弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2011年5月10日
毛沢東、最後の革命(下)
中国
著者 ロディック・マクファーカー、 出版 青灯社
1967年ころ、中国では解放軍が革命委員会の主役になっていた。省レベルの革命委員会の主任29人のうち、6人が上将、5人が中将、9人が少将で、残る9人は軍の政治委員を兼務していた。革命委員会の多くで、解放軍将校が主任を占めていた。1950年代初め以来、中国の軍隊が、文民政治にこれほど重要な役割を果たしたことはなかった。
1967年10月、党中央は、授業を直ちに再開するよう命じた。しかし、優秀な教師が圧倒的に不足していた。学校の規律は、文革前にはあり得ないレベルにまで落ちていた。
毛沢東にとって、修正主義の党リーダーを一掃して、自分が人々と直接に話すことが出来れば、人々は必ずや自分についてくるだろうという幻想の終わりがきた。
紅衛兵の栄光の日々は、1968年7月が過ぎると、まもなく終わり、紅衛兵のリーダーまで真のプロレタリアとして革命するために農村や工場に下放された。7年のあいだに、1200万人の都市青年(都市人口の1割)が地方へ送られた。12年間に下放された知識青年は合計1647万人にのぼる。
中央当局が毛沢東への個人崇拝をやめさせる本格的な試みを始めたのは1969年春だった。このときまで毛沢東崇拝を続かせた重要な要素は恐怖と威嚇だった。文革中の党規約に毛沢東思想が復活したことは、前大会でそれが削除されたことを毛沢東が快く思っておらず、その決定を支持したものを恨んでいたことを暗示している。
林彪の個人的な野心はどうあれ、客観的にみれば、林彪が党主席になったら軍が党を事実上支配することになろう。これは、毛沢東が常々のぞんできたことは逆だった。第9回党大会で公式に後継者に昇格したものの、林彪には、その地位について懸念する理由があった。毛沢東は、すでに国家主席を経験して、この役職にともなう公式典礼が大嫌いだったし、権力に装飾などないと考えていた。毛沢東は、林彪をあやして、かりそめの安心に誘い込むために、林彪に向かって2年以内に権力を委譲すると言った。
毛沢東は林彪事件を利用して、党内における解放軍の優位を根絶する動きを始動させた。いやはや、権力闘争とはかくも複雑怪奇なものなんですね・・・。
林彪の死と告発は、全中国に大変なショックをもたらした。全知全能の毛沢東であるはずなのに、林彪がほかの誰よりも悪人であることをなぜ察知できなかったのか。
林彪事件は、毛沢東にとっても深刻なショックだった。林彪事件後、だらだらと続いた文革犠牲者の復権作業を主導したのは明らかに毛沢東であって、周恩来は実行したにすぎない。もし周恩来が党と軍の内部にもつ絶大な権威と影響力を使って同志を結集し、文革の早い時期にこれを食い止める努力をしていたなら、中国はもう少し良くなっていたのではないかという当然の疑問がある。
私の大学生時代、ベトナム戦争に反対するのと同じようなレベルで中国の文化大革命を礼賛するのかどうかという試金石がありました。毛沢東と文化大革命の真相に迫った上下2巻の力作です。
(2010年12月刊。3800円+税)
子どもの日、大月晴れの下、久しぶりに近くの小山に登りました。頂上(1388メートル)までちょうど1時間です。初めの30分間は、森林浴のようなものです。曲がりくねっただらだら坂をウグイスの鳴き音とともにのぼっていきます。ちょっと小休止してして急勾配の坂をのぼります。
いつもより山にのぼっている人は少ないなと思っていると、頂上近くの見晴らしのいい場所にはチビッ子軍団がいました。元気な子どもたちが歓声をあげながら広々とした野原を楽しそうに駆けめぐっているのを見ると、こちらまでうれしくなります。
はるか眼下に海が見え、大きな遊園地も遠くに望めます。海面は太陽の光を浴びてキラキラまばゆいばかりに輝いています。おにぎり弁当をゆっくり味わいながら食べます。梅干しがたっぷり入ったおにぎりです。山では、なんといっても梅干しが一番です。気宇壮大な気分に浸って、もう少し体を休めます。
帰りの山の麓にはミカン山があり、ビワ畑があります。ブドウ畑はまだまだのようです。
ミカンの白くて小さい花が咲いています。摘花しているようです。
ビワの木におじさん、おばさんが袋かけをしています。
3時間あまりの「山歩き」をして、翌々日、大腿部に痛みを感じました。
2011年5月 9日
錯覚の科学
脳
著者 クリストファー・チャブリス 、 出版 文芸春秋
自動車運転中の携帯電話を使うのは危険だ。それは手動式であろうがハンズフリーであろうが変わらない。要は、車の操作能力への影響ではなく、注意力や意識に対する影響である。一方で何かを聞きとり、もう一方で何かを考えると、脳のなかで注意力を必要とする仕事の数が増えるほど、それぞれの作業の質は落ちる。ケータイをつかうと、注意力や視覚的な認知力が大幅に損なわれる。これに対して助手席にいる人と話すのは、ケータイで話すよりも問題が少ない。助手席の人と話しても運転能力への影響はゼロに近い。なぜなら、隣の人との会話は話が聞きやすく、分かりやすい。ケータイほど、会話に注意を奪われずにすむ。第二に、助手席の人も前方を向いているので、何かあると気がついて知らせてくれる。ケータイで話している相手には、そんなことはできない。第三に、ケータイで話していると、たとえ運転の難しい場所にさしかかっても、ケータイで会話を続けたいという強い社会的欲求の下にある。なーるほどですね・・・。
カーナビの指示だけを見て運転し、走ってくる列車の目の前で線路を横断させようとした人がいる。ドライバーは、カーナビを見るのに忙しくて、目の前にある標識を見落としがちになる。うひょう、これって怖すぎですよね。
聞いた物語を何回となく話していると、それを暗記してしまいやがて、自分の体験談と思い込むことがある。そうなんですよね。私も、それはいくつもあります。大学生のときの苛烈な経験のいくつかは、実際に自分が体験したことなのか、それとも後に学習したことによるのか、今ではさっぱり判別できないものがいくつもあります。
ヒラリー・クリントンはオバマと闘った2008年の大統領選挙において、1996年3月にボスニアの空港に着陸したときに自分は狙撃兵の銃火を浴びたと語った。しかし、実際には、歓迎式典に参加してボスニアの子どもにキスをしていたのであり、銃撃されたという事実はまったくなかった。ところが、ヒラリー・クリントンは間違いを証明されても、自分のミスをすぐには認めなかった。そのため、選挙に勝つためには、どんなことも言う人間だと思われ、結局、選挙戦でオバマに敗れた。うむむ、思い込みというのは恐ろしいですよね。
能力の不足は、自信過剰としてあらわれることがある。うむむ、これはすごい指摘です。私の身近にも、そんな人がいます。他人のことはあまりとやかく言えませんが、客観的に無知な人ほど自信過剰になりやすいものです。お互い謙虚さを大切にしたいですね。
裁判の証人が確信を持って証言しているときでも、それが客観的な真実に反することは少なくない。自信の強さは証言内容の正しさと結びつくが、完全に結びつくというわけでもない。
人が誰かの視線を感じることなど、実際にはありえない。この本では、そのように断言しています。しかし本当でしょうか・・・。心霊現象などまったく信じない私ですが、五感の次の第六感はその存在を信じています。だって、現実に何かを感じることが多々あるのですから・・・。今の科学では証明できていない、何かがあると私は考えています。
脳トレなんて無意味だという指摘をふくめて、かなり刺激的な話が満載の本です。一読してみる価値はありますよ。
(2011年4月刊。1571円+税)
2011年5月 8日
すべての生命に出会えてよかった
生き物
著者 桃井 和馬 、 出版 日本キリスト教団出版局
世界中の、140ヶ国に出かけて取材を続ける写真家による貴重な写真レポートです。
地球には、ひとつだって無駄な存在はない。すべての生命、すべての出会い、すべてはすべて連なっている。だから、無意味に死んではいけない。だから、人が人を殺してもいけない。
生きとし生けるものの躍動感がよく伝わってくる写真が続きます。そして、世界の人々の表情豊かなスナップ写真があります。白一色の凍れる世界で吹雪に耐える白鳥たちは、次に来る春をひたすら耐えて待っているようです。ぐっすり眠りこけているアシカの寝顔は、夢見るしあわせな時間をよくぞ表象しています。そして、ライオンの赤ちゃんが大人のメスライオンの群れのなかで気持ちよさそうに寝入っています。
ツバルの少女のきらきらと光輝く瞳がとくに印象的です。未来は青年のもの。いや、未来は子どもたちのものなんです。青年、そして子どもたちの豊かな未来をきちんと保障するのは、大人とりわけ年寄り(私も当然その一員です)の責任です。子どもは、いつくしみと愛情に溢れている。ホント、そうでなければいません。
この写真集は、フォトジャーナリストとして、世界各地で紛争を追い求めてきた著者によるものです。
自然という、複雑で大きなメカニズムの一部として生かされている人間、そうであるなら、同じ宗教や民族の中で争うことも、宗教や民族で殺しあうのもあまりに空しい。
自然と、生き物と、子どもたちと、そして壮年や老人の生き生きとした姿がよくも撮られています。奥の深い写真集でした。
(2010年10月刊。1800円+税)
2011年5月 7日
武士の町、大坂
日本史(江戸)
著者 藪田 貫、 出版 中公新書
オーストリアのお城で大坂図屏風が最近(2006年)になって発見されたというのも不思議な話です。この本でも、どうしてオーストリアまで渡ったのか不明だとされています。不思議な話ではありますが、なにはともあれ、1600年の関ヶ原合戦の前の大坂城の様子が描かれていますから大きな価値があります。
大坂には、町人が35万人から40万人いて、武士は800人、人口の2%しかいなかった。
下宿(したやど)とは、公事・訴訟のために、町人や村人が町奉行所などに出向くときの待機所のこと。公事・訴訟は、近世における民事・刑事双方の裁判訴訟をさす。公事(くじ)のうち、金銭の貸借にかかわるものは金(かね)公事として、それを専門に扱う「御金日」が設けられていた。
文政13年(1830年)の10ヶ月の訴訟総数は7222口、うち「糾し」が358件(5%)、公事総数4592口、うち「糾し」が202件(4%)だった。
大量の訴訟事件を2名の町奉行と、わずかの吟味与力の手で処理するのは不可能だった。そこで、訴訟は遅延し、内済(ないさい。和解)がまん延した。奉行は定期か不定期を問わず与力や同心への褒美を欠かさない。優れた与力や同心がいるかどうかは、町奉行の実務に直結し、ひいては功績に結びつく。
