弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年5月10日

毛沢東、最後の革命(下)

中国

著者   ロディック・マクファーカー、 出版  青灯社
 
 1967年ころ、中国では解放軍が革命委員会の主役になっていた。省レベルの革命委員会の主任29人のうち、6人が上将、5人が中将、9人が少将で、残る9人は軍の政治委員を兼務していた。革命委員会の多くで、解放軍将校が主任を占めていた。1950年代初め以来、中国の軍隊が、文民政治にこれほど重要な役割を果たしたことはなかった。
 1967年10月、党中央は、授業を直ちに再開するよう命じた。しかし、優秀な教師が圧倒的に不足していた。学校の規律は、文革前にはあり得ないレベルにまで落ちていた。
 毛沢東にとって、修正主義の党リーダーを一掃して、自分が人々と直接に話すことが出来れば、人々は必ずや自分についてくるだろうという幻想の終わりがきた。
紅衛兵の栄光の日々は、1968年7月が過ぎると、まもなく終わり、紅衛兵のリーダーまで真のプロレタリアとして革命するために農村や工場に下放された。7年のあいだに、1200万人の都市青年(都市人口の1割)が地方へ送られた。12年間に下放された知識青年は合計1647万人にのぼる。
 中央当局が毛沢東への個人崇拝をやめさせる本格的な試みを始めたのは1969年春だった。このときまで毛沢東崇拝を続かせた重要な要素は恐怖と威嚇だった。文革中の党規約に毛沢東思想が復活したことは、前大会でそれが削除されたことを毛沢東が快く思っておらず、その決定を支持したものを恨んでいたことを暗示している。
 林彪の個人的な野心はどうあれ、客観的にみれば、林彪が党主席になったら軍が党を事実上支配することになろう。これは、毛沢東が常々のぞんできたことは逆だった。第9回党大会で公式に後継者に昇格したものの、林彪には、その地位について懸念する理由があった。毛沢東は、すでに国家主席を経験して、この役職にともなう公式典礼が大嫌いだったし、権力に装飾などないと考えていた。毛沢東は、林彪をあやして、かりそめの安心に誘い込むために、林彪に向かって2年以内に権力を委譲すると言った。
 毛沢東は林彪事件を利用して、党内における解放軍の優位を根絶する動きを始動させた。いやはや、権力闘争とはかくも複雑怪奇なものなんですね・・・。
 林彪の死と告発は、全中国に大変なショックをもたらした。全知全能の毛沢東であるはずなのに、林彪がほかの誰よりも悪人であることをなぜ察知できなかったのか。
 林彪事件は、毛沢東にとっても深刻なショックだった。林彪事件後、だらだらと続いた文革犠牲者の復権作業を主導したのは明らかに毛沢東であって、周恩来は実行したにすぎない。もし周恩来が党と軍の内部にもつ絶大な権威と影響力を使って同志を結集し、文革の早い時期にこれを食い止める努力をしていたなら、中国はもう少し良くなっていたのではないかという当然の疑問がある。
 私の大学生時代、ベトナム戦争に反対するのと同じようなレベルで中国の文化大革命を礼賛するのかどうかという試金石がありました。毛沢東と文化大革命の真相に迫った上下2巻の力作です。
(2010年12月刊。3800円+税)

 子どもの日、大月晴れの下、久しぶりに近くの小山に登りました。頂上(1388メートル)までちょうど1時間です。初めの30分間は、森林浴のようなものです。曲がりくねっただらだら坂をウグイスの鳴き音とともにのぼっていきます。ちょっと小休止してして急勾配の坂をのぼります。
 いつもより山にのぼっている人は少ないなと思っていると、頂上近くの見晴らしのいい場所にはチビッ子軍団がいました。元気な子どもたちが歓声をあげながら広々とした野原を楽しそうに駆けめぐっているのを見ると、こちらまでうれしくなります。
 はるか眼下に海が見え、大きな遊園地も遠くに望めます。海面は太陽の光を浴びてキラキラまばゆいばかりに輝いています。おにぎり弁当をゆっくり味わいながら食べます。梅干しがたっぷり入ったおにぎりです。山では、なんといっても梅干しが一番です。気宇壮大な気分に浸って、もう少し体を休めます。
 帰りの山の麓にはミカン山があり、ビワ畑があります。ブドウ畑はまだまだのようです。
 ミカンの白くて小さい花が咲いています。摘花しているようです。
 ビワの木におじさん、おばさんが袋かけをしています。
 3時間あまりの「山歩き」をして、翌々日、大腿部に痛みを感じました。

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