弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年11月25日

中国河北省における三光作戦

中国

 著者 松井 繁明・田中 隆 ほか、 大月書店 出版 
 
 日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動の一つを現代日本の弁護士たちが現地調査をして解明した労作です。
 1942年5月、日本軍の北支那方面軍の第110師団163歩兵連隊第一大隊が一つの村を包囲して奇襲攻撃し、民兵や村人が逃げ込んだ地下の坑道に毒ガスを投入して
1000人を殺戮した。これは日本軍による三光作戦、粛正掃蕩作戦の典型的な事例である。
 1942年5月1日から6月20日までの日本軍の「掃蕩」作戦によって、冀中区全体で八路軍1万6000人が犠牲になった。主力部隊は35%減少(3分の2になった)、兵員は半数近くに減少した。区以上の幹部の3分の1が犠牲となり、死傷した人民は5万人に達した。このように中国側の被害が大きかったのは、日本軍の作戦規模が大きかったというだけでなく、中国側が「掃蕩」を事前に十分予期していなかったからでもある。
 1941年12月に太平洋戦争が始まり、日本軍の抗日根拠地に対する大規模な「掃蕩」の可能性は減ったという判断が中国側に生まれていた。
日本軍の「掃蕩」作戦は、それまで八路軍に協力的でなかった地主層の態度さえ変化させた。日本の掠奪・暴行は地主に対しても例外ではなかったので、その差益は大いに損なわれた。そして、その後には、日本軍による重い税負担が待っていた。
人々は、八路がいれば八路を恨み、八路がいなければ八路を想う」と皮肉をこめて言っていた。
結局、日本軍の「掃蕩」は表面的には抗日根拠地に打撃を与えることは出来たが、中国民衆の心をとらえることは決して出来ず、むしろ反対の効果をもたらした。
 1940年8月、八路軍は華北一帯で日本軍の根拠地や鉄道線などを攻撃する大規模な攻勢を展開した(百団大戦)。朱徳の総指揮のもとで40万人を動員したこの攻勢によって、日本軍は多大の損害を蒙った。この百団大戦によって、北支那方面軍の八路軍認識は一変した。それまでの八路軍軽視から、八路軍を主敵とする抗日根拠地への粛正掃蕩作戦を前面化するに至った。村民を無理やり従わせている軍隊なら、追い払えばことがすむが、村民と深く結びついている軍隊となると、村そのものを掃蕩の対象とするしかない。北支那方面軍の思考はこのように転換した。なるほどそうだったんですか。偶発的な虐殺ではなく、意図的だったのですね。
2001年9月末、小野寺利孝・松井繁明・田中隆など弁護士6人のほか日本人研究者たちが三光作戦の現地に出向き、被害者らから聞き取り調査を行いました。被害にあった村には、地下道がはりめぐらされていたのです。幅1メートル、高さは人の背丈ほど。地下道は、それぞれの民家とつながっていたし、隣村の地下道ともつながっていました。
 八路軍は、この地下道による戦い、地道戦というそうです、初めは否定的にみていたようですが、あとで有効なものと認めて戦略的な地位を与えています。その地下道の構造が図解されています。ベトナムのクチにある地下道に潜ったことがありますが、それと同じようなものです。
 三光作戦とは、日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動をいいます。やきつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(搶光)という言葉によります。これは、北支那方面軍の司令官であった岡村大将が、焼くな、犯すな、殺すなという「三戒」を非難をこめてもじってつくった言葉だといいます。そして、この日本軍による三光作戦は、中国の民衆に莫大な被害をもたらしました。にもかかわらず、その実態を多くの日本国民は知りません。知らされていないのです。そんな状況で、日本の弁護士たちが減知に出かけて日本軍の残虐な行為による被害にあった人々から聞き取り調査をしたというのは、大変意義深いものがあります。少し古い本ではありますが、百団大戦などに関心をもっていたので、積ん読になっていて、未読だった本書を引っぱり出して読んだのでした。現地にまで出かけた日本の弁護士と学者の労苦に少しはこたえたいと思いました。 
(2003年7月刊。3400円+税)

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