011年6月刊。1600円+税)
2011年8月20日
運命の人(1~4巻)
社会
山崎豊子 文春文庫
沖縄返還をめぐって、日本政府が密約をかわしていたことが今では客観的に歴史的な事実として定着しています。惜しむらくは、そのことについての国民の怒りが少々足りないということです。日本人って、どうしてこんなに大人しいのでしょうか。
福島原発事故で放射能が現に拡散しているにもかかわらず、既に多くの日本人が慣れて、あきらめている感があるのも同じ日本人として解せないところです。
それはともかくとして、政府とりわけ外務省がアメリカの言いなりに外交交渉をすすめてきたこと、そして、ずっと国民を欺してきたこと、今も隠し続けていることに腹が立って仕方ありません。
それをすっぱ抜いた毎日新聞の西山記者に対して、外務省の女性事務官と「情と通じて」と起訴状にわざわざ特記して大キャンペーンを張り、ことの本質から目をそらさせた政府、マスコミも許せません。
おかげで西山記者は家族ともども長く日陰の身を過ごさざるをえなくなりました。まさに、正義はどこへ行ってしまったのかと慨嘆せざるをえない有り様です。
著者はそこを本当にうまく書いていきますので、実に自然に感情移入させられ、涙と怒りで頁をめくるのがもどかしくなってしまいます。
この本は、最後に少しばかり救いがあります。『沈まぬ太陽』にも、いくらかの救いはありました。それでも、その代償がいかに大きかったことか。
そんな不正義を許さないためには、この本を読み、政府と外務省の自主性のなさ、アメリカ言いなりの情ない姿勢に対して怒りの声をあげることではないかと痛感しました。
依頼者の方から勧められて読んだ本です。
(2011年2月刊。638円+税)
2011年8月19日
小牧・長久手の戦いの構造
日本史(戦国)
著者 藤田 達生 、 出版 岩田書院
天正12年(1584年)に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との間に勃発した小牧・長久手の戦いは、関が原の戦いにも比肩する「天下分け目の戦い」であった。うひゃあ、そうだったんですか・・・・。
小牧・長久手の戦いでは、織田信長と徳川家康連合軍の陣営は、長宗我部元親、佐々成政、北条氏政、伊勢・紀伊の一揆勢力などと連携しつつ広大な秀吉包囲網を形成して10ヶ月間にわたって戦争を遂行した。
羽柴秀吉は本能寺の変の起こる直前は備中高松城(岡山市)を攻めていた。このとき、秀吉は毛利氏との講和を結び、急いで京都へ取って返した(中国大返し)。なぜ、毛利氏は秀吉からの講和の申し入れに即座に応じたのか。それは、重臣層が離反していて毛利氏は一丸となって戦える状況になく、弱体化していたからである。
なーるほど、そういうことだったのですね。毛利氏は、長年に及ぶ戦闘で相当に消耗しておりこれ以上の危機は回避すべきであると対極的に判断していた。秀吉にしても今後の信長の西国政策を考慮すると、有力水軍を従え北九州も影響力の毛利氏を滅亡させてしまうのは、水力軍の劣る織田方とって得策ではないと判断したと思われる。
小牧・長久手の戦いは、小牧・長くてエリアに限定された局地戦ではなく、広範囲にわたる大規模戦役であった。長久手の戦いによる敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいたことがうかがえる。
信雄・家康は早期に上洛して秀吉を京都から追い払い、天下を取って京都に正当な中央政権を打ち立てることを目ざしていた。それに対して、秀吉の究極的な攻撃目標は家康の領国である三河・遠江への総攻撃であった。
小牧・長久手の戦いは、天正12年3月の羽柴秀吉と織田信雄の戦い、4月から6月にかけての秀吉と家康の戦い、それ以降11月までの和戦両方を見こした戦いという三段階に分けることができる。この全時期を通じて、両陣営とも周辺諸国からの攻撃による相手兵力の分散化を積極的に行っていた。全国の大名・土豪層が信雄・家康対秀吉という図式に組み込まれ、全国を二分する戦争へと拡大することとなった。
長久手での戦いが徳川氏にとって、華々しい勝利であったことは事実である。しかし、結果的に人質(養子)を出すことになったのは、ここで勝利した信雄・家康方である。この戦いで両者の攻防が終わったのではない。
確かに秀吉は尾張国では優勢だった。しかし、たとえば本願寺・長宗我部氏が敵方となって秀吉領国まで攻勢に出たとき、その攻勢先に兵力をさかねばならず、そう考えると予断を許さない状況であったと言える。つまり、これまでの戦いとは違って、この戦いは全国的な大規模戦争となったため、たとえ個別に優勢であっても戦争終結までいつ情勢が激変するか分からないことになったのである。
家康は小牧合戦後、すばやく自覚的かつ一方的に人質を秀吉に出した。なぜか?信雄が戦列を離れた直後の局面で、単独で秀吉に対抗するのは困難だと判断したのが第一の理由だろう。
尾張国での信雄、家康と秀吉の直接退治は、兵力的な差があり、家康から先制する攻撃はなかった。対する秀吉も、大きな被害を伴う直接対決を避けながらの攻略が中心だった。その結果、両陣営は長期対峙することになった。
そのとき、この状態を打破すべく用いた戦術が、周辺諸国からの攻撃による相手兵力の分散化であった。これは両陣営の外交活動は、まさに目に見えない攻撃となった。超陣営とも、このような戦術を大々的に実施した結果、この戦いは尾張、美濃両国に集まった当事者だけでなく、東は関東から西は四国、中国まで、幅広い地域に直接的に影響を与えることになった。その結果、全国の大名・土豪層が信雄・家康対秀吉という図式に組み込まれ、さらには、この戦いのあと、天下を取った秀吉の政権それ自体にも組み込まれていくことになった。つまり、この戦いは、全国を二分する戦争へと拡大した結果、豊臣政権にとっての「天下分け目の戦い」へと発展していったのである。
小牧・長久手の戦いを学者の皆さんがこれほど本格的に研究しているなんて、驚いてしまいました。学者ってすごいですね。とりわけ、秀吉や家康が書いた書状を解析するところなんて、私からすると神業(かみわざ)に思えてなりません。
(2006年4月刊。8900円+税)
2011年8月18日
囁きと密告(上)
ロシア
著者 オーランドー・ファイジズ 、 出版 白水社
人間とは社会的存在であることがよくよく分かる大作でした。スターリン時代のソ連で人々がどのように生きていたのか、なぜスターリンの暗黒政治があれほどまで大々的に、かつスターリンが死ぬまで続いたのか、ようやく謎が解けた気がしました。
一番の心の深手は「クラーク」(富農)の出身という烙印を押されたことだった。出身階級によってすべてが決まる社会だった。高等教育を受ける権利も、まともな仕事につく機会を認められない「階級の敵」の烙印がつきまとった。テロルの波はスターリン支配の全期間を通じて国中に吹き荒れたが、その波をかぶれば、「階級の敵」はいつでも逮捕され、処刑される危うい身分だった。自分が社会的に劣等な存在であるという意識は心を離れることがなく、その意識は一種の恐怖心となった。
数百万人がテロルの犠牲となったが、犠牲者の家族も同じように被害者だった。
この四半世紀の間に確立された独裁体制はスターリンの死後も簡単には終わらなかった。スターリン支配の四半世紀にソヴィエト体制の抑圧の犠牲となった人々は控え目にみても2500万人を下らない。これは、当時のソ連の人口2億人の8分の1に相当する。
スターリン支配が生み出し、現在まで残る影響の一つは、体制にひたすら順応する沈黙の大衆の存在である。多くの人々が過去を口にしない習慣を身につけた。
1930年代、そして40年代には、日記を書くこと自体がきわめて危険な行為であり、危険を冒して私的な日記を書き残す人は、きわめて稀だった。
1917年から55年の38年間に行われた政治犯の処刑の85%が1937年~38年の2年間に集中している。なぜか?
