弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2011年3月31日
日本1852
日本史(江戸)
著者 チャールズ・マックファーレン、 出版 草思社
江戸時代の末期、黒船に乗ってやってきたアメリカのペリー提督の日本についての知識が、こんなに深いもので裏付けられていたとは知りませんでした。
この本は、著者自身が日本に来たことはなかったものの、日本に行ったことのある体験記、見聞記を集大成して、ペリー提督を含めた欧米の人々に日本と日本人の全体像を提供したものです。その内容は、当然ながら今日の日本とはかなり違ってはいますが、かなり当たっていると思わざるをえないところが多々あります。その意味で、江戸時代の日本、ひいては日本人が昔からあまり変わってないことをよく知ることのできる本でもあります。ペリーたちが、日本についてこんなに知って来日したなんて、私にとってまったくの驚きでした。
本書が発行されたのは1852年7月。ペリー提督がアメリカを出港する4ヶ月前のこと。
ザビエルたち日本に来た宣教師は、日本人を賞賛した。日本人の従順で他者に優しい気質。恩義を重んじる傾向にあること。今でも言われますよね。NHKのフランス語の講座で、フランス人による日本論で同じ指摘があります。
徳川家康がなかでも喜んだのは幾何と代数だった、という記述があります。うひゃあっ、と思いました。単に世界の地理と情勢を喜んだというのではありません。ヨーロッパの数学を聞いて学んだというのです。家康を私は見直しましたよ・・・。
日本人は礼儀正しく、好感が持てる。戦になると勇敢だ。仁義を重んじ、それに違反するものは厳しく処分される。礼節によって統治されている。日本より礼節が重視されている国は他にないだろう。神を敬うことには熱心である反面、多様な考えをもつことにも寛容である。
日本人には、性的にも自制心がないという性癖がある。地方領主や有力者は、たくさんの妾をもっている。彼らは、この悪徳を矯正しようとした宣教師たちへ反感を抱いた。
アヘン戦争の状況は、ことごとく日本人へ伝わっていた。
日本人とは、創意工夫の精神にみちた民族だ。豊富な資源と商業をはぐくむ能力。そこには十分な数の人口が存在する。この国を治める諸侯も高い知性を示している。こうした日本人の能力、エネルギー、起業家精神をみると、アジア諸国の中で一頭地を抜く存在になる可能性が高い。
一般に、日本語の発音は明瞭ではっきり聞き取れる。
漢語(中国語)は、HをHとしてはっきり区別して発音するが、日本人にはHもFも同じである。逆に、日本人の発音ではRとDは区別されるが、漢語ではどちらの発音もLに聞こえる。うへーっ、これってどうなんでしょうか。いまは逆のことが言われてますよね。
女性も日本では帝位につくことができる。女性が治める素晴らしい時代もあった。
女性の地位と立場は日本では相当に高い。他のアジア諸国の中でも飛びぬけて高い。江戸時代に住む女性は、コンスタンチノープルのトルコ女性の百倍もの自由があり、計り知れないほど大事にされている。日本の女性は隔離された社会に閉じ込められてはいない。フェアな社会的地位をもち父や夫と同じように遊びに興じている。
日本の政府は教義には無関心だ。どの宗派も自由に教義を戦わせている。政府の無関心さは、世界ではひどく稀で、賞賛すべきことだ。
信長は坊主たちのしつこさに辟易しつつ、日本に存在する宗教の数を問うた。35と答えた坊主に、それなら36になっても一向に問題なかろう、宣教師は放っておけと提示した。
日本の皇帝(天皇)は政治的な重みを持っていない。それどころか、帝の暮らしは、牢に入れられたようなものである。すべての大名はスパイや内通者の監視下にある。日本のシステムは、治める側の生活のほうが治められる側のそれより惨めだとも言える。人の嫉妬を利用した管理法は小さな藩でも同じだ。このように嫌悪感を催すような政府の仕組みにもかかわらず、一般の日本人はほとんどいつでも気さくに振る舞い、言いたいことを自由に発言している。ええーっ、これってまるで現代日本のことを言っているみたいじゃありませんか・・・。
日本の法には血なまぐさ漂うが、現実の運用では死罪の適用に積極的ではない。裁く側に広い裁量権が認められているのだ。
この風変わりな民族は本当に花が好きなのだ。ほとんどすべての家庭が裏庭に庭園を持ち、前庭には花をつける低木を植えている。この国を訪れる誰もが農業や園芸のレベルの高さを賞賛している。
日本人の器用さや創造力はよく知られている。日本の製品の出来栄えは頑丈さ、安定性、仕上げの良さまで中国の製品を上回っている。日本人は社交的で遊びが好きな民族だ。しっかり働き、労働時間は長いが、祭りにはごちそうを食べ、大騒ぎをする。祭りでは、音楽、踊り、演劇がどの身分でも楽しめる。道化師や役者たちが町を練り歩く。曲芸師、手品師、ジャグラーたちが人々を楽しませる。
日本人はきれい好きで、身分の高低にかかわらず、風呂が好きだ。日本の家は驚くほど清潔だ。
子どもは全て学校に行かされる。学校の数は、世界のその国よりも多いと言われている。日本人は名誉を異常なほどに大事にする民族である。少し高慢で、仇討ちに価値を置き、少し好色なところがある。それが欠点である。
真面目だけど、遊びも好きで、かつ好色。それが日本人だというのは、現代にも通用する日本人論ではないでしょうか・・・。
(2010年2月刊。1600円+税)
2011年3月30日
すごい裁判官、検察官、ベスト30
社会
かなざわいっけい著 2008年発行
著者は競馬ブックの記者であるが、本業が暇な平日の時間帯を利用して、あしげく東京地裁の法廷傍聴に通っているのだそうな。傍聴回数は3000回に及び、自ら「傍聴官かなざわいっけい」と名乗っているのだそうな。
本書は、そんな傍聴官が印象に残る「すごい裁判官」、「すごい検察官」、「すごい弁護士」を綴った人物風土記である。例えば、被告人のトドメを刺す鬼裁判官、「フェ」から先が言えない純情検察官、厚かましいが美形の巨乳弁護士・・・エトセトラ
こんな軽めの本もいいかなと思って読んでみたが、最後の法廷傍聴記は少し感じ入った。法曹が、それぞれの背負っている立場を超えて、真実を追究する姿の描写はなかなかのもの。詳細はここでは明らかにしませんので、各自がご一読を。
ワルシャワ蜂起
ヨーロッパ
著者 尾崎 俊二、 出版 東洋書店
ポーランドのワルシャワで起きた一大事件が紹介されています。
1944年8月1日から10月2日までの63日間続いたワルシャワ蜂起によるポーランド人犠牲者は、民間人18万人、戦闘員2万人、合計20万人をこす。これは広島・長崎への原爆投下による直接的被害者21万人に匹敵する。
ワルシャワ蜂起の主体となった国内軍司令部の判断の誤りを批判する人も少なくないが、果たして簡単に誤りだったと言えるのか。1944年7月の時点で、被占領地の地下国家指導者と国内軍指導者には、他にどんな選択肢があったのか。蜂起直前まで、モスクワからの放送は連日、ワルシャワ市民に決起をあおっていた。そして蜂起のあと、すぐ近くまで来ていたソ連軍が追撃を突如としてストップするなど、誰が予想できたというのか・・・。
さらに、ナチス・ドイツが叩き出されたあとソ連支配下のポーランドで、国内軍の指導者や蜂起兵は「反ソ」だということから「ナチスの協力者」「ファシスト」「裏切り者」として迫害され、秘密裁判で処刑された人も少なくなかった。
うむむ、これはこれは、予想以上にワルシャワ市民は難しい局面に立たされていたことを知りました。
1944年7月、ワルシャワは噴火寸前の火山だった。ワルシャワで4万人の将兵を擁する国内軍が、退却し混乱に陥るドイツ軍を攻撃もせずに傍観しているなどということは考えられなかった。もしポーランド人の支援者なしにソ連がワルシャワを制圧したとき、スターリンはポーランドの地下抵抗運動などなかったと言い通すだろう。そして、首都にいながら、その解放戦に参加できない軍隊とか国家など考えられもしない。
ワルシャワ蜂起といえば、アンジェイ・ワイダ監督の映画『地下水道』を思い浮かべます。
蜂起で使われた地下水道ルートはいくつもあって、各地区をつなぎ、蜂起部隊の通信、連絡そして武器・弾薬の輸送、さらに脱走ルートとなった。この地下水道の案内人の多くは女性だった。
カチンの森にポーランド軍の将校の埋葬地が発見されたのは、1943年4月のこと。スターリンの指令の下での大虐殺だったが、ソ連はナチス・ドイツの仕業だと宣伝した。しかし、ポーランド人の多くはナチス・ドイツの仕業だとは思わなかった。ポーランドの人々は、東方から進撃してくるソ連赤軍を単なる「解放軍」とみることはもはやできなかった。ソ連軍によるポーランド占領を危惧していた。実際、ソ連軍はポーランドに入って来ると、ポーランド軍を武装解除し、その司令官を射殺していた。
したがって、ソ連軍が侵入してくる直前に首都ワルシャワを制圧しなければならない。ポーランド国内軍は自分たちの手で、ワルシャワを解放し、ポーランド国家の主権者が誰なのかを明確に示さなければならない。しかし、このワルシャワでの蜂起作戦は、ドイツ軍に対するソ連軍の圧倒的優位に大きく依存するという根本的矛盾もはらんでいた。
連合国軍は6月6日にノルマンディー上陸を果たしており、7月20日にはヒトラー暗殺未遂事件も起きていた。ワルシャワ蜂起は、早すぎても遅すぎてもいけなかった。
うむむ、これはこれはきわめて難しい、いや難し過ぎる選択ですね。多くの人命と国家主権の存亡にかかっている選択です。
国内軍司令部では即時開戦に賛成派と反対もしくは慎重派が5対5に分かれた。しかし、司令官が決断した。8月1日午後5時に蜂起することが伝達された。100万人都市が15分間で戦闘に巻き込まれた。ワルシャワの国内軍勢力は最大で5万人、そのうち銃器で武装していたのは10%に過ぎなかった。
蜂起後数日間、ワルシャワ市民は5年ぶりに自由の空気を吸って熱狂し、蜂起兵にさまざまな支援を申し出た。しかし、この解放感は1週間も続かなかった。ナチス・ドイツ軍は犯罪者集団をつかって一般市民を組織的に大量虐殺しはじめた。
映画『戦場のピアニスト』に登場するシュペルマンは、このときワルシャワに実際かくれて生き延びた人物です。ドイツ人将校と出会い、助けてもらいました。
このドイツ人将校は、シュピルマンの「市街戦になったらどうやって生きのびればいいのか?」という問いに対して、「きみも私も、この5年間、この地獄を生きのびてきたのだから、それは明らかに生きよと言う神の思し召しだろう。とにかく、それを信じようではないか」と答えた。
このように、ワルシャワ蜂起のあと、市内に隠れ潜んでいた人々は300人ほどで、「ワルシャワのロビンソン」と呼ばれた。
ワルシャワ蜂起が失敗し、ナチス・ドイツに降伏すると、国内軍兵士はドイツ側の捕虜となり、ワルシャワ市民数十万人は収容所に移送されて、ポーランドの首都はからっぽになった。そして、ヒトラーの命令によってワルシャワは破壊され尽くした。
チャーチルなど、連合軍はスターリンを怒らせないため、ポーランドの国内軍をあまり積極的に応援しなかったようです。2段組みで440頁もある大部な本ですが、ワルシャワの地域ごとに詳細に蜂起の状況が分かるという大変な労作です。前にも同じ著者の同じテーマの本を紹介しましたが、さらに詳細にワルシャワ蜂起の状況が書き込まれています。
(2011年1月刊。3800円+税)
2011年3月29日
企業法務と組織内弁護士の実務
司法
著者 東弁研修センター委員会、 出版 ぎょうせい
私は、分類されるとマチ弁護士になるのでしょう。いわゆる労働弁護士(労弁)を目ざしたような気もしますが、労働事件はほとんど依頼されることがありませんでしたので、労弁ではありません。草の根民主主義を大切にしたいと考えてきましたから、自分としては民主的弁護士(民弁)と言いたいのですが、民弁といっても韓国と違って定着した呼び方ではありませんので、しっくりきません。仕事の大半は多重債務をふくめた消費者被害を扱うものですから、やっぱりマチ弁としか言いようがありません。だから、企業法務なんか、あんたには関係ないでしょうと言われると、実はそうではないのです。マチ弁は、実のところ、零細な中小企業を主たる依頼者としています。だから、いわゆる企業法務ではないのですが、スケールを何桁も小さくした企業法務を扱うのは主要な日常業務の一つなのです。その意味で、この本は私にとっても大変勉強になりました。
契約書の作成と審査にあたっての大切な視点として、2つあげられる。一つは、契約書において依頼者の利益が確保されていること。二つは、リスクの回避がきちんとできること。契約条項が明確になっていることは第三者によって検討が可能であること、そして、当事者間による契約条項の内容の共通認識である。
契約条項において、文章で権利・義務の主体を表示するときには、受動態ではなくて、できるだけ能動態をつかうことが重要である。
リスクの回避には3段階ある。まず、リスクを指摘する。そして、次に、そのリスクを取れるリスクか取れないリスクかを評価する。さらに、そのまま受けとめるか、軽減するか対応する。この指摘、評価、対応という3段階をふんでリスクを検討する。
法律事務所の弁護士と企業内の弁護士との違いの一番大きいのは、リスク評価に対する対応だ。企業内弁護士は、企業の一員として、ある程度はビジネスに関与して責任を負う。だから、リスクを指摘するだけではなく、この中で取れるリスク、取れないリスクをイニシアチブをもって指摘する。リスクがあるからNOというのは簡単だが、それはダメ。リスク回避の観点から、ビジネスを動かすためにはどうしたらいいのかを考えていく必要がある。企業法務部は、建設的な提言をする必要がある。そのためには、ビジネスに対する共感が大切だ。