久須美祐明は、73歳にして町奉行になった。わずか300俵の大坂町奉行も珍しければ、70歳をこえた奉行も空前絶後。もって生まれた身体強健・先祖以来の質実剛健の美質、それに加えて天保改革の追い風が73歳の久須美を大坂西町奉行にした。そして、この久須美は、75歳にして一子をもうけた。
いやはや、すごい老人ですね。そして、この老人は、三度三度の食事を刻明に記録していたのです。当時の日本の日常的な食生活がよく分かる貴重な記録となっています。
与力だった大塩平八郎についても、かなり詳しく紹介されています。大塩平八郎は、かなりの能吏であったようです。だからこそ、不正を許さず、庶民を助けようと義をもって決起したのでしょうね。
商人の町・大坂とは違った角度から江戸時代の大坂を知ることができました。
ちなみに今の、大阪はかつて大坂と書いていました。ですから誤記ではありません。
(2010年10月刊。780円+税)
2011年5月 6日
日本一の秘書
社会
著者 野地 秩嘉 、 出版 新潮新書
弁護士である私は、サービス業の一員だと自覚しています。ですから、サービスの極意を極めたいという気持ちが常にあります。この本は、そういう意味で読みました。今さら私が秘書になろうというのではありません。この本は秘書のことも書かれていますが、要するにサービス業界で頂点に立つ人々を紹介していて、大変参考になります。
トップバッターで登場するのは、横浜港に面したホテルニューグランドの名物ドアマンです。私も、このホテルには、昔、一度だけ入って、レストランでカレーライスを食べた気がします。戦前の1927年にオープンしたクラッシック・ホテルです。このドアマンさんは私と同世代のようです。ドアマン37年といいますから、まったく私の弁護士生活と同じです。このホテルに来るお客さんのほとんどの顔と名前を覚えているそうです。だいたい4万人の顔と名前が一致する。うひゃあ、す、すごいです・・・・。
耳で聞いただけでは人の名前は覚えられない。はじめて来た人とは必ず握手をする。そのとき、相手の顔を見つめ、挨拶し、「お名前をうかがえますか?」と尋ねる。相手の人が「小泉です」とか言ってくれると、それで名前は忘れない。手を握りながら話をするから、相手の顔を忘れない。ええーっ、そうなんですか・・・・。
ホテルに不倫のカップルが来たときには、タクシーのドアを開けてはいけない。男性が先に車から降りてフロントで手続をし、女性は一拍遅れて車から降り、ロビーで待つのが定法だから。その見極めが難しい。
秘書は、カレーの「CoCo壱番館」の社長秘書が登場します。すごい秘書です。
秘書の仕事でもっとも煩雑で、手間のかかるのがスケジュール調整だ。いかに上司にスケジュールを守らせるかが秘書の役割である。秘書検定の合格者が320万人もいると知って大変驚きました。
事務所のフロアで電話が鳴ったときには、電話を取るのは仕事に精通しているものだけで、しかも、一番、二番と順番まで決まっていた。そして、社長は客の名前を聞き直すのを許さなかった。名前を聞き直されたら、客は不愉快になるからだ。一度で、ちゃんと覚えないとダメ。
うむむ、これは難しいですね。発音の悪い人もいますしね。
秘書は、いろいろ知っていても、ぺちゃくちゃしゃべってはいけない。秘書は、上司より目立ってもいけない。ところが、今では、パワハラやセクハラ防止のためか、一人の人間(社長など)を長く世話する秘書はいない現実がある。そうなんですよね。難しいところです。
犯人の似顔絵を描き続けた警察官がいます。多いときには年に167枚もの似顔絵を描いたというのですから、たいしたものです。
被害者から犯行状況の話を聞くときには、常にエンピツを動かす。そうすると、被害者は協力的になる。描くことに集中してはいけない。あくまで、聞くことが主体だ。いちばん大切なことは、絵を完成させようなど思わないこと。描きすぎてはいけない。また、本人が見て、怒るような絵を描いていけない。自分そっくりと驚くような絵を描く必要がある。似顔絵は、雰囲気と表情を描くものだ。
写真は顔の造作を表現したようなもの。だから、絵のほうが、本人の生(ナマ)の姿をとらえている。目鼻立ちと雰囲気と表情のすべてを短時間で一枚の似顔絵につくりあげる。
この似顔絵を活用する事件の大半は、強制わいせつと強姦罪だけである。
秋田のなまはげ素人一座の話も面白く読みました。子どもたちはサンタクロースは、小学校にあがる前には、本物のサンタクロースが来たわけじゃないことを知る。ところが、なまはげは小学校の高学年になっても、まだ本当にいると考えている子どもは多い。
子どもだからといって、手抜きはできない。子どもは手抜きに敏感だ。子どもたちは、ヒーローが窮地を脱するところを見たいのだ。そして、ショーのあとに握手会。実は、これが大切。ショーよりも大切なのは握手会。子どもが本当に好きなのは、ヒーローと握手すること。
ふむふむ、なるほど、そうなんですよね。
博多の焼鳥屋も登場します。さっと読めて、なるほどと参考になる、ひらめきの本です。
(2011年3月刊。700円+税)
2011年5月 5日
絵が語る知らなかった江戸のくらし
日本史(江戸)
著者 本田 豊、 出版 遊子館
農山漁民の巻です。たくさんの絵があって丁寧に解説されていますので、江戸時代の農村、山村そして漁民の暮らしぶりが実によく分かります。
江戸時代は離婚率の高い社会だった。女性も男性も、結婚と離婚は何度か繰り返した、というのが本当の姿だった。
農薬が普及する前、稲作農家にとっての大敵はイナゴだった。鯨油を田んぼに流して幼虫のうちにイナゴを駆除する。また油を燃やして駆除する方法もあった。
農村では、意外に麦が作られていた。麦からは味噌が作れたし、麦は栄養価が高い。アワやヒエなどの穀物と一緒に食べると、かなり栄養価があった。
牛は農家の重要な労働力だったが、食肉でもあり、牛肉の美味は庶民も知っていた。江戸時代には、馬は5軒の農家で1頭は飼っていた。しかし、農民が馬に乗って走りまわることはなく、馬は大切に扱われていた。
全国の被差別部落のうち、皮革に関係していたところはごく少なく、圧倒的多数は農業を営んでいた。動物の解体をしていたのは、穢多や皮多といわれていた人たちだけではなく、農民もやっていた。農民と長吏や皮多は、お互いの権利を侵害しないように住み分けていた。
冬にはワラ布団に家族全員が入って寝ていた。
農家は野良仕事の合間にしっかり食べていた。そうしないと体力が持たないからだ。
江戸時代には、風呂というと行水のことだった。
上野国(群馬県)がカカア天下だというのは、養蚕が女性の仕事だったから。現金収入があり、女性は権利意識が強くなって、発言力も強かった。
ゴボウは漢方薬として日本に渡来した。ゴボウは便通を良くし、腸内でビタミンを生産する。ところが、ゴボウを食品として利用しているのは、世界でも日本くらいのようだ。
土人というのは地元の人という意で、明治になって差別的な考え方がついたが、江戸時代には差別語ではなかった。
旗本としての吉良家の財政は三河国で良質の塩田をもっていたことから、豊かだった。ところが、後発の赤穂藩で塩田経営に乗り出して成功したため、三河の吉良家の塩が売れなくなった。こうして浅野家と吉良家は対立を深めていった。吉良家では、浅野家の塩が売れないように妨害した。その恨みが、江戸城で刃傷沙汰になった。
うひゃあ、忠臣蔵は塩の販売競争が原因だったんですか・・・。とても面白い本でした。
(2009年5月刊。1800円+税)
2011年5月 4日
さもなければ夕焼けが こんなに美しいはずがない
社会
著者 丸山 健二、 出版 求龍堂
安曇野にこもり、ただ一人の力で執筆と作庭に明け暮れる小説家のエッセイです。
芥川賞受賞作家が執筆活動とあわせて壮絶な庭づくりに挑んでいる状況が伝わってきます。ちょっと真似できません。今回も口絵の写真で庭が紹介されていますが、まさしく芸術作品と言うべき庭です。私の庭のように、春はチューリップ、なんていうのんびりしたトーンとはうって変わって、自然との真剣勝負を感じさせる緊張感あふれる作庭の業です。
庭作りは、自分好みの植物を片っ端から集めて植え、あとは水と肥料さえ与えておけばひとりでに様になってゆくと考えるのは大きな間違いだ。
庭と自然の決定的な差異は、要するに秩序と無秩序の違いだ。庭においては、膨大な時間を短縮するための絶え間のない手入れが欠かせず、人為的に、やや強引とも言える秩序を施してやらなくてはならない。
大胆に棄てられない、優柔不断な性格の持ち主には作庭は向いていない。
美は無限であり、底無しであって、ために、ひとたびそこに足を踏み入れ、本道を歩むことの醍醐味を味わってしまった者は、二度と抜け出せない。
となると、日曜の午後に何時間か庭に出ているだけの私なんか、とても庭づくりをしているとは言えないわけです。それでも、1年中、庭に出ていると、少しずつ庭の様相も変わってはきているのですが・・・。
著者の庭は350坪。私の庭はせいぜい80坪もあるのでしょうか・・・。その350坪をめぐって展開する美の葛藤・・・。
華道家と作庭家との決定的な差異は、植物を単なる物と見なすか、生き物と見なすかにある。
私は、庭に咲く花を摘んで生花として家の中に飾ることはしません。できないのです。せっかく生命を咲かせてくれた花を摘むなんて、心情として忍びがたくて、私にはできません。ただ、風に倒されてしまったような花は、もったいないので、摘んで花瓶に差して賞でてやります。その美がもったいないからです。
この本のタイトルは18世紀の詩人の詩の一節だそうです。
庭作りの執念を文章にすると、こんな本になるのですね。都会ではない、田舎に棲む良さの一つが花を育てることです。その一点で、私は著者の言動に共感します。
(2011年2月刊。1600円+税)
2011年5月 3日
廃墟となった戦国名城
日本史(戦国)
著者 澤宮 優、 出版 河出書房新社
この本に登場するお城のなかで私が行ったことのあるお城を先に挙げてみます。
安土城、大阪城、肥前名護屋城、上田城そして原城です。
安土城には2度行きました。安土城の大手道は広くて一直線に山をのぼっていきます。両側に秀吉邸跡そして前田利家邸跡があります(いずれも「伝」となっていますので、確定したものではないようです)。そして、天守閣のあとの礎石が残っています。
五層七階、地下1階、地上6階。壁の色は、下部が黒、上部が白。上部3層は金や朱の色で飾られていた。この天主台跡地に立つと、信長が天下を見下ろしていた気分をいくらか偲ぶことが出来ます。安土城の石垣をつくったのは石工集団の穴太(あのう)衆だとされていますが、この本は、それを否定しています。
むしろ、信長は寺院建設に生かされてきた石垣をつくる技術者たちを寺院から解放し、再編して安土城の石垣造りに生かした。
