弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年4月14日

毛沢東、最後の革命(上)

中国

著者  ロデリック・マクファーカー   、 出版   青灯社   
 
 毛沢東が文化大革命を始めたのは1965年2月のこと。そのころ私は高校生でした。
妻の江青(こうせい)に秘密任務を託し、上海に派遣した。毛が、自分の途方もない計画を全面的に支えてくれる人物として頼りにしたのは、上海市党委の左派リーダーの柯慶施(かけいし)だった。柯慶施は、江青が毛沢東の意を受けて動いていることを知っていたので、なんのためらいもなく江青の助手として二人の宣伝マン、張春橋と姚文元をつけてやった。しかし、柯慶施自身は肺癌のため同年4月に急死した。張春橋より年下の姚文元は、当時まだ33歳で、鋭い舌鋒で毛沢東の信頼を勝ちえていた。
 姚文元の書いた論文は、極秘扱いのまま、毛沢東との間を往復した。上海市党委の上層部は不意をつかれた。そして、北京市党委の彭真をだました。
 1966年3月、毛沢東は北京の党組織への最終攻撃を開始した。5月、彭真は粛清された。それに連座して解任された人々は多かった。そのような運命を受けいれるのを拒否して自殺を選ぶ人々が日ごとに増えていった。
 党幹部が疑いを口にする一方で、知識人や党外の名士はパニックを起こしていた。そのとき、毛沢東は軍事クーデターを心配していた。パラノイア(妄想症)とすら言える毛沢東は用心深く、首都工作組と呼ばれる特別タスクフォースを発足させた。北京衛戌区には新たに10人をこす将軍と家族から成る優秀な増強部隊が投入された。そして、中南海に棲んでいた幹部の多くが別の地区へ転出させられた。
1966年6月、全国の大学と学校の授業が停止させられた。学生たちは突然、「自由」になり、教室を離れて文革と「階級闘争」に投入していった。この事態に劉少奇は、苛立つ以上に、平然としていた。
 1966年夏に起きた混乱について毛沢東はすべてを熟知していた。毛沢東が北京にいないときにも、中央弁公庁は毎日、専用機を飛ばして、情報を届けていた。
 毛沢東は7月、「いっさいの束縛を粉砕しなければならない。大衆を束縛してはならない」と持ち上げた。また、反動派に対して「造反することには理がある」とぶち上げた。これが有名な「造反有理」の始まりでした。このころは、まだ劉少奇も乗り遅れまいと懸命の努力を続けていた。「四旧打破」運動として、紅衛兵は、「悪い」階級出身の家庭への家捜し、家財の押収・破壊を始めていた。北京での差し押さえ資産は、1ヶ月で5.7トンの金など莫大な収穫をあげた。
文革のあと、全国85校のエリート大学・中学・小学校を調査したところ、すべての学校で教師が生徒に拷問され、多くの学校で教師が殴り殺された。「幸運」な教師は便所掃除などの屈辱的任務を課された。
1980年代の公式マニュアルによると、文化大革命のとき18歳以下であれば、集団殴打に加わって人を死に至らしめても、のちに自分の誤りに気づいてそれを認め、現在も素行の良い者は、責任を問わないとした。毛沢東にとって恐怖支配は納得づくだった。中国の若者は、暴力の文化の中で育った。それまで党の暴力は慎重に制御され、調整されてきたが、そのタガが外された。大学生たちは、自分たちの革命的貢献を証明したくてうずうずしているから、騙されやすく、喜んで党中央の使い走りをした。
劉少奇が辞任して田舎にこもり、畑でも耕して暮らしたいと許可を求めても、毛沢東は許さなかった。
 中国を動乱から救うのは、もとより毛沢東の望むところではなかった。1966年12月、毛沢東は自分の73歳の誕生日のとき、全国的、全面的な内戦の展開のためにと乾杯の音頭をとった。
 毛沢東は、解放軍の制度については無傷のまま保つことに留意したが、党機構については、そのような配慮をしなかった。1968年から、大半の部局で職員の7~9割が「五七幹校」へ「下放」された。政府が崩壊すると、各部を動かしていた党組織に代わって解放軍が権力を握った。このせいで軍が腐敗した。たくさんの軍関係者が昇進して、大もうけした。
 それまでの指導部で大きな恩恵を受けている正規労働者は、政治の現状維持に与した。毛沢東は、民間の混乱状態から解放軍が部分的に隔離されるのに反対ではなかった。解放軍は、毛沢東の依って立つ制度的な基盤でもあった。
 文革中に、毛沢東が高級幹部の殺害を命じた形跡はない。スターリンと違って、毛沢東は、そんな最終的解決で自身を守る必要を感じなかった。その代わり、かつての戦友たちの運命は、中央文革小組や紅衛兵の手にゆだねられ、なすがままに放置された。
 毛沢東は、かつての盟友が辱められようが、拷問されようが、傷つこうが、ついには死に至らしめられようが意に介さなかった。スターリンほどではありませんが、毛沢東も冷徹一本槍ではなかったようです。
 周恩来は、国務院と解放軍の戦友を支持しなかった。これは間違いだった。もし、周恩来が、老幹部の団結という希有の機会をとらえて元帥や副総理たちに味方し、文革の恐怖と混乱を取り去るべく、いろんな提案をして毛沢東に圧力をかければ、大きな影響を発揮できた。しかし、周恩来は、その労をとるリスクを避けた。
1967年夏、中国は毛沢東のいう「全面内戦」状態に陥った。文化大革命は武化大革命になった。
 7月の武漢事件において、毛沢東は兵士暴徒や党幹部から安全を脅かされた。1967年夏に労働者のあいだで暴力事件が増加したのは、江青の挑発的発言に原因がある。
「武で防衛せよと江青同志が言った」というもの。重慶地区には、兵器工場が集中していて、武闘派に対するほぼ無制限といえる武器の供給源となっていた。
 以上が上巻です。とても読みごたえのある本でした。

(2010年11月刊。3800円+税)

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