もし、善良なスターリン主義者というものが存在しうるとしたら、シーモノフは間違いなくその一人だった。正直で誠実、礼儀正しく、上品で、思いやりにあふれ、魅力があり、人を喜ばせることが得意な人物だった。幼少期以来、ソヴィエト体制にどっぷりとはまり込んでいたシーモノフは、教育の結果としても、気質上の傾向からも、独裁体制の精神的な圧力と要求から自分を解放する手段を持たなかった。
ソヴィエト・ロシアの国民生活は、ほぼ全面的に国家管理の下に組み込まれていたので、そのために必要な官僚機構は膨大な規模に膨れ上がった。1921年の官僚機構の規模は帝政時代の官僚組織の10倍以上となった。国家公務員の数は240万人に達したが、それは産業労働者の2倍以上だった。公務員こそがソヴィエト体制を支える主要な社会層だった。
1920年代に盛んになった粛清システムの中で中心的な役割を果たしていたのが密告の奨励である。
ボリシェビキによれば、子どもを社会的な存在として育てるための最大の障害物は、他でもない家族だった。
1920年代にはいると、多くの家庭で世代間の溝が深まるという現象が始まった。家庭の価値観と学校の方針との不一致は多くの家庭で摩擦を生んだ。家族から聞かされる話と学校で先生から教わることが矛盾するので、子どもたちは混乱した。
ボリシェビキの上級幹部になればなるほど、賃金の高い有能な乳母を雇う傾向があった。そして、皮肉なことに、有能な乳母の多くは反動的な意見の持ち主だった。
モスクワにいるユダヤ人は1914年に1万5000人で、1937年には25万人になった。これはロシア人に次いで2番目に多い人種集団であり、ユダヤ人はソ連邦の一大勢力だった。
党を与えるプロレタリア階級の大半はレーニンの始めたネップに対する強硬な反対派だった。ネップが引き起こした物価上昇に耐えられなかったからである。だから、革命期と内戦記の階級闘争を再現しようとするスターリンの激しいレトリックは、党を支持するプロレタリアから幅広い支持を集めた。
「クラーク」と呼ばれた農民の大半は、勤勉な篤農家であり、そのささやかな財産は家族全員の勤勉な労働の結果だった。「クラーク」が勤勉な篤農家であることは、農民の大半が認めていた。「クラーク」撲滅キャンペーンとは、「もっとも勤勉で、もっとも優秀な耕作者」をコルホーズから追放する運動に他ならなかった。「クラーク」の消滅はソ連邦の経済的破局を意味していた。それは、この国でもっとも勤勉な農民の労働倫理と農業技術を集団農場から奪い去り、最終的にはソヴィエト農業部門に末期的な衰退をもたらす結果となった。しかし、「クラーク」との戦争に踏み切ったスターリンには、経済問題への配慮はまったくなかった。少なくとも1000万人の「クラーク」が1929年から32年までの間に家を失い、故郷の村を追われた。そして、「クラーク」の子どもたちの多くが、成長後は熱烈なスターリン主義者となった。
コルホーズに加入していた農民のうち、3人に1人が完全に農業を放棄し、その大半が工業地帯に逃げ込んで賃金労働者になった。1932年の前半には数百万人が国内を流浪していた。家族の崩壊が進み、農村部の若者たちは家を出て、都市を目ざした。
スターリンが5ヶ年計画で結束した急激な成長率を確保するためには、強制労働が不可欠な要素だった。1920年代の労働収容所は基本的には刑務所であり、囚人たちが労働を強制されたのは、本来、囚人の食い扶持を囚人自身に稼がせるという趣旨からだった。
多くの家族が農業集団化と都市化という二重の圧力に屈服させられた。集団化こそ大変動の中で農民の生活にもっとも深い傷を残した。集団化は、ソヴィエト式の生活様式を受け入れるか否かをめぐって、父と子を争わせ、家族を分裂させたからである。
「自己改造」は、ボリシェビキの間では、ごく普通の概念だった。旧世界から受け継いだプチブル根性や個人主義的な性癖を排除して自分を浄化し、より高度の人間、つまりソヴィエト人に成長するというボリシェビキの思想の中心的な位置を占めるのが他ならぬ「自己改造」だった。
不純分子への恐怖心は共産党指導部が抱えていた深刻な問題、つまり自信欠如の表れだった。幹部の自信欠如こそが粛清を繰り返すという党風をつくり出すことになる。
シーモノフは、自分の継父が逮捕されたとき、それは誤解によるものだと思った。それは、親族を逮捕された人々の大半が示す反応と同じだった。
党内には表立ってスターリン路線に反対する勢力は存在しなかった。しかし、膨大な人的被害をともなって強行された1928~32年の粛清に対しては、水面下で異議と不満が鬱積していた。
1932年11月、スターリンの妻ナジェージタが自殺する。スターリンは妻に自殺されて狂乱状態となり、周囲の人間全員に対して一層深い不信感を抱くようになった。
1930年代が進むにつれて、多数の古参党員が、粛清され、代わって新規党員が入党したために、党の性格自体が次第に変化を見せはじめる。古参ボリシェビキの影響力は弱まり、その代わりに一般党員の間から新しい党官僚グループが台頭してきた。この新・管理職層こそがスターリン体制を支える主要な柱となる。平均7年程度の教育しか受けていない新エリート層の大部分は自分の頭で政治的問題を考えるだけの能力を持たなかった。彼らは、新聞発表の党声明を自分の意見とし、宣伝スローガンと政治的な決まり文句をオウムのように繰り返すだけだった。
1934年12月に、レニングラードの党書記長キーロフの暗殺事件が起きたが、その直後、スターリンは、旧貴族とブルジョアジーの大量逮捕と流刑を命じた。
NKVDは1930年代の半ばまでに情報提供者を組織して、膨大な密告ネットワークの構築を完成させていた。すでに、あらゆる工場、事務所、学校などに密告者が配置されていた。元来、相互監視方式はロシア国家の根幹をなす制度だった。広大すぎて警察組織だけでは管理できないロシアという国家は、ギリシェビキ体制になっても、帝政時代と同様に、国民の相互監視という統治スタイルに大きく依存せざるを得なかった。
人々にストレスをもたらした最大の原因はプライバシーの欠如だった。トイレと浴室は軋轢と不安の絶えざる発生源だった。
大多数の市民は、自分たちが生きている間に共産主義のユートピアが実現することを期待しつつ、賢明の努力を重ねていた。1930年代のソヴィエト体制を支えていたのは、人々のこの期待だった。何百万人もの人々が、毎日の苦しい生活は共産主義社会を建設するために必要な犠牲であると信じ込まされていた。今日の辛い労働は、明日には報われるだろう。明日は、ソヴィエトの「素晴らしい生活」を全員が享受することになるだろう、と。
1930年代を振り返って、当時は目先の問題よりも未来を考えて生きるという生活感覚が一般的だったと回想する人が少なくない。この楽観的な雰囲気に押し流されて、ソヴィエトの知識人たちはスターリン体制が進歩の名の下で犯していた恐るべき犯罪の実態を見ようとはしなかった。
1937~38年の大テロルは、当時の情勢認識に対応してスターリン自身が全体を綿密に計画立案し、指揮監督した大作戦だった。迫り来る戦争へのスターリンの恐怖心と国際包囲網の脅威に対するスターリンの恐怖心は、1936年11月にベルリンと東京が反コミンテルン防共協定を締結したことで、さらに増大した。
1937年の時点で、ソ連邦はヨーロッパではファシスト諸国と戦争、アジアでは日本との戦争の瀬戸際まで追い込まれているとスターリンは確信していた。
1936年にスペイン共和国政府が喫した軍事的敗北の原因は、共産主義者、トロツキスト、アナーキストなど、さまざまな左翼グループが分派行動に走り、内部抗争を繰り返したからだとスターリンは見てとっていた。したがって、ソ連邦では政治的抑圧が緊急に必要であるというのがスターリンの得た教訓だった。単に「第5列」「ファシストのスパイ」「敵性分子」などを粉砕するだけでなく、すべての潜在的反対派を対ファシスト戦争が勃発する前に殲滅しておく必要があるとスターリンは考えた。
1937年6月のスターリンの発言によると、逮捕された人々の中に本物の敵が5%もふくまれていれば逮捕作戦は大成功と言うべきだとされた。すなわち、大テロルは迫り来る戦争に備えるための必要不可欠の準備作戦だった。
