弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2010年10月 5日
ネット・バカ
脳
著者 ニコラス・G・カー、 青土社 出版
漢字のような表語文字言語を書いている人々と、表音文字であるアルファベットを用いた言語を書いている人々とでは、脳内の回路の発達の様子がかなり異なっていることを脳スキャンは明らかにしている。
そうなんです。日本人が英語を何年も学校で勉強していても得意とする人が少ないのは、ここに大きな原因があるのです。決して学校の授業が悪いというだけではありません。
2009年までに、アメリカの大人は平均で週に時間をネットに費やしている。2005年の2倍である。そして、20代の著者がネットに費やす時間は週19時間。2歳から11歳までの子どもは週11時間をネットに使っている。2009年、平均的なアメリカのケータイ利用者・は、月400通のメッセージを送受信している。これは2006年の4倍である。
ネット使用が増えるにつれ、印刷物、新聞や雑誌そして本を読むのにつかれる時間が確実に減少している。ネットの勢力が拡大するにつれ、他のメディアの影響力は縮小していく。グリーティング・カードやハガキの販売枚数は減り、郵便総量が急激に減っている。
ネットの影響によって、新聞業界ほど動揺した業界はない。大新聞は、どこも青色吐息です。私の長男もネット派で新聞は読んでいません。「疲れる」というのです。信じられません。
ネットは注意をひきつけるが、結局は、それを分散させる。メディアから速射砲のように発射される、競合する情勢や刺激のせいで、注意は結局、散らされる。
ネットが助長する、絶え間ない時間の注意散漫状態、ネットの有する感覚刺激の不協和音は、意識的志向と無意識的志向の両面を短絡させ、深い志向あるいは創造的思考をさまたげる。脳は単なる信号処理ユニットになり、情報を意識へと導いたり、そこからまた元の場所に戻したりするようになるのだ。ネット使用者の脳が広範に活動することは、深い読みなどの集中を維持する行為が、オンラインでは非常に困難であることの理由にもなっている。
オンラインで読むとき、深い読みを可能にする機能を犠牲にしている。コンピューターの使用は、読書よりもはるかに強い精神的刺激を提供する。読書が感覚に与える刺激は常に小さい。与える刺激が常に小さいという、まさにそのことが読書を知的な報酬を与えるものとしている。注意散漫を除去し、前頭葉の問題解決機能を鎮めることで、深い読みは深い思考の一形態となる。熟練した読書家の頭脳は落ち着いた頭脳であり騒々しい頭脳ではないのだ。読書する人の目は、文字を追って完璧になめらかに動くわけではない。その焦点は、いくぶん飛躍しながら進んでいく。
オンラインで絶え間なく注意をシフトすることは、マルチタスクに際して脳をより機敏にするかもしれないが、マルチタスク能力を向上させることは、実際のところ、深く思考する能力、クリエイティヴに思考する能力をくじいてしまう。
記憶には短期記憶と長期記憶がある。長期記憶の貯蔵には、新しいタンパク質を合成する必要がある。短期記憶の貯蔵にこれは必要ない。長期記憶を貯蔵しても、精神力を抑えることにはならない。むしろ、強化する。メモリーが拡張されるにつれ、知性は拡大する。
ウェブは、個人の記憶を補足するものとして便利かつ魅力的なものであるが、個人的記憶の代替物としてウェブを使い、脳内での固定化のプロセスを省いてしまったら、精神のもつ裏を失う危険がある。神経回路の可塑性のおかげで、ウェブを使えば使うほど、脳を注意散漫の状態にしていく。きわめて高速かつ効率的に情報を処理してはいるけれど、何ら注意力を維持していない状態におく。
コンピューターから離れているときでさえ、集中するのが難しくなったという人が増えている。脳は忘却が得意になり、記憶が不得意になっている。人間と他の動物とを分けていることのひとつに、人間は自分の注意力を制御できるという点がある。
注意散漫になればなるほど、人間はもっとも微妙で、もっとも人間独特のものである感情形態、すなわち共感や同情などを経験できなくなっていく。穏やかで注意力ある精神を必要とするのは、深い思考だけではない。共感や同情もそうなのだ。
インターネットは現代に生きる私たちに必要不可欠のものです。でも、それに頼りすぎていると深い思考・創造力や人間らしい共感・感情などを失う危険があるという指摘がなされています。
鋭い問題提起をいている本です。ぜひ、あなたもご一読ください。
(2010年9月刊。2200円+税)
2010年10月 4日
赤ちゃんの科学
人間
著者 マーク・スローン、 NHK出版
赤ちゃんが生まれた。わくわくする人生のビッグイベント・出来事です。私の子どもたちも、ずい分と大きくなりましたが、今でも赤ちゃんのころの写真を大きく引き伸ばして部屋に飾って、ときどき眺めています。赤ちゃんのふっくらほっぺ、つぶらな瞳って、いつ見ても心が癒されますよね。
メスのゴリラは安産の見本のような動物だ。陣痛が始まると、群れから静かに離れ、30分もすると、産み落としたばかりの我が子を抱いて戻ってくる。お産は自分ひとりでして、群れの仲間たちは出産するメスのことを気にも留めない。ゴリラのお産が楽なのは、母親の身体が大きく、胎児が小さいという生体的な特徴のおかげである。
これに対して、人間は、18時間も苦痛が続き、他人の助けが必要である。どうして人間は、ゴリラのようなお産ができないのか?