法務部のコメントは、こうすればビジネスは動きますよと、ビジネス部門を法的に武装してあげるものでなければいけない。ビジネスに対する共感を持ち、ビジネスを円滑に進め、そしてそこから発生する法的なリスクをいかに回避するか、ビジネス部内の人たちと協力し合うことが必要である。
マスコミとの対応では、マスコミに迎合せよということではない。正しくマスコミをリードするのも危機管理の一つなのだ。
危機管理の実務は三つある。一つは、被害を最小限に食い止める。二つは、自浄作用を働かせる。三つは、プロセスを社会に示す。説明責任は会社内だけでなく、社会に示して完結するもの。
不祥事は厳罰に処するというポリシーを経営者が日ごろ口にしていると、現場はまず隠そうとする。そういう企業文化が必ず生まれる。そうではなくて、不祥事があったら、いち早く報告させる。過ちを速く報告したら、1点加点してやるくらいの組織体制が必要だ。もともと大した不祥事でないものを、役員の事後対応のまずさから大きいニュースバリューのものに育てあげていくことがある。それが、役員の善管注意義弱違反である。
拙速な公表は、たしかにまずい。しかし、分かっている事実と分かっていない事実とをきちんと区別してプレス・リリースするのはとても大切なこと。これは鉄則である。取締役会で法務部が議論をリードするのは危険なこと。
企業が自浄作用を働かさないと外圧がかかる。外圧とはマスコミ、捜査当局、監督当局そして行政だ。危機管理コンサルタントは、おじぎの仕方、派手なネクタイはいけない、金ピカの腕時計ははずせとか、小手先のテクニックを使いたがる。しかし、結局のところ、会社がどういう姿勢で、何をしてきたかが勝負どころだ。
マスコミは、相手が期待する以上の情報を提供しないと、何日も記事を書きつづける。
こんな研修だったら、還暦を過ぎた私でも、今からでも受けてみたいなと思うほど、内容の濃い本でした。
(2011年1月刊。2095円+税)
2011年3月28日
睡眠の科学
脳
著者 桜井 武 、 出版 講談社ブルーバックス新書
動物は命がけで眠っている。それほど睡眠って、生き物にとって必要なものなんですね。
惰眠をむさぼるという言葉があるが、睡眠は決して無駄なものではなく、動物が生存するために必須の機能であり、とくに脳という高度な情報処理機能を維持するためには絶対に必要なものなのである。身体とりわけ脳のメンテナンスのために睡眠は必須の機能である。睡眠中は、心身が覚醒状態とはまったく異なる生理的状態にあり、それが健康を維持するために非常に重要なのである。
ヒトは眠ると、まずノンレム睡眠に入る。ところが1時間から1時間半すると、脳は活動を高める。これがレム睡眠である。このとき、脳は覚醒時と同じか、それ以上に強く活動している。このレム睡眠のときの脳の強い活動の反映として夢を見る。レム睡眠時の夢は奇妙な内容で、感情をともなうようなストーリーであることが多い。これに対して、ノンレム睡眠のときに見る夢は、多くがシンプルな内容である。
睡眠は記憶を強化する。シェイクスピアは、睡眠こそ、この世の饗宴における最高の慈養であると言った(『マクベス』)。たしかに、睡眠は甘い蜜の味がしますよね。
睡眠不足は肥満になる。また心血管疾患や代謝異常のリスクを増加させる。
ノンレム睡眠は、一般的に脳の休息の時間だと考えられている。レム睡眠を「浅い睡眠」というのは間違いである。レム睡眠時には、不可解なことに、交感神経系と副交感神経系が両方とも活性化している。レム睡眠時には脳幹から脊髄にむけて運動ニューロンを麻酔させる信号が送られているため、全身の骨格筋は眼筋や耳小骨の筋肉、呼吸筋などを除いて麻酔している。そのため、レム睡眠時には脳の命令が筋肉に伴わないので、夢のなかの行動が実際の行動に反映されることはない。ただ、眼球だけは、不規則にさまざまな方向に動いている。
睡眠は脳が積極的に生み出す状態であり、外部からの刺激がなくなって起きる受動的な状態なのではない。
睡眠と覚醒はシーソーの関係にある。覚醒は、シーソーが覚醒側に傾いている状態である。大脳皮質の活動という点からみると、覚醒とは、脳の各部がさまざまな情報を処理するために活発に、かつ、ばらばらに動いている状態と言える。
健康なヒトでは、オレキシン系が適切なときに覚醒システムに助け舟を出し、シーソーの覚醒側を下に押し下げることにより、覚醒相を安定化することが可能になっている。
オレキシンの機能はいろいろあるが、そのもっとも中心的な機能は覚醒を促し維持すること。そして交感神経を活性化して、ストレスホルモンの分泌を促す。モチベーションを高めて、全身の機能を向上させる。意識を清明にし、意力を引き出す。
ヒトが眠りにつく前、一時的に手足の温度が上がるが、これは手や足の血管を拡張させて、体温を外に放散させることによって深部体温を下げている。こうして脳の温度を少し下げることによって睡眠が始まる。あまり体温を上げず、しかし暖かくして眠ることが大切だ。眠気を払いたいときは、逆に考えて、手足を冷やすといい。
時差ボケを解消するのには、光だけでなく、食事によってもリセットが可能だ。これは、いいことを知りました。今度、ためしてみることにします。
睡眠に関する科学の最先端の状況が私のような一般人にもわかりやすく解説されていて、一気に読み通しました。
(2011年11月刊。900円+税)
2011年3月27日
ソコトラ島
世界(アフリカ)
著者 新開 正、新開 美津子 、 出版 彩図社
ええっ、こんな島があったの・・・・。そう思ってしまいました。世にも不思議な島というのは、まったくもってそのとおりです。インド洋のガラパゴスといわれているそうですが、なるほどと納得できる写真集です。
イエメンの南東の海上にある小さな島です。ユネスコの世界自然遺産にも登録されています。年間降水量250ミリという極端に乾燥した大地ですから、そこに自生する生き物はみんな乾燥に強いものばかりです。
バオバブの木に似て、幹に水を貯められる、ぷっくらお腹の木もあります。和傘を逆さにした木は竜血樹です。薬や着色剤として珍重されてきたということです。傘のような形の樹冠になっているのは、空中の水分を効率的に補足できるからだといいます。それほど、雨が少ないということなのです。そして、竜血樹には年輪がなく、繊維が詰まっているのです。不思議な木です。
ボトルツリーとかキュウリの木とかいうのは、バオバブそっくりです。とっくり形の幹に水を貯めているのですね。そして、その太った幹から葉が出て、花が咲くのです。みんな面白い形をしています。
アロエも変わった形です。アレキサンダー大王が、アリストテレスの助言を受けて、ここのアロエを入手するため、ソコトラ島を占領したというのです。本当なのでしょうか・・・・。
こんな変わった島にも人々が住み、生活しています。ラクダもいます。ソ連の軍事基地が置かれていたこともあって、F34戦車の残骸まであるのです。これにも驚きました。
大きな洞窟があります。4万人あまりが生活するソコトラ島にリピーターで渡った日本人夫妻の写真集です。知らない世界は多いものですね。
(2010年12月刊。1600円+税)
2011年3月26日
絵草紙屋・・・江戸の浮世絵ショップ
日本史(江戸)
著者 鈴木 俊幸、 出版 平凡社
まっこと、日本人っていうのは昔から本が大好きなんですよね。江戸時代、大人も子どもも、本屋の前に広く集まり、江戸では新刊本を、地方では古本を待ち焦がれていたのでした。
地本(じほん)とは、江戸で、生産される草紙類のこと。豪華な印刷。錦絵は、江戸の繁華を象徴するものであり、最新の流行を盛り込んで、「通」の美意識にかなうお洒落なものだった。地本は、絵草紙屋という店で商われる。小売専業の店が江戸に出来て、錦絵を商品の主体とした。浮世絵のなかで、もっとも主要なジャンルは芝居絵である。相撲絵や吉原の遊女の姿絵も主要なジャンルの一つであった。
そして、きれいな浮世絵が店先に吊るし売りされている絵草紙屋は掏摸(すり)のかっこうの稼ぎ場でもあった。絵草紙屋の店先に吊るされていた浮世絵をポカンと大口をあけて眺めていると、そっとスリが近づいてきて、フトコロの財布を盗んでいってしまう。絵草紙屋の主人はそれに気がついても黙って成り行きを見ているだけ。そんな状況が紹介されています。昔も今も変わらない情景ですね・・・・。
絵草紙屋には、春画・書本の類も置かれていて、根強い人気商品だった。
参勤交代などで、地方から江戸へ出てきた田舎にとって、「土産の第一」は、浮世絵だった。国元への土産に大量に買い付けた。田舎へ持って帰るのには、新版である必要はない。浮世絵は吊るし売りされていた。観光地であり、行楽地である浅草は、小売専業の絵草紙屋が登場した。
江戸時代の貴重なメディアの一つであった絵草紙の興亡を知ることができました。
(2010年12月刊。2800円+税)
2011年3月25日
「ふたつの嘘」
社会
著者 諸永 祐司 、 出版 講談社
毎日新聞記者(西山太吉氏)が外務省の機密電信文を入手し、それをもとに国会で社会党の議員が政府を追及した。沖縄返還をめぐって、日本政府がアメリカと重大な密約を結んでいたことを暴露する内容だった。ところが、やがて問題すりかえられた。西山記者が入手した情報が外務省の女性事務官との男女関係によるそそのかしにもとづくものだったことにマスコミが焦点をあて、本当の問題点だった政府間の密約問題が話題にのぼらなくなった。このときのマスコミって、無責任報道の典型ですよね。
作家の村上春樹の受賞スピーチが紹介されています。モノカキのはしくれとして、私はなるほどそのとおりだと思いました。
小説家は上手な嘘をつくことを職としている。ただし、小説家のつく嘘は、嘘をつくことが道義的に非難されない。むしろ、巧妙な大きな嘘をつけばつくほど、小説家は人々から賛辞を送られ、高い評価を受ける。小説家は、うまい嘘、つまり本当のように見える虚構を創り出すことによって真実を別の場所に引っ張り出し、その姿に別の光を当てることができる。
なるほど、なるほど。まさにスピーチのとおりです。
西山記者は毎日新聞を辞め、北九州で隠遁生活を過ごす。妻との離婚の危機、そして、息子たちとの葛藤。さらには競艇への乗めりこみ。うつうつとした生活がずっと続きます。
ところが、ついにアメリカ公文書館で密約を掘り起こした日本の学者がいて、それが日本マスコミで大々的に報道されました。それを受けるかのように、日本の裁判所が密約の開示を政府に命じる判決を下したのです。ついに、西山記者の主張が裁判所でも認められた一瞬でした。すごいですね。苦節40年近くを経て、いったん不当におとしめられた職業人が不死鳥のごとくよみがえったのです・・・・。
それにしても、こんな大切なことで日本国民を裏切る政府なんて許せないことですよね。いつだってアメリカ政府言いなりの菅政権に対しては、いいかげんにしてよ、あんたも若いころはアンチ・アメリカを叫んでいたんじゃないのと言って、お尻ペンペンしてやりたくなりました。
(2010年12月刊。1800円+税)
震災後に続いている福島原発の深刻な事態について、政府は本当のことを国民に知らせていないのではないかと言われています。真実を知らせると国民がパニックを起こして収拾つかなくなるという考えにもとづくものです。でも、真相が隠されていると国民が疑う状況では、かえって無用のパニックが発生しかねません。政府は「直ちに健康被害は出ない」「落ち着いて行動してください」と言うだけではなく出来る限り正確な情報を国民に知らせるべきではないでしょうか。そうなることによって、かえって政府発表への依頼性が増し、国民は冷静に対応できると思います。
それにしても大震災発生後2週間たっても原発災害の異常事態が続くのはあまりのことです。政府は日本の科学者・技術力のすべてをそそぎ込んで安全を確保してください。お願いします。
我が家のチューリップが咲きはじめました。きのう数えたら15本のチューリップが咲かせています。なぜか赤い花ばかりです。チューリップ畑を眺めて、原発による不安の心を少しだけ落ち着かせています。
2011年3月24日
日本国憲法の旅
司法
著者 藤森 研、 出版 花伝社
この本の序文(はじめに)に著者は次のように書いています。日本国憲法の大切さを自分の仕事と生活のなかで実感したというのはすごいですよね。弁護士をしていても、憲法を日頃意識するのは、実は私にしてもそんなに多くはないのです。反省させられました。
この35年間、新聞記者として事件や司法、教育、労働、戦後処理、ハンセン病、メディア問題などを取材した。その時々の課題を追う社会部記者の暮らしのなかで、いつもどこかで気になっていたのは、私の場合は、日本国憲法だったように思う。
著者は大学時代に、小林直樹教授の憲法ゼミに所属していたとのことです。そして、今は新聞社を退職して、専修大学で学生を教えています。
日露戦争のとき、与謝野晶子が「きみ死にたまうことなかれ」と反戦詩を発表したのは有名ですが、その前に、ロシアの文豪トルストイもイギリスで同じような反戦の論文を発表していました。いったい、晶子はトルストイの論文を読んでいたのか。著者は読んでいたと断言しています。時期として矛盾しないし、内容に類似性があるということが根拠になっています。実は、私は別の本でも、このことを追跡しているのを読んだばかりですので、著者の考えに同感です。
そして、晶子が日露戦争のあと、変節したのかと問いかけています。晶子は満州旅行に出かけたとき、ちょうど奉天で日本軍による張作霖爆殺事件に遭遇したのでした。この事件は、当時の日本では満州某重大事件として真相が秘匿されていましたから、晶子が真相を知っても、その考えを発表することはできなかったでしょう。