人々は逮捕される順番が来るのを待っていた。NKVDがドアをノックしたらすぐに対応できるように必要な品物をカバンに詰めてベッドの横において寝る人が少なくなかった。逮捕される側の人々が示したこのような受動的な態度は、大テロルの時代の人々のもっとも驚くべき特徴のひとつである。
逮捕されるという運命に直面してとりわけ受動的だったのは、ボリシェビキの幹部たちだった。彼らは、あまりにも深く党のイデオロギーに浸りきっていたので、抵抗しようとする意思よりも党に対して自分の無実を証明したいという要求のほうがはるかに強かった。
ずしりと重たく、画期的な分析にみちた大変な労作です。
(2011年5月刊。4600円+税)
2011年8月17日
アマゾン
アメリカ
著者 ジョン・ヘミング 、 出版 東洋書林
アマゾンのジャングル(密林)は地球上の酸素濃度の維持に多大な貢献をしているのですよね。ところが、そのジャングルに次々に開発道路が出来て、どんどん切り開かれています。人間が地球上にすめるのかどうか危ぶまれているのです。そして、その原因づくりに日本も一役買っています。いわば、私たち日本人も大自然破壊に手を貸しているのです。決して他人事(ひとごと)ではありません。
20世紀末までにアマゾン流域で破壊された森林全体の4分の3は大規模と中規模の牧場が引き起こした。ブラジルは、いまや世界最大数の牛を飼う、世界有数の牛肉輸出国である。そして、大豆をブラジルに輸入したのは100年前の日本人移住者だ。現在、ブラジルは、アメリカに次ぐ世界第二の大豆輸出国となっている。木材の切り出し、牛の放牧、そして大豆栽培がいっしょになり、雨林の破壊を加速させた。アマゾン流域中で、国土の14%にあたる64万平方キロメートルの雨林がチェーンソーとブルドーザーによって簡単に破壊され始めて、40年間のうちに消滅した。これはテキサス州の広さにあたり、フランスの国土より大きい。この密林が永久になくなってしまった。うっそーと叫びたくなるほどの事態です。
アマゾンの森林は1年間に5億6000トンの窒素を吸収する。もし伐採されたら、この吸収機能が止まるだけでなく、そのかわりに温室ガスを大量に発生することになる。
アマゾン川流域は、世界最高の生物多様性を有している。昆虫学者は、虫の多さに敬服する。アマゾン川流域の2000種の蝶は、世界の蝶の4分の1にあたる。3000種のハチは、地球全体のハチの10%にあたる。
アマゾン川流域には、かつては相当の人口があり、文明があったようです。ところがヨーロッパ人が入ってくると、劇的に人口は減少した。その主たる原因は病気だった。その次に、逃亡だった。ヨーロッパ人は現地の人々を捕まえて奴隷労働を強いて酷使した。
当初のヨーロッパ人たちは残虐行為を平気でしていたようです。でも、彼らは大自然には手をつけませんでした。大自然に手をつけたのは現代の我々なのです。アマゾンの過酷な実情、そして文明人たちがこれほど慈悲のない仕打ちを現地の人々に対して加えていたことに戦慄せざるをえません。アマゾン流域の保全に国際社会はもっと目を向けるべきだとつくづく思いました。
(2010年5月刊。6500円+税)
2011年8月16日
活劇・日本共産党
日本史
著者 朝倉 喬司 、 出版 毎日新聞社
戦前の日本の現実の一端を深く知ることができる本でした。戦前って、激しい社会だったんだなあと思わず慨嘆してしまいました。
三人の高名な共産党員が登場します。うち二人は、戦後は財界そして右翼の親玉として活躍しました。そんな人って、意外に多いのですよね。残る一人の徳田球一は弁護士ですが、法廷で活躍したというより活動家だったようです。
初めに登場するのは南喜一です。大正12年9月1日の関東大震災が起きたとき、まだ30歳をこしたばかりの若さで、すでに70人以上の従業員を雇う工場の主だったのです。
ところが、亀戸警察に実弟が引っぱられていき、そこで陸軍の兵士らに銃剣で刺殺されたのでした。それを知って、南喜一は工場を売り飛ばして、大金をもって運動に飛び込んでいった。もちろん、弟の仇を取るためである。うひゃあ、なんとすごい兄弟愛でしょうか・・・・。
亀戸の虐殺は、権力側の意図とは逆の結果を招いた。「こんなひどいことが世の中にあっていいのか?」という義憤にかられ、かねて定評のあった南葛の労働運動に飛び込む若者が激増したのである。うむむ、なるほど、これこそ階級闘争の弁証法というものなんですね。
南喜一は、その後、浜松の「日本楽器争議」に関わります。ダイナマイトを会社の役員宅に投げ込んだり、決死隊が組織されたり、さながらヤクザの出入りのような状況です。
1925年(大正14年)9月、共産党の合法機関紙「無産者新聞」は読みやすくもないのに、売上が一気に1万部を突破した。そして、南喜一は1926年に起きた文京区の共同印刷の大ストライキにも関わります。
次の徳田球一は、ソ連に福本和夫と一緒に渡りました。そこで、ブハーリンの主宰するソ連共産党の権威のもと、福本イズムは完敗させられたのでした。すると、徳田球一も手のひらを返したように福本を冷たくあしらうようになります。
徳田は、モスクワに着いて、どうも形勢がおもわしくないと感ずると、ガラリと態度を一変した。この余にもあからさまな豹変ぶりは、一堂のひんしゅくを買い、本人にとっても大変な逆効果となり、たちまち党委員長を解任された。
このころって、ソ連とコミンテルンの影響が今日では想像できないほど強大だったのですね・・・・。
徳田球一は沖縄に生まれ育ち、大正年に、貯金局に勤めながら、夜間の日大法律学科に通った。大正10年に、弁護士資格を取得した。苦学3年である。うむむ、実は私の父も大川から上京して通信省に勤めながら法政大学の夜間部に通い、苦学して昼間部に移ったあと、合格はできませんでしたけれど、司法官試験を受験したのでした。
三人目の田中清玄は、戦後右翼の親玉の一人でもあります。戦前の田中清玄は共産党の指導者にまでなりましたが、その指揮下にわずか2ヶ月足らずのことですが、あの有目な太宰治(津島)がいました。武装共産党というのを始めた田中清玄たちは間もなく逮捕されます。要するに、共産党・アカは怖いんだというイメージを定着させることが出来たら、その役目は終わったのでした。
著者の死によって未完となった本ですが、よく調べていると感嘆させられました。
(2011年2月刊。3000円+税)
2011年8月15日
海に暮らす無脊椎動物の不思議
生き物
著者 中野 理枝 、 出版 サイエンス・アイ新書
ウミウシは、色も形も綺麗なことから、ダイバーにとても人気のある軟体動物の一種です。ちょっと前までは、色のついたナメクジ、気持ち悪い、といって片付けられてしまう可哀想な存在だった。
ネクトンとは遊泳動物、つまりイカのように潮流に逆らって泳ぐ能力のあるもの。
プランクトンとは、浮遊生物。エチゼンクラゲのように傘の直径が最大2メートルをこえる巨大なものでも遊泳能力がなければプランクトンだ。ただし、同じクラゲの仲間でもかつおノエボシのように水面近くで生活するものは、プランクトンと区別して、ニューストンと呼ばれる。
ベントスとは、海底近くに暮らす動植物のこと。底生生物という。
遊泳能力の高いイカは魚などを狩る有能なハンターだ。遊泳能力のやや劣るタコは甲殻類を餌にする。
スナギンチャクには、長寿であり、猛毒をもつという特性がある。2742歳という長寿の個体が見つかった。
多くのウミウシは、毒を含んだ餌を食べ、その毒を再利用して自分の身を守る武器にしている。ウミウシはほとんど肉食だ。カイメンやホヤ、ヒドロ虫といった固着動物。これらの多くは動いて捕食者から逃れることができない代わりに、多くが捕食者に食われないように毒を蓄えている。ウミウシはこの毒を再利用している。
ホヤは仙台に行ったときにその近郊の秋保温泉の旅館ででっかいものを食べました。さすがに美味しい味つけでした。ちょっと気色悪い形ではありましたが・・・・。
海底あたりにうごめく生き物たちは色も形もとても変わっていて、奇妙かつ美的なセンスにあふれています。面白い写真が満載のカラー新書でした。
(2011年6月刊。952円+税)
2011年8月14日
夕凪の街、桜の国
社会
著者 こうの史代 、 出版 双葉社
ヒロシマを生きる若き女性の生活と未来への不安を描いたマンガです。