ヒトの胎児は外に出るために、曲がりくねった産道をなんとか通り抜けねばならない。産道の複雑な構造のせいで、ヒトの出産は苦痛にみちたものになる。産道のなかで、胎児は身体を曲げたり、伸ばしたり、回したり、ヒト以外の霊長類には必要のない複雑な動きを駆使したすえ、やっと生まれることができる。
ヒトの出産は、まず直立歩行に対応するために大きな変化をとげた。ヒトの分娩が危険な営みになったのは、およそ150万年前のこと、胎児の頭は大きくなる一方なのに、メスの骨盤はある一定の大きさで止まってしまった。
子宮は、どれだけふくらんでも、絶対に破裂しない。胎児の頭蓋骨は、その弾力性を生かして器用に形を変え、骨板が動いて少しずつ重なりあった結果、胎児の頭の幅は4センチも狭くなる。出口が10センチだから、この4センチは、とても大きい。
そして、赤ちゃんの30人に一人は、肩にある鎖骨が一、二本は折れた状態で生まれてくる。折れた鎖骨はすぐにくっつき、あとで問題になることはない。
ヒトの妊娠期間は、本来、21ヶ月であるべきなのだ。つまり、ヒトの母親は、本来なら胎児が9キロ(生後12ヶ月の赤ちゃんの体重)になったときに出産すべきなのだ。しかし、そうすると、頭囲は今より30%も大きくなってしまう。これでは出産できませんよね。
胎盤は多様な機能を果たしている。なかでも重要なのは、母体の血液が胎児のときの出した老廃物を受け取り、尿と一緒に排泄かたわら、水分やタンパク質、脂肪分、糖分、ビタミン、ミネラルなどの栄養分を母親から胎児へと運び、成長をうながす働きである。胎盤は妊娠中ずっと母体の抗体を胎児に送りつづけ、その抗体が外の世界に出たあとも、赤ちゃんを病原体から守る。
胎児の構造のなかでも、とりわけ精巧にできているのが心臓の内部である。胎児の肺は空気でなく、羊水でいっぱいである。
胎児は、なぜオンギャーと泣き叫ぶのか?
冷たく、びしょぬれの不快な感覚、驚き・・・・。そして、泣くごとに肺のなかにたまった羊水を少しずつ追い出して、肺胞を開いていく。
健康な妊婦は、経膣分娩のあいだ、酸化ストレスを抑制する高酸化物質ダルタチオンを大量に分泌し、胎児の身体に送り込む。ところが、ストレスの少ない帝王切開分娩の場合、胎児は母体からダルタチオンを少ししか受けとらない。帝王切開で生まれた子どものほうが、免疫系の疾患であるぜん息にかかる確率がやや高い。
出産の瞬間には、赤ちゃんの体内で大量のテストステロンが放出される。誕生直後にいったん急増したテストステロンは、すぐに減少する。思春期にはいって野放しの放出が起きるまで、その状態が続く。テストステロンが男をつくる。ところが、テストステロンは、妻の妊娠によって減る。
胎児の五感。胎児の目にうつる子宮のなかは、いつも真っ暗というのではない。赤くなることもある。長波長の赤い光の10%は子宮に届いている。胎児は音も聴いている。胎児は、内耳にとどく低周波の音を聴いて子宮の内外に広がる世界について理解を深めている。
胎児はママの声だけは一日中聞いていても、決して飽きない。妊婦が話しはじめると、お腹の子の動きが鈍くなり、心拍数が下がる。
胎児は音楽が好き。なかでもリズムが一番好きのようだ。胎児は、妊娠最後の2、3週間に母体の内外の環境から自発的に学習し、話し、言葉や音楽のリズムなどの基本を獲得している。
胎児はママの食べたもののにおいを嗅いでいるだけでなく、生まれたあとも覚えていて、好んで食べるようになることが多い。
子宮のなかで学んだ感覚を頼りに、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚とフルに稼動させて赤ちゃんはママのおっぱいに到達する。子宮のなかで、いつでも、どこからでもなく聞こえていた声が、いまはママの口から出て、赤ちゃんに届いている。聞き慣れたママの声。この世にみちている奇妙な音のなかから、その安心できる声をたどっていけば、ママのおっぱいにたどり着くことができる。
新生児は、ただ顔を認識できるだけでなく、記憶することもできる。赤ちゃんは、生まれて4時間後には、すでにママの顔とほかの女の人の顔を区別できるようになる。
新生児をママのおっぱいに引き寄せるような役目をするのは、なんと羊水のにおいである。ママの乳首は、羊水そっくりの科学物質を分泌するのだ。慣れ親しんだ羊水のにおいと味に触れて、心を落ち着ける。
赤ちゃんに食べ物だけを与えても、人との触れあいが欠けると、発育障害が発生する。体重が増えず、身体的・情緒的発達に深刻な遅れが生じる。ネグレクト(育児放棄)や虐待の犠牲になった赤ちゃんには発育障害が発現する。
赤ちゃんには、本当の父親が誰なのかを巧に隠す技がある。赤ちゃんは、とくに誰にも似ていない状態で生まれてくるのは、理にかなっている。一般的に言えば、男性が自分の遺伝子を残すことに成功してきたのは、赤ちゃんが特に誰にも似ていないおかげなのである。