軍隊を持たないコスタリカにも著者は行って現地で取材を重ねました。モンヘ元大統領は次のように語ったそうです。
私たちは軍隊を持っていないだけに、どんな小さな紛争も看過せずに調停と仲介を通じて、積極的に平和をつくり上げていく。私たちの中立主義はイデオロギー的な立場で唱えているのではなく、人間の自由と人権を守る方向で考えている。アメリカは複雑な国だ。ペンタゴン(国防総省)やタカ派は反対であっても、アメリカ議会は我々の立場を承認する方向にあった。
そして、コスタリカでも注目すべきは選挙です。サッカーと選挙は国民的な祭典である。投票日直前になると、全国一斉に禁酒となる。過熱によるケンカの予防のため。ただし、これはコスタリカだけではなく、他の多くのラテンアメリカの国と同じ。そして、子ども選挙が行われている。高校生たちが企画・運営し、10歳前後の子どもたちが大人と同じように本物そっくりの投票箱に投票用紙を入れる。こうやって、子どもたちは民主主義とは何かを体験し、学んでいく。実践的な公民・政治教育が盛んにすすめられている。いやあ、これっていいことですね。日本で政治に無関心な人が多いのは、子どものとき学校できちんと教えられていないことにもよりますよね。
コスタリカ政府がアメリカのイラク侵攻を始めたのを支持する声明を出したとき、一人の法学部生が憲法に反対すると提訴した。そして、最高裁は政府によるアメリカ支持の声明を違法とし、その声明の取り消しを命じる判決を出した。
うむむ、これってなかなかすごいことですね。こうやって憲法をつかい、定着させていくわけですね。日本では、その点の努力がまだまだ弱いですよね。
著者は本の最後を次のように締めくくっています。これまた、とても大切な言葉だと思いました。
日本国憲法を世界に活かしていく歩みは可能だと思う。望めば、その歩みに直接かかわることもできる国に暮らしていることを、恵まれたことだと私は感じる。
実は、著者は私と同じころ大学(駒場)にいたのでした。学生のころは面識がありませんでしたが、今では年賀状などをやりとりする関係にありますので、この本も贈呈していただきました。ありがとうございました。じっくりと読むに価する本だと思います。
(2011年1月刊。1800円+税)
2011年3月23日
ヒロシマ
日本史(現代史)
著者 ジョン・ハーシー、 出版 法政大学出版局
この本の初版が発行されたのは1949年4月のことです。全世界に原爆の惨禍を知らせ、ピュリッツアー賞を受賞したのでした。広島に原爆が投下された、その瞬間にいあわせて生き残った6人の戦後史が淡々とした筆致で描かれているので、かえって原爆のむごさ、非人道性が浮き彫りになっていきます。もちろん、何十万人もの罪なき人々を一瞬のうちに殺戮した残酷さはもっともっとひどかったことでしょうが、全世界の人々に原爆の惨禍を知らせた点に大きな意義のある本です。
50年たった2003年に7月に刊行された増補版を読んでも、まったく古臭さを感じさせません。それどころか、テロリストへの核拡散の脅威まである今日、ますますその意義は大きくなっています。
原爆投下前、何週間にもわたって、毎夜のようにB29が広島上空を飛んできた。その警報が頻繁なくせに、「Bさん」が相変わらず広島を敬遠しつづけていることが、かえって広島市民をびくびくさせ、アメリカ軍には広島向けの何かとっておきがあるらしいという噂が立った。日本の主要都市のなかで、京都と広島だけが、まだ「Bさん」、日本人は尊敬と不本意ながらもなれなれしさとをこめて、B29をこう呼んでいた、の大挙訪問を受けていなかった。
投下の直後、驚くべき景観を見た。にごった大気越しに眺めうるかぎりの広島市街から、恐ろしい毒気がもうもうと立ちのぼっていた。やがて、おはじき玉大の水滴が落ちはじめた。
ただの一撃で、人口24万5000人の都会で、即死もしくは致命傷が10万人、負傷者も10万人以上にのぼった。少なくとも1万人の負傷者が、広島市中随一の日赤病院に押しかけてきた。病床は600にすぎず、それも全部ふさがっていた。道路を何百、何千という人が逃げてくる。一人残らず何かしら怪我をしているらしい。眉は焼け落ち、顔や手の皮膚はむけて、ぶらさがった人もいる。痛さのあまりに、両手で物を下げたようなかっこうで、両腕をさしあげたきりの人もある。たいてい裸か、着ていてもボロボロだ。素肌の火傷が、模様のように、シャツの肩やズボン吊の形になった男もいる。白いものは爆弾の熱をはじき、黒っぽい着物はそれを吸収して皮膚に伝えたので、着物の花模様がそのまま肌に焼きついた女の人もいる。
ほとんどすべての人が、うなだれ、まっすぐに前方を見つめ、押しだまって、何の表情も見せない。
負傷者を船で運ぶとき、どの人の背中も胸も、ねちゃねちゃする。朝みたときは黄色で、それがだんだん赤くふくれ、皮がむけ落ち、夕方には、ついに化膿して臭くなった。ぬるぬる生身を抱いて船から出し、潮のこない斜面にまで運び上げる。これは、みんな人間なんだぞ、と何度も何度もわざわざ自分に言いきかせなければとても我慢できかねた。
爆発後の数日間、あるいは数時間だけでも安静に寝ていた人々は、動きまわったものより発病がはるかに少なかった。
男子は精子を失い、女子は流産し、月経は閉止した。
いま、弁護士会は国是と言われてきた非核三原則の法制化を検討しています。核兵器をつくらず、持たずについては罰則つきで定めるのは容易なのですが、問題は「持ち込ませず」です。例の核密約がありますから、万一のときは、いつでもアメリカは日本の基地に核兵器を持ち込んでくるのではないかという心配があります。
ただ、時代が変わったことも間違いありません。オバマ大統領のプラハ演説のあと、アメリカもそれなりに核兵器をなくす方向には動いています。沖縄そして岩国や三沢などにあった核兵器は今では、完全に撤去されているようです。そこで、「持ち込ませず」が実現している今こそ法制化のチャンスだということです。国会で承認・可決されるような案を日弁連としてまとめて上げることができたらうれしいのですが・・・・。
ヒロシマそして長崎に落とされた原爆の惨禍を追体験できる貴重な本です。
ちなみにアメリカは配置済みの核兵器を減少させながらも、核攻撃力の強化をはかる政策が巨額の予算で推進しているようです。そのため、アメリカには深刻な経済不況がうまれているわけです。
いかなる状況であれ、いかなる目的のためであっても、核兵器の使用は重大な人道に対する罪であり、最終的には、いかなる紛争も軍暴力によっては解決できない。
本当に、そのとおりだと確信させられる本です。
(2003年7月刊。1500円+税)
福島の原子力発電所が地震が起きて10日以上にもなるのに依然として爆発の危機を脱していないのは恐るべき事態です。現場で懸命に復旧作業にあたっている東電の社員の皆さんには心から敬意を表しますが、「絶対安全」と言い続けてきた東京電力という会社自体はあまりにもひどいし、津波の規模が「想定外」だったという弁解は成り立ちません。格納容器が破損するなど、あり得ないはずの事態が目の前で今も進行しているのを知ると、身震いしてしまいます。ともかく一刻も早く放射能の拡散を止めてください。そして、政府は「心配ない」と言うだけでなくもう少し具体的に説明してほしいと思います。
この本を読んだのは今年はじめのことです。まさか、現代の日本でこれほど放射能被害を深刻に心配しなくてはいけないとは想像もしていませんでした。それこそ「想定外」の事態です。
2011年3月22日
宇宙より地球へ
宇宙
著者 野口 聡一、 出版 大和書店
国際宇宙ステーションに半年近く滞在していた宇宙飛行士の野口さんによる体験記と宇宙から見た地球の写真が満載の楽しい写真集です。宇宙ステーションというと、私の子どものころは鉄腕アトムと同じで夢物語でしかありませんでした。それが今ではなんということでもなく(!?)往復できるものになっているのですね・・・・。
打ち上げから8分後には、宇宙にいる。窓から、丸い地球が見えてくる。
澄み切った青い地球の姿が見えます。公害問題も、環境汚染もまったく感じられない地球です。
国際宇宙ステーションはサッカー場を超える大きさ。うへーっ、これって超大きいですよね。宇宙ステーションの窓から地上がよく見えます。アフリカの砂漠も、アマゾンの密林も、アメリカも日本も・・・・。
宇宙で食べる献立もメニューが豊富になったようです。夕食はみんなそろって歓談しながらとるといいます。やっぱり団結するには一緒に食事するのが不可欠ですよね。
シャワータイムもあります。でも、宇宙では水はとても貴重なものです。地上のように、流しっ放しというわけにはいきません。最後に洗い流さなくてもいいシャンプーをつかったりして、なんと全身を洗っても100ccのお湯で足りるというのです。驚きました。
20年前、フランスのグルノーブルへ一人旅したとき、初めシャワー付きの部屋しかないと言われて、それはダメ、風呂のある部屋にしてほしいと交渉したことを思い出しました。旅先で手足をゆっくり伸ばしてゆっくり風呂に浸かってリラックスしたいと思ったのです。なんとか、つたないフランス語で風呂付の部屋に替えてもらって喜んだことでした。
宇宙船のなかでは、よく物がなくなってしまう。ええーっどうして・・・・?もちろん、他のクルーが盗るなんていうことではありません。重力がなくて、すべての物体がふわふわ浮いているため、空気の流れに乗って動いていってしまうのです。だから、空気を読むのは宇宙でも大切なのだ・・・・。なんだか、ちょっと違いますよね。
宇宙船にじっとしていて、何もしないと骨が弱くなってしまう。そこで、毎日、2時間は運動していた。筋トレは宇宙に長期滞在すると欠かせないのですね。
宇宙から見える地球の姿を眺めていると、地球上の紛争なんて、いかにもちっぽけ過ぎると、つくづく思ってしまいます。まあ、私など、そのおかげでメシを食わせてもらっているのですが・・・・。
(2011年2月刊。1400円+税)
早くもチューリップがつぼみになりました。今週にも咲きはじめることでしょう。隣家のハクモクレンの純白の花が満開です。通勤途中にはコブシの白い花が咲いている並木路があります。
日曜日に事務員さんの結婚披露宴がありました。久しぶりの披露宴です。身近な弁護士に入籍したけれど披露宴はしないという人が何人もいます。今回も仲人はなく、最後の挨拶も新郎のみで、親からのお礼の言葉というのはありませんでした。
私の事務所の全員がビデオレターで登場したのですが、あとから「楽しそうな事務所ですね」と声をかけてもらい、所長としてうれしく誇らしく思いました。
それにしても「絶対安全」のはずの原子力発電所の事故による放射能もれは恐ろしいことです。自衛隊より消防庁のほうが役に立っている現実がありますが、大会社の嘘は絶対に許せません。
一刻もはやく放射能もれを止めさせてほしいですよね。
2011年3月21日
前方後円墳の世界
日本史(古代史)
著者 広瀬 和雄、 岩波新書 出版
3世紀中頃から7世紀初めにかけての350年間に、日本列島に5200基もの前方後円墳が築造された。そのうち墳長100メートル以上の大型のものは302基。畿内地域に140基が集中している。
首長の生活拠点や生産基盤から離れた地点に前方後円墳がつくられた背景には、多数の人々に見せるという目的があった。
古墳時代の共同体の繁栄には、亡くなった先代と当時の二人の首長によって保証されるという共同幻想があった。
古墳のふもとに埴輪群像を立てている区画がありました。その再現写真は見事なものです。首長権の継承儀礼、もがり、葬列、生前顕彰、墓前、祭祀などのシーンがさまざまな形をした埴輪によって再現されているのです。
弥生墳墓によるかぎり、大和地域の政治勢力が他地域の首長層を力で屈服させたという説明は困難である。むしろ、各地の勢力が共存していたのではないか。
前方後円墳と前方後方墳の併存は、各地の首長層に政治的なランク付けがあったことを物語っている。前期古墳の墳丘規模や埋葬施設、あるいは副葬品の各寡からすれば、東国首長層には一段低い地位が与えられていたと解される。
古市古墳群と百舌鳥古墳群を造営した二つの有力首長が、津堂城山古墳、石津丘古墳、仲津山古墳、誉田山古墳、大山古墳、ニサンザイ古墳、丘ミサンザイ古墳の順で、輪番的に大王の地位を七大にわたって世襲した。したがって、百舌鳥・古市古墳群における巨大古墳の登場を、大和から河内での政治中枢の移動、もしくは河内で力を蓄えた政治勢力が大和勢力から政権を奪取したとみなす「河内政権論」は成立しがたい。
平城宮をつくるとき、巨大前方後円墳である市庭古墳の前方部が削平された。ほかにも、いくつか完全に破壊された古墳がある。
中央と地方の首長たちを結びつけ、代々の系譜的なつながりで政治的正統性を確証し、首長層の一個の価値体系をなしてきた前方後円墳を、奈良時代の貴族は見事に否定している。個々には連続性ではなく断絶、異質のものが認められる。
うむむ、前方後円墳を知らずして日本の古代は語れませんが、そこに新しい視点が持ち込まれています。大変に刺激的な内容ですし、大いに勉強になりました。
(2010年8月刊。720円+税)
2011年3月20日
細川三代、幽斎・三斎・忠利
日本史(江戸)
著者 春名 徹、 藤原書店
熊本城の大広間が再現されたのを見ましたが、それはたいしたものです。佐賀城の大広間の再現にも感嘆しましたが、やはり熊本城のほうがはるかにスケールが大きいと思います。その熊本城の主であった細川家は、戦国時代を生き抜いて熊本に定着したわけですが、それに至るまでは決して安穏した状況ではありませんでした。そのことが実によく分かる本です。500頁もある分厚い本ですが、最後まで興味深く読み通しました。