肥前名護屋城は、玄界灘に面した高台に今も廃墟が残っています。すぐそばに立派な博物館があって、住時を偲ぶことが出来ます。秀吉は16万の兵を朝鮮に渡らせた。名護屋城には徳川家康ら11万、京都に警護として秀次ら10万の兵が置かれた。総勢37万の挙国態勢だった。
この出兵は朝鮮半島を植民地として支配するのではなく、明(中国)征服のために朝鮮半島全滅に道筋を確保することにあった。実に途方もない発想です。いくらなんでも、誇大妄想としか言いようがありませんね。独裁者の思い込みというのは、いつの世も恐ろしいものです。今も昔も何もない名護屋城がこのときばかりは20万人の大都市に変貌したというのです。
島原の乱の激戦地である原城跡に行ったのは、つい最近のことです。現地に着いてみると、海に面した丘陵地帯で、ほとんどが農地になっています。土産品店も何もありません。立て籠もった兵力は2万3千人。女性と子どもも1万4千人いた。命令系統をきちんとして、住居グループごとにまとまった小屋を建てた。信仰を基盤とした結束が生かされた。戦後、徹底的に破壊されたわけですが、それでも地下を掘ると、今でも当時の人骨が出てくるそうです。幕府軍は3万7千人を皆殺しにしており、一人も(1人の画師を除いて)助かった人はいません。
日本には、まだまだ行ってみたい廃城があることを知ります。小田原城も高天神城もいってみたいものです。
(2010年12月刊。1700円+税)
2011年5月 2日
33人チリ落盤事故の奇跡と真実
アメリカ
著者 マヌエル・ピノ・トロ 、 出版 主婦の友社
チリ鉱山で、700メートルの地底に2ヶ月以上も閉じ込められ、全員が無事に救出された状況が描写されている本です。
サンホセの鉱脈は、1889年に拓かれてから100年以上たっている。坑道は地下800メートルの深さまで、らせん状のスロープになっている。100年もの間、作業員は量りきれないほどの銅や金を採取してきた。
落盤事故から2週間たった。33人の居場所を探すために、砂漠の地面を掘る掘機を操作していた。ドリルがふっと何かをつき抜けた感触がした。そして、かすかな衝撃があった。急いでドリルを地底から引き揚げる。ドリルを見ると、先端あたりに赤い色がついているのが見えた。地底の作業員たちがドリルに色を塗ったのだ。ドリルの中身を引き抜くと、何かくくりつけたものが出てきた。湿ったビニール袋がくっついている。しかも中に紙が入っていた。くしゃくしゃの紙に文字が書かれている。
「我々33人は、避難所にいて、生きている」
すごい感激の一瞬でした。しかし、問題はそこから始まります。どうやって救出するか。地底の人たちが耐えられるかです。
やがて地下700メートルの深さから映像が届き、電話で会話できるようになった。地下の気温は34~35度。湿度は80%をこえる。避難所は50平方メートルの広さで50人が収容できる。酸素ボンベで、食料、水が貯蔵されていた。乾電池もライトもある。地下には人工的な昼と夜がつくりあげられた。
地下の作業員が四六時中、救出のことばかりを考えて過ごすようなことがないように、不安材料はなるべく取り除く。地下の作業員はグループに分かれ、仕事を割り振られてシフト制で働いた。これが士気を高め、雰囲気の改善につながった。
家族との対面は1分間。そして絶対に落ち込ませないよう、明るく穏やかな話題だけにすることという条件がついた。
アルコールは地下の作業員には差し入れなかった。集団に深刻な精神的不安定をもたらす危険があるからだ。湿度のせいで、より早く汗をかくので、外の環境と同じ方法では、アルコールは身体に吸収されない。
33人の着る服は、特殊繊維のもの。非常に優れた通気性をもち、防水性があって汗を効果的に発散できるため、皮膚を常にドライに保てた。そして、抗カビ作用もあった。
2010年10月13日、70日ぶりに地上へ生還した。救出作戦は23時間に及んだ。
すごいですね。33人もの男たちが70日間も700メートルの地底に閉じ込められ、そして全員が生還したのですからね。勇気と知恵あふれたチリの人々に拍手を送ります。
(2011年2月刊。1500円+税)
2011年5月 1日
胎児の世界
人間
著者 三木 成夫、 出版 中公新書
1983年に初版が出ている古典的な名著だというので読んでみました。
人間が生まれる前、母体でどんな生活をしているのか、その形や顔、そして機能はどうなっているのかを教えてくれる本です。
胎児は3ヶ月になると、一人前に舌なめずりをし、舌つづみを打ちはじめる。
胎児は羊水に漬かっているが、この羊水を思いきり飲み込む。来る日も来る日も、これを飲み続ける。こうして羊水は、胎児の食道から胃袋までくまなくひたし、腸の全長に及ぶ。さらに、肺の袋にまで液体は流れ込む。羊水呼吸は、半年にわたって、出産の日まで続く。出産のとき、この羊水は最初に勢いよく吸い込まれた空気に押されて、たちまち両肺の周辺部に散らばり、一種の無菌性肺真の状態となる。これは一ヶ月で血中に吸収される。
ニワトリの卵は21日で孵化する。ところが、温めはじめた4日目、正確には4日から5日にかけて、それは一つの危機を迎える。同じように、胎児の発生は決して一様ではない。途中、山あり、谷あり、ときには危険な時期もある。
40日を迎えた胎児の顔はもはやヒトと呼んでも差し支えない顔をしている。真正面を向いた二つの目玉と、大きな鼻づらがある。
60日目の胎児になると、巨大な大脳半球が目立つ。
人間が人間となっていく過程を明らかにしていく、この本を読むと、その神々しいまでの神秘さに沈黙せざるをえません。こうやって、この世に生まれてきたんだね、生きてて、良かったね、っていう感じです。
(2007年10月刊。700円+税)
2011年5月31日
劉暁波と中国民主化のゆくえ
中国
著者 矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子 、 出版 花伝社
天安門事件の真相が語られています。解放軍の戒厳部隊が広場にいた学生などを虐殺した。その数、およそ4千人という報道があふれていました。ところが、その後、いくつか本を読んでも、そんな状況は描かれていません。おかしいと思っていましたところ、現場にいた学生たちのリーダーが威厳軍の現場指揮官と話し合って、広場での死者を出さずに撤退していたというのです。中国当局の公式発表の死者319人よりも多いものの、千人の大台をこえることはまずないということです。そして、日本のマスコミはそのことを現場に記者がいて知りながら訂正記事を出さなかったというのですから、ひどいものです。
今度、ノーベル賞をもらった劉暁波は、広場からの撤退をリードした指揮者の一人でした。そして、天安門事件のおよそ3週間後に中国当局に逮捕されました。
劉暁波は1955年生まれ。中国のあの文化大革命時代に青年期を送り、そのとき撤退的に考え、思想形成をした。
文化大革命が終わると、中国の知識人が、なぜこんなにもデタラメなのかと劉暁波は怒った。中国共産党の心ある人たちも、今のままではいけないと思っている。しかし、それを実現するためには、中国共産党がスムーズに複数政党制や民主主義に離陸できるような路線を敷いてくれないといけない。そうでないと、騒乱状態、暴力対立が起きてしまう。こんなロジックに、知識人がからめとられている。
中国の民主化運動の指導者たちは、外国に亡命したら、国内に拠点がなくなり、根無し草で何もできない。中国の温家宝の息子や全人代委員長の呉邦国の娘婿や李瑞環の息子たち、政治局の幹部の子弟はアメリカの投資企業などのドルに汚染されてしまっている。
中国内部はバラバラ、明らかに差別構造が強固に存在する。国内植民地をつくる体制だ。農民から収奪し、安い労働力として使えるだけ使うが、都市民の持っている福利厚生は一切与えない。
貧しい民が大勢いるなかで、輸出一辺倒の政策をとるのは、飢餓輸出になる。
いま中国は、特権まみれの社会である国家資本主義というより、官僚制資本主義である。石油、電力、兵器、通信、運輸など、大企業はすべて軍産複合体である。育ってきた民営企業は、あまりにもうかると、どこかに邪魔をされる。それを防ぐため、有力な国営企業に株をもってもらい、保障してもらう。
今や、太子党の全盛時代である。太子党とは、革命元老党、革命元勲党、解放軍元老党、既得利益擁護党という強大な利益集団の別称である。革命後60年、中国の老幹部たちは、恵まれた特権や高給を保障され、それを子々孫々継承してきた。このような特権を贈与し、贈与されつつ既保権益を死守する精神が、中国共産党の建党精神とまったく乖離しているのは明らかだった。しかし、このような利権まみれ幹部の子孫、特権の世代間承継者こそが太子党のイメージである。
そこで、腐敗がすすむと、この体制が崩壊するかというと、おそらく絶対に崩壊しない。なぜなら、崩壊させる人々や活動家がいないから。中国では、支配する階級と膨大な被支配階級に分裂している。いい大学を出て党幹部のエリートコースを昇り、上に行く可能性は開かれている。だから、支配体制はけっこう強い。党の内部では、ある程度、昇進の道が開かれている。
7800万人の党員がいて、メールで密告するボランティア監視人は30万人もいる。中国共産党は決して弱い組織ではない。
膨大な地下資源の眠るアフリカは典型的な発展途上国地帯で中国資本の開拓地となっている。中南米にも、ものすごい勢いで中国資本が入っている。
中国は2006年までに4000億ドルのアメリカ国債を買い、今では1兆ドルに近い。だからもう米中は敵対関係ではなく、「利益共同体」だ、アメリカのゼーリック国務副長官がこのように宣言した。中国の債権は最大であり、アメリカの対外債務の2割も持っている。だから、アメリカは中国を味方にするしかないと決意した。アメリカはもう日本を頼りにしていない。
ところが、日本のマスコミは、日中が対立したときには「アメリカが助けてくれる」という幻想をふりまいている。とんでもない世迷い言である。アメリカの国益からしたら、日中どちらかの二者択一を迫られたら、文句なしに中国を選ぶはずだ。アメリカが中国と本当に対立したら、核戦争を免れない。それを避ける装置が対中戦略対話なのだ。
現代中国の本質を知ることのできる貴重な本だと思います。
(2011年4月刊。2200円+税)
2011年5月30日
視覚はよみがえる
脳
著者 スーザン・バリー 、 出版 筑摩選書
人間は三次元で思考する。48歳にして立体視力を奇跡的に取り戻した神経生物学者が、見えることの神秘、脳と視覚の真実に迫る。
これは本のオビに書かれているフレーズです。脳って固定的なものではないのですね。これがダメなら、あれでいこう。あれがダメなときには、とりあえず、こうやって対応しておこう。こんな具合に融通無碍に対応できる、とても可望性に富んだ器官なんです。
宇宙飛行士が地球に戻ってきたとき、しばらくはヘマばかりしてしまう。なぜか・・・?