私が小学生のころには、ここに描かれているような、雨もりするバラック小屋みたいな家があちこちにありました。着ている服はツギアテ。靴下はほころびたら、あて布で補正する。靴も、する切れるまで履くのが当たり前。トイレは、もちろんぼっとん式です。
ご飯を食べるときは、丸いちゃぶ台を家族みんなで囲み、小さいおかずを子どもたちが奪いあうようにして食べていました。私なんぞ、5人姉兄の末っ子でしたから、もちろん可愛がられたのですが、食べることにかけては食い意地がはって、兄たちに負けないようにハシをのばして自分の食べるものを確保していました。もらいものの羊かんを姉兄で分けるときには、どれが大きいかを目を血のように食い入るように見つめて必死でした。ですから、そりゃあ美味しいものでした。真剣度が違いましたからね。何もなくても、友だちがわんさかいて、楽しく遊ぶことだけは出来ました。
ヒロシマでゲンバク被災者は見たことを話せず、自分が被災者だと名乗ることをはばかる時代が長かったようです。そんななかでも、若さで乗り切っていこうとする、すがすがしさあふれた青春マンガです。
(2011年6月刊。800円+税)
2011年8月13日
警視庁捜査一課刑事
社会
著者 飯田 裕久 、 出版 朝日文庫
警視庁捜査一課に12年のあいだ在籍し、勤続25年で退職して分筆業で活躍していた著者は、昨年、46歳の若さで惜しくも急逝されました。この本は自らの体験にもとづく本ですから、並みいる警察小説とは迫真度が違います。
「○○刑事」というのは、もっぱら巡査の場合のみ。「部長」というと、一般会社では大変な地位であるから、知らない人は大幹部のように受け取るが、実は巡査部長、つまり巡査の一つだけうえの階級の者に過ぎない。
係長は、警部補。キャップとも呼ぶ。係長の下が主任。巡査部長がなる。末席は巡査。
日本の警察官、とくに私服刑事は、宿直以外の通常勤務のときには拳銃を着装しない。拳銃は泊まりの日につけるだけという悲しい事実が定着している。有事の際に拳銃をつけて出勤するという習慣が、まるで出来ていない。
特別捜査本部の捜査会議の様子が紹介されています。これは既に、幾多の警察小説に出てくるのとまったく変わりありません。地取りなどをやって帰ってくると、朝の会議で順に報告させられ、それが中途半端だとヒナ壇からガンガンこき下ろされるというのです。それこそ、死ねといわんばかりにやり込められる。ふむふむ、プロの世界ですね。
最後に警察隠語集が紹介されています。知らないものがいくつもありました。
アカ落ち・・・服役を終えること。
牛の爪・・・・初めから犯人が割れている事件。
グニ屋・・・・質屋。
ゴンゾウ・・・・ベテランの域に達してもダメな警察官。
ごんべん・・・詐欺
著者は警察をやめたあとは刑事ドラマの監修の仕事に転職していたようです。
(2011年4月刊。640円+税)
2011年8月12日
実録 ・ 龍馬討殺
日本史(江戸)
著者 長谷川 創一 、 出版 静岡新聞社
坂本龍馬を京都の宿舎に押し入って斬った犯人は京都見廻り組の今井信郎(のぶお)だった。その今井信郎は明治末期まで生きのび、なんと静岡で村長になったりしていたのです。
慶応3年(1867年)11月15日、京都の蛸薬師通りに面した味噌商、近江屋の二階にひそんでいた坂本龍馬と中岡慎太郎は突然押し入ってきた武士たちに斬られた。
龍馬が殺された3日後の11月18日夜、新撰組の近藤勇、土方歳三らの主流派が御陵衛士と称して高台寺に分離対立した元新撰組参謀の伊東甲子太郎一派を謀計にかけて暗殺する油小路事件が起きた。
土佐藩に君臨した山内容堂は郷士階級に結成された土佐勤王党自体を認めておらず、志士の勤王倒幕運動を許すことはなかった。佐幕派の容堂の主導により、幕末期の土壇場まで徳川家を組み込んだ公式合体策にこだわった土佐藩は朝廷内の倒幕派が優位に立つにつれ劣勢に追い込まれていく。政争活動に立ち遅れた土佐藩は失地を回復するため、藩重役の後藤象二郎は、薩摩・長州藩に深いつながりをもつ郷士階級の脱藩浪士である龍馬や中岡の利用を思い立ち、慶応3年に至って海援隊や陸援隊の設立を助け、支援する。したがって、藩官僚と龍馬や慎太郎たちとの関わりが深まったのは、彼らの死のわずか半年たらず前のことだった。
龍馬襲撃班は、龍馬に拳銃を発射させないため、隙をついて一気に討ちとる覚悟を固めていた。見廻組の捜索網は、事件の前々日から龍馬の所在を突き止めていた。というのも、謀史(スパイ)が、こもをかぶって乞食となって龍馬の下宿する醤油屋の庇下に寝伏していた。
名祖を出して取次させ、2回に上がっていくのに尾いていく。そして、襖をあけて、「やや、坂本さん、しばらく」と声をかける。すると、入り口にすわっていた方の男が「どなたでしたねえ」と答えた。これで龍馬だと分かったので、それっと言って手早く刀を抜いて斬り付けた。横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた腹を斬った。
今井信郎は、天井の低い室内の戦いに適した直心陰流必殺の一撃を打ち込んだ。
中岡慎太郎は、名札に気をとられて襲撃者に気付くのが遅れ、いきなり攻撃を受けたため、竜馬への最初の信郎の一撃は目にしていない。
龍馬の死後、見廻組の武士たちは襲撃者を新撰組と疑う市中の噂に安堵していた。龍馬討殺命令は、徳川の最高機密事項になっていた可能性がある。実行責任者が榎本対馬守であったとしても、この事件は老中板倉勝静、若年寄永井尚志ら重職者の了解のもとに実施されたと思われる。
京都の治安が悪化したため、幕府は京都守護職を新設して対応に乗り出した。会津藩主・松平容保を守護職に就任させ、会津藩兵1000人が常駐した。しかし、手がまわらず、文久3年に会津藩預かりの新撰組、続いて翌年に見廻組をもうけて治安維持活動にあたらせた。
京都見廻組は、幕府によって元治元年に設立された幕府公認の組織であり、譜代の旗本、御家人の子弟から隊士を選抜するとし、1隊200人、2隊合計400人の編成だった。これに対して新撰組は浪士組織であって、まったく異なる。
京都見廻組を指揮した実力者は佐々木只三郎である。坂本龍馬暗殺を指揮した只三郎は勇猛果敢かつ緻密な計画性をもつ有能な幕臣だった。
龍馬暗殺の実行犯が明治になってキリスト教を信じたり、村長になっていたなんて・・・・。驚きました。子孫による掘り起こしの書です。
(2011年2月刊。1000円+税)
2011年8月11日
十字軍物語 1
ヨーロッパ
著者 塩野 七生 、 出版 新潮社
十字軍の実態を知れば知るほど、キリスト教っていいかげんな宗教じゃないのかなと感じます。教皇と王とは、世俗の君主として権力争いをしていたのですよね。そこには、大義も何もあったものじゃありません。そして、イスラム教徒に支配される聖都イエルサレムを奪還しようと教皇が呼びかけ、それに応じて真っ先に行動したのが貧者の軍隊でした。ところが、イエルサレムに向かって行進していくうちに霧消していくのも哀れです。
カノッサの屈辱は1077年のこと。法王の反対を無視した皇帝を法王は破門に処した。破門とは、当時、社会からの全面的な追放を意味していた。そこで、皇帝は法王が滞在中のカノッサの城の前に、降りしきる1月の雪のなか、裸足で立ち尽くしたのだった。
ときに得意絶頂の法王は57歳。皇帝はまだ27歳だった。カノッサで受けた屈辱を忘れなかった皇帝は、軍事力で法王を追いつめると同時に教会の内部を分裂させることで対立法王を選出させ、ローマ法王のもつ権威を足許から崩す策に出ていた。
イスラムの支配するなかでキリスト教徒たちは既に300年以上も生きてきた。この地方に住む人々からローマ法王に対して現状から解放してほしいと求めた史実はない。法王に援軍の派遣を求めたのは、かつてビザンチン帝国領であった中近東を取り戻したいと欲したビザンチン帝国の皇帝だった。
法王の呼びかけに応じて最初に東方に向かってヨーロッパを発ったのは、隠者ピエールの率いる貧民から成る十字軍だった。貧民十字軍には、人的犠牲にはまったく無関心という絶対的な強みがあった。それにしても哀れな末路でした。教会って無責任ですよ。
法王には、十字軍を成功させることで法王の権威を強化し、それによって皇帝の権力を弱体化させようとする思いがあった。
