弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2010年11月 5日
カネミ油症
司法
著者 吉野高幸、 海鳥社 出版
カネミ油症は古くて新しい食品公害事件です。ふだんはテレビを見ない私ですが、宿泊先のホテルで日曜日の朝、たまたまテレビを見ていましたら、カネミ油症の特集番組があっていて、著者も登場していました。カネミ油症の被害者が今なお大量に存在して苦しんでいること、原因企業であるカネミ倉庫が治療費をこれまで負担してきていたのに、経営難から負担を打ち切ろうとしていることがテーマとなっていました。
この本は、カネミ油症の弁護団の事務局長として長く奮闘してきた著者が、カネミ油症事件とその裁判について振り返ってまとめたものです。ハードカバーで260頁もあります。読むのはしんどいな、でもせっかく買ったので読んでみようかなと渋々ながら重い気持ちで読みはじめました。ところが、なんとなんと、とても分かりやすい文章で、すらすらと読めるではありませんか。これには日頃、著者に接することも多い私ですが、すっかり見直しました。ええっ、こんな立派な分かりやすい総括文が書けるなんて・・・・(失礼!)、と改めて敬服したのでした。
カネミ油症裁判で何が問題だったのか、どんな意義があるのか、実務的にもとても明快に紹介されています。とりわけ若手弁護士にはぜひ読んでほしいと思いました。
カネミ油症が初めて世間に報道されたのは、1968年10月のことです。私は大学2年生であり、東大闘争が始まっていました。初めは「正体不明の奇病が続出」という記事でした。翌1969年7月現在、届け出た患者は西日本一円で1万4320人といいますから、大変な人数です。それはカネミライスオイルを使ったからで、その原因は製造過程で金属腐食があってPCBが製品に混入したからだということが判明しました。
PCBは「夢の工業薬品」と言われていましたが、PCBを食べた例は世界のどこにもなく、したがって治療法がありません。このことが被害者を絶望のどん底に突き落としました。
1970年11月16日、被害者300人はカネミ倉庫と社長、そして国と北九州市を被告として損害賠償請求訴訟を提起しました。
このとき、弁護団は訴訟救助の申立をしました。印紙代として必要な数百万円の支払いの猶予を求めたのです。また、弁護士費用についても、法律扶助協会(今の法テラス)に支給を求め、300万円が認められました。
弁護団は訴訟費用を被害者に負担させないという方針をとっていました。だから、大カンパ活動を始めました。支援する会は200万円ものカンパを集めました。そして、1971年11月にPCBを製造したメーカーである鐘化を被告として追加しました。
裁判では1973年夏に、原告本人尋問がありました。長崎県の五島にまで出かけ、裁判官が出張尋問したのです。朝9時に現地の旅館前に集合し、「平服でげた履きの裁判所関係者は三班に分かれて出発」し、「各家庭で本人尋問が始まった」と記事にあります。
一人の裁判官が40時間にわたり、40人をこえる被害者や証人から各家庭で証言に耳を傾けた。すごいですね。裁判官が被害者である原告本人の自宅にまで出向いて、その訴えに耳を傾けたのです。
原告弁護団は、損賠賠償を請求するのに個別に逸失利益を算定するのではなく、包括一律請求方式を採用した。請求額は死者2200万円、生存患者1650万円(いずれも弁護士費用こみ)を請求した。これは患者の苦しみに個人差はないという考えにもとづく。たしかに被害者の苦しみについて簡単には格差はつけられせんよね。
裁判の最終弁論は、1976年6月に3日間おこなわれた。2日間が原告、残る1日が被告の弁論に充てられた。うひゃーっ、す、すごいですね。今どき、そんなもの聞きませんね。
判決に向けて、弁護団は大変な努力を重ねたことが紹介されています。なんと、判決前の6ヶ月間、そのためにずっと大阪に弁護士(今は大分にいる河野善一郎弁護士)が滞在していたというのです。熱の入れ方が違います。いったい、その間の生活はどうしていたのでしょうか・・・・?
弁護団は判決直後に大阪のカネカ本社で3日連続の交渉、東京の厚生省で交渉をすすめるほか、大阪で強制執行できる準備を着々とすすめていきました。
1978年3月10日の判決は、残念ながらカネカとカネミ倉庫の責任は認めたものの、国と自治体の責任は認めませんでした。しかし、原告弁護団はカネカの高砂工場で、工場内に積まれていた岩塩1万トンあまりを差し押さえました。執行補助者が岩塩に「差押」とスプレーで書いている写真があります。大阪本社では社長の机や椅子も差し押さえました。ところが、カネカには現金や預金がまったくありませんでした。そこで、強制執行妨害(不正免脱)罪として、弁護団は大阪地検特捜部に告発したのです。これは起訴猶予となりましたが、これ以降は、カネカも現金か小切手を用意するようになりました。
原告弁護団は、カネカの強制執行停止申立書を高裁受付で待ちかまえ、その不備を発見して受理させなかった。すごいですよね。受付で申立書を点検するなんて・・・・。そして、そもそも執行停止すべきでないと裁判所に申し入れたのです。裁判所は、結局、1人300万円を超える部分については執行を停止するとの決定を下しました。ということは、逆に言えば一人300万円までは執行できるということです。
判決後のカネカとの本社交渉では、執行停止が認められなかった20億円のほか6億円を上乗させることが出来ました。
ともかく、あきれるばかりのすごさです。交渉というのは、このようにすすめていくものなのですね。さらに、原告弁護団は、第一陣訴訟に加わっていない被害者について、仮払い仮処分を申立して、一人150万から250万までの支払いを認めさせたのでした。これによって、カネカによる被害者の分断工作を封じてしまったのです。
1984年3月、福岡高裁は国の責任を認める画期的な判決を下した。1985年2月に、小倉支部でも同様に国と自治体の責任を認める判決を出した。
ところが、1986年5月、福岡高裁(蓑田速夫裁判長)は国と自治体の責任を認めないという判決を下したのです。私は、こんな冷酷非道な判決を下す裁判官がいるなんて、信じられませんでした。たとえ裁判官が温厚な顔つきをしていても、決してそれに騙されてはいけないと思ったものです。
危険性は予測できなかったから、行政に落ち度はなかったとしたのです。まるで行政追随の非情な判決です。これでは裁判所なんかいりませんよ・・・・。
最高裁で口頭弁論したあと、和解交渉に入ります。カネカには責任がないことにしながら、カネカは21億円を支払う。これまで被害者が仮払金として受け取っていたものは返す必要がないというものです。この和解で一応私の決着はついたのですが、あとで、訴訟を取り下げたところから、さらに新しい問題が発生します。仮払金を受け取っていたのが根拠がなくなったので、返せといわれたのです・・・・。いやはや、いろいろあるものです。裁判がいかにミズモノであって予測しがたいか、そのなかでどんな知恵と工夫をしぼるべきか、しぼってきたか、手にとるように分かる本になっています。
ぜひぜひ手にとってお読みください。裁判闘争の実際を知りたいと思うあなたに強くおすすめできる本です。
(2010年10月刊。2300円+税)