大気圏外の自由落下状態にいると、内耳の感覚器官である前庭器官が正常に働かなくなる。宇宙飛行士は、帰還して3日目にようやく正常に戻ることが出来た。むむむ、うへーっ・・・。
人間の赤ちゃんは、生後四ヶ月までは、立体的に物を見ていない。目を内側に寄せる能力、ふたつの像を融合させる能力、立体的な奥行きを認識する能力の三つは、ほぼ同時期に発達する。視力(視精度)が良好なことと視覚が良好なことは、同じではない。文章を読むには、1.0の視力以外のものが必要だ。文字の羅列から意味を読みとれなくてはならない。
ほとんどの人は、文章を読むときに必ずしもページの同じ場所に二つの目を向けてはいない。読む時間の50%は、左目が見る文字のひとつが、ふたつ右の文字を右目が見ている。読み手にとって、この状態は問題を生じない。というのも脳がふたつ目の像を一つに融合しているからだ。情報は協調のとれた形で結合されている。ふむふむ、さてさて・・・。
世界をなんらかの形で細かく知覚しようと思ったら、同時に身体を動かさなくてはいけない。それどころか、体の動きを計画する行動は、おおむね無意識に行われるが、この計画行為こそが目や耳や指の感覚を研ぎすませている可能性がある。知覚と体の動きは、双方向的。絶え間ない会話によって密接に結びついている。
人間の脳のなかには、未開発の配線が数多くあり、その配線は、たとえば新しい技術を身につけるとか、脳卒中から回復するとかいった状態によって活動せざるをえなくなるまで、いつまでも未開発でありつづける。損傷から回復したり、新しい技術を学んだり、知覚を同上させたり、さらには新たな主観的な感覚を身につけたりするために、脳は一生のあいだ配線を変えつづける。
著者は、幼いころ内斜視を発症し、その後、3回の外科手術によって目の位置はそろったものの、二つの目で同時に物を見ること、すなわち両眼視がうまく出来ないまま成人しました。そして、40代の半ばを過ぎて視能療法を受けて思いがけずに立体視ができるようになったのでした。そのことへ驚きと喜びと戸惑いの入りまじった強烈な感情がこの本にしるされています。
視覚障害者とは、単に目の見えない人ではなく、むしろ視覚なしで世界で対処できる脳と技術を発達させた人なのである。このように書かれていますが、この本を読むと、それが納得させられます。
(2010年12月刊。1600円+税)
2011年5月29日
「ユーラシアの東西」
中国
著者 杉山 正明 、 出版 日本経済新聞出版社
私より少し若いだけ著者ですが、その博識には驚嘆せざるをえません。しかも、いくつもの外国語に堪能のようです。うらやましい限りです。私は英語はまるでダメ、フランス語だけ少々話せますが・・・・。
ロシアの内実は、すきまだらけで不安定きわまりなかった。国域の大半は、広漠たる未開の原野であり、他国からの侵略を恐れるほどの魅力もなかった。基本的に、一方的な侵略国家でいられた。ただ、ナポレオンやヒトラーがロシアを敵視して攻勢をかけたとき、尋常でない国土の広さと都市・町・村落の乏しさ、「社会資本」の未整備が逆に救いというか、武器となった。侵略軍は、個々の戦闘には勝っても、補給線のあまりの長さに疲れ果てた。なーるほど、これは、よくよく分かる解説です。
現代中国では13億人の人口のうち、1千万人くらいの富裕層しか中国の主要大学には入れないという現実がある。うむむ、そうなんですか・・・・。
鎌倉幕府にとって、モンゴル軍の2回目の侵攻がすんだあと、3回目こそモンゴル軍は本気で来るとよく分かっていた。そのプレッシャーは十数年も続いた。当時の支配当局(北条執権)は、モンゴルの動向をよく察知していたので、いわば国をあげてモンゴル軍への備えをせざるをえなかった。
モンゴル襲来のとき、モンゴル・高麗連合軍が済州島から逆に東に出撃して、そのままダイレクトに対馬に上陸するのは、地図の上では簡単だとしても、それは海流のうえで、不可能だった。
このモンゴル軍による日本襲来について、整然と2方向から艦隊を組んでいたという人がいる。しかし、そんなのは机上の空論に過ぎない。そのころの航海は動力を使わずに、南の風まかせでしかなかった。艦隊なんか組めなかったのですね。
震旦とは、サンスクリット訳の漢字音読である、チーナスターチと同じ意味。イースタンとは、サンスクリットやペルシア語に通暁している。
清朝は、その内実は、満州族で一本化できず、満州族とモンゴル族を二本柱とする満州・モンゴル連合政権を組んでいた。
モンゴル帝国の歴代皇帝は自らを文殊菩薩だとしていた。文殊菩薩をマンジュシュリーという。満州とは、文殊=マンジュに由来する。
ウラジオストクというのは、ウラジとは征服せよという意味で、ヴォストークとは東方のことなので、東方を正副せよということ。
ヒンデュークシュとは、インド人殺しという意味だ。
日本の長弓は、3百メートルは飛ぶ。モンゴル式の短弓は100メートルしか飛ばない。モンゴル式の短弓は連射には向いている。
バサラとは、サンスクリットのヴァジュラ。金剛、つまりダイアモンドのこと。
能の起源も大陸にある。難儀という仮面劇で伝統演劇であった。これが能のもととなった。昔のアジアの西のことを知ることのできる本でした。
(2010年12月刊。1800円+税)
2011年5月28日
世界の少数民族文化図鑑
人間
著者 ピアーズ・ギボン、 出版 柊風舎
この地球上には、さまざまな文化を持って生活している少数民族が無数に存在していることを実感させてくれる大型の写真集です。少数民族といっても、合計すると1億5千万人だといいますから、決してちっぽけな存在というわけではありません。
みんな違って、みんないい。
金子みすずの詩が思い起こされます。
結婚とは、両家族のメンバーに移動があることを公然と明らかにする儀礼のことである。そして、経済的な責任を必然的にともなう契約である。
お互いに惹かれあう大きなポイントは、健康的な赤ん坊をつくりたいという願望からきている。ヒップとウエストの比が平均で0.7というのは、つまり「砂時計のように腰のくびれた」女性の体形は、健康体であるとともに子どもを出産する能力の指標といえる。
互いに一番よい組み合わせとなる遺伝子型をもつ相手、つまり遺伝学的に適合した相手を求める傾向がある。匂いは身体的な魅力に欠かせない要素である。人は、お互いに健康な子孫をもてそうな異性の匂いにのみ惹きつけられる。女性は、遺伝子的に自分と似ていない男性により強く惹かれる。そんな二人が結ばれると、免疫遺伝子の幅が広がり、健康な子孫を持つ可能性が高まる。逆に、よく似た匂いをもつ男女は、お互いに避ける傾向がある。なーるほど、そういうことも言えるのですね。
ダウリ(持参金)は、しばしば娘の嫁ぎ先へ「支払うこと」と説明される。しかし、ダウリの恩恵を得ているのは当の娘であり、お金は彼女と彼女の新家族のものである。ダウリは息子ではなく娘の結婚に支払われるが、その理由の一つは、息子は遺産を相続するが、娘はその機会がないことにある。相続することのできない娘への賠償がダウリであると言える。ふむふむ、改めて認識しました。
カラハリ砂漠のクンの女性は、ブッシュのなかで赤ん坊を産み、彼女1人が母親のみの付き添いで対処する。もし彼女が育てないと決めたら、赤ん坊は産まれてすぐ窒息死させられてしまう。これは罪とは見なされず、やむをえないことだと同情される。というのも、砂漠は人々に十分な食料をもたらさないので、余分の子どもを養うことはできないからだ。
インド北部のヒンズー社会において、高位のカースト社会の妻は夫と離婚することはできない。彼女の献身のあかしは、夫が死んだとき、夫を火葬するために燃えさかる薪のなかに身を投げ出し、夫の遺体と一緒に荼毘に付されることである。ただし、妻を亡くした男は再婚が期待される。うへーっ、これって恐ろしいことですね。すぐにも止めさせなくてはいけませんよ・・・。
アラスカのイヌイットの人にとって、離婚とは単に夫と妻がもはや一緒に暮らさないというだけのこと。結婚は永久的な結びつきではないので、離婚という概念すら必要ない。
カラハリ砂漠のクンは平和を好む人たちである。この首長の地位は、一般に父から息子へ継承されるが、父から娘へ受け継がれる場合がある。
クンは肉をバンド(集団)内で分配する習慣を忠実に守っている。しかし、その量は食料全体の摂取量の20%にすぎず、しかも、彼らが取り入れるタンパク質のほぼすべてである。食事は一人でとってならないという規則があり、複雑な分配の仕方をする。クンの食べ物の80%は野生植物からである。
いやはや地球は広いんですね。少数民族とその文化を知ることは、人間というものを知ることだとつくづく思いました。高価な本ですが、それだけの価値はあります。
(2011年2月刊。1300円+税)
2011年5月27日
マリー・アントワネットの宮廷画家
ヨーロッパ
著者 石井 美樹子 、 出版 河出書房新社
フランス革命の前後を生き抜いた美人の女性画家の生涯を描いた本です。
マリー・アントワネットなど、ヨーロッパの貴人たちの肖像画を数多く描いた画家ですが、この本で紹介されている肖像画も本当によく出来ています。人間の気高さがにじみ出ている見事な肖像画です。美人とはいえ、家庭生活の方は必ずしも幸福一途ではなかったようです。なによりフランス大革命によって、身近な人々が次々にギロチン台へ送られていったとき、どんなにか心細かったことでしょう・・・。自画像を見ると、才能のほとばしりを感じさせる美女だと思わせます。
ルイ16世時代のフランスは、アメリカの独立戦争に肩入れして、軍隊を派遣し、フランスの国庫は破産寸前になった。1788年、つまりフランス大革命の前年には、債務の利息として支払う金額は国庫の42%にもはねあがった。国家破産の大きな理由のひとつは、貴族や聖職者が昔からの特権にしがみつき、税金の支払いを拒否していることにあった。国民は善良な国王を批判するのをためらい、外国人であるマリー・アントワネット王妃に非難の声を向けた。王妃のぜいたくだけで国家が財政難に陥るはずもないが、当時のフランスの国情はスケープゴート(犠牲者)を必要としていた。
マリー・アントワネットの肖像画を見ると、かなりの知性を感じさせる女性として描かれています。その境遇からは、決して庶民の気持ちを理解することはできなかったのでしょう。時代の哀れな犠牲者だったということなんでしょうか・・・。
画家はロシアのエカテリーナ女帝のところにも身を寄せます。
エカテリーナ女帝は若い男性しか相手にしなかった。それには理由があった。年配の愛人を持てば、愛人が女帝を支配しているという印象を世間に与えてしまう。女帝は誰にも支配者の侵害を許さなかった。身体は女性でも、支配者としては男であるとエカテリーナは常に主張した。
エカテリーナは啓蒙主義を信奉する君主として喧伝されたが、その思想には限界があり、農民一揆がうち続くと、反逆農民に対する残虐な報復を許した。エカテリーナは、ウィーンやベルリンに、国結してフランスの王政を復古しようと呼びかけたが、フランス人の亡命がロシアに流入すると、考えを変え、指一本あげようとはしなかった。
フランスの亡命貴族を助けると宣伝しながら、彼らのぜいたくな暮らしぶりを見て、援助する気持ちを失った。なーるほど、やっぱり支配者なんですね。
ルイーズ・ヴィジェ・ルブランは、ついに祖国フランスに戻ることができた。12年ぶりのころだった。そして、1842年、86歳でルイーズは永遠の眠りについた。
ぜひ一度、本物の肖像画を拝みたいと思いました。
(2011年2月刊。2400円+税)
2011年5月26日
長崎奉行のお献立
日本史(江戸)
著者 江後 迪子 、 出版 吉川弘文館
江戸時代の長崎を中心とした食生活が紹介されている面白い本です。
徳川幕府は長崎を直轄地とし、遠国(おんごく)奉行の一つとして長崎奉行は幕末まで常置された。長崎奉行の役割は、唐およびオランダとの貿易の管理、そしてキリスト教の浸透を監視するほか、市政や訴訟を担当した。長崎奉行は、はじめ一人制だったが、二人制、三人制そして元禄12年(1699年)からは四人制となった。この四人のうち二人は江戸詰だった。任期は決まっていないが、4年つとめた人が多い。
長崎奉行は、役目から中国やオランダからの輸入品の中から希望の品を一定の額内で先買いすることが許されていて、それを京都や大阪で高く売って利益をあげることが出来たので、羨望の的だった。役料以外の副収入が他の遠国奉行に比べて多かったということである。内外の商人や近隣の諸藩からの贈物もあって、副収入のほうが多かった。
丸ぼうろやかすていらが登場します。今も、長崎名物のしっぽく料理は中国渡来の食作法です。日本の様式は畳の上に、一の膳、二の膳、三の膳というように御膳で銘々に出されるもの。テーブルにたくさんの料理が並ぶのは、まったく新しいスタイルだった。江戸時代初期に長崎に来ていた唐人たちの多くは、祖国の混乱を避けて日本に永住帰化し、その子孫たちも日本社会に溶け込んでいった。この唐人たちは、キリスト教徒でなかったために、自由に町中に宿泊していたので、その風習は広く、深く、浸透していった。その後、密貿易が横行したため、元禄2年(1689年)に唐人屋敷が設けられて隔離された。そのとき5000人近くの唐人がいて、出島のオランダ商館ほどの厳しい管理はされていなかった。
江戸末期までオランダ、中国から砂糖が輸入されていたので、長崎には砂糖が豊富にあった。国産の砂糖は八代将軍吉宗のころからで、砂糖は長崎街道に広まった。将軍家への献上物として、佐賀藩と福岡藩は氷砂糖を送った。
牛肉食は、蘭学者をはじめとする知識欲旺盛な人々によって広まっていった。豚肉が長崎土産として家臣に配られたという記録がある。豚や鶏は、オランダ商館や唐館で日常的に使われる食材だった。
てんぷらは一般的に普及しなかった。その理由は、明かりのための燈油としての油の需要のほうが大切だった。
かすてらは、天皇に出されるほど珍しい高級な菓子だった。かすてらが全国に広まったのは朝鮮通信使の餐応の影響が大きい。坂本龍馬もかすてらを長崎で食べていた。
