弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年6月15日

東アジアの兵器革命

日本史(戦国)

著者    久芳  崇  、 出版   吉川弘文館

 実に面白い、知的興奮を覚えさせる本でした。
 なにしろ、秀吉の朝鮮出兵のとき、数千人もの日本兵が捕虜となって中国大陸に連れ去られ、一部は中国皇帝の前に引き出されて公開処刑の対象となったものの、その大半は中国軍に組み込まれて、鉄砲隊として反乱軍退治などに活躍したというのです。しかも、長篠の戦いで輪番による鉄砲の連続一斉射撃(三段撃ち)がなされたという従来の通説に対して、現実には技術的にそんなことはありえないという最近の有力説を覆すような中国の兵法書が紹介されています。そこに載っている三段撃ちの図解を見て、腰が抜けそうになりました。
 中国の史料によると、鉄砲の輪番射撃の戦術が、日本では少なくとも16世紀末の時点で存在していたこと、朝鮮の役の後に中国・明王朝に伝播していたことがうかがえる。
 朝鮮の役において、数千人をこえる日本兵捕虜(降倭)が発生した。この降倭の一部が朝鮮軍に編入され、鉄砲や火薬の製法を伝え、朝鮮における日本式鉄砲の普及に大きな役割を果たし、17世紀の朝鮮で精鋭の鉄砲隊が組織された。
日本軍の鉄砲はきわめて性能が高かった。明軍の鉄砲はポルトガル伝来の鉄砲の模造品であり、日本軍のものより性能が劣っていた。明軍の鉄砲は鋳銅製であり、連続射撃すると熱をもって破裂する危険があった。また、命中精度も射程距離も日本軍の鍛鉄製の鉄砲に劣った。そこで、明軍は、日本軍の鉄砲を獲得したときには朝鮮軍にとどめず、明軍に送るように指示していた。
 朝鮮の役で捕虜となった日本兵は、熟達した鉄砲の使い手として、中国内の反乱軍の鎮圧のために鉄砲隊として活用された。また、女真族やモンゴル族との対戦においても日本式鉄砲は大きな威力を発揮した。
 明軍の大将は、日本兵捕虜61人を北京の明朝皇帝(万暦帝)の前に献納した。この捕虜の経歴が明らかとなっている。それによるとトップは、島津義弘の一族(平秀政、27歳)、また、薩摩守・平正成(40歳)であった。これについて、著者は日本側の資料には、そのような武将が見あたらないので、明軍側が皇帝に献納するとき最高位の敵将として偽装した可能性が高いとしています。なるほど、そうかもしれませんね。それにしても、朝鮮半島に渡った日本の一部(数千人)が中国大陸に送られ、精鋭の鉄砲隊を構成して反乱軍や女真・モンゴル軍と戦っていたなんて、まったく驚きでした。
 中国書を丹念に掘り起こすとそんな事実まで判明するのです。まだ若い(40歳)学者のようですから、今後の活躍が大いに楽しみです。この出版社は次々にいい本を出してくれています。感謝します。
(2010年12月刊。3800円+税)

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