弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年5月14日

鞠智城を考える

日本史

著者  笹山 晴生     、 出版  山川出版社   
 
 鞠智城とは、きくちじょうと読みます。熊本県の北部、菊池市にあります。昭和42年からの発掘調査によって、今では現地に八角形の鼓楼(ころう)が復元されているというのです。その写真を見て、ぜひ行ってみたいと思いました。
 校倉(あぜくら)造りの米倉や兵舎と推定されている大型の掘立柱建物も復元されています。55ヘクタールもある広大な城域です。
 663年、朝鮮の白村江(はくすきのえ)で、唐と新羅(しらぎ)の連合軍に敗れた倭(日本)は、唐と新羅の侵攻を恐れ、対馬や域に防人(さきもり)や烽(とぶひ)を置くとともに、亡命してきた百済(くだら)の人の技術者の指導のもとに、大野城や基肄(きい。佐賀県鳥栖)城などを築いて備えた。鞠智城も同じころ、百済人の指導のもとに築かれた城だと考えられる。
このころの情報伝達として、烽が各所に設置された。敵の襲来や外国使臣の到着などの情報を速報するための通信システム。664年(天智3年)防人とともに対馬・壱岐・筑紫に設置され、40里(18キロ)ごとに設置され、昼は煙、夜は火を上げて合図を送った。防人も同じく、対馬・壱岐・筑紫に置かれたが、3年交替で筑紫に2000人から
3000人がいたと思われる。
 白村江の戦いにおいて、唐軍は統制のとれた律令制にもとづく軍団であった。倭軍のほうは各地の地方豪族がそれぞれ率いる「国造軍」の集合体でしかなかった。
なんでこんな菊池市のような山中に城があるのか不思議に思っていました。だって、大宰府から徒歩だったら2日から3日はかかるでしょう・・・・。
 その答えの一つは、官道が通っていたということです。この鞠智城のすぐ近くを古代の官道が通っていました。もう一つは、唐と新羅の連合軍が有明海から上陸してきたときには、これくらい内陸部の方が守って戦いやすいと考えたというところです。いずれも、なるほどな、とは思いますが、大宰府の次が菊池市の城だという古代人の感覚がもう一つぴんときませんでした。いえ、こ
(2010年11月刊。1500円+税)

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