細川家三代の基礎をつくった幽斎・細川藤孝は12代足利将軍義晴(よしはる)の側近、三淵(みつぶち)大和守晴員(はるかず)の次男である。ところが、実は、藤孝の本当の父親は将軍義晴であったとも言われている。いずれにせよ、藤孝は、織田信長と同年の生まれ、秀吉より3歳、家康より8歳上であった。
藤孝は足利将軍義昭につかえていたが、織田信長が抬頭するなかで、信長につかえるようになった。そして、ついに将軍義昭を見限り、信長についた。
藤孝は、信長が安土城を居城として京都一円を支配していたとき、丹後国の支配をまかされた。
天正10年(1582年)光秀が信長を殺害したとき、藤孝は光秀の娘を妻(玉。ガラシャ)としていた息子・忠興を試した。しかし、親子そろって、光秀には組みしなかった。幽斎と忠興父子は、秀吉支持で一貫した。
利休の切腹、朝鮮出兵そして秀次失脚によって細川幽斎も、忠興もきわどいところを切り抜けていったようです。そして、忠興の妻、ガラシャ(光秀の娘)は大坂方(石田三成)に攻められ、自決した。
細川家が本に書かれやすいのは、膨大な手紙が残されているからです。
忠興は、三男忠利に対して、現在するだけで1700通、その他をあわせると2千通も残っている。そして、忠利も、光尚あてに1400通が残っている。忠利の手紙の総数は4千通といいますから、半端な数ではありません。
徳川政権の確立期に、ひたすら情報を集め、政治の推移をうかがい、自らも家を保ち、それを円滑に後継者に継承するための過程を生彩ある筆で描きだしたのである。
すごいですね。細川家が熊本に入ってからも、いろいろありました。その一つが、島原の乱です。そして、阿部一族の事件の真相は・・・。これらについても大変興味深く、読み通しました。
(2010年10月刊。3600円+税)
2011年3月19日
『日欧文化比較』
日本史(戦国)
著者 ルイス・フロイス、 出版 岩波書店
ルイス・フロイスの日本覚書
1. ヨーロッパでは、未婚女性の最高の栄誉と財産は貞操であり、純潔 が犯されないことである。日本女性は処女の純潔を何ら重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない。
29. ヨーロッパでは、夫が前方を、そして妻が後方を歩む。日本では、夫が後方を、そして妻が前方を行く。
30. ヨーロッパでは、夫婦間において財産は共有である。日本では、各々が自分の分け前を所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける。
31. ヨーロッパでは、妻を離別することは、罪悪であることはともかく、最大の不名誉である。日本では、望みのまま幾人でも離別できる。彼女たちはそれによって名誉も結婚も(する資格)も失わない。
32. (ヨーロッパでは)墜落した本姓にもとづいて、男たちの方が妻を離別する。日本では、しばしば妻たちの方が夫を離別する。
33. ヨーロッパでは、ひとりの親族が(女)が誘惑されても、(その奪還のため)一族全部が死の危険に身をさらす。日本では、父母兄弟が見て見ぬふりをし、そのことをあっさりと過ごしてします。
34. ヨーロッパでは、娘や処女を(俗世から)隔離すること、はなはな大問題であり、厳重である。日本では、娘たちは両親と相談することもなく、一日でも、また幾日でも、ひとりで行きたいところに行く。
35. ヨーロッパでは、妻は夫の許可なしに家から外出しない。日本の女性は、夫に知らされず、自由に行きたいところに行く。
38. ヨーロッパでは堕胎は行われはするが、たびたびではない。日本ではいとも普通のことで、20回も堕胎した女性がいるほどである。
39. ヨーロッパでは嬰児が生まれた後に殺されることなど滅多にないか、またはほとんどまったくない。日本の女性たちは、育てることができないと思うと、嬰児の首筋に足をのせて、すべて殺してしまう。
45. 我らにおいては、女性が文字を書く心得はあまり普及していない。日本の貴婦人においては、もしその心得がなければ格が下がるものとされる。
54. ヨーロッパでは、女性が葡萄酒をのむなど非礼なこととされる。日本では(女性の飲酒が)非常に頻繁であり、祭礼においてはたびたび酩酊するまで飲む。
どうでしょうか。戦国時代の日本女性について、ヨーロッパの人々が大変驚いたことがよく伝わってきますよね。
(1991年11月刊。6600円)
2011年3月18日
無縁社会の正体
社会
著者 橘木 俊詔、 出版 PHP研究所
この著者の本は、いつものことながら、とても実証的で大変勉強になります。
日本の自殺者は毎年3万人を超えているが、自殺者の多い40歳代から60歳代では、男性の自殺者数は女性の3倍になっている。自殺の理由は健康問題と経済問題の2つで79%つまり8割を占めている。
戦前の日本では単身者は5~6%と、非常に少なかった。ところが2010年に31.2%となり、これから2030年には37.4%になると見込まれている。3分の1以上、4割に近い単独世帯である。これは、結婚しない単身者の増加と老後に一人で住む人の増加による。
貧困大国・日本はあながち誇張ではない。そして、貧困者をふくむ低所得高齢者の所得は年金しかないのが現実だ。
年金給付額をアップせよというと反対論が起きる。自立の精神にもとづいて、老後の生活に備えて自己資金を十分に蓄えておくべきだという考え方である。しかし現実には、これらの高齢者の多くは、若・中年期の所得が低かったうえ、それほど贅沢な消費をしていなくとも、貯蓄にまわせる分が少なかったので貯蓄額が低かったのであって、本人だけの責任ではない。
そうなんですよね。自己責任という前に、社会がきちんと機会を与えていなかった、否むしろ、その機会を奪っていたという現実を直視すべきではないでしょうか。自己責任論は政治の責任をあいまいにしてしまいます。
日本の貧困は、母子家庭における深刻さが目立つ。高齢単身者は、全貧困者のうち5分の1を占めている。貧困に苦しむ高齢者(とくに単身者)は、生活保護制度に対してほとんど期待できないのが現実である。資産調査が厳しいし、申請書類が複雑だし、恥の感情から申請をためらう。
戦前までの日本は、国民皆婚時代と呼ばれるほど、ほとんどの人が結婚した。しかし、1970年代半ばから婚姻率が7~8%と低下しはじめ、現代では5%にまでなっている。生涯に一度も結婚しない人(生涯未婚率)は戦前までは2%以下だった。ところが、1990年代に入ると5%をこえ、ここ15年のうちに5.5%から16.0%へと3倍も増えた。
お見合い結婚は、50年前には結婚全体の半数以上を占めていた。今では、1割にもみたない。結婚にあたって仲人を立てる人が激減し、1994年に63.9%だったのが、2005年には1.3%でしかない。結婚は、当事者同士だけのものとなっている。
私の住む町にも一人暮らしは多く、同じ団地内には数多くの人が一人で生活しています。老後を安心して生活できる社会環境にない日本って、本当に残念です。そして、その解決には消費税を増税するしかないという議論があまりにも多すぎます。消費税を増税しても法人税減税の穴埋めにつかってきた事実があるわけですから、ごまかしはやめてほしいと思います。いろいろ考えさせてくれる本でした。
(2010年2月刊。1600円+税)
2011年3月17日
室町幕府論
日本史(戦国)
著者 早島 大祐、 出版 講談社選書メチエ
この本を読むと、本を読み続けることの大切さを改めて認識させられます。というのも、たとえば足利義満は日本国王に取って代わろうとしたという(王権簒奪論と呼ばれる)学説が有力だと私は思っていました。ところが、この本によると、この王権簒奪説は現在では成立しない学説だというのです。
足利義満が国内的に日本国王号を使用した形跡はない。当時の幕閣たちのあいだで、明(中国)に臣下の礼をとる日本国王号には反発が強かった。そして、日本国王号は九州方面の戦略上の必要に過ぎなかった。
足利義満は、どのような手段を用いても明との交易を行いたかった。通交の名義は明側の要請に応えただけであって、義満はあくまでそれに合うように行動したに過ぎなかった。明と貿易さえ出来れば、「征夷将軍」でも「日本国王」でもなんでもよかった。足利義満は天皇になろうとしたわけではなく、また日本国王として権力を行使しようともしていなかった。
足利義満の権力を日本国王と表現するのは、果たして妥当かという根本的な批判が加えられている。明から与えられた日本国王号が内政に直接影響を与えたとは言えないというのが今の学会の共通理解である。なーるほど、そうなのか・・・と思いました。
遺明船のもたらした財貨はきわめて莫大であった。それによって義満は京都に七重塔という100メートルを超える塔を建てた。応永6年1399年のこと。義満の建てた相国寺大塔は、天下を象徴する塔であると当時、認識されていた。
義満は、大胆さと繊細さを兼ね備えた人柄であった。応永14年に明からの使節がやって来たとき、義満は唐人の装束で使節を歓待した。義満は当時の規範から自由に、自分がふさわしいと思うかたちで衣装を選んでいた。
大塔や北山第の造営にみられるように、義満の権力は、まことにスケールの大きいものだった。北山殿として、過去のあらゆる院を超えた権力を手中にした義満であったが、その築き上げたものは、息子義持によって、ばっさり仕分けられてしまった。完成間近だった再建・大塔は、放置され、明との通交も停止された。
室町幕府を考え直すことの出来る本でした。
(2010年12月刊。1800円+税)
2011年3月16日
単身急増社会の衝撃
社会
著者 藤森 克彦、 出版 日本経済新聞出版社
高齢かつ単身で生活する人が急増しています。日本は世界のなかでも、飛びぬけて多いようです。これって、なかなか深刻な問題です。国がきちんとした対策を立てるべきだと私は思います。だって、一人暮らしは病気になったりしたら、とても大変なことになるんですよね。
50代・60代男性のおおむね4人に1人が一人暮らしになる。これが20年後の日本の姿だ。すでに、この20年間で単身世帯数が3倍以上に増えた。高齢者で単身世帯が増えたのは、長寿化による高齢者人口の増加と、結婚した子どもが老親と同居しなくなったことが大きな原因だ。50代と60代の男性で単身世帯が増加したのは、これらの年齢階層の人口増加に加えて、未婚者が増えたのが大きな要因。
50歳までに結婚したことがない人の割合を生涯未婚率と呼ぶが、男性は1985年までは3%以下だったのが、2005年には16%となった。しかも、20年後には29%となると予測されている。同じく女性は23%。
2007年、全国の150万人の生活保護受給者がいて、その半数以上(54%、81万人)を単身者が占めている。男性41万人、女性40万人である。60代と70代の単身男性の17%が生活保護受給者。50代でも10%。これは50代における単身者の貧困が深刻な状況にあることを示している。
2008年の全国の自殺者3万2千人のうち、50代が20%を占めている。そして、その8割が男性であり、その4割が経済生活問題を動機としている。
国際的にみて、日本社会は「社会的孤立」が進んでいる。共同住宅に住む人は地域から孤立する傾向がある。日本では介護における家族の役割が大きい。欧米諸国では、公的な介護サービスに加えて、家族以外の人によるインフォーマル・ケアが活発で、それらが高齢単身者の生活を支えている。
非正規労働者は賃金が安く、雇用も不安定である。だから、結婚を望んでも踏み切れない。これは本人の自助努力だけでは克服できない問題である。社会として、非正規雇用の問題を是正すべきなのである。
日本社会は社会保障を充実させないと大変なことになるというのがよく分かる、とても実証的な本です。
(2010年9月刊。2200円+税)
日曜日の午後から庭の手入れをしました。ジャーマンアイリスを少し植え替えてやったのです。本当は6月に花が咲き終わったころのほうがいいようですが、例年、今ごろ植え替えています。貴婦人のように艶やかな花弁と花色で楽しませてくれます。
ポカポカ陽気だったので、朝は一分咲きだった桜(サクランボです。ソメイヨシノではありません。)の花が午後には四分咲きになりました。ジョウビタキも何してるのと寄ってきてくれました。
いつもなら散歩の人が何人も何組も通って声をかけてくれるのですが、一人も通りません。静かすぎて不気味です。庭に出ているあいだ大変なことが起きているのかもしれないとだんだん不安になってきました。初めての体験です。
あまりにも悲惨な映像なので、気分が悪くなって早々に寝ました。悪い夢を見た人も多いようです。被災者の皆様には、本当に心からお見舞い申し上げます。私も及ばずながら、いくらかお役に立てればと考えています。
うぐいすが見事に歌ってくれた春の一日でした。
2011年3月15日
日露戦争を世界はどう報じたか
日本史(明治)
著者 平間 洋一、 芙蓉書房出版
日露戦争について、世界がどう見ていたのかという面白い視点でとらえた珍しい本だと思いました。日露戦争の前、ロシアの新聞では極東の日本の珍しさについての報道が多く、遠い国であり、ロシアと利害関係が衝突するというイメージの記事はなかった。日本は韓国における今の利益を守ろうとしているだけで、それ以外のことは追及していない。ロシアとの摩擦は無意味だ、と伝えていた。その後も、ロシアのマスコミは、読者に、日本との戦争は起きないという希望的観測を流し続け、ヨーロッパからの日本が戦争を準備しているとの情報を否定していた。いよいよ情報が緊迫してくると、白人キリスト教の精神文化と異教徒の黄色い人種の精神文化とのすさまじい衝突に直面している。白色人種が勝利をおさめるだろうという記事がのった。開戦当初は、案外に日本兵士はよく整備され、勇ましく、毅然とした積極果敢な兵士であると評価する記事がのった。