日本人が卵を食べるようになったのは、南蛮菓子かすてらやぼうろの影響が大きいとされている。寛永3年(1626年)、玉子ふわふわという料理が後水尾天皇に供された。
佐賀藩の殿様が参勤交代で出発するときの餞別に玉子80個が贈られたという記録がある。
江戸の食生活の実際を追究した貴重な本です。
(2011年2月刊。3000円+税)
2011年5月25日
韓国の徴兵制
朝鮮(韓国)
著者 康 熙奉 、 出版 双葉新書
私は日本に徴兵制がなくて良かったと心の底から思っています。それは何より憲法9条があるおかげです。青春まっただなかの貴重な2年間をあたら絶対服従、上命下服、暴力の横行する、合理的思考の通用しない組織の一員として毎日、人殺しの技術を叩きこまれ、殺人マシーンをつくり変えるなんて、とんでもない人生のロスではないでしょうか。
韓国の若者も除隊後、次のようにしんみりと語っています。
私たちは軍隊に行って、一日中、人をどう殺すかということを教えられる。どこをやれば致命傷になるか、そんなことをずっと学び続ける。これは、とても怖いことだ。自分も一発で殺されるおそれがあるわけだ。
次は別の若者の話です。
もう二度と行きたくない。軍隊で学ぶことは何一つなかった。だから、もう一度行けと言われたら、絶対に逃亡する。地の果てまでも逃げて、逃げて、逃げまくってやる。
さらに別の若者の感想です。
軍隊生活は思い出したくないほど厳しかった。とにかく上官からの体罰が厳しく、血を吐くほど殴られた。軍隊のなかで一生懸命に生きていこうとしているのに、なんで人間以下の扱いを受けなければならないのか。悩み、死にたいと思った。軍隊は自分には耐えがたい場所でとても我慢できないと絶望していた。
ところが、やがて部下をもてるようになると少し気持ちが変わってきた。殴られるだけでなく、自分が殴れる相手ができたら、平気で部下を殴るようになった。部下を殴ることに徐々に快感を覚えていった。軍隊では人を殴ることが平然と許される。人を殴る快感を一度覚えてしまうと、やみつきになる。
人生で一番大切な時期に2年間も軍隊で理不尽な経験をさせられるのは、その個人にとってのマイナスだけではなく、国家的なマイナスだ。つくづくそう思う。
まったく同感です。多感な創造力あふれる青年時代に理不尽な暴力で鋳型にはめ込むなんて、およそ人類の英知を奪う暴挙としか言いようがありません。
韓国でも徴兵制の期間が次第に短くなっているようです。アメリカではベトナム戦争当時は徴兵制でしたが、金持ちと権力者(有力者)の子弟は兵隊にとられることなく、万一とられても前線に送られることはほとんどありませんでした。今の韓国でも、かつてのアメリカのような脱け道があるようです。軍隊が必要悪として、その存在を認めたとしても、やっぱり志願制ではないと士気もあがらないのではないでしょうか。
(2011年2月刊。800円+税)
2011年5月24日
弁護士を生きるパートⅡ
司法
著者 北海道弁護士会連合会 、 出版 民事法研究会
お待たせしました。弁護士を生きるパートⅠは福岡県弁護士会の編集によるものですが、今度のパートⅡは北海道の弁護士たちが登場します。南と北が出そろいましたので、次は中部か近畿あたりがいいですね。
北海道だけあって、南の九州ではとても考えられない弁護士像も紹介されています。
まず、トップバッターは、半農半弁で暮らす女性弁護士です。大阪から移り住み、馬を飼って乗馬を楽しんでいる弁護士がいることは知っていましたが、新聞記者をやめて農業で生きる決意した夫とともに北海道に移り住み、1年の半分だけ弁護士として活動している女性の弁護士がいるなんて、驚きました。しかも、さすが北海道の冬は厳しくて農作業が出来ないため、弁護士業務は11月から雪の溶ける4月までの半年間のみ、5月から10月までは弁護士業務をほとんどお休みしているというのです。依頼者にも、そのことをあらかじめ了解してもらって受任しているそうです。だから、法律事務所の看板も依頼者にしかわからないほど小さい。なーるほど、ですね。ただし、「のんびりした半農半弁生活」とはまったくかけ離れていて、気軽に進める気にはなれないとのこと。まあ、それでも、広い北海道の大地の一角で有機栽培に挑戦し、ファームレストランを維持するとは、たいしたものです。
二番手に登場してくる佐々木秀典弁護士は私が駆け出しの弁護士のころに東京で青法協の議長として活躍していました。故郷の旭川に戻って自民党代議士だった父親の後を継いで社会党の代議士になり、国会でも活躍しました。金大中氏が韓国のKCIAに東京から拉致されて殺害されようとしたとき、人身保護法による救済を東京地裁に申立したとのこと。最高裁は同法22条による自主処理権限で韓国大使館に金大中氏の存否を照会する処置をとった。このことは、アメリカの圧力とあわせて金大中氏の生命を救ったのです。のちに大統領になった金大中氏からとても感謝されたというのも当然ですね。
三番手の中村元弥弁護士は元裁判官。『こんな日弁連にだれがした?』という本を意識して、「左翼系」ではない元「世間知らずの判事補」として司法の現状を批判的に解説しているのも面白いところです。私自身は、そもそも「左翼系」とかというレッテルを貼って弁護士会を面白おかしく書こうとする『こんな・・・』の視点自体が根本的な弱点をもっていると考えています。
以下、いろんな分野における弁護士の活動が紹介されているのですが、福岡とは違って本人の書きおろしのため、学術的かもしれませんが、読みものとしての面白さに欠けるという難点があります。やはり、福岡のように本人に若手弁護士の前で語らせ、その面白さをキープしつつ、編集者のコンセプトをふまえて本人が手を入れていくという作業にしたら、もっと読みやすい本になったのではないかと思いました。
(2011年3月刊。2200円+税)
2011年5月23日
先生、キジがヤギに縄張りを宣言しています!
生き物
著者 小林 朋道 、 出版 築地書館
『先生!』シリーズも第五弾となったのですね。これって、すごいことですよ。もちろん、私は、全部よみましたし、このコーナーで全部を紹介しています。
鳥取環境大学という、あまり聞きなれない名前(失礼します)の大学で生物学(具体的には、動物と人間の行動学)を教える教授が、その授業の周辺で起きるさまざまな出来事を自慢話と蘊蓄たっぷりに語る抱腹絶倒のシリーズ本なのです。とりわけ写真が豊富にあるのが、私のような素人にとって理解を助けます。
スズメバチの巣が空になったところを今度はスズメが巣として利用する。それを観察している教授と学生たちを、スズメもじっと観察している。そんな写真もあります。さぞかし、このスズメも、この連中は何をしているのか不思議に思っていることでしょうね・・・。
フェレット(イタチによく似ています)の子どもは白い。なぜ白いのか?白以外の色であるためには、そのために特別な色素を細胞内で合成しなければならない。それにはコストがかかる。カモフラージュの必要のない卵は、たいてい白である。カモフラージュする必要がなければ、わざわざ白以外の色の素を合成したりはしない。なーるほど、そういうことなんですか・・・。
クザガメも登場します。カメの甲羅は、カメの身体の内部の肋骨が拡張したものである。そして、カメの成長にともなって甲羅全体が大きくなっても、六角パネルの数は変わらない。つまり六角パネルは、互いにモザイクのようにキッチリ並んだままで、一つひとつの六角パネルは、形を変えることなく、大きくなっている。ふむふむ、なるほど、ですね。
そして、カメの雌雄を判別する方法は・・・?
それには頭と両手両足を甲羅のなかへ強く押し込むこと。雄だと、尾が出ているところからペニスが出てくる。雌だともちろん出てこない。うーむ、それにしても、よく見ているものです。
クサガメとイシガメの違いは何か・・・?
ヒメネズミは森のなかで何をしているのか・・・?
小さな無人島で一人生きるシカは、どうやって生き延びているのか・・・?
この島には、大食漢であり、ミミズを主食物にするモグラがいないため、ミミズが繁栄し、それが複数のタヌキの生存を可能にしている。
わが家のすぐ近くの空き地にもタヌキの親子が棲みついていました。最近は、とんと姿を見かけませんが、どこかに立ち去ったのでしょうか、それとも、たまたま私が遭遇しないだけなのでしょうか・・・。
そしてこの本のタイトルにもなっている話です。キジの縄張りになっている草原にヤギがのんびりと草を食べているのがキジには気にいりません。なんとか脅して立ち去ろうとさせたいのですが、ヤギは知らんぷりしています。そこで、キジは一体どうするか・・・?!
飛びかかって、蹴瓜で攻撃したいのはやまやまなれど、それがうまくいくという保障は何もない。そこで、やむなく、キジはヤギを柵の上からにらみつけるだけにした・・・。なーるほど、鳥(キジ)と動物(ここではヤギ)にも、こんな葛藤があるのですね。
私よりはひとまわり下の「わかい」教授ですが、毎回とても面白く読ませてもらっています。先生、引き続きがんばって下さい。応援しています。
(2011年4月刊。1600円+税)
2011年5月22日
ニッポンの書評
社会
著者 豊崎 由美 、 出版 光文社新書
私が書評を書き始めたのは2001年のことですから、もう10年以上になります。初めのころは毎日ではありませんでした。そのうち1年365日、書評をアップするようになりました。単行本を最高で年に700冊以上、このところ年に500冊ほどは読みますので、題材には不自由しません。面白くなかったら書評は書きませんし、著者の悪口を書くつもりはまったくありません。だいたい読んだ本の7割について書評を書いていることになります。
この本によると、書評ブロガーのなかには著者をけなすのを生き甲斐にしている人もいるようですが、私はそんなことはしたくありません。悪口なんて書くのは時間がもったいないとしか思えません。読んだ本で、感動を覚えた箇所や、なるほどそういうことだったのかと認識させられた部分などを紹介したくて、こうやって書評を書いています。私自身はパソコンの入力作業はまったくしません。すべて手書きです。秘書に入力してもらって、それに赤ペンを入れるのが私の楽しみなのです。
読んだ本のこれというところには、いつもポケットの中に入れている赤エンピツでアンダーライン(傍線)を引きます。書評を書くときには、赤い傍線の部分を抜き出しながら文章を整えてきます。ですから粗筋を追うのは二の次となります。
著者は三色ボールペン(主として赤と黒)を使い、付箋を貼っていくということです。まあ私とだいたい同じやり方です。
書評家の果たしうる役目は、これは素晴らしいと思える作品を一人でも多くの読者に分かりやすい言葉で紹介すること。
小説を乗せた大八車の両輪を担うのが作家と批評家で、前で車を引っぱるのが編集者(出版社)、書評家は後から大八車を押す役割を担っている。
書評にとって、まず優先されるべきは読者にとっての読書の快楽である。書評は、まずなにより取り上げた本の魅力を伝える文章であるべき。読者が、「この本を読んでみたい」と思わせる内容であってほしい。
書評と批評は異なるもの。書評は、対象となっている本を読む前に読まれるものであり、批評は読んだあとに読まれるもの。
書評においては、読者から本を読む愉しみをほんのわずかでも奪うことがあってはならない。プロの書く書評には、背景がある。本を読むたびに蓄積してきた知識や語彙や物語のパターン認識、個々の本の出版が持っているさまざまな要素を他の本の要素と関連づける。それが書評と感想文の差だ。
書評をかくとき、一番気をつかうのは書き出しの部分だ。書評だって読みもの、文芸の一ジャンルだ。読んで面白くないものになってはならない。
この書評を一体どれだけの人が読んでくれているのか分かりませんが、私の力が及ぶ範囲で、これからも無理なく続けていくつもりです。どうぞ応援してやってください。
(2011年4月刊。740円+税)
2011年5月21日
しまむらとヤオコー
社会
著者 小川 孔輔 、 出版 小学館
有名な専門スーパーの発祥地が、なんと同じ埼玉県小川町にあったなんて、不思議な話です。どうしてそうなんでしょうか。たまたま、ほんの偶然ということなのでしょうか。そして、この本の著者も小川さんなんですよ・・・・。
しまむらもヤオコーも、どちらも東証一部上場企業。しまむらは全国展開し、福岡県にも店舗がある。ヤオコーは、関東地方のみで、そこでは100をこえる店舗をかまえている。そして、この二つとも、埼玉県比企郡小川町に生まれ、お互いに500メートルと離れてはいなかった。
両社とも、売上高成長率は年間10~15%。一度出店した店はむやみに閉じることはなく、ほとんどが営業を継続している。
ヤオコーは、ディスカウント路線とは一線を画し、人々に豊かな食生活を提案する「価値提案型企業」としてのポジションを崩さず、増収増益を確保してきた。ヤオコーの目ざす「個店経営」は、できるだけ店舗に自主性を持たせ、店ごとに品ぞろえを変えることをいとわない。「セントラルキッチン方式」一辺倒ではなく、作業効率を犠牲にしてでも、店内で食材を加工できる余地を残しておく。最終加工の作業プロセスを店内に残しておくのは、働く人のモチベーションを高め、来店する顧客に商品の新鮮さと売り場のにぎわいを提供するため。そのため、メニュー開発などに、パート従業員の知恵を積極的に活用している。
しまむらは、一貫して右肩上がりの成長を続けている。2010年の売上高は4296億円、経常利益は381億円である。しまむらの店舗は、店内の床もトイレの床も御影石だ。トイレはホテルなみに豪華にするというトップの考えによるが、そうすると掃除が楽という効果もある。うむむ、なーるほど・・・・。しまむらでは。仕事のマニュアルが確立していて、従業員は定時出社、定時退社で残業はない。うへーっ、これって、本当にそうなんですか・・・・?
