弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年5月 7日

武士の町、大坂

日本史(江戸)

著者  藪田 貫、    出版  中公新書
 
 オーストリアのお城で大坂図屏風が最近(2006年)になって発見されたというのも不思議な話です。この本でも、どうしてオーストリアまで渡ったのか不明だとされています。不思議な話ではありますが、なにはともあれ、1600年の関ヶ原合戦の前の大坂城の様子が描かれていますから大きな価値があります。
 大坂には、町人が35万人から40万人いて、武士は800人、人口の2%しかいなかった。
 下宿(したやど)とは、公事・訴訟のために、町人や村人が町奉行所などに出向くときの待機所のこと。公事・訴訟は、近世における民事・刑事双方の裁判訴訟をさす。公事(くじ)のうち、金銭の貸借にかかわるものは金(かね)公事として、それを専門に扱う「御金日」が設けられていた。
 文政13年(1830年)の10ヶ月の訴訟総数は7222口、うち「糾し」が358件(5%)、公事総数4592口、うち「糾し」が202件(4%)だった。
 大量の訴訟事件を2名の町奉行と、わずかの吟味与力の手で処理するのは不可能だった。そこで、訴訟は遅延し、内済(ないさい。和解)がまん延した。奉行は定期か不定期を問わず与力や同心への褒美を欠かさない。優れた与力や同心がいるかどうかは、町奉行の実務に直結し、ひいては功績に結びつく。
 久須美祐明は、73歳にして町奉行になった。わずか300俵の大坂町奉行も珍しければ、70歳をこえた奉行も空前絶後。もって生まれた身体強健・先祖以来の質実剛健の美質、それに加えて天保改革の追い風が73歳の久須美を大坂西町奉行にした。そして、この久須美は、75歳にして一子をもうけた。
 いやはや、すごい老人ですね。そして、この老人は、三度三度の食事を刻明に記録していたのです。当時の日本の日常的な食生活がよく分かる貴重な記録となっています。
 与力だった大塩平八郎についても、かなり詳しく紹介されています。大塩平八郎は、かなりの能吏であったようです。だからこそ、不正を許さず、庶民を助けようと義をもって決起したのでしょうね。
 商人の町・大坂とは違った角度から江戸時代の大坂を知ることができました。
 ちなみに今の、大阪はかつて大坂と書いていました。ですから誤記ではありません。
(2010年10月刊。780円+税)

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