1904年6月、イギリスの『タイムズ』にレフ・トルストイが戦争を批判する文章を発表した。「戦争がまた起こった。何人もの無用無益なる疾苦、ここに再び人類の愚妄残忍また、ここに再び起きる」
そして、日本でもトルストイの影響を受け、与謝野晶子が『明星』に「君、死にたまうことなかれ」を発表し、論争が起きた。与謝野晶子とトルストイが同じようなことを世間にアピールしていたとは知りませんでした。
旅順が陥落したあと、バルチック艦隊の行動が新聞の注目をあびた。イギリスのある提督は、東郷とロジェストウェンスキーの戦いは日本が勝つ。艦船の数が多くとも、砲手の技量は日本兵のほうがロシア兵よりも優れているからだと、その理由を述べた。うへーっ、見る人は見ていたのですね・・・・。
意外なことに、文豪のマクシム・ゴーリキーは、戦争の継続を支持した。しかし、それは、愛国主義の立場からではなく、国内の政治改革に役立つからというものだった。なるほど、そういう視点もあるわけですね。
中国では新聞社が壊滅状態だった。若い光緒帝の支持の下にすすめられていた戊戌維新は、かの西太后の弾圧によって失敗し、活気をみせていた新聞も、そのほとんどが閉鎖され、停刊に追い込まれた。1902年ころ、中国には、わずか20数社の新聞社しか残っていなかった。それも中国南部に集中し、北部中国には4~5社しか新聞社はなかった。4億人の人口を有する中国に20数社の新聞紙しかないことは、中国政府の言論に対する取り締まりの厳しさが反映している。いやはや、閉鎖的な言論統制は国の発展を妨げるのですね。
アメリカ国民は、日露戦争のあいだ、 日本が利他的な動機、つまり門戸開放原則を守るために戦っていると信じていた。だから、戦後の日本が満州利権を独占しようと動いていることを知ると、対日世論が悪化する一因となった。ふむふむ、イメージというのは騙し騙されやすいものなんですよね。
開戦の前から黄禍論はヨーロッパのメディアをにぎわしていた。開戦と同時に、黄禍の脅威の主張がロシアだけでなく、フランスやドイツでも高まった。日露戦争において、日本はヨーロッパの当初の予想をこえて海陸で戦勝を続けた。このため、新たな黄色人種によるアジアの列強の登場を心配する声が増えていった。
日露戦争を世界史のなかでとらえるうえで大いに目を開くことのできる本です。
(2010年5月刊。1900円+税)
2011年3月14日
スズメはなぜ人里が好きなのか
生き物(小鳥)
著者 大田 眞也、 出版 弦書房
日本のスズメは、1990年ごろの半分以下、1960年代に比べると10分の1にまで減ってしまった。そうですよね、すごく減ってしまいましたね。我が家の庭のスズメも、軒下のスズメも、めっきり少なくなってしまいました。この本は身近な存在であるスズメをよくよく観察して、豊富な写真とあわせて、その生態が細かく紹介されています。
スズメは田んぼの稲などを食べる害鳥のように思われている。そのため、中国では文化大革命のときに、スズメを全国一斉に駆除した。その結果、中国の農村は百年来の大凶作に見舞われた。それというのも、スズメは春から初夏にかけて繁忙期には農作物の有害虫を大量に食べてくれている。そのおかげで、秋の実りも保証されている。だから、実りの時季だけをみて、有害鳥と決めつけて大量に駆除するのは愚かな行為でしかない。ふむふむ、スズメは益鳥でもあるのですね・・・。
スズメは雑食性であり、穀物だけでなく昆虫類も食べている。スズメは年に2回、ときに3回繁殖する。スズメの食性による農林業上の経済効果は計り知れない。
スズメが人里に住むのは、人間よりも怖いカラスやタカ、ハヤブサ、そしてモズなどのような天敵が多いため、苦肉の策として人の懐に飛び込んで、その威を借りて営巣している。つまり、人間を用心棒がわりに利用してヒナを育てている。だから、人の出入りが必要だし、それもなるだけ多いほうがいいのだ。
スズメは、一夫二妻も多く、雄は早く孵化したヒナを育てる。そこで母親のメスは、競争相手のメスの巣に入りこんで、盗み出しては壊滅的なダメージを与えようとする。これは、スズメの子殺しです。巣立ったスズメのヒナの4分の3は、1年以内に死んでいる。
スズメのオスは生まれ故郷に留まるのに対して、メスは生まれ故郷を離れて分散して繁殖する傾向がある。これによって、近親交配が避けられる。スズメのオスとメスの番関係は1年契約である。
スズメは野生では2~3年生き、上手に飼育すると10年以上も生きる。
スズメのルーツも人間と同じくアフリカにある。うへーっ、スズメってこんなところまで人間と似ているのですね。
身近なスズメの生態がよくよく観察されている面白い本です。それにしても夕方になると駅前の街路樹に無数のスズメが集まってうるさいのですが、いったい彼らは何を話しているのでしょうか・・・。スズメの会話を翻訳してくれたら、とても面白いと思いますよ。誰かやってくれませんかね。きっと他人が聞いたら何ともない他愛のない話で盛り上がっているだけなのでしょうね。
(2010年10月刊。1900円+税)
大変な地震でした。被災者の皆様に対して心よりお見舞い申し上げます。地震そのものもすごい破壊力をもっていますが、津波の恐ろしさを映像を通じてまざまざと見せつけられました。家や車が怪獣映画のミニチュアセットのように押し流されていく様子に身震いしました。さらに、原子力発電所の安全神話がやっぱりあてにならなかったわけで、地震国日本に原発はふさわしくないと痛感します。
被災者の皆様へ一刻も早く救援活動の手が届くことを祈念しています。
庭にサクランボの花が咲きはじめました。
2011年3月13日
税務調査の奥の奥
司法
著者 清家 裕 ・竹内 克謹、 出版 西日本出版社
3月の確定申告期に備えて、久しぶりに税務調査について勉強してみました。元税務署の調査官による面白い裏話も盛りだくさんの本です。
税務署は税理士をコンピューターにデーターを入力して体系的に評価するシステムをつくっている。ペケの多い顧問先をたくさんもっている税理士にはマークがついている。
脇の甘い税理士が山ほどいるので、税務署の側では「困ったときには○○税理士を狙おう」と言っている。つまり狙われた税理士の関与先を調査すると、たくさん税金がとれるというわけです。
質問顛末書は書く(サインする)必要はなく、また、書いてはいけないもの。確認書に名前を書いてしまっても取り戻せる。間違ったことを書いていたときには、そう書いて改めて提出すればいい。
税務署の調査官時代、1件あたりの調査日数は2~3日程度であった。お土産を用意している納税者は税務署にとっては、税金を取りやすい「いいお客さん」に該当する。だからそこへ出かけることになる。一度でも「お土産」を渡すと、税務署はその会社について、「調査すれば何か出そうな会社」という烙印を押し、3年に1回必ず調査が入ることになりかねない。
調査官が会社にやってきたとき、必要な帳簿や書類は、調査官が求めてから提出・開示するのが鉄則である。
調査官がトイレに行くときも、案内を兼ねて同行する。調査官から名刺を受け取ったあと、身分証明書の呈示を求め、それをメモに書き写す。ともかく、それだけ落ち着いて対応すること。
テープレコーダー(ICレコーダー)やビデオ、カメラを用意しておく。
帳簿書類の持ち帰りを受任する義務はない。
調査官は、狙いのない世間話はしない。優秀なベテラン調査官ほど、世間話が上手だった。
質問顛末書は、調査官が納税者に「不正の意図があった」ことの証明にし、重加算税をかける意図で書かせようとするので、絶対に書いてはいけない。重加算税は35~40%である。ふむふむ、なーるほど。そう思って読了しました。
それにしても、いいかげんな税理士も多いようなので、税理士えらびは大切です。まあ、これは私たち弁護士についても言えることですが・・・・。
(2010年10月刊。1500円+税)
2011年3月12日
「最強のサービス」の教科書
社会
著者 内藤 耕、 出版 講談社現代新書
サービスとは何か、いったい何を、どうしたらよいのかを改めて考えさせてくれる本でした。サービスの提供現場を現場で働く従業員の気合や度胸、根性に任せるべきではない。気合や度胸、根性といったものに頼っている企業は、最終的には成功も成長もできない。
単に働く人の経験や勘、スキルに頼ってサービスを提供するのではなく、顧客が求める同じ品質と内容のサービスを繰り返し提供でき、また現場で働く従業員も人間でなければ出来ない作業に専念し、肉体的な負担も蓄積もしない仕組みをバックヤードに作り込んでいる。現場で収集された顧客に関する情報を共有し、それにもとづいて組織的にサービスを提供する。これは有名な旅館「加賀屋」についての記述です。
サービス産業の現場には顧客がいて、その顧客は気まぐれで、何を求めているのかを事前に知るのは、ほとんど不可能である。そうなんですね、わがままな客を相手としつつ、そこに満足を与えるのがサービス産業の醍醐味なんですからね。
それにしても、離婚ローンなるものを提供する銀行があると知って驚きました。大垣共立銀行は慰謝料や裁判費用、財産分与資金を融資するというのです。すごい発想です。 この銀行は、また、敷地内の建物もコンビニそっくりです。前に広々とした駐車場をとり、ATMは店舗の奥に、そしてトイレはロビー側に設置しているのです。ドライブスルーATMまでもうけているというのですから、銀行も変わりましたね。
旅館「加賀屋」に私は泊まったことはありませんが、そこに立ち入ったことはあります。石川県の和倉温泉です。「加賀屋」の近くにある系列の大衆向けホテルに泊まったので、「加賀屋」をのぞきに行ったのでした。お客の満足な日本一を長年続けている旅館とは一体どんなものなのか知りたいでしょ。ミーハー気分で1階のロビーと土産品店街をウロウロしてみました。
加賀屋は宿泊客を世話することを、自ら提供する最大の商品と位置づけている。私は加賀屋の偉いところは、まずもって従業員をとても大切にしているということです。女性に優しい労働環境から、加賀屋の従業員の離職率は低い。長く働くことで従業員一人ひとりのスキルレベルがさらに高くなる。さらに、離職率が低ければ、採用や人材育成にかかるコストも低くなる。見えないところでは大いに合理化、機械化して、見えるところでのサービスの向上をはかるというのです。すごいですね。
私の事務所でも定着率はいいほうだと思いますが、労働組合(分会)があって、一年中、団交が続いています。経費の節減と事務職員の士気の向上との兼ね合いもまた難しいところがあります。
実務的大変参考になる本でした。
(2010年9月刊。720円+税)
2011年3月11日
日本人と参勤交代
日本史(江戸)
著者 コンスタンチン・ヴァポリス、 出版 相書房
アメリカの学者が江戸時代の参勤交代の実情を丹念に掘り起こした労作です。
著者は、参勤交代の道の一部を実際にも歩いているそうです。すごいものです。
加賀藩では、参勤交代はあくまで軍役であると意識して、藩士は自炊しながら旅をしていた。殿様はぬかるんだ道で駕籠を担がせるのはかわいそうだからと家臣を思いやって駕籠に乗らなかった。逆に、殿様が駕籠に乗らないため、年老いた家臣たちまで駕籠に乗れずに困ってしまった。このような参勤交代の旅をする人々の現実の姿を生き生きと描いています。
通常、宿駅の通知は、宿は予定から通算して6ヶ月前には行われ、その時点で一行全員の宿の手配がなされた。大集団の定期的移動にかかる費用は膨大だった。藩全体の支出の5~20%が参勤交代のために費やされた。これに江戸藩邸と江戸詰め藩主の維持費用を加えると、全藩の収入の50~75%が消えた。うひゃあ、これはすごいですね。
当初は、出費の多さを競った大名たちも、まもなく出費を切り詰めるようになり、宿や茶店から吝嗇の評判を受ける大名も少なくなかった。
暮れ六つ泊まりの七つ発ち。これは、早朝4時に出発し、暗くなってからようやく宿に入るということ。なーるほど、ですね。
戦略上の理由から、大名に船旅が許されたのは大坂まで。あとは陸路を行くように要請されていた。だから船による参勤交代の絵を見かけないわけですね。
大名が病気を訴えたとき、その多くは偽りだった。しかし、単に1~2ヶ月の延期しかなく、ずっと病気で、数年も参勤交代しなかったという大名はいない。
江戸時代の庶民にとって、大名行列は一種の劇場であった。それを藩主たちも十分に承知していた。衣装は、その豪華で彩り豊かな細部によって庶民の目を惹いた。
行列の最大は2千人から3千人で、馬も400頭前後だった。それは加賀藩のこと。さすがは百万石ですね。これに対して、九州の諸藩は平均して280人の供を従えた。ただ、出立と到着時には、日雇人夫を雇い、威厳のために人工的な行列水増し策をとった。
藩主は常に携帯用のトイレと風呂桶も携えて行列した。ペットを連れて旅する大名もいた。
行列の道具のなかでは、地位の表象として、槍と難刀がもっとも重要であった。
江戸屋敷に住む藩主たちは、長屋に住みながら欲食を楽しみ、書き物をし、将棋や囲碁などのゲームに興じて自由時間を過ごしていた。おおむね健康的な生活水準を維持していた。なるほど、そのような姿を描いた絵があります。
江戸滞在は好奇心旺盛な藩士たちの人生を大きく変えるほどの影響をもたらすこともあった。文化的な生活を追い求める藩士たちは、江戸での生活体験を通じて、新しい知識の源泉や技術に触れ、また自藩にいては得られないような文化も体験した。