しまむらの店長は、全員が正社員である。しまむらが店舗を探すときには、セスナをチャーターして上空から観察する。うひょーっ、これってすごいですよ。しかも、出店候補地の周囲2キロ圏内に小学校が3つあることを条件とする。3つの小学校があれば、5000世帯が商圏内に住んでいる。小学校の数は、世帯数や商圏人口を推計するもっとも優れた指標になる。
むむむ、これは、す、すごいです。さすが、ですね。
しまむらの商品の90%は中国製。しまむらで買った客は、隣の人と同じ服を着ることは、まずない。すごいですね。商売に成功するというのは、ここまで考えるものなのですか・・・・。とても勉強になりました。
(2011年1月刊。1400円+税)
2011年5月20日
TPP亡国論
社会
著者 中野 剛志 、 出版 集英社新書
いま、日本のマスコミは全体としてTPP推進一色に染まっています。かつての「郵政民営化」推進とまるで同じです。そのおかげで「郵政民営化」すれば日本の経済状況として国民の懐具合が好転するかのように錯覚してしまった人も少なくないと思います。でも、決してそんなことにはならず、身近な郵便局が閉鎖され、郵便の公共性は雲の彼方に消え去って行きました。そして、「郵政」解体をアメリカ財界は依然として狙っています。
日本の多くの庶民にとって、結局のところ「郵政民営化」って百害あって一利なしだったのではないでしょうか・・・。それでも、マスコミはそんな反省の弁を述べませんから、依然として「小泉人気」は高止まりのままです。これって、おかしなことだと私は思います。
TPPに関する議論が世論のレベルでは「開国か、鎖国か」といった単純きわまりない国式の中で進められているのに恐怖すら感じる。そもそも現在の日本は鎖国などしていない。全品目の平均関税率は、日本は韓国はもちろんアメリカよりも低い。
日本の食糧自給率(カロリーベース)は4割程度しかなく、小麦、大豆、トウモロコシはほとんど輸入に頼っているのだから、日本の農業市場は鎖国的どころか、開けっぴろげに開かれてしまっている。
TPPの交渉参加国といえば、ヨーロッパはもちろん、中国も韓国も、さらにインドも参加していない。だから、TPPによってアジアの成長を取り込むなどというのは、まったくの誇大妄想としか言いようがない。
アメリカは農産品輸出国であり、日本の農業市場の開放を望んでいるが、日本からの輸入の増加は望んでいない。TPPはしょせんアメリカの、アメリカによる、アメリカのための貿易協定にすぎない。
アメリカは、日本に輸出の恩恵を与えず、国内の雇用も失わず、日本の農産品市場を一方的に収奪することができる。これがTPPのねらいである。TPPという贈り物は、実は、日本の農業市場の防壁の中から打ち破るための「トロイの木馬」なのだ。
現在、日本経済は、企業部内に貯蓄が累積している。デフレ不況で資金需要がないため、企業がお金の使い道を見つけられずにため込んでいる。そんななかで法人税を減税しても、企業は貯蓄を増やすばかりで投資にまわさない。企業が投資しなければ、景気は上向きにはならない。法人税の減税は景気を刺激する効果をもたないまま、国の税収を減らすだけに終わる。すなわち、法人税が減税されても国民にはほとんど何のメリットもない。
日本のマスコミについての国家統制は、テレビが一番ですが、新聞だって同じようなものですよね。もう少しマスコミはキャンペーンではなく、自由な議論を呼びおこす努力をしてほしいものだと思います。
(2011年4月刊。760円+税)
2011年5月19日
王朝文学の楽しみ
日本史
著者 尾崎 左永子 、 出版 岩波新書
「枕草子」の書き出し、春は曙・・・をフランス語訳で読み、それがすっかり気に入って、丸暗記するまでには至っていませんが、何度となく朝に繰り返しています。とてもよく出来たフランス語訳なのです。プロはさすがです。
古典を読むのには、「じっくり、しっかり、ゆっくり」読む法(A)と、何が書いてあるのか、さらっと「ななめ読み」しながら、興味を持ったところに眼を止めて、そこを詳細に読む法(B)とがある。このA法とB法をうまく組み合わせるのが、一番自分に適した読み方を身につける早道だ。私は、この指摘に文句なしに大賛成です。
同じ日本語でも古語と現代語で意味が異なるのですね。たとえば、
やがて・・・・現代語は「しばらくして」、古語では「そのまま」
やをら・・・・現代語は「急に、突然」、古語では「静かに、音を立てずに」
あたらし・・・・現代語は「新しい」、古語では「もったいないことに」
ゆかし・・・・現代語は「控え目で教養の深い」、古語では「見たい、知りたい」
恥(はずか)しは、古語では、褒めことばだ。あまりに立派で、こちらが恥じてしまうほど、見事な態度という意味。うむむ、こんな違いがあるのですね。
『源氏物語』の原文を読み進めるには、『古今和歌集』を十分に身につけていないと、理解が行き届かない。この『古今和歌集』も、当時の王朝人にとっては「現代詩」だった。なーるほど、もちろん、そういうことだったのしょうね・・・。
平安時代、紙は貴重なものだった。『源氏物語』の著者がなぜ厖大な紙を使えたのか。そこに強力な後援者がいたから。『枕草子』には、これを書くのに定子皇后から多くの紙を賜ったことが記されている。『和泉式部日記』についても、和泉式部は道長のすすめがあって書いた。このように、はじめに紙ありき。紙は道長の権威の象徴でもある。
『源氏物語』について、戦時中は、天皇崇拝の軍部指導下にあったから、宮廷内の不倫を題材とするこの物語は、触れてはならぬもののように扱われていた。
『源氏物語』には流麗な文章が小気味よく続いている。それは必ず、和歌が下敷きになっていた。音声的伸動、すなわち五七五七七の歌の伸調が筆致のなかに自然に生かされている。その意味で『源氏物語』は、根本的に「歌物語」なのである。
平安時代の貴族の恋愛が成就するまでには、多くの恋文がいきかった。それは主として歌であり、そこに多少の文章が添えたれた。
当時は、現代のような「信書の秘密」はない。届いた恋文は、姫君に届く前に、周囲にいる乳母(めのと)やお付きの女房たちの審査を経ることになる。恋文の巧拙、文字の巧拙、紙の色合いや、添える折り枝の取り合わせ、届けるタイミングに至るまで、その審査の対象となる。そこで合格となって初めて姫君に恋文を見せる。姫君がよいと言えば、返事を出す。
左手使いのことを「左ぎっちょ」というのは、毬杖(ぎっちょう)からきたもの毬杖とは、馬に乗って毬(まり)を打つ、今でいうとポロ競技のようなもの。なーるほど、そういうことだったのですか・・・。
日本の古典にも改めて親しみたいものだと思いました。
(2011年2月刊。760円+税)
2011年5月18日
正しいパンツのたたみ方
社会
著者 南野 忠晴 、 出版 岩波ジュニア新書
タイトルをみて、まさか本当にパンツのたたみ方が図解されているとは思いませんでした。
洗たくものを洗たく機からとり出して干し、乾いたところでたたみます。ところが、これって案外むずかしいのですよね。だから独身時代の私は、いつもハンガーにかかったまま、乾いたものをそのまま着ていました。いえ、洗たく自体は昔からこまめにしていたのです。
親元を離れて初めて寮生活をしたときには、一週間分の洗たくを、深夜に2台の洗たく機を使ってしたこともありました。まだ乾燥機もなんてありませんでしたから、広い室内にロープを張って吊して干していました。寮は6人部屋だったので、広々としていたのです。ベッドと机と本棚しかなく、間仕切りのカーテンもありませんでしたが、のびのびと寮生活を謳歌していました。
この本は家庭科を担当する男性教師が書いています。高校1年生を担当した年、この3年間、自分で弁当を作ってみてください。それをやり通せたら、どれだけの自信になるか計り知れない、ぜひ挑戦してみてくださいと挨拶したのだそうです。たぶん誰もやらないだろうと半ば思っていたのでした。
ところが、3年後、それを見事にやり通した女子生徒がいたというのです。いやあ、それはすごい、すごいですね。その生徒が著者に言いました。
「先生のことを、恨みに思ったこともあったけど、今は続けて良かったと思っている。先生が言っていたとおり自信になった。先生、ありがとう」
そりゃあ、そうですよね。3年間、1日も休まずに弁当を作りつづけたなんて、これは何でもないようで実はたいしたことですよ。私も、こうやって毎日休まずに書評を書きつづっていますけれど、たまに、それなりにたいしたものだと自分をほめてやっているのですよ。なにしろ、始めたのは、あの9.11のあった年ですから、もう10年も続いているんです。それだけ健康管理にも気をつかっているということでもあります。ぜひ、みなさん続けて読んでくださいな。あるとき、誰かが、1日に200人は読んでくれているらしいと教えてくれたことがあります。モノカキののはしくれとして、残念ながら売れないモノカキではありますが、1日に1万人の読者がついて、ついにやったぜベストセラー、と叫んでみたいという夢を私も抱いているのですけど・・・。ノーベル文学賞はダメでも、せめてどこかの文学賞はもらえないのかと内心ひそかに真面目に狙っているんですよ、これでも。
すみません。弁当の話でした。私は公立中学校でしたが、給食は小学校で終わり、中学・高校と母親のつくった弁当を当然のように食べていました。自分でつくるなんて考えたこともありません。母、つくる人。私、食べる人。そんな型を疑ったこともありません。
弁当づくりのポイントは、どうしたら手軽に、短時間に、楽しんで出来るか、その方法を発見すること。著者は、前の日のおかずの残りも活用し、朝の手間は10分か15分位しかかけていないそうです。
さわやかな朝の目覚めのために、校長先生は次のようにすすめます。目覚まし時計がなったら、まず、両手を布団から出してバンザイの格好をする。すると寒くなって目が覚める。次に上半身を布団から出す。その状態だと寒くて長くは寝ていられない。さっさと起きて服を着たくなる。そうやって毎朝起きている。なーるほど、ですね。
朝、自分の力で起きると、一日を自分で考えてやりくりしていく力がついてくる。これは、自立した生活者のなるのに、とても大切な力だ。時間と、どう折り合いをつけていくかで、自分の生活が快適に送れるかどうかが決まる。そのためには、起きる理由、その目的や楽しみがあることが大切だ。
私は、平日は朝7時に、休みの日はなるべく朝6時には起きるようにしています。休みの日はごろごろ寝ていたいなんて思ったことはありません。むしろ、休みの日こそ自分の日なんだから自分のために有効に使おう、もったいなくて寝てなんかいられない。そんな感じでスパッと起きます。
起きるのが楽しくなってきたら、人生は半分成功したようなもの。一日の始まりを、自分でコントロールできるようになったら、おのずと時間とのつきあいも濃厚で深いものになっていることうけあいだ。
著者のうけあいに、私も大賛成です。一度きりの人生なんですから、時間は大切に使いたいものです。高校生向けの本のようですが、大人、しかも還暦を過ぎた私が読んでも、いいこと、大切なことが書いてある本だな、そう感嘆しながら読んでいきました。ぜひ、あなたも読んでみてください。
(2010年10月刊。1800円+税)
日曜日に梅ちぎりをしました。紅梅、白梅のうち白梅のほうです。小ぶりの梅の実がたくさんなってくれました。必死にもぎると、大ざるに2つ山盛りとなりました。2.8キロもあり、梅酒が3瓶できました。
