弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2010年10月14日
高橋是清暗殺後の日本
日本史(近代)
著者 松元 崇、 大蔵財務協会 出版
著者には内閣府大臣官房長という肩書があります。大蔵省(財務省)のエリート官僚コースをたどっていますが、戦前の日本史もかなり勉強していて大いに勉強させられました。ただ、いくらか「陰謀史観」の悪影響も受けているように思われ、もう少し突っ込んで調べてほしいと思うところがありました。
たとえば、第二次上海事変をソ連の陰謀によって発生したというのです(本を引用しています)。これには首を傾げました。また、1940年(昭和15年)8月の中国大陸における百団大戦について、これは、日本軍と極秘の協力関係を結んでいた毛沢東の意に反したものだったとしています(コン・チアン氏によれば・・・・)。ええっ、こんな話は聞いたことがありません。本当でしょうか。著者自身が、この百団大戦について、もっと調べたほうがいいのではないかと思いました。
そんな「弱点」はありますが、戦前の日本を国家経済そして財政学の観点からみたらどうなるのか、考える材料が提供されています。
2・26事件当時、繁栄していた日本が突然、「持たざる国」になって窮乏化していったわけではない。経済原理を理解しない軍部の満州経営や華北経営が、経済的な負け戦となって、日本経済をジリ貧に追い込んでいき、日本を「持たざる国」にしてしまった。軍部による経済的な負け戦は、「贅沢は敵だ」と言わなければならないほどに国民生活を窮乏化させていった。それを英米の対日敵対政策のせいだと思い込んだ(思わされた)国民は英米への反感を強め、実はそれをもたらしている張本人である軍部をよりいっそう支持するようになっていった。そのような状況下で、本来なら戦う必要のなかったアメリカとの大戦争に突入し、国土を焼野原にされて敗戦を迎えたのが、あの第二次世界大戦だった。
この指摘にはあまり異論はないのですが、果たして2・26事件当時、日本は繁栄していたのでしょうか。東北地方では娘の身売りもあったほど、貧困問題も深刻な社会状況があったと思いますが・・・・。
戦前日本の急増する軍事費の大部分をまかなったのが公債と借入金だった。
賀屋興宣蔵相は、昭和17年1月の帝国議会において、「多くの公債を出して戦争生産が増大しうる状況が勝つために必要であります」と述べ、さらに、昭和18年2月の帝国議会では、「公債の信頼性は勝利によって獲得する敵産が裏付けとなります」と答弁して急増する軍事公債の発行を正当化した。
国民の食糧を安定確保することは、戦時中に政府の最重要の課題で、政府は米穀の売買を全面的に国家統制の下に置いた。その際、地主からの買い上げ価格と、実際の生産者からの買い上げ価格に差をつける二重価格システムが採用された。政府は、米一石あたり50円で買い入れたが、小作人(生産者)に対しては、生産奨励のための生産奨励金が上乗せされた。小作人への生産奨励金は、当初5円だったものが、最終的には200円にもなり、50円しか受けとれない地主の社会的・経済的基盤を掘り崩すことになった。この仕組みの結果、終戦時には、小作人が耕作する農地は、地主にとって、ほとんど価値のないものになり、それが戦後の農地解放を地主層に大きな抵抗なく受けいれさせる背景となった。
こんなことは私は知りませんでした。私の父の実家も少しばかりの地主で、いくらか農地解放で小作人のものになり、戦後、中国大陸から復員してきた父の弟のために田を回復してやったという話は聞いていましたが・・・・。
戦後の日本の金本位制は、実は、今日の管理通貨制度に近いもので、欧米のように金貨が流通することはなかった。日本では、江戸時代から金貨は一般に流通せず、藩札や銭が広く流通していた。
そして、商業上の決済には、為替や手形が用いられていて、金貨の利用は贈答用に限られていた。江戸では手形よりも金銀貨で商人間は決済していたが、京都では50%、大阪では99%が手形だった。為替手形は、17世紀から江戸でつかわれていた。その手数料は一両につき1~2%という低率だった。江戸時代の大阪で先物市場が創設された背景には、商人間の取引の99%が手形で決済されるという金融取引の実態があった。
大変勉強になった本でした。
(2010年8月刊。1800円+税)
親しい弁護士仲間と盛岡近辺を旅行してきました。一日目の初めは、猊鼻渓の舟下りです。天気予報によると雨の確率は高かったのですが、バスのガイドさんの名前が照美さんだったので、幸いなことに雨は降りませんでした。
平底の大きな舟に乗り込みます。中央を含めて三列、60人も詰め込まれました。船外機はついておらず、船頭さんのこぐ櫓(ろ)だけで舟は進みます。しかも、舟はまずは川を上っていくのです。川の流れはゆったりしていますが、それでも60人乗りの平底舟をこいで進めるのには、相当の力が必要なはずです。私たちの乗った舟をこいだのは、唯一の女性船頭さんでした。30分ほども進むと上陸地点があり、そこから歩いていくとすごい断崖絶壁が対岸にそそりたっています。その対岸の壁に平たい穴があいていて、そこに小石を投げ込むと招福無病息災が約束されるというのです。30メートルは離れているでしょうか。東京の本林さんが、なんと一発必中しました。私たち仲間全員に招福・息災が保障されたと信じ、みんなで拍手しました。
舟着き場に戻り、舟に乗って今度はゆるゆると川下りを楽しみます。両岸の森は紅葉にはまだ早く、緑の静けさに包まれています。
上りのときには櫓をこいで、少し息の上がっていた感のある女船頭さんが、歌を披露して下さいました。とても息の長い舟歌です。トンビがヒュルルルと鳴いて合いの手を入れてくれました。静かな川面に歌が流れ、涼しい風が肺の奥底まで澄み切った緑の香りを吹き込んでくれます。
舟の両側には大小の魚たちが伴走しています。小さいのはウグイ、大きい方はコイです。エサをなげると水面に大きな口をあけてひとのみです。このエサを目当てに伴走しているのでした。
アオサギが頭上を静かに飛んでいきます。運がいいとカモシカにも出会えるといいます。
往復1時間半ほど、山の中、川面を静かに楽しむことができました。まさに命の洗濯です。