江戸体験にはピラミット的な効果があり、実際に江戸まで旅をしてそこで生活した人々だけでなく、そうでない人々にまで影響を及ぼした。
なるほどと思わせる絵がたくさん紹介されています。参勤交代に参加した武士たちの日記まで掘り起こした結果だといえる貴重な労作です。江戸時代って、決して暗黒の停滞した時代ではなかったのですね・・・。
(2010年6月刊。4800円+税)
2011年3月10日
ノモンハン航空戦全史
日本史(現代史)
著者 D.ネディアルコフ 、 芙蓉書房 出版
1938年6月、日本軍はソ連国境地帯に短期間のうちに進出した。それに対してソ連軍が反撃し、日本軍は500人の戦死者と900人の負傷者を出して撤退した。この戦闘でソ連軍が迅速かつ決定的な勝利を得た最大の理由は、ソ連空軍の活躍にあった。
ところが、ソ連空軍の能力は、スターリンによる粛清の影響を受けて、最良の状態にあるとはいえなかった。その粛清によって、1973年には赤軍極東戦線のすべての指揮官ポストは交代し、若くて経験の少ない将校たちが新たに空席となった指揮官ポストに起用された。ソ連空軍は、このように指揮組織が痛手を受けていたにもかかわらず、紛争地帯の上空で完全な航空優勢を維持していた。唯一の脅威は、まばらに配備されていた日本軍の高射砲だけだった。
スターリンのうち続く圧政でソ連軍が弱体化していたことは、西欧諸国につとに知れ渡っていた。
ベリヤの秘密警察は、モンゴルの指導者たちを粛清した。1937年の終わり、モンゴル首相プルジディン・ゲンデンは逮捕され、人民の敵として銃殺された。軍高官の多くも反革命分子として処断された。
ノモンハンにいたソ連空軍のパイロットには誰一人として実践を経験したものがいなかった。それに対して日本のパイロットは高いレベルの操縦技術を維持していた。日中戦争で多くの戦闘経験を積んでいて、士気も高かった。その多くは1000時間の飛行経験を有し、部隊の装備にもまったく問題がなかった。
ノモンハン事件が起きたときの日ソ双方の航空戦力に関する評価は、パイロットの準備状況と航空機の性能の観点から日本軍が優勢だった。
1939年5月、日本の航空部隊は、70キロメートルにわたるノモンハン上空の覇者となった。わずか2日間で、日本軍は、その損失1人に対して、ソ連軍に戦闘機15機、パイロット11人の損害を与えた。
ソ連軍は、「航空優勢は敵の手中にある。わが空軍は地上部隊を援護することができない」と報告した。この報告を受けたソ連空軍指導部にとってスペインでの敗北に引き続いての二度目の敗北は考えられないことだった。そこで、経験豊富なパイロット22人を招集した。1939年6月の戦闘において、ソ連空軍は燃料給油の手間によって空における主導権を失ったが、数的には優勢だったため、いくらか穴埋めすることはできた。そのため、ノモンハン事件の戦況は決定的に変化した。日本軍のパイロットたちがソ連機の攻撃から離脱を余儀なくされた。ソ連軍は限られた空域に大量の戦闘機を集中的に投入した。
1939年7月、ソ連軍は「空のベルトコンベア」と名づけた戦術を用いた。これは航空戦力を絶え間なく投入するものであり、地上部隊を直接支援する戦闘機と爆撃機によって、敵の頭上に絶えず脅威が存在している状態を作為するものだった。
このときの航空戦には、日ソ両空軍あわせて300機以上の作戦機が参加した。そして、この日はノモンハン航空戦におけるソ連空軍最初の勝利だった。
1939年7月、ノモンハン航空戦域の航空部隊にバルチック艦隊や星海艦隊の航空隊から高練度のパイロットたちが次々に移動してきた。これらのパイロットたちは、実践を経験することだけを目的に、何の役職も与えられないまま転属してきた。
1939年7月下旬になると、戦闘可能な日本軍の戦闘パイロットたちは戦刀を増強させ優勢となったソ連軍とのほぼ3ヶ月にわたる戦闘で疲れ切っていた。ソ連空軍戦闘機隊が大規模な戦力の集中を始めるや否や、日本軍は機数の不足を出撃数で補わざるをえなくなった。日本軍戦闘機パイロットたちは、1日に5回も7回も出撃することになった。
1939年8月、ノモンハンは、ロケット弾の実証試験の場となった。ソ連空軍は、日本軍航空部隊に対して、3倍の数的優位を維持していた。この数的優位は、とくに爆撃戦力で顕著であり、ジューコフ中将たちはきわめて野心的な目的を設定していた。
日本軍パイロットたちは、1日あたり6.5時間の戦闘時間であり、交代要員もいなくて、健康上の問題が生じていた。肉体的・精神的な極度の疲労は高級指揮官にも蔓延していた。9月の格闘戦でソ連空軍が勝利した原因は、高速性能、発射速度の高い機関銃の破壊力、そして「一撃離脱」戦術だった。
航空優勢が逆転した主たる要因は航空機と人員の予備戦力を十分に確保できる能力にあった。そして、この予備戦力をタイムリーな方法で投入できる能力だった。作戦環境への対応について、ソ連軍は日本軍よりもずっと柔軟であり、かつ断固としていた。
日本軍のパイロットは絶望的なほど不足していた。日本軍の飛行訓練学校で養成したパイロットはわずか1700人にすぎなかった。ソ連空軍の作戦機と補助機は250機。日本軍は164機だった。このうち、作戦行動中に喪失したのは207機と90機である。ソ連空軍が運用したのは900機で、日本軍は400機。これが80キロメートルの幅で戦った。
ノモンハン航空戦は、空中で始めて全面的な戦闘のあったところである。
ノモンハン事件を飛行機の戦いとして知ることのできる貴重な本です。
(2010年12月刊。2500円+税)
2011年3月 9日
ランドラッシュ
社会
著者 NHK食料危機取材班、 出版 新潮社
世界的に優良農地の争奪戦がすすんでいるのですね・・・・。知りませんでした。それを知ったら、ますます日本の減反政策なんてとんでもないことだと思いました。
ウクライナに進出したイギリスのランドコム社は世界的な穀物価格の高騰を追い風に莫大な利益をあげ、農業ビジネスの成功例として注目を浴びた。この会社は、イギリス陸軍から900人近い兵士を雇って、ウクライナに連れてきた。現場には、軍人あがりの外国人経営者と、自動小銃で武装した傭兵と、まるで犯罪者のような扱いを受けて働く地元農民の姿が目につく。このイギリスの会社は既にウクライナに12万ヘクタール、これは東京都の半分にあたる土地を確保し、さらに拡大しつつある。
ウクライナでは、日本人の農家も挑戦している。青森県の人(58歳)だ。いやあ、すごいですね。単身ウクライナに乗り込み、大豆の大規模栽培に挑んでいるのです。偉いですね。でも、なかなか報われないようです。
なぜ、海外の農地を囲い込むのか。それは穀物市場システムへの信頼が崩壊してしまったから。輸入に頼っていた国々では、食糧危機が起きたときに備えて、自分たちで食料を確保しようと、おのおのが海外農地の獲得に乗り出した。これが「ランドラッシュ」だ。
世界中に広がるランドラッシュに拍車をかけているのが、将来予想される食料不足である。インド政府も海外での農地獲得を後押している。なぜか?インドは国内に広い農地をもち、食料をほぼ100%自給している。そのインドは、これから「水」の問題をかかえる。だから・・・・。それじゃあ、日本はどうしたらいいのか、考えさせられます。まずは、国内農業の保護と育成でしょう。じいちゃん・ばあちゃん農業を保護しなかったら大変なことになりますよ。切って捨ててはいけません。
ウラジオストックを含むロシア沿海地方にニュージーランドの実業家が進出している。そして、韓国の現代重工業も・・・・。初めての海外農地経営である。なぜ、韓国の企業が海外で農地経営に乗り出そうというのか。それは、韓国内の農業が死に瀕しているためだ。韓国の穀物自給率は27%。しかし、コメを除くと、実は95%を海外に依存している。そして、韓国内で農地を広げることは出来ないから、海外に農地を確保するしかない。
インドの企業がエチオピアで31万ヘクタールもの農地を獲得している。これは東京都の1.5倍の面積だ。エチオピアでは外国企業が大規模に食料を生産しているにもかかわらず、エチオピア自体は慢性的な食料不足に苦しんでいる。エチオピアには、これまでインドをはじめ5カ国が農地を確保するために進出している。これから、九州の面積の4分の3に匹敵する300万ヘクタールの土地に外国企業を受け入れる計画がある。
現在、世界は常に、北(先進国)では食料過剰、南(途上国)では食料不足の状態にある。食料は公平に分配されているわけではない。そして、そこで大きな利益を得ているのは、巨大アグリビジネスだ。肥料や農薬をつくり、農化学産業として知られるモンサント社やシンジェンタ社、穀物メジャーと呼ばれるカーギル社やADM社などがもうかっている。
こんな状況でTPP「開国」なんて、日本農業そして日本人に立ち直れないほどの大打撃を与えるだけだと思います。その問題点が十分に議論されないまま、TPPは当然だというマスコミの論調が強まっているのに、私はかつての郵政民営化のときと同じような危っかしさを感じます。いまや郵便の公共性を誰も言わなくなり、営利追求一本槍になってしまっているのではありませんか。果たすべき公共的役割を軽視してはいけません。郵便局をコンビニに置きかえても農山村に住む人々の利便と幸福の追求にはつながらないのです。
(2010年10月刊。1500円+税)
月曜日、東京に雪が降りました。重たいボタン雪でしたから積もるはずはありません。私が大学生だった40年前にも東京で3月に大雪が降りましたが、そのときは入試に影響が出るほど積もりました。
春の前には、春一番をふくめて気候が不安定になるようです。白梅が満開です。黄水仙が庭のあちこちに咲き、チューリップの咲くのも、もう間もなくとなりました。
花粉症さえなければ春は本当にいいのですが・・・。
2011年3月 8日
冤罪をつくる検察、それを支える裁判所
司法
著者 里見 繁 、 出版 インパクト出版社
冤罪をつくり出した裁判官たちが実名をあげて厳しく批判されています。裁判官は弁明せず、という法格言がありますが、なるほど明らかに誤った判決を下した裁判官については、民事上の賠償責任を争うかどうかは別として、それなりの責任追及がなされて然るべきだと思いました。裁判官だって聖域ではない。間違えば厳しく糾弾され、ときには一般市民から弾劾もされるというのは必要なことなのでしょうね。
著者は民間放送のテレビ報道記者を長くしていて、今では大学教授です。本書では9件の冤罪事件が取り上げられていますが、うち1件を除いて季刊雑誌『冤罪ファイル』で連載されていたものです。
この9件の冤罪事件を通じて、冤罪は偶発的なミスとか裁判官や検察官の個人的な資質から生まれるのではなく、日本の司法制度そのものに冤罪を生みやすい土壌、もっと言えば構造的な欠陥があり、それがこれほど多くの冤罪を生み出す契機になっていると考えざるを得ない。
裁判官がミスを犯す大きな理由の一つは忙しすぎること。また、厳しい管理体制の中におかれ、出世競争の厳しさは検事の世界以上だ。出世の決め手となる成績は、一にも二にも事件の処理件数ではかられる。どんなに分厚い裁判記録も裁判官にとっては、たまった仕事の一つにすぎない。
能力主義が能率主義にすり替わり、それが昇進に直結している。独立しているはずの裁判官が厳しい出世競争の中でサラリーマン化してしまい、倫理も正義もかえりみるひまがない。
日本のマスコミでタブーとなっているのは三つある。天皇制、部落問題そして裁判所。あらゆる職業のなかで、裁判官だけはマスコミが自由に取材することのできない唯一の集団である。
高橋省吾、田村眞、中島真一郎の3人の裁判官は、結局、医学鑑定書を理解することができなかった。長井秀典裁判長、伊藤寛樹裁判官、山口哲也裁判官は本当に刑事裁判の基本を理解しているのか、と批判されている。
山室恵裁判官は痴漢冤罪事件で懲役1年6ヶ月の実刑判決を言い渡した。
このように実名をあげての批判ですから、名指しされた裁判官たちも反論ができればしてほしいものだと読みながら思ったことでした。でもこれって、やっぱり難しいというか、不可能なことなのでしょうね。今、それに代わるものとして裁判官評価システムがあります。10年ごとの再任時期に限られますが、このとき広く市民から裁判官としてふさわしいかどうか、意見を集めることに一応なっています。もっとも、この手続について市民への広報はまったくなされていません。私は広く知らせるべきだと前から言っているのですが・・・。
(2010年12月刊。2000円+税)
2011年3月 7日
昆虫未来学
社会
著者 藤崎 健治 、 出版 新潮新書
フランス語のクラスで、ちょうど人類の未来の食料は昆虫だというテーマを扱っていたときに、この本を読みました。いま、日本はTPPに参加して強い農業をつくるとか言っていますが、食料自給率を維持しておかないと近い将来の日本人は大変な食糧不足に泣くことになるのは必至だと思います。そのとき、昆虫を食べればいい、なんてことにはならないのではありませんか・・・・。それはともかくとして、昆虫類を知っておくことは大切なことです。昆虫類の最大の特徴は、肢が三対、すなわち6本あること。
昆虫は赤道付近の高温多湿の環境で誕生した。系統的に昆虫にもっとも近い節足動物は、エビやカニなどの水生甲殻類である。その次は、ムカデなどの多足類だ。
昆虫種の数は100万を数え、全生物種の3分の2を占める。植物種は30万種。魚類は3万種。哺乳類は4000種である。しかも、毎年、新種の昆虫が3000種も追加されており、将来は500万種から1000万種に達する可能性がある。そうなると、地球上の全生物種の5分の4以上を占めることになる。地球が「虫の惑星」と呼ばれる所以である。