下の田んぼで蛇が昼寝をしているのを見つけました。初めは死んでいるのかもしれないと、泥団子を投げてみると、動き出し、舌をチロチロさせて怒っています。こんなところで昼寝なんかしたらダメだと泥を投げ続けると、走って逃げていきました。1メートルはある、茶色の若い蛇です。マムシではないと思います。
2011年5月17日
米軍基地の現場から
社会
著者 沖縄タイムズほか 、 出版 高文研
東日本大震災で在日米軍がトモダチ作戦ということで救援活動をしていることから、日本のマスコミは日米安保条約をますます無条件肯定の報道をしています。しかし、本当に日米安保条約のあるおかげで日本は助かっているのか、私は大いに疑問を感じています。イラクやアフガニスタンで大々的な侵略戦争を展開しているアメリカ軍が、急に日本で平和活動のみに従事しているなんて、そんな思い込みはあまりにもお人好しとしかいいようがないのではないでしょうか・・・。
この本では、日本安保は、本当に日本の平和を守ってきたのかという疑問で貫かれています。私は、この疑問を日本人は忘れてはいけないと思います。
横須賀基地に配属されているアメリカの原子力空母ジョージ・ワシントンは、放射性廃棄物を1トンも貨物船で搬出した。放射能の心配がある。
アメリカ軍のグアム移転の費用について、アメリカ軍は実際より過大な人員と費用を計上していたことが暴露されました。これは日本側の負担割合を小さく見せるための工夫だというのです。実に日本国民を馬鹿にしています。自民党そして民主党政権も、きっとそんなことは知っていたでしょうから、日本国民だましでは共犯関係にあります。日本政府だけでなくアメリカ政府の言うことも、そのまま信じてはいけませんよね。トモダチ作戦でアメリカ軍が実際には何をしたのか、一部の新聞に少しずつ実相が明らかにされています。
アメリカ本土から海兵隊の放射能対処専門部隊150人が派遣されて日本に来たことは大きく報道されました。しかし、結局、福島県内に入ることもなく、アメリカに帰っていきました。アメリカ政府が福島第一原発から80キロ圏内を退避区域として設定したことによるようです。
アメリカ軍が最大時で人員2万人、艦船20隻、航空機160機を動員したことは事実です。そして、これらの部隊の大半が4月上旬には撤退しました。アメリカ政府による作戦の予算上限8000万ドル(68億円)に近づいたためです。
そして、ここで見逃せないのは、アメリカ軍と自衛隊が指令部機能の一体化が急速に進んだという事実です。そして、日本のマスコミと世論のなかで、アメリカのおかげで助かったというムードを醸成し、日米安保肯定論を強化できました。
この本を読んで改めて日本人として腹が立つのは、アメリカ軍人が日本国内で犯罪をおかしても、まともに逮捕も捜査もされないという事実です。これでは、日本はアメリカの植民地のようなものです。
2004年8月の沖縄国際大学にアメリカ海兵隊のヘリコプターが墜落炎上した事故についても、結局、アメリカ軍の整備士4人は全員が不起訴処分となっています。公務中の事故なので、そもそも日本には裁判権がありませんでした。くやしいです・・・!!
1995年から2008年までにアメリカ軍関係者の起こした凶悪事件は110件、逮捕者
152人。このうち日本が起訴前の犯人引き渡しを求めたのは横須賀のタクシー強盗殺人など、6件、6人にすぎない。事実上、日本に裁量権はない。いやはや、ぐやじー、許せない・・・!!!
そして、アメリカ兵が逮捕されて実刑となって刑務所に入っても、見事に優遇されます。この本では朝食しか紹介されていませんが、フレンチトーストにシリアル、ベーコン、オムレツ、さらにミルクとバナナ持つく充実ぶり。夕食にはステーキもつくといいますから、日本人の収容者とは比べものになりません。
アメリカ軍の飛行機の出す爆音がひどすぎるというので、これまで日本の裁判所は何回となく受忍限度をこえる違法な爆音だとして損害賠償を命じてきました。ところが、アメリカはまったく賠償金を負担せず、すべては日本政府がアメリカ軍に代わって日本国民の税金でまかなっているのです。なんとひどいことでしょう。
アメリカ政府もアメリカ軍も日本国民を守るために日本に基地を置いているわけではないと再三再四、高言しています。ところが、日本政府と日本のマスコミだけは相変わらず、アメリカ軍がいるおかげで日本の平和と安全が保たれていると言い続けています。こんなことって奇妙ですよね。アメリカ軍が本気になって日本を守る気があるなんて、私にはとても思えません。
(2011年5月刊。1700円+税)
2011年5月16日
想像するちから
人間
著者 松沢 哲郎 、 出版 岩波新書
人間とは何か、どういう存在なのか。そのことをチンパンジーとの比較を通じて、じっくり考えさせてくれる良書です。著者は私とほとんど同世代の学者ですが、ながくチンパンジーを観察し、研究してきただけに、その論説にはとても説得力があります。
サルとは目が合わない。サルは人間の目を見ると、キャッといって逃げるか、ガッと言って怒る。サルにとって、目を見るというのは、「ガンを飛ばす」という意味しかない。ところが、1歳になったばかりのチンパンジーのアイを著者が見たとき、アイはじっと見つめ返した。そして、著者が腕につけていた袖当てを腕から抜いてアイに渡すと、アイは、すーっと手をそこに通した。著者がええっと驚いていると、またもやすーっと腕から抜いて「はい」って返した。このように、チンパンジーは目と目で見つめ合うことができる。自発的に真似る。そして、何か心に響くものがある。
チンパンジーには、人間の言語のような言葉はない。でも、彼らなりの心があり、ある意味で人間以上に深いきずながある。ふむふむ、そうなんですね・・・。
動物分類学上、ヒト科は四属である。ヒト科ヒト属(ホモ属)、だけでなく、ヒト科チンパンジー属(パン属)、ヒト科ゴリラ属、ヒト科オランウータン属の四属である。日本の法律ではチンパンジーはヒト科に分類されている。
人間とチンパンジーの全ゲノムを比較した結果、DNAの塩基の並び方は98.8%同じである。人間とチンパンジーとサルの三者では、人間とチンパンジーがよく似ていて、サルが違う生き物なのだ。三者に共通する祖先がいて、3000万年前に分かれて、サルはサルになった。その時点では、人間とチンパンジーは同じひとつの生き物だった。
チンパンジーの寿命は50歳。チンパンジーのコミュニティーでは、女性は10歳前後のころ、つまり妊娠できる年頃になると、群れの外へ出ていく。
チンパンジーは、基本的にはベジタリアンだ。しかし、シロアリやアリといった昆虫も食べる。そして、センザンコウ(動物)を捕ることもある。
道具はまれにたまたま使うというのではなく、生存するのに必須なものとして、いつも使う。
チンパンジーは、音声でコミュニケーションする。音声のバリエーションは30種類ある。
チンパンジーは、50歳になっても子どもを産む。チンパンジーの女性は死ぬまで生み続ける。だから、チンパンジーには祖母はいない。子どもを産み終えて孫の世話をする役割、それを担う年寄りの女性という存在はない。このように、チンパンジーにはおばあさんはいないが、人間にはおばあさんがいる。
チンパンジーは5年に一度、出産する。だから、年子がいない。チンパンジーの子どもは4歳ころまでずっと母親の乳首を吸っている。子育ては母親が一人でする。チンパンジーの父親の役割は、「心の杖」といえる。父親がいると、女性や子どもはすごく大胆にふるまう。チンパンジーは子どもを抱くだけではなく、「高い、高い」をしたり、わざわざ引き離して、顔と顔を合わせ、見つめあう。
チンパンジーの赤ちゃんは夜泣きしない。夜泣きするのは人間だけ。チンパンジーの赤ちゃんは、お母さんがすぐそばにいるから呼ぶ必要がない。ひもじくて母乳がほしければ、自分で乳首を探して吸えばよい。
人間の赤ちゃんは仰向けの姿勢になっているから両手が自由で早くから物が扱える。
人間の赤ちゃんは、異様に可愛くて、異様に愛想がよい。それは、お母さんだけではなく、お父さん、おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、みんなからの助けを必要とするから。仰向けの姿勢で安定して、にっこりと微笑むように人間の赤ちゃんはできている。人間は一歳のときに人間になるのではなくて、生まれながらにして人間なのだ。人間は生まれながらにして、見つめあい、微笑みあい、声でやりとりをして、自由な手で物を扱う。そういう存在として生まれている。
人間の子どもは、一歳をすぎるころから「自分で!」と言って自分で食べるようになる。もう少し大きくなると、「お母さんも!」と言って母親にも食べさせようとする。これは、チンパンジーには決して見られない行動だ。人間は、すすんで他者に物を与える。お互いに物を与えあう。さらには、自分の命を差し出してまで、他者に尽くす。利他性の先にある、互恵性、さらには自己犠牲。これは、人間の人間らしい知性のあり方である。なーるほど、そういうことなんですか・・・。
チンパンジーの子どもを母親や仲間から引き離してはいけない。彼らには、親や仲間と過ごす権利がある。それを踏みにじってよいという権利は人間の側にはない。チンパンジーを見せ物や金もうけの道具にしてはいけない。母親や仲間と離れて暮らすと、チンパンジーは挨拶や性行動ができなくなる。
このように、著者はチンパンジーを群れのなかで観察する手法を実践しています。なるほど、すごいです。
チンパンジーは、「今、ここの世界」に生きている。人間のように、百年先のことを考えたり、百年先のことに思いを馳せたり、地球の裏側にすんでいる人に心を寄せるというようなことは決してしない。今ここの世界を生きているから、チンパンジーは絶望しない。自分はどうなってしまうんだろうとは考えない。恐らく明日のことさえ思い煩ってはいないだろう。
人間とは何か。それは想像するちからを駆使して、希望を持てるのが人間だ。先のことを考えて悩んだり、他者を思いやる心をなくしてしまったら、もはや人間ではないということなんですね。我が身を振り返るうえでも、とても考えさせるいい本でした。あなたにも一読をおすすめします。
(2011年2月刊。1900円+税)
2011年5月15日
江戸絵画の不都合な真実
日本史(江戸)
著者 狩野 博幸 、 出版 筑摩選書
東洲斎写楽とは誰なのか、というテーマは永く論じられてきたわけですが、著者は、一刀両断、明快に断じます。今から30年も前に、俗称斉藤十郎兵衛、阿彼候の能役者(斉藤月岑(げっしん))である、としたものです。ですから、表現の自由はされているといっても、オランダ人説などが今もって登場するのをみて溜息さえ出ない、というのです。この点については、中野三敏著の『写楽、江戸人としての実像』(中公新書)が詳しいとしています。
つまり、能役者の絵を描くのは、遊女を描くのとは違って、士分の者には許されないことだった。大名お抱えの能役者には非番の年があった。だから、士分の斉藤十郎兵衛は能役者をこっそり描くしかなかった。なーるほど、と思いました。
また、葛飾北斎が幕府の隠密だったどころか、逆に幕府から徹底的に弾圧されていた富士講に関係していたというのを初めて知りました。富士講というのは、富士山信仰から出てきた組織なのですが、幕末まで禁止され続けてきた宗派でした。
食行身禄(じきぎょうみろく)は、政治の無策に対して、自分の「食」を断つことで、異議申立した。食行身禄は、仏とは人間の思念が作ったもの、仏だけでなく神もまた一切は人間がつくりあげたものなのであると断言した。むむむ、すごいですね。
富士講は、富士信仰を指導した。江戸中に富士の五合目より上の形を模して築山をつくった。明治25年、富士講の一派(丸山講)だけで、137万9180人の信者がいた。