この当時はまだ中央集権ではなかった。11世紀の諸君たちは皇帝や王に対して地位は下でも、実力では劣る存在ではなかった。公爵や伯爵とは呼ばれていても、これらの諸侯が領土を持っていたのは、皇帝や王から与えられたからではない。彼らのほうがすでに領土を持っていて、その状況下で、まあ、あの男ならば今のところは不都合はないだろう、とした人物に、皇帝なり王なりへの忠誠を一応は誓うのである。自らの力で獲得し、自らの力で保持する領国の主(あるじ)であり、それに欠くことのできない軍事力として血のつながりのある一族郎党を率いるボスだった。貴族とも言われていたが、その実態は豪族であり、部族であった。
十字軍には、最高司令官は最初から最期まで存在しなかった。だから、指令系統の一元化はついに成らなかった。貧民十字軍は、聖地に近づく前に、小アジアに足を踏み入れたとたんに消滅してしまった。
十字軍との戦いで敗北したセルジュク・トルコ軍は大軍を結集しての会戦方式ではなく、少ない兵力を駆使してのゲリラ戦法に変えた。そして、ゲリラ戦法だけでなく、焦土作戦にも打って出た。
すべては領土の問題であって、宗教の問題ではなかった。イスラム側が、十字軍とは神の旗のもとにまとまった軍勢であり、十字軍遠征の目的が、イスラムを撃退し、その地に十字軍国家をうちたてることにあるのを知るのは、80年後のサラディンの時代だった。それまでは、イスラム教徒の大半は、十字軍を領土獲得を目的とする侵略軍と思い込んでいた。
力だのみの野蛮な十字軍将兵の実像が描かれています。だから、現代世界でレーガンでしたか、十字軍なんて言うと、野蛮とか残虐というイメージにつながるのですね。
(2010年9月刊。2500円+税)
2011年8月10日
再発
人間
著者 田中 秀一 、 出版 東京書籍
医師ではなく、ジャーナリスト(読売新聞の医療情報部長という肩書きがついています)による本なので、専門的ではありますが、がん治療の最新の状況がよく整理されていて、分かりやすい本です。
1年間に新しくがんと診断される日本人は68万人(2005年)。がんで死亡する人は34万人(2009年)。生涯で日本人の2人に1人ががんになり、3人に一人ががんで亡くなっている。かつてに比べると、がんの治療率は高まっている。それでも、患者の半数は生還できない。その理由は、がんが「再発」と「転移」を起こすことにある。
再発したがんは、最初の治療の後に新しくできたがんではなく、最初の治療の時に既に存在しているがんである。再発や転移が見つかったときに手術で完治させるのは難しく、原則として手術はおこなわれない。
放射線治療も、がんの種類によっては、手術と同等の効果がある。しかし、放射能治療も、手術と同じく局所的な治療法であり、がんが全身に広がっていると完治させることは出来ない。現代医療といえども、きわめて微少ながんを検知するすべをまだ持ち合わせていない。
遠隔転移の治療が難しいのは、転移が見つかった時点ですでに、がんが血流に乗って見つかった場所以外の部位や全身にも広がっている可能性が高いからだ。
がんを抗がん剤で完治させることは容易ではない。
がん細胞は、ゆっくりと分裂をくり返して大きくなっていく。そして、がん細胞ができたからといって、すぐに転移する能力を持つわけではない。がん細胞にとっても、転移は命がけである。このハードルをこえて転移したがん細胞は、生存能力の高い、悪性度の高い細胞といえる。がんは、正常細胞がもっている仕組みを使って転移、増殖しているために、薬でたたこうとすれば、正常細胞や正常組織を維持する機構も傷つけることになり、治療が困難なのである。
がんは、きわめて複雑な病気なのである。がんは人間の身体の一部が変化してできたものであり、人体がもともともっているメカニズムを組み合わせながら発生、増殖している。これは、すべて正常細胞にも備わっている仕組みだから、これらの仕組みのどの部分を抗がん剤で攻撃しても、正常細胞に影響が出てくる。ここに、がん治療の難しさがある。
がんになっても、心身ともに健康な生活を送ることができることが大切である。バランスのとれた食事と適度の運動が理にかなっている。
がんは、抗がん剤で一時的に縮小しても、しばらくすると再び増大することが多く、必ずしも治癒や延命にはつながらない。分子標的薬やラジオ波治療は有効なことがある。
抗がん剤に過剰な期待をもつべきではない。
腫瘍マーカーの数値の変化に一喜一憂すべきではない。抗がん剤によるメリットがない場合には、薬の副作用だけを受けることになるので、治療は中止すべきだ。副作用が表れる確率は100%である。
緩和ケアには、患者を元気にし、延命をもたらす効果力がある。
抗がん剤にばかり頼るなという指摘は、なるほどと思いました。
(2011年2月刊。1000円+税)
2011年8月 9日
刑務所図書館の人びと
アメリカ
著者 アヴィ・スタインバーグ 、 出版 柏書房
アメリカは世界史上最大の犯罪者収容施設を有している。アメリカの人口は世界人口の5%だが、受刑者数は全世界の刑務所人口の25%を占めている。アメリカの都市のひとつ分の人口が服役中で、投票権を持っていない。
そんなアメリカの刑務所に図書室があり、そこにハーバード大学を出たユダヤ人青年が働くようになって体験した出来事が書きつづられています。面白く哀しく、そして日本はアメリカみたいになってはいけない、つくづくそう思わせる本です。
刑務所の図書室は混みあっている。そこは禁酒法時代のもぐり酒場みたいな雰囲気になり、読書のための静かな空間とは言いがたい。しんと静まり返っていることはほとんどない。刑務所の図書室は、交差点みたいなもので、大勢の受刑者が差し迫った問題に対処するためにやってくる。
正統派ユダヤ教徒のコミュニティでは、法律家か実業家か医者になる見込みがなければ、つまり大学を卒業したあと大学院に進むか銀行に職を得る見込みがなければ、異教神(バアル)を崇拝するよりも重大な罪を犯したことになる。
刑務所の図書室で働く職員のなかには、図書室は受刑者たちを目覚めさせる場であって、現実を忘れさせる場ではないと考える人たちもいる。図書室とは、受刑者が人生を変えたり、教養を深めたり、何か生産的なことができるようになるための場所なのだ。たとえば、マルコムXは、刑務所の図書館で大変貌を遂げた。
図書係は、受刑者の作業のなかで一番楽だ。ここは「エリートの職場」で、職員に推薦された受刑者がよくやっていた。
刑務所の規則により、受刑者が所内に所持していい本は6冊までとされている。
受刑者の多くにとって、子ども時代の思い出はつらいものか、まったく存在しないものかのどちらかだ。なーるほど、そうなんですね・・・。重い指摘です。
刑務官に離婚経験者が多いのは、笑えない現実だ。
自殺は刑務所では重要な問題である。
自由な世界のラジオ局は、受刑者が大半を占めるリスナーに娯楽を提供している。
密告は深刻な問題だ。密告のしかたによって受刑者にもなり、警察官にもなる。第三の選択肢はない。中立という立場はないのだ。
刑務所では、時間は独特の意味をもつ。「時間はいくらでもある」というのが、受刑者たちのよく口にする言葉だ。これが刑務所で日常的に使われるときの意味は、「刑務所にいるんだから、忙しいわけがない」ということだが、同時に皮肉な意味もこめられている。自分にあるのは時間だけで、他には何もないということだ。受刑者には常に膨大な時間があるが、時間に付随する意味とは縁がない。大多数の受刑者は、「どちらを見ても水ばかりなのに一滴も飲めはしない」と海上でこぼす潜水夫みたいなものだ。時間は限りなくあるが、それは心に栄養を与えてくれる類の時間ではない。季節も休日も、周期もない。少なくとも、他者と共有できるものは何もない。
刑務所人口をただ増やす方向での取り組みは意味がありません。やはり、その人口を減らしていくためにはどうしたらよいかという視点で社会全体が考えるべきではないでしょうか。
刑務所内の人間模様がリアルに描けている秀作だと思いました。530頁もある大作です。
(2011年5月刊。2500円+税)
2011年8月 8日
宇宙誕生
宇宙
著者 マーカス・チャウン 、 出版 筑摩書房
かつては宇宙の年齢は90億歳から150億歳のあいだだと言われてきた。いまは、137億年プラスマイナス1%と突き止められている。