昆虫は翅を発明して、空中という三次元の世界に進出した。昆虫のもつ開放血管系は酸素を取り込みやすいシステムであり、飛翔筋の活発な代謝のためには酸素が不可欠なのである。
ハエは、光の明滅を1秒間に300ヘルツまで感知できる。ハエは人間の10倍のスローモーションで映像を見ていることになる。
成長過程で形態を大きく変化させる変態を行うのは昆虫の大きな特徴のひとつ。完全変態の昆虫は成長のステージによって生息場所を買えることで、生息場所の悪化のリスクを分散させることができる。たとえ環境変動があっても絶滅せずに生き抜く確率が高くなる。
体サイズの小型化こそ、昆虫類の繁栄のもう一つの要因である。体サイズの小さな生物ほど、世代時間が短く、個体群の増加率が高い。
昆虫では、全神経細胞の90%が体表の感覚細胞となっている。センサーとして働く感覚毛には、音や触覚などを感じる受容器、嗅覚や味覚の受容器、湿度や温度の受容器もある。同波数特性の異なる毛を持つことによって、空気の振動を感知し、逃避行動をとることもできる。
昆虫の不思議な能力と人間社会との関わりを知ることのできる驚きの本です。
(2010年12月刊。1200円+税)
熊本で弁護士会が主催した道州制についてのシンポジウムに参加してきました。パネリストとして熊本市長が出席していて、国保税の負担が地方自治体にとって大変になっているので、国にもっと負担してもらいたい、市の一般会計からお金をまわすのは問題だという発言をしていました。それに対して民主党の参議院議員(弁護士)が、公共下水道は一般会計で負担しているし、見直すなら全面的にすべきだとコメントしていました。
私は、福祉面では国が全面的に責任を持つべきではないかと思います。ただし、そのために清算税率の引き上げが必要だというのは短絡的です。その前に大企業の法人税率や軍事予算、大型公共工事など、取るべきところから取り、不要不急の支出は抑えるという方策が必要だと考えています。
いずれにしても、地方分権とか地域主権は福祉の充実のために必要なものだとしないと変な論議になりかねないなとシンポジウムに参加して思ったことでした。
チョコさんが元気にご活躍の様子で、安心しました。
2011年3月 6日
世界130カ国、自転車旅行
人間
著者 中西 大輔、 文春新書 出版
自転車で、地球を2周りしたという日本人青年の壮挙を本人が再現した本です。今どきの日本の若者もやるじゃないですか。たいしたものです。パチパチパチ・・・・。
日本を出発したのは1998年7月。アラスカを起点として、アメリカ大陸をずっと南下します。太平洋にそって南下して、ペルーではフジモリ大統領(当時)の姉に会見してもらえました。それからヨーロッパに渡り、アフリカに行き、オーストラリアへ飛ぶのです。地球2週目は、イースター島を経て、南アメリカに行き、ブラジルでサッカーのペレに会ったあと、アメリカでもカーター元大統領に会ったりしたあと、ヨーロッパへ飛びます。ポーランドではワレサ元大統領と会い、アフリカそしてインドさらには中国経由で2009年10月、ようやく日本に帰国します。すごいですね。まず、コトバはどうしていたのでしょうか。そして、危ない目にはあわなかったのでしょうか。さらには、軍資金は・・・・?次々に疑問が湧いてきますよね。
競輪選手の太ももは60~80センチもあって、瞬発力がある。しかし、自転車の長距離レースの選手などは、足の細い人が多い。そうなんですか・・・・。
パンク修理など自転車の基本を学んでいないと海外遠征は難しい。うむむ、なるほど、そうでしょうね。
熊本で営業マンをしていて、3年あまりで1000万円をためたというのですよ。ところが、11年3ヶ月の旅にかかった費用は、なんと700万円。1年あたり60万円ほどでしかありません。ええーっ、嘘でしょ。と言いたいですよね。
アフリカでは警察署に泊めてもらったそうです。消防署や軍隊にも。
南アフリカをうろうろしているあいだに、スペイン語は自然にマスターした。旅行者にとっての武器は「銃」ではなく「言葉」である。なーるほど、話してこそ、分かりあえるのですよね。そして、各地で新聞やテレビの取材を受け、パスポートの役割を果たしたといいます。ふむふむ、きっとそうでしょうね。
つかった自転車は日本でつくってもらった特製品です。車体は18キロの重さ。6つのカバンに詰め込んだ荷物は40~50キロにもなる。初めて見た人からはオートバイかと見間違われるほどの重量級だ。つかったタイヤは82本、パンクは300回。ふだんは1時間で平均20キロ、一日平均100キロすすむ。
一人で何もせずに長い時間を過ごす退屈さや孤独に強いのが著者の強み。危い目にもあった。目を合わせない人間はたいがい怪しい。相手の言動を注意深く見る。話をすれば、相性がいいかどうか、だいたい分かる。相性がいい相手から「家に泊めてやる」と言われたとき、「この人なら、盗られたら盗られたでしょうがない」という気持ちで泊めてもらった。それで、盗られたことは一度もなかった。しかし、ブラジルでATM詐欺にひっかかったこともある。でも、人間って、本当にいいものだと思う。そう書いてあります。読んで心の温まる本でした。
(2010年11月刊。880円+税)
2011年3月 5日
オルレアン大公暗殺
ヨーロッパ
著者 ベルナール・グネ、 岩波書店 出版
ジャンヌ・ダルクが活躍する直前の中世フランスの情勢が活写されている本です。
フランスの政治状況がよく理解できました(実のところ、そんな気にさせられただけということかもしれません・・・・)。
シャルル6世がフランスの王位についた1380年、フランス王国は平和と繁栄のうちにあった。その前には、飢饉があり、黒死病があり、イングランド王からクレシーとポアティエの二度にわたり、フランス王は屈辱的な敗北を味わせられた。
1380年、シャルル6世は、弱冠12歳だった。そして1392年、シャルル6世は23歳にして狂人となった。ところが、1422年に死ぬまでの30年間、フランスの王様だった。したがって、その間フランスには導き手がいなかったことになる。
1407年11月23日、ブルゴーニュ大公は自分の従兄弟(いとこ)にあたるオルレアン大公を暗殺した。その結果、またもや内戦が始まった。イングランド王ヘンリー5世は、この機に乗じてフランスの国土を侵略した。それはフランス軍にとってアザンクールでの壊滅的敗北(1415年)をもたらした。シェイクスピアがアザンクールの戦いを描いていますよね。
1419年9月、ブルゴーニュ大公が暗殺された。復讐が果たされたのだった。
フランスで1300年に存在していた名門(旧家)の大部分は、1500年には断絶していた。貴族の割合こそ変動していなかったが、その内実は変動していた。
戦争だけが貴族の活動ではなかった。実は、貴族は教育を受けていた。大学で学んだ貴族は信じられた以上に多かった。
乗物は社会的地位を示した。交通手段として欠かせない馬が、社会を対照的に二分していた。貧しい人々は馬を持てず、裕福な人々は馬を所有していた。いやしくも地位のある人物は、一人だけで騎行することはなかった。
暴力は見世物として喜ばれ、ひとを魅了した。暴力は合法的であり得た。それどころか暴力は高貴でもあり得た。子どものときから武器を操る習慣のある貴族は、それを携帯する権利を持ち、戦闘と同じくらい危険な戦争遊戯に加わったが、貴族にとって武器の使用は自分たちの身分特権であった。殴りあいは平民にまかせておき、貴族は武器をつかった暴力に高貴で騎士らしい何かを認めていた。うへーっ、これって怖いですね。
1400年には、西洋の多くの国々で、君主の近親者あるいは君主自らがその手を地で汚していた。シャルル6世の時代には、暴力はありふれた現象であった。だが同時にそれは、貴族のものであり、王侯のものであった。王侯貴族の暴力こそ、他にもまして警戒しなければならなかった。その点は、昔も今も変わらない気がしますね。
国王の第一の義務は、常に裁判によって平和を強制することだった。なーるほど、です。
宮廷は、あらゆる秩序あらゆる野望、あらゆる敵対関係、あらゆる憎悪、あらゆる危険に満ちた場であり、宮廷人はみなそこを呪ったものの、一方で、人はみな望んでそこで生活し続け、そこで認められようとした。そこで死ぬか、あるいは殺すかという事態も辞さなかった。
当時、ブルゴーニュ大公はフランス筆頭諸侯の称号と権勢を富を有し、年齢と経験において王国の真の主人であった、それに対してオルレアン大公は王国のただ一人の弟である。王国に次ぐ者は彼であった。
アザンクールにおけるフランスの大敗のあと、ブルゴーニュ大公は重みをさらに増大させた。1429年、ジャンヌ・ダルクが登場し、シャルル7世と会見した。
フランス中世史の分かりやすい概説書です。
(2010年7月刊。4900円+税)
2011年3月 4日
韓国戦争(第五巻)
朝鮮(韓国)
著者 韓国国防軍史研究所、 出版 かや書房
1950年6月25日、金日成の指示で人民軍が南侵して韓国戦争が勃発した。1951年6月、戦争1年目で戦線は膠着した。このとき、中共軍は6コ兵団19コ軍55コ師団77万人、人民軍8コ軍団27コ師団34万人計112万人。中共軍が主力であり、西部と中部の主要な戦線は中共軍がすべて担当し、人民軍は東部戦線の一部だけを担当していた。これに対して国連軍は、アメリカ軍3コ軍団7コ師団25万3千人、韓国軍1コ軍団10コ師団27万3千人。その他の国連軍が2万8千人。そして、海も空も国連軍が絶対的に優勢で、制海権も国連軍が制空権も掌握していた。
人民軍は、ソ連空軍によって訓練を受けた中国空軍と北朝鮮空軍の前線配置を急いでいた。マッカーサー将軍は1951年4月11日にトルーマン大統領から解任され、後任はリッジウェイ将軍が国連軍司令官として着任した。そして、中共軍の春季攻勢にあって、一時は危機的な状況に陥ったが、中共軍の人海戦術を火力の優越によって撃破して戦場の主導権を掌握し、1951年5月末には三たび38度線の回復に成功した。
開城(ケソン)での休戦会談について、毛沢東はスターリンに電報を打ち、スターリンが毛沢東に返信した。休戦会談は、スターリンと毛沢東の指示と承認のもとにすすめられた。スターリンは会談の主管責任を毛沢東に付与し、スターリン自身は幕の後ろから指導し、統制する役に徹していた。共産軍側の実質的な権限は中共軍が握っていたが、形式的には北朝鮮の代表が主席に任命された。休戦会談は当初は共産軍の陣営内の開城で始まり、次いで、板門店に移った。
休戦会談では、2時間11分も双方が沈黙したまま睨みあったということもあった(1951年8月10日)。うへーっ、これってすごいですよね。にらめっこしましょ、笑ったらダメよ。というのは、つい笑ってしまうものですが、ひたすら腕組みして睨みつけたというのですから、双方とも人間わざありませんね。これもそれまでに何十万、何百万人という人々が死んだということが背景にあったのでしょう。平和なときには、ありえない情景です。
開城での休戦会談は1951年7月10日に始まったが、これによる戦線の小康期を利用して共産軍側は防御線を三重に編成するとともに、国連軍の空爆や砲撃にも直撃弾でなければ耐えうるように有蓋化、掩体化をすすめた。さらに、野砲や高射砲などの火器と装備の前方推進に努めた。
1951年8月、国連軍と共産軍とのあいだで激烈な陣地戦が展開した。8月から9月にかけての血の稜線の戦いでは、国連軍は戦死326人、負傷2032人、行方不明414人、あわせて2722人の損害を出した。これは1コ連隊に相当する規模。これに対して、人民軍の損失は1万5000人に達する。人民軍は、寸土を譲らない強い意思と人命の損耗をかえりみない抵抗を行ったため、彼我の戦意の決戦場となって多くの人命が失われた。小さな山をめぐって、双方が激しく戦い、取っては取りかえされ、また突撃して奪い返すという激烈な戦いが連日続いた。これは、少しでも休戦の条件を自軍に有利にしようという思惑からの戦闘だった。
このときの戦闘の推移が詳細に述べられています。双方とも多くの将兵が将棋の駒のように使い捨て同然に死んでいったのでした。ああ、無情。亡くなった人は、さぞかし残念なことだったでしょう。たくさんのことをやりたかったでしょうに・・・・。
1951年の時点で、中共軍は64万2千人、人民軍は22万5千人。国連軍はアメリカ軍が33万人、韓国軍が47万人。共産軍は、高地を占領すると、直ちに塹壕を掘り始めた。強力な地下塹壕に兵員と装備を収容した。そして、トンネルを縦横無尽に展開した。
1951年冬の極寒のなかでも人民軍は耐えられた。むしろ補給が相対的に良好な国連軍の方に、多くの凍傷者を出した。人民軍が耐えられたのは先天的な順応性と苦労と欠乏に耐えることのできる精神力、そして厳格な規律のためだった。
休戦会談の主要なテーマの一つが捕虜交換だった。国連軍は13万人あまりの捕虜の名簿を共産軍に渡した。そして共産軍側は、1万人余りの国連軍捕虜の名簿を示した。なんと、そのなかに日本人も3人ふくまれています。日本人が掃海艇に乗っていて戦死したというのは聞いていましたが、捕虜になった日本人もいたのですね。
そして、巨済島にある捕虜収容所で、暴動が起き、ついには収容所長(ドッド将軍)が拉致されてしまったのです。
天神で、韓国映画『戦火の中へ』をみました。開戦直後の浦項(ポハン)で学征兵71人が人民軍と戦った実話にもとづく戦争映画です。
お母さん、僕は人を殺しました。敵は脚がちぎれ、腕がちぎれてしまいました。あまりにもひどい死に方でした。いくら敵とはいえ、彼らも同じ人だと思うと、それも同じ言葉と同じ血を分けた同族だと思うと、胸がつまり、重くなります。
お母さん、なぜ戦争をしなければならないのですか?