北斎は、そこに関わっていた。うへーっ、そうなんですか・・・。江戸のいたるところにミニ富士山があったと聞いていましたが、それには幕府への反抗、そして幕府による弾圧もあったのですね・・・。
若沖(じゃくちゅう)についても、町年寄として京都町奉行と果敢にたたかった側面が発掘され、紹介されています。絵だけでなく、実社会でも素晴らしく活躍した人だったのですね・・・。
英一蝶(はなぶさいっちょう)という画家が三宅島に流されたことは知っていましたが一蝶が幕府から厳しく弾圧されていた不受不施派のメンバーだったとは知りませんでした。不受不施派とは、異教の者からの布施は決して受け取らず、異教の者に対して布施もしないというもの。要するに、一蝶の信じた不受不施派は、禁教となったが、地下に潜行しただけで、教養は滅びることがなかった。
私と同世代の学者なんですが、団塊世代と容易にひとくくりするのに抵抗しています。私も、あまり世代論はしたくありません。
(2010年10月刊。1800円+税)
2011年5月14日
鞠智城を考える
日本史
著者 笹山 晴生 、 出版 山川出版社
鞠智城とは、きくちじょうと読みます。熊本県の北部、菊池市にあります。昭和42年からの発掘調査によって、今では現地に八角形の鼓楼(ころう)が復元されているというのです。その写真を見て、ぜひ行ってみたいと思いました。
校倉(あぜくら)造りの米倉や兵舎と推定されている大型の掘立柱建物も復元されています。55ヘクタールもある広大な城域です。
663年、朝鮮の白村江(はくすきのえ)で、唐と新羅(しらぎ)の連合軍に敗れた倭(日本)は、唐と新羅の侵攻を恐れ、対馬や域に防人(さきもり)や烽(とぶひ)を置くとともに、亡命してきた百済(くだら)の人の技術者の指導のもとに、大野城や基肄(きい。佐賀県鳥栖)城などを築いて備えた。鞠智城も同じころ、百済人の指導のもとに築かれた城だと考えられる。
このころの情報伝達として、烽が各所に設置された。敵の襲来や外国使臣の到着などの情報を速報するための通信システム。664年(天智3年)防人とともに対馬・壱岐・筑紫に設置され、40里(18キロ)ごとに設置され、昼は煙、夜は火を上げて合図を送った。防人も同じく、対馬・壱岐・筑紫に置かれたが、3年交替で筑紫に2000人から
3000人がいたと思われる。
白村江の戦いにおいて、唐軍は統制のとれた律令制にもとづく軍団であった。倭軍のほうは各地の地方豪族がそれぞれ率いる「国造軍」の集合体でしかなかった。
なんでこんな菊池市のような山中に城があるのか不思議に思っていました。だって、大宰府から徒歩だったら2日から3日はかかるでしょう・・・・。
その答えの一つは、官道が通っていたということです。この鞠智城のすぐ近くを古代の官道が通っていました。もう一つは、唐と新羅の連合軍が有明海から上陸してきたときには、これくらい内陸部の方が守って戦いやすいと考えたというところです。いずれも、なるほどな、とは思いますが、大宰府の次が菊池市の城だという古代人の感覚がもう一つぴんときませんでした。いえ、こ
(2010年11月刊。1500円+税)
2011年5月13日
原発と地震
社会
著者 新潟日報社特別取材班 、 出版 講談社
今からわずか4年前のことでしかありませんが、東日本大震災が起きた今では、なんだか古い過去の出来事のように思えてなりません。
2007年7月16日、中越沖地震によって東京電力の柏崎刈羽原子力発電所で動いていた原子炉が7基すべて緊急停止した。
原子炉は停止すれば安全というわけではない。炉水温度を百度以下に冷やして初めて安全が確保される。そうなんですね。今回の福島原発事故でも、この「百度以下」というのが容易に達成できずに推移しています。とても心配な事態です。
地震から5ヶ月たったころ、東京電力は新潟県に対して30億円もの寄付を申し出た。このお金で県民の感情を斉めようとしたわけですよね。でも今回は規模がケタ違いですから、こんな金額ではすみません。何兆円、何十兆円もの損害の補填が求められています。
この柏崎刈羽原発の建設用地の売買には、かの田中角栄が関わっていたようです。
1971年に、土地売却益の4億円が東京、目白の田中角栄邸に運んだことを認める証言を取材班は引き出しています。
「不毛」の砂丘地帯がお金にかわった代償が有力政治家の懐に入っていったというわけです。そして、そのツケを払わされたのは新潟県民でした。
現在の東電・清水正孝社長は、当時副社長でもあり、勝俣会長が社長でした。このコンビは、経費削減を優先して安全を無視したわけです。歴史に記録されるべき人名でしょう。なんといってもトップの責任は重大です。
班目春樹委員長が私と同世代だということも確認しました。原発の「安全神話」をふりまいてきた学者の一人のようですね。大学生のころはどんな考えだったのか知りたいものだと思いました。
原発は、今すぐ廃止の方向に動き出さないと日本全体が沈没してしまうのではありませんか。今なお原発にしがみつこうとしている人がいるのに驚くばかりです。
(2011年4月刊。1500円+税)
2011年5月12日
フェイスブック
アメリカ
著者 デビット・カークパトリック 、 出版 日経BP社
エジプトをはじめとするアフリカ北部の民衆の立ち上がりはフェイスブックを手段としていると報じられています。実名で交流するソーシャルネットワークが民衆をつなぐ武器となっていることに驚かされます。
この本は、そのフェイスブックを立ち上げ、今や26歳の若さで世界的大富豪となったマーク・ザッカーバーグを主人公としています。天才のようです。ザッカーバーグは、高校で数学、天文学、物理、古典で優等をとっていた。フェンシングチームのキャプテンでもあった。語学はフランス語、フブライ語、ラテン語、古典ギリシャ語が流暢に読み書きできる。父親は歯科医、母親は精神科医。ユダヤ人である。うひゃあ、すごいですね。信じられません。
フェイスブックは実在する個人のアイデンティティにもとづいたネットワークである。フェイスブックのユーザーには1人あたり平均130人の友だちがいる。友だち数の上限は5000人となっている。
フェイスブックは、グーグルに次いで世界で2番目に訪問者の多いサイトだ。5億人のアクティブ・ユーザーがいる。これは全世界のインターネット・ユーザー17億人の20%をこえる。アメリカのフェイスブックのユーザーは1億8千万人、全人口の3割以上。
カリフォルニア州に本拠を置くフェイスブックは、1400人の社員を擁し、2010年の売上高は10億ドルを超えた。
20歳のザッカーバーグはCEOとして、断固たる決意と優れた戦略的見通し、そして少なからず幸運に助けられて、フェイスブック社の財政的支配権を完璧に握っている。ザッカーバーグは、何度となく巨額の買収申出を拒絶したのでした。
フェイスブックには毎月200億ものコンテンツが投稿される。フェイスブックはインターネット最大の写真共有サイトであり、他を大きく引き離す。ここには、毎月30枚の写真が投稿される。
ザッカーバーグは、同級生、同僚、友だちといった現実世界での知りあいとの交流を深め、スムーズにするためのツールになることを意図した。
現実の世界で既に知りあいであるメンバー同士の情報共有のツールとして使われたとき、情緒的にも非常に強力な喚起力がある。だから、楽しみを支えることもあれば、苦痛を与えることもある。
世界を見渡しても、これはもっともアメリカ製であることを感じさせないアメリカ製のサービスだ。
フェイスブックは75の言語で動作し、世界の人口の98%をカバーしている。フェイスブックは、市民と職員とのコミュニケーションを効果的にするツールとして規模の大小を問わず、多くの官庁に支持されてきた。
フェイスブックの社員の中核は20代である。平均年齢は31歳。会社の時価は3兆円とも4兆円とも言われ、ザッカーバーグの個人資産も6000億円を下らない。大変なIT長者です。
世の中が大きく動いていることを実感させられる本です。ちなみに私はフェイスブックを利用していませんし、今のところ利用するつもりはありません。しかし、いずれは私も利用せざるをえなくなるのでしょうか・・・?
(2011年2月刊。1800円+税)
2011年5月11日
原発と日本の未来
社会
著者 吉岡 斉、 出版 岩波ブックレット
3.11の直前に発刊されたブックレットです。3.11のあとに出た二刷版には、次のような簡単ではありますが、恐るべき内容のコメントがついています。
この原発震災の処理には、原子炉の解体・撤去だけでなく、広大な汚染地帯の除染もふくめ、数十年の歳月と数十兆円の費用がかかるとみられる。これは原子力発電コストを2倍に押し上げる。そのうえ、数十万人の被曝要員が必要となるかもしれない。原発はクリーンだという言説はブラックジョークと化した。復旧のための人的・金銭的負担は子孫にも及ぶ。
うむむ、これって、まさしく「想定外」の見通しですよね。原発を推進してきた政府と自民党にはきちんと責任をとらせる必要があります。いえ、もちろん、東電をはじめとする電力会社の杜撰さを免責するつもりはありません。
原子力発電技術は、原子核分裂連鎖反応によって生ずる熱エネルギーで高温・高圧の水蒸気をつくり、それを蒸気タービンに吹きつけて回転させ、タービンと直結する発電機も動かす技術である。
原子力発電は大量の放射性物質を生み出す。それが事故や自然災害によって大量放出される危険は無視できない。
まさに、この危険から今回、現実化したわけです。そのうえ、破壊工作や武力攻撃などによって大量の放射能物質が飛散する危険もある。
アメリカがオサマ・ビン・ラディンを暗殺したことによって、一気にテロが拡大する危険が現実化しています。「フクシマの危機」を逆に利用しようとして世界各地の原発がテロの対象となったとき、この地球は大変な事態に突入します。報復の連鎖は地球の破滅を抱くだけなのです。
原子力発電は、他の発電手段とは質的に異なる巨大な破壊力を生み出す危険性をもっており、それは文明社会の許容限度を超えている。
ところが、日本政府は、原子力発電事業を長年にわたって偏愛し続け、過保護状態に置いてきた。それも、ただの過保護ではなく、巨大な破壊力を抱えるという重大な弱点をかかえる事業に対する過保護なのである。
原子力発電は、1980年代末から、20年以上にわたる停電状態を続けている。今や、事実上の新増設停止に近い状態となっていて、構造不況産業と化した。
1960年代から80年代までに建設された原子炉の老化が進行し、2010年代から廃炉ラッシュが始まっている。いま、アメリカに104基、フランスに58基、日本54基、ロシア27基、ドイツ17基となっている。建設中でみると、中国20基、ロシア10基、インド6基、韓国6基、日本3基である。ヨーロッパで建設中の原子炉はわずか2基のみ。フィンランドとフランスの各1基である。建設中のところは、いずれも順調に進んでおらず、建設費は当初予算の2倍にまで膨れあがっている。
日本の原子力政策の特徴は、官庁、電力業界、政治家、地方自治体有力者の四者による談合にもとづく政策決定の仕組みである。そこには、市場原理や競争原理が働く余地はない。
福島第一原子力発電所の深刻な状態が依然として続いているわけですが、それは原発が人類の容易にコントロールできる存在ではないことを如実に示しています。一刻も早く脱原発に踏み出すべきだと思います。
わずか60頁ほどの薄い冊子ですが、手軽に読めてわかりやすい解説でした。
(2010年10月刊。1800円+税)