弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年3月20日

細川三代、幽斎・三斎・忠利

日本史(江戸)

著者  春名 徹、  藤原書店 
 
熊本城の大広間が再現されたのを見ましたが、それはたいしたものです。佐賀城の大広間の再現にも感嘆しましたが、やはり熊本城のほうがはるかにスケールが大きいと思います。その熊本城の主であった細川家は、戦国時代を生き抜いて熊本に定着したわけですが、それに至るまでは決して安穏した状況ではありませんでした。そのことが実によく分かる本です。500頁もある分厚い本ですが、最後まで興味深く読み通しました。
細川家三代の基礎をつくった幽斎・細川藤孝は12代足利将軍義晴(よしはる)の側近、三淵(みつぶち)大和守晴員(はるかず)の次男である。ところが、実は、藤孝の本当の父親は将軍義晴であったとも言われている。いずれにせよ、藤孝は、織田信長と同年の生まれ、秀吉より3歳、家康より8歳上であった。
藤孝は足利将軍義昭につかえていたが、織田信長が抬頭するなかで、信長につかえるようになった。そして、ついに将軍義昭を見限り、信長についた。
藤孝は、信長が安土城を居城として京都一円を支配していたとき、丹後国の支配をまかされた。
天正10年(1582年)光秀が信長を殺害したとき、藤孝は光秀の娘を妻(玉。ガラシャ)としていた息子・忠興を試した。しかし、親子そろって、光秀には組みしなかった。幽斎と忠興父子は、秀吉支持で一貫した。
利休の切腹、朝鮮出兵そして秀次失脚によって細川幽斎も、忠興もきわどいところを切り抜けていったようです。そして、忠興の妻、ガラシャ(光秀の娘)は大坂方(石田三成)に攻められ、自決した。
細川家が本に書かれやすいのは、膨大な手紙が残されているからです。
忠興は、三男忠利に対して、現在するだけで1700通、その他をあわせると2千通も残っている。そして、忠利も、光尚あてに1400通が残っている。忠利の手紙の総数は4千通といいますから、半端な数ではありません。
徳川政権の確立期に、ひたすら情報を集め、政治の推移をうかがい、自らも家を保ち、それを円滑に後継者に継承するための過程を生彩ある筆で描きだしたのである。
すごいですね。細川家が熊本に入ってからも、いろいろありました。その一つが、島原の乱です。そして、阿部一族の事件の真相は・・・。これらについても大変興味深く、読み通しました。
                   (2010年10月刊。3600円+税)

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