宇宙誕生の直後に起こった超高速膨張、インフレーションはとても速い、それは光より速い。宇宙はごくごく小さい領域からインフレーションによって膨らんだため、初めはすべてが接触しあっていた。
ええっ、光速より速い膨張があったなんて、どういうことなんでしょうか。形ある物体が光より速く動いたなんて素人の私には考えられないのですが・・・・。
COBEは、宇宙背景放射の温度が方角によってごくわずかに異なることを発見した。空にはホットスポットとコールドスポットがあって、それはよくさざ波にたとえられる。ホットスポットは、空の平均温度に比べてわずか10万分の3度高いだけなので、発見されるのに四半世紀以上かかったのも不思議ではない。ホットスポットは、初期宇宙において平均よりわずかに密度が低い領域に相当する。他方、コールドスポットは、密度の高い領域、つまり塊に相当する。塊りはとてつもなく大きく、さしわたしが1億光年から25億光年にも及ぶ。宇宙でもっとも古く、もっとも大きな構造で、今日の宇宙に存在する巨大銀河団の「種」である。
COBEが初期宇宙に見つけた物質の塊はあまり大きくなく、その重力によって物質が引き寄せられ、ビッグバンから137億年間で銀河や銀河団ができるのは、不可能だから、大量のダークマターの助けが必要である。
天文学者は宇宙の物質の85%が「光を発しない」ダークマターであって、それは目に見える恒星や銀河の軌道を曲げる重力の効果を通じてしか検出できないと考えられている。天文学者にとってさらに厄介なのは、ダークマターが何から出来ているかについて、何もないアイデアがないことだ。
宇宙がいまの3倍の年齢に達すると、宇宙背景放射の温度は今日の3分の1になる。
4倍の年齢になると、温度は4分の1だ。ビッグバンから1370億年たったときには、火の玉の名残はほとんど消えているだろう。絶対零度から0.3度上でしかない。いまから 1370億年のちに知的生命が存在するとしても、彼らはいまの我々ほど幸運ではないだろう。そのときの宇宙では、万物創造の残光は、基本的に検出不可能で、その秘密には永遠に手が届かないだろう。はるか未来に、火の玉放射がどんな運命を迎えるかは、宇宙の膨張がいつか息切れして反転するかどうかにかかっている。
もし、そのようなことが起こらず、宇宙は永遠に膨張するとしたら、どんどん広がっていく空間の海の中で、死にゆく銀河の島はますます孤立し、放射は薄まって消えていくだけだろう。逆に、もし宇宙の膨張が止まって暴走的な収縮を始めるなら名残の放射はそのような屈辱的な最期から救い出されることになる。
なんだか気の遠くなるような話ですね、これって。
光は、空間を進んでいるときには波のように振舞うが、物質と作用しあうと弾丸に似た粒子の流れのように振る舞うという奇妙な性質をもっている。
この本には、夜空がなぜ暗いのかという疑問が投げかけられています。星が夜空に無数にあったとしたら、至るところが星から来る光で埋め尽くされ、暗くなるすき間はないはずだという疑問です。これを打ち破るのは、光の速さが有限であること、そのため宇宙にはそこから先は、見えないという地平面があるからだということになります。
夜空が暗いのは、宇宙が有限の年齢をもつため、そして宇宙が膨張しているためなのだ。時の始まりがなく、その後の膨張もなかったら宇宙は存在しえなかった。
これって有名なパラドックスです。
夏は夜空を観察する絶好のシーズンです。さあ、今夜もベランダで月を眺めましょう。
(2011年4月刊。1600円+税)
2011年8月 7日
TSUNAMI3.11
社会
豊田 直巳 第三書館
すさまじい写真集です。目をそむけたくなりますが、ここで目をそらしたらいけない、現実はもっと悲惨なんだからと言い聞かせて最後まで、目を見開いて写真を見通しました。
とりわけ平和なときの様子を打ちした写真と被災後の状況をとった写真とを対比したところに、心が痛みました。
6道県60市町村別に被災写真が並べてありますので、東北、北海道の被災状況が一覧できます。
文字どおりの写真集で、キャプションはついてませんが、それだけにモノ言わない現実が心を打ちます。とんでもない状況がいくつもあります。大きな船が家の上に乗っかるなんて、ありえないことです。ビルの4階まで津波に襲われるなんて、どういうことでしょうか。
生き残った子どもたちの笑顔で救われる気がします。でも、きっと、この子どもたちも心は深く傷ついているのでしょうね。
そして、福島原発です。ひどいものですよね。今でも安全原発は可能だとうそぶく人がいるなんて信じられません。これほど高くついた「買い物」はないでしょう。なにしろ、後始末にいくらかかるのか誰もわからないというのですから・・・。それでいて原発は安上がりなエネルギーだなんて、よく言いますよね。もう騙されてはいけません。
536頁で2800円の写真集です。高いですけれど、やっぱり安いというべきではないでしょうか。
大地震と大津波の恐ろしさを実感させられる貴重な写真集です。ぜひ、ご覧ください。
(2011年6月刊。 2,800円+税)
2011年8月 6日
消された秀吉の真実
日本史(戦国)
著者 山本博文・堀新・曽根勇二 、 出版 柏書房
この本を読むと、私たち日本人がいかに徳川史観に毒されていたかに思い至ります。徳川史観とは、徳川家康をことさらに神聖化・絶対化する江戸幕府のイデオロギー工作のことです。これが300年にわたって繰り返されてきたため、日本人の歴史認識にしっかり刷り込まれてしまっています。たとえば、徳川家康が、豊臣秀吉の臣下として羽柴授姓されて、羽柴家康を名乗っていたことがあり、本姓も豊臣に改姓して、豊臣家康としていたというのです。豊臣一族の一員として秀吉に仕えていたのでした。
ええーっウソでしょ、と叫びたくなる話です。
もう一つが、小牧・長久手の戦いで家康が秀吉に勝ったため、さすがの秀吉も家康にだけは特別な地位を認めざるをえなかったというのが「常識」です。ところが、実際には、先に岩崎城を秀吉軍に奪取された家康が、何とか長久手で秀吉軍の後尾を捕まえて逆転勝利に持ち込んだだけ。いわば、局地戦で勝利したのみで、美濃や伊勢などをふくめて全体でみると、実際には秀吉が勝利している。だからこそ、織田信雄も家康も、秀吉に人質を提供して停戦した。ところが、小牧・長久手の戦いにおける徳川譜代の活躍を強調するために、家康の勝利が大いに喧伝された。これは、関ヶ原の戦いが外様大名の活躍による勝利だったことの関係で強調されたこと。なーるほど、そういうことだったんですか・・・。
秀吉の発給文書は、秀吉の権力掌握の諸段階にそった形で、書状、直書(じきしょ)、朱印状と変化していく。それとは別に、自筆の書状もある。
書状は、同等の者同士が連絡するためのもの。本尾に恐惶謹言、恐々謹言などと書かれ、署名と花押がある。
直書は、宛名の人物に「直接与えた文書」ということで、本尾が「可申候也」(もうすべくそうろう)となっている。
朱印状は、秀吉の朱印が持された文書のこと。自筆書状を除いて、すべて右筆(ゆうひつ)が執筆する。
秀吉の朱印状については、「自敬表現」と言われてきたが正しくない。これは、秀吉が自分に敬語をつかっているとみる説。しかし実際には、秀吉の文書を作成した右筆が秀吉に敬語をつかっていると理解すべきなのだ。そして右筆は、知行宛行(あてがい)状を執筆したときには、受益者に対して筆耕料(手数料)を要求している。
徳川幕府は、自らに都合の悪いことは消し去っていたのですね。丹念に文書(しかも原本)を掘り起こして論ずる学者の偉大さには、ひたすら感服します。
(2011年6月刊。2800円+税)
2011年8月 5日
イラン現代史
アジア
吉村 慎太郎 有志舎
イランとかイラクとなると、さっぱり分からない国というイメージです。
なんとか少しでも理解しようと思って読んでみました。
イランは7000万人の人口をかかえ、世界第3位の石油産出国であり、天然ガスと石油の確認埋蔵量で第2あるいは3位。GDPは3851億ドルで、世界26位。
イランは教育と学問に熱心な国である。
イランはペルシア系がようやく過半数に達するほどの、多民族国家である。民族別の人口センサスが取られたことはないので推定によると、ペルシア語を母語とするペルシア系民族は50%前後。クルド人も北西部に住む。ムスリム人口は99.4%。世界的には少数派のシーア派が支配的である。テヘランの人口は700万人以上。