韓国人は共産軍の兵士を頭にツノがある化け物だと思い込んでいたのですが、実際には自分と同じような人間であることを知ってショックを受けたのです。また、少年兵も戦場に銃を持っていたのでした。
すさまじい戦争アクション映画でした。戦争だけは起こしてほしくない。人が人を殺すなんて、絶対にあってはならないと思わせる、切ない映画でもありました。
(2007年6月刊。2500円+税)
2011年3月 3日
アメリカと宗教
アメリカ
著者 堀内 一史、 出版 中公新書
1906年、アメリカのプロテスタントは人口の29.2%しか占めていなかったが、2008年には51.3%にまで膨れあがった。アメリカ人って、本当に宗教心が篤いのでしょうか?
アメリカの歴代大統領のうち、カトリックのケネディ大統領のほか全員がプロテスタントである。カトリックは、2008年に23.9%。1906年には24%だった。人口では増えているが、比率では変わらない。近年、移民数が急増しているヒスパニックはカトリックがほとんど。
アメリカのユダヤ教徒は1906年に3%、2008年には1.7%と減少した。520万人というアメリカのユダヤ教徒は、イスラエルの500万人に匹敵する。ただし、少数派のユダヤ教徒がアメリカ社会に与えている影響力は大きい。
アメリカのイスラム教徒は人口比で0.6%である。しかし、年に3万人のイスラム教徒がアメリカにやってきて、存在感を強めている。アメリカのイスラム教徒の特色は黒人の存在。人口は50万人から100万人というが、その多くは、キリスト教徒からの改宗者である。
モルモン教徒は1.7%。かつては一夫多妻制を認めていた。マリオット・ホテルの創業者も信者である。私の住む町にも、自転車に乗って走りまわる白人青年2人組を見かけます。
公民権運動に対して、南部福音派の白人は公然と敵対した。しかし、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教団体は支援した。保守的な南部福音派の白人は公民権運動を支援した民主党に見切りをつけて共和党支援に転向した。南部福音派の白人の転向は共和党の保守化を推進し、その離脱は民主党のリべラル化をさらに進展させた。
寛容度と自由度の増大は高等教育の普及と学歴に重要な原因がある。
共和党の票団とされているプロテスタントの45%がオバマに投票した。
2006年の中間選挙で共和党が惨敗したあと、共和党の保守陣営や宗教右派はすっかり影を潜めてしまった。
この本を読むと、テレビなどで華々しく説教していた牧師が相次いでお金とセックス・スキャンダルで摘発されたということを知ります。他人に対しては高尚なモラルを説教していた人物が、実は自らは汚れたお金にまみれ、あるいは買春していたというのです。宗教家も人の子だといえばそれまでですが、それにしても・・・と私なんかは思います。宗教家にも本当に人格高潔な人はたくさんいると思うのですが、金もうけと名声のみを求めている人も少なくないようで、残念な気がします。
(2010年10月刊。840円+税)
2011年3月 2日
冤罪の軌跡
司法
著者 井上 安正 、 出版 新潮新書
事件が起きたのは、今からもう60年以上も前のことです。1949年(昭和24年)8月でした。弘前大学医学部教授夫人が就寝中に殺されてしまったのです。犯人はなかなか捕まりませんでした。やがて、近所の警察官志望の青年が逮捕されました。事件のあと警察官まがいの行動をしていたことから、逆に不審人物とされたのです。とても不幸なことでした。
有名な弘前大学教授夫人殺害事件について、当時、マスコミの一員として関わった著者が新しい視点で事実を再発掘して紹介しています。
それにしても、真犯人が名乗り出ているのに、その「自白」を疑わしいとした裁判官がいたというのには、驚きというより呆れてしまいます。そんな節穴の裁判官は過去だけでなく、現在もいることでしょうね。信頼できる裁判官がいることは私も大勢知っていますが、逆に、話にならないくらいにひどい裁判官にも何回となくぶちあたりました。決して絶望しているわけではありませんが、裁判官は間違わないというのは単なる幻想だというのは日頃の私の実感です。
この事件では幸い真犯人が名乗り出たから、無実の人が救われたわけです。逆にいうと、真犯人が名乗り出なかったら、濡れ衣は恐らく晴れないまま死に至ったことでしょうね。それこそ、まさに無念の死でしょう。
その冤罪の根拠となったのは、高名な古畑東大教授の鑑定書ですし、その「材料」を提供した警察です。なにしろ返り血を浴びたはずのシャツに、当初はなかった血痕があとになって出てくる「怪」がありました。そうまでしても、警察は「犯人検挙」の実績をあげたいのですね・・・。
古畑教授は、法医学は社会の治安維持のための公安医学であると高言していた。ええーっ、そんな馬鹿な、と思いました。同じ法医学者でも、本村教授は、法医学は無実の者が処罰されることのないようにする学問だと言い切ります。まさにそのとおりだと私は思います。
世の中は本当に怖いことだらけですね。殺してもいないのに殺人罪で有罪となったという人が日本でもアメリカでも何十人もいて、刑死させられた人も多いというのですからね・・・。
(2011年1月刊。700円+税)
2011年3月 1日
犬になれなかった裁判官~司法官僚統制に抗して36年~
人間
安倍晴彦、 NHK出版、 2001年5月25日
最近テレビで山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」の映画版を見た。そういえば同じような話がわが司法界にもあったな、と思って、本書を読んでみた。
著者は、家裁勤務が長く、家裁の仕事に熱心であり、登山を趣味とし、山野の草花を愛する裁判官である。その姿は、毛利甚八さんの「家栽の人」の桑田義雄判事と重なり合う。著者は、「当事者のいうことをよく聞く」と「裁判は隣人の助言である」と基本理念とし、実に誠実に家裁の職務に取り組んだ。その時の苦労話とも笑い話ともつかぬエピソードが綴られている。著者は、「裁判官がする仕事の中では、もっとも人間的な仕事、環境であることがわかり、すっかり気に入ってしまったのである」とも言いきる。その熱意には敬服するばかりである。
しかし、ご存じのとおり、著者にはもう一つの顔がある。それは青法協裁判官部会に所属し、それを貫き通した裁判官としての顔である。もう古い話なのかもしれないが、かつての司法反動の時期、著者は家裁の支部から支部への支部めぐりの不遇な人事を強いられた。このような人事を詠んだ川柳として「渋々と支部から支部へ支部めぐり、四分の虫にも五分の魂」というものが知られている。著者を取り囲む上司、同僚の言葉が生々しい。
「君の場合、今後も、任地についても待遇についても、貴意に添えない。退官して弁護士として活躍したらどうか」
「あなたの処遇を、全国の裁判官が息を潜めて注目しているのです」
「君は合議不適だから、どの高裁の裁判長も君を受け入れるのを拒否するから無駄だ」
最近は、現職の裁判官がマスメディアでよく意見を表明する。「判決に全てを書き尽くし、決して言い訳をしない」という伝統的な裁判官の気風に変化があるようにも見えるし、組織の風通しがよくなったようにも見える。しかし、本当にそうなのか?裁判所の外にいる私にはわからないが、いや古い話ではなく、いつの時代にもなくならない普遍の話なのかもしれない、とかつて大きな組織に所属した私は、その組織に関する最近の出来事に接して思うのである。法と証拠に基づいて正義を実現するという、われわれ法律家の仕事は、その依って立つ社会の在り方との緊張関係の外にあって、超然と成り立つものではないな、と強く感じるこのごろである。
革命とナショナリズム
中国
著者 石川 禎浩、 出版 岩波新書
本のタイトルからは何のことやら分かりませんが、中国近現代史の本です。国民党と共産党の二つを同じく主人公としていますので、これまでの共産党のみを主人公とする本より、事態の推移がより多面的かつ深く認識できる本になっています。
1924年、国共合作(こっきょうがっさく)が始まった。この時点で、共産党員は500人にすぎず、国民党員の100分の1でしかなかった。 国民党は幹部が相対的に高い比率を占めていた。だから国民党に加入した共産党員は国民党の基層において大きな役割を果たしていた。この国共合作は共産党の党勢発展に大いに寄与した。国民党の傘のもとで「職業革命家」を維持できたことの意義は決して小さくなかった。
1924年に500人だった党員は1925年には300人になった。1924年の共産党の財政の95%はモスクワからの資金援助に伝存していた。予算の90%以上をコミンテルンからの援助に頼るという財政構造は1920年代を通じて、ほぼ変わらなかった。
しかし、資金援助の点では国民党がソ連から得ていた軍事援助などの物質的援助は、共産党へのものより二桁も上回るものがあった。たとえば、1925年に国民党へは半年で150万元、共産党へは年に3万元を援助していた。ところが、日本は中国の段稘瑞政権に対して1億5000万元もの援助をしていたから、それに比べるとソ連の援助など微々たるものでしかない。
幹部中心の政党である国民党は、その上層部が複雑な派閥に分かれていたので、多数派を占める蒋介石派も正規の党組織に依拠するだけでは盤石の支配体制を築くことは難しかった。そこで、蒋は腹心の陣果夫・陣立夫兄弟の組織した秘密党内組織CC団や力行社・籃衣社や中華民族復興社といった、蒋個人に直属する諜報秘密結社を拡大していった。これらの非正規組織は、黄埔(こうほ)軍校卒業生の統率する軍と並んで蒋の独裁体制の基盤となっていた。
1930年代はじめ、コミンテルンの指導を背景とした中国共産党の「党中央」の権威は、地方の指導者が容易に否定することができないものだった。
共産党の中央組織は、1930年代初めまで、上海の現界の中に置かれていた。
都市部の共産党組織は1930年代半ばまでには、壊滅するか、活動停止に追い込まれるかのどちらかであった。だが、それにもかかわらず共産党は影響力をもっていた。共産党の勢力は、常に実態よりもはるかに大きく見積もられた。それは、共産党のもつ宣伝工作重視の政治文化による。
近世・近代日本の農村に比べて、中国農民の結合力は格段に弱かった。あとで中国共産党の指導者になる入党者の多くが、旧郷紳層・富裕層の子弟であった。当初、紅軍の有力な構成員であった土着のアウトローたちは、粛清などを通じて次第に紅軍から排除され、それに代わって土地革命の恩恵を受けた若き農民たちが大きな役割を占めていくようになった。
1934年10月に始まった「長征」も、中央根拠地の軍事的な窮地を打開するための「戦略的転進」として始まったもので、具体的な目的地を設定して開始されたものではなかった。
孫文の妻だった宋慶齢は共産党にひそかに入党を申していた。張学良は入党を申し入れたが、中国共産党はコミンテルンの拒否を受けて、これを認めなかった。ソ連とコシンテルンは蒋介石の統治能力を高く評価し、張学良はあくまで「軍閥」としてしかみていなかった。
ソ連・コミンテルンは西安事変の直後から、張学良の行動に疑念を抱き、「プラウダ」などを通じて、蒋の安全の保障、事態の平和的解決を望むという論評を発表し続けていた。
1940年の夏から秋にかけて、八路軍は100あまりの団(日本の連隊に相当する)20万人の兵力を動員した百団(ひゃくだん)大戦を始動した。日本軍は、八路軍に大攻勢をかけるだけの力があるとは思っていなかった。八路軍の力量に衝撃を受けた日本軍は、ただちに報復戦にかかった。それが悪名高い三光作戦である。
中国史の裏側にまでかなり踏み込んだ力作だと思いました。
(2010年10月刊。820円+税)