19世紀のイランを支配したトルコ系ガージャール族は、小規模な部族であったが、巧みな操作で130年間も支配を続けた。ガージャール政府は、敵対的でない部族集団には既存の部族長や支族長の権力温存を図り、自治を許した。地主権力にも介入しなかった。また、地主や富裕商人を中心とする地方名士の権力も容認した。
ガージャール朝権力は、大規模な軍事力も官僚機構もなくしてすました。軍事力は部族軍に、完了機構は地方有力者層に依存し、最低限の高級官僚さえ抱えればよかった。
ガージャール朝は、半独立的な宗教勢力を直接従属させるのではなく、シーア派の擁護者としてふるまった。
イランを含む西アジアの国々に今なお親日的感情が強いのは、同じアジアの日本が1904年の日露戦争において大国ロシアに勝利したことへの高い評価が関係している。
1917年のロシア革命によって、イランは1907年協商にもとづく英露2極支配から解放されたかのように見えた。だが、戦後のイランを待ち受けていたのは、英-イ協定という単独保護国家を目指す英国の政策であった。当然、それに反発する反英抵抗運動は高揚することになる。しかし、反英、反テヘラン中央政府の立場で共通する姿勢を示しながら、そこに生まれた運動は一枚岩的な民族運動へと発展できず、テヘラン政府の動向を受けて動揺した。
1920年代後半のレザー・シャー政権の特徴はガージャール朝期の政治家や官僚、知識人への依存にあった。
1941年8月、突如として英印軍(2個師団)とソ連軍(12個師団)が南北から進駐を開始した。この共同進駐で、レザー・シャーが多額の予算をつぎこんで強化したはずのイラン軍(全12個師団)は、各地であっけなく敗走・解体した。そして、イラン全土は南北で英ソ両軍の占領下に置かれた。
イランにおける冷戦との関わりで重要なのは、新ソ派共産党「トゥーデー(人民)党」の成立である。
1953年6月のクーデターはアメリカCIAとチャーチル政権下の英国秘密情報部(SIS)によって練りあげられた陰謀によっていた。クーデターの1か月前に潜入したCIA工作員によると、10万ドルが計画実施のために使われた。
列強による石油支配とアメリカの支援に依拠し、国内的には自由な政治活動や言論を許さないシャー独裁体制が構築された。シャーは、アメリカからの経済的・物理的支援とともに、増大した石油収入も注ぎ込んで軍事力の増強を図った。12万人から20万人への兵力拡大と軍備増強のために生じた軍事予算は、石油収入の60%を占めるまでに膨れ上がり、異常なまでの軍事力重視策がとられた。1975年には、軍兵力は38万5千人にまでなった。
シャー権力を支えたサバクはシャーの眼と耳であり、必要な場合には鉄拳となり、体制に背くすべての者を抹殺した。
イランの軍事大国化は、アメリカからの兵器輸入によった。年間57億ドルの兵器を購入した。ところが1977年1月に成立したアメリカのカーター政権の人権を重視した姿勢は、シャー独裁に不満をもつ人々を刺激した。
アメリカは人権重視の立場から国務省が武力弾圧を最小限に抑えるよう要求し、徹底弾圧によって治安回復を求める国防省などの要請と相異なるシグナルによってシャー政権は混乱した。在イランCIAはサバクに依存していたため、アメリカの対応は遅れた。
2005年6月の大統領選挙で無名に近いアフマディーネジャードが勝利したのは大番狂わせだった。かつてハータミーを支援した世論が、「保守派」を後ろ盾にして、実行力をもち、貧困層から身を起こした出自など、多様な新味をもつ人物に将来を託したとみることができる。
イラン社会は、西欧志向とイスラーム志向という両極に分化した多重性がある。
歴史が実証するように、イランの多くの人々は専横な権力への従属状況に沈黙し続けることがない。政治社会的にいっそう成熟しつつあるイラン人の新たな、そして主体的な「従属と抵抗の100年」の幕は、すでに切って落とされている。
イランとは、なかなか迂余曲折のある、一筋縄ではいかない国だと思ったことでした。
(2011年4月刊。 2400円+税)
2011年8月 4日
チリ33人、生存と救出、知られざる記録
アメリカ
著者 ジョナサン・フランクリン 、 出版 共同通信社
坑道の内部は、気温が32度より下がることはほとんどない。男たちは1日に3リットルの水をがぶ飲みしても脱水症状ぎりぎりの境目におかれる。仕事は7日勤務の7日休みというシフトだ。
この日、8月5日、鉱山の奥深くでは、男たちが押し寄せる粉じんの嵐に直面し、それは6時間にわたって続いた。落ちてきた岩の塊は当初考えられたよりもはるかに大きく、長さ90メートル、幅30メートル、高さ120メートルもあって、まるで大型船のようだった。
若い経験不足の鉱山労働者の何人かは、パニックになりはじめた。もっとも若い19歳のサンチェスは幻想を起こした。他の男たちは感情的な衝撃の試練に対応できず。ただ凍りついていた。一日中ベッドにいて、起き上がらなかった。時間は耐えがたいほど、ゆっくり過ぎていった。深い沈黙がその隙間を満たした。
食糧貯蔵庫には、水10リットル、モモ缶詰1個、エンドウマメ缶詰2個、トマト缶詰1個、牛乳16リットル(バナナ味8リットルとイチゴ味8リットル)、ジュース18リットル、ツナ缶詰20個、クラッカー96袋、マメ缶詰4個。これは正常な環境なら、作業員10人の48時間分の食欲を満たすだけの量だ。
シェルターの食料は、厳重な監視下にあった。あらゆることについて投票で決した。男たちは1日に1回、ほんの少しを食べることで合意した。カートン入りの牛乳の半分は、とっくに期限切れだった。中身が熱で凝固し、バナナ味の塊に変質していた。
水は大量に保管されていて、限られてはいたものの空気も十分だったので、労働者の主な心配は食料だった。一日の最低割りあてのカロリー量はツナ缶が25キロカロリー、ミルクが75キロカロリーだった。これは継続不能なほどのダイエットを意味した。それでも、水の供給に制限がないため、4~6週間は生き延びられるはずだった。
鉱山の安全シェルターは裏庭のプールのほどの大きさだ。だから、技術者たちが掘削の狙いをわずか5センチ外すと、地下700メートルのレベルでは数百メートルの誤差になってしまう。
男たちは体毛が異常に伸び、胸や足の皮膚にシミが浮いてくるようになった。カビが体に取りつき、広がっていった。口内炎ができた。
閉じ込められて5日目に、かすかな音が男たちに振動を伝えてきた。この振動は、どれだけ励ましたことでしょう。
9日目になると、食料の割りあては、さらに減った。食事は24時間おきだったのが、36時間おきになった。
15日目に、食料が底をついた。地底の男たちは死ぬことを覚悟した。
16日目。ツナ缶が残り2個となったので、2日ごとに一口食べるのを3日ごとに延長した。疲労困憊したから、斜面の30メートル上にあるトイレに行くのも大仕事になった。
17日目、ドリルが突き抜けてきた。地上でも地下の音がかすかに聞こえてきた。
そのドリルにこんなメッセージを結びつけたのです。
「われわれは元気で避難所にいる。33人」
なんというメッセージでしょう。泥のなかから紙切れを見つけて読むと鳥肌が立った。そうでしょうね。すごい一瞬です。直ちにチリの大統領が現地にやってきました。そこには、アジェンデ元大統領の娘イザベル上院議員の姿もありました。さあ、いよいよ救出作戦の開始です。
最初の48時間、食べ物を期待していたのに、固形の食べ物は与えられなかった。薬を飲み、ブドウ糖とボトルの水をゆっくり摂取した。急に食事を与えると、体内である種の化学連鎖反応を引き起こし、心臓から必須のミネラルを流出させ、心停止を起こして即死させてしまう危険があった。
そして地底の男たちが欲しかったのは、一本の歯ブラシだった。なーるほど、そうなんですね・・・。
発見後の救出がいかに大変だったのか、いろんな角度から紹介されています。その一つが、仲間割れでした。閉じ込められた男たちは、終盤にますます不安で怒りっぽくなる。人々は縄張り根性をもつ。
救出費用は2000万ドルかかったそうです。日本も、宇宙日本食、消臭肌着・Tシャツ、ストレス解消のためのオモチャ「プッチンスカット」など送って、かなり役立ったとのことです。
極限状態に置かれた人間の行動をも知ることのできる貴重な本です。
(2011年3月刊。2600円+税)
2011年8月 3日
天皇と天下人
日本史
著者 藤井 譲治 、 出版 講談社
信長、秀吉そして家康が天下の実権を握っていたとき、天皇はどうしていたのか、日本の天皇制を考えるうえで知りたいところです。
正親町(おおぎまち)天皇は、元禄8年(1565年)、キリシタン禁令を発した、豊臣秀吉のキリシタン禁令より22年も前のこと。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸(1549年)し、ヴィレラが元禄3年(1560年)に足利義輝から布教の許可を得たあとのことである。
信長が京都にのぼり、永禄12年(1569年)にフロイスが京都での布教の許可を得た。ところが、正親町天皇は、同月に再び宣教師追放を命じる綸旨(りんじ)を出した。しかし、フロイスたちが信長に泣きつくと、「気にすることはない」との言質を得て、天正3年(1575年)に信長の援助を得て教会を京都に建設した。強制力を持たない正親町天皇のキリシタン追放例は将軍義昭や実権を握る信長から無視されて終わった。
信長は朝廷から副将軍にすると持ちかけられても無視した。副将軍になることで将軍義昭の下位に位置づけられることを嫌ったのである。
足利将軍義昭は正親町天皇に従順ではなく、両者の調停者は信長であり、かつ、信長も言を弄して正親町天皇の意向どおりには動かない。
年号を決めるとき、正親町天皇は信長に案を示し、信長が「天正」を選び、それを天皇が追認した。年号も天皇は自由に決められなかったわけです。
信長は内大臣そして右大臣に昇進した。ところが、信長は天正6年(1578年)に、突然、右大臣、右大将の官を辞した信長は、嫡男の信忠に譲与したがっていたのを、正親町天皇がこれを無視した。信長は信忠に朝廷での地位を譲ることによって、自らはさらにその上位に立つことを目論んだのである。しかし、それを正親町天皇は封殺した。
信長は、朝廷に接近したときもふくめて、正式の参内を一度もしなかった。信長は、予が国王であり、内裏(天皇)であると語った。信長は、自らを天皇の上位に置いていた可能性が十分にある。
本能寺の変のあと実権を握った秀吉は即位費用として1万貫を朝廷に拠出することを約し、官位が授与された。
天正13年(1585年)には、秀吉は正二位内大臣となった。さらには関白に就任した。秀吉は年に一度は朝廷に参内している。
御陽成天皇は、秀吉の朝鮮渡海を思いとどまらせ、天皇の北京移徒をやんわり拒否した。
秀吉は明皇帝からの日本国王に冊封することは受けいれたものの、その怒りの矛先を朝鮮に向け、朝鮮に「礼」がないことを責めて、朝鮮体節には会おうともしなかった。
日本軍が朝鮮半島において劣勢に追い込まれていくなかで、秀吉の関心は徐々に朝鮮から薄れていき、代わって自らの政権の将来へと移っていった。
秀吉は神号を新八幡か正八幡にすることを望んだが、結果は秀吉の思い通りにはならず、豊田大明神に決まった。
家康は右大臣を辞し、秀吉以来の現職の官から退いた。秀忠が将軍となっても、秀忠が家康にとってかわって「天下人」となったのではなく、依然として天下人は家康だった。
家康・秀忠は、禁中ならびに公家中諸法度を定めた。史上はじめて天皇の行動を規制したものである。その第一条で、天皇が政治に介入することを間接ながら否定している。
家康の神号については、明神とするか権現とするか争われたが、幕府の意向によって権現と定められた。このように、天皇の役割は、将軍優位で決められたものを調えるだけに過ぎなかった。天皇が、それなりの権威は認められつつ、当時もほとんどお飾りだったことがよく分かる本です。
(2011年5月刊。2600円+税)
2011年8月 2日
日露戦争・諷刺画大全(上)
日本史(明治)
著者 飯倉 章 、 出版 芙蓉書房出版
日露戦争は、東アジアの地域強国に過ぎなかった日本が、大国ロシアに果敢に挑んだ決死の闘いでした。その戦争の推移が世界各地の新聞・雑誌に掲載された諷刺画(ポン千絵)で紹介されています。文字だけの歴史・分析書とは違って視覚化(ビジュアル化)されていますので、とても面白く読めました。
諷刺画は、戦争をリアルに伝えることを意図したものではなく、また戦場の様子をリアルに伝えるのに優れていたわけでもない。諷刺を生業とする画家は、常に戦争や戦闘を斜に構えてとらえる。そこで、諷刺画は、奥深く幅広い人間の精神がとらえた戦争の一面を表象している。
日露戦争は避けることの出来た戦争だった。それは日露の対立を背景とし、日露両国が相手の動向を相互に誤解したために起きた戦争だった。日露戦争の原因をロシアの拡張主義のみに求めることは出来ない。その他の深層原因として、日清戦争後の陸海軍における日本の軍拡もあげることができる。
ロシア側は、日本から戦争を仕掛けることはないと勝手に決め込み、日本側に弱腰と受けとられないため、譲歩を小出しにした。他方、日本側は、戦うなら早いほうがよいという考えもあって早期決着を求めていた。ロシア側が、非効率なうえ、回答を遅らせることに無頓着であったことも、日本の誤解を増幅させた。
日露交渉では、お互いに政治外交上の妥協点をはっきり示していれば、ロシアが満州を支配し、日本が韓国を支配することをお互いに認める形で決着がついていた可能性もある。日本軍、とくに陸軍の戦略思考を拘束したのは、シベリア横断鉄道が全通したときの動員力の増強だった。日本陸軍としては、相手側の動員力が増強されないうちに優位に戦いをすすめたかった。
ロシアのツァーは戦争を望む性格ではなく、戦争を欲してはいなかった。そして、明治天皇も、日露開戦をもっとも心配し、開戦に消極的だった。明治天皇は対露戦争に乗り気ではなかったが、国内の主戦派に押し切られた。
アメリカの世論は、日露戦争の期間、おおむね親日的であり、とくに戦争初期の段階ではその傾向が強かった。
日露戦争はメディアを通じて、戦争が数日の間隔はあるものの、リアルタイムに近い形で報道された。
開戦当初、ロシア社会は熱狂的に戦争を支持した。しかし、この戦意高揚も長くは続かず、春ごろから戦争支持は急速に下火になった。敗戦が続いて士気がそがれ、しかも戦争の目的が不明確であったからである。
旅順総攻撃で日本軍は第1回のとき1万6千名もの死傷者を出して悲惨な失敗に終わった。このときロシア軍の死傷者は、その1割以下の1500名でしかなかった。そこで、ミカドが機関銃を操り、機関銃弾として「日本の青年」が次々に発射されていく絵が描かれています。まことに、日本軍は人間の生命を粗末に扱う軍隊でした。
日露戦争の実相をつかむためには必須の本だと思います。
(2010年11月刊。2800円+税)
2011年8月 1日
花の国・虫の国
生物(花)
著者 熊田 千佳慕 、 出版 求龍堂
理科系美術絵本というサブタイトルのついた本です。
野山の花に虫や蝶が集まっている様子が見事にスケッチされています。
この前の日曜日、我が家の庭にはクロアゲハチョウが花のミツを吸いに何度もやってきました。暑い夏に咲く花は少ないので、チョウも大変なんだろうなと思いました。
トンボのデッサンもあります。なんだかトンボの姿を見かけませんね。うちの庭にやって来るのは夏の終わりころのアキアカネくらいのものです。オニヤンマとかシオカラトンボなど、久しく見かけません。いったい、どこへ行ってしまったのでしょうか。それとも絶滅しかかっているのでしょうか・・・・。
セミの泣き声もまだまだです。今年の夏は、アメリカに素数セミがあらわれているそうです。17年に1度なんて、不思議なこと限りがありません。地球が氷河期に入ったときに生き延びたセミのようですから、すごいものです。セミの身を凍らしてアイスクリームにして食べるという記事を読みました。美味しいということですが、信じられません。セミはアフリカではフライにしてパリパリかじると言います。まだそっちのほうがよほど美味しそうです。
日曜日には見かけませんでしたが、マルハナバチもやって来ます。丸っこいお尻をさらけ出して、夢中になって花のミツを吸っている姿を見ると、いとおしくなります。
自然は美しいから美しいのではなく、愛するからこそ美しい。まったくそのとおりだと思います。
さすがはチカボ先生のデッサンです。目も心も洗われます。
(2011年5月刊。1800円+税)