うへーっ、これってあり、ですかね・・・・。腰が抜けそうなほど、驚きました。まさしく人間の神秘ですね。たしかに、生まれたばかりの赤ちゃんって、しわだらけですよね。すぐにふっくらして可愛い顔になりますが・・・・。もっとも、私の子どもは私によく似ているとみんなから言われて安心しています。
(2009年2月刊。1600円+税)
2010年10月 3日
草原の風の詩
日本史(近代)
著者 佐和 みずえ 、 西村書店 出版
1903年(明治36年)、日本人の若い女性が中国大陸に渡り、万里の長城を越えて、モンゴルの王宮に出かけてのでした。
実験にもとづく小説です。日本軍の中国そしてモンゴルへの侵略と支配の先兵となってしまうのではありますが、一人の日本人女性の勇敢な生き方が情感あふれるタッチで描かれています。その意味で、大変読ませます。
そんなように紹介すると、おまえはいつから侵略日本の手先になったのかと、きついお叱りを受けそうです。まあ、そう言わずに、小説として、また、日本人女性の善意ある活躍が政治に翻弄される物語として読んでもいいかなと思います。
それだけ、モンゴル国を取り巻く状況も描かれているということでもあります。
侵略軍としての日本人の嫌やらしさも多少は描かれていますので、戦前の日本を知るきっかけになる本だと思いました。
(2010年2月刊。1500円+税)
2010年10月 2日
性器の進化論
人間
著者:榎本知郎、出版社:化学同人
生殖器、体つき、脳など、すべて女性が原型なのである。男性になるには、何段階もの関門があって、そのたびごとに男性にする作業が行われる。そのどこかにエラーがあると、遺伝的には男性にはなれない。つまり、ヒトの原型は女性であり、男性は精一杯がんばって細工をして男性になる。
射精された2~3億個の精子のうち、卵子に到達する精子は300~500個でしかない。そして、医学的には、射精される精子数が1億を下まわると不妊の原因になるといわれる。卵子に到達する精子は、最低でも150は必要である。
一番乗りした精子は自分の酵素を放出しては死んで後進に道を譲り、150番以降の順位の精子が福を得て、受精させることが出来ることになる。なんという確率でしょうか・・・。
ヒトは、半数の人が結婚して妊娠するまで半年ほどかかっている。ヒトの妊娠率は、ほかの動物に比べて低い。なぜか?
良い遺伝子をもつ雄を選ぶためには、配偶者をきっちり選ぶことが必要なのである。
ヒトそして、男と女の違いを図解しながら、分かりやすく解説してくれる真面目で面白い本です。
(2010年1月刊。1500円+税)
2010年10月 1日
裁かれる者
司法
著者:沖田光男、出版社:かもがわ出版
1999年9月初め、東京の中央線の快速電車に乗っていた男性が若い女性に対して携帯電話による通話を注意したところ、しばらくして、電車内で痴漢したとして改札口を出たところで逮捕されたのでした。「現行犯逮捕」というには、時間と場所が違っています。
それでも、いったん逮捕されたら、簡単には釈放されません。結局、23日間、丸々警察の留置場に入れられたのでした。それでも、なんとか釈放され、不起訴が決まりました。
事件のあと、1年半たって、国家賠償請求の裁判を起こしたのです。
ところが、なんと、刑事事件としては不起訴になったのに、民事訴訟では、一審も二審も「痴漢行為をした」と認定されてしまったのです。うへーっ、と本人ならずとも驚いてしまいます。
刑事記録は既に廃棄されていました。3年間の保存が義務づけられているのに、担当職員が一年と勘違いして廃棄してしまったのだというのです。なんということでしょう、本当なんでしょうか・・・。
民事裁判では、男性の身長が164センチで、女性のほうは170センチ。しかも、7センチのハイヒールの靴をはいていた。ところが、女性の「腰」に男性の「股間」を接触させていたという。客観的には、ありえない。それでも、一審も二審も、女性の供述を信用した。そして、最高裁は、なんと法廷での弁論を行った。
このとき、「被害者」の女性本人が涙ながらに意見陳述したのでした・・・。すごいことですね。
結果は、高裁への差し戻しを命ずる判決でした。そして、高裁は、痴漢行為は認められないとしつつも、女性の虚偽申告も認められないというものでした。矛盾としか言いようのない判決です。
この事件が世間の注目を集めた理由の一つは、周防正行監督の映画『それでもボクはやっていない』(2007年1月)にあった。私も、この映画は見ました。大変よく出来ていて、司法の現実、その問題がズバリ描かれていると思いました。
裁判の限界を実感させる本ではあります。それにしても、本人(1942年生)と家族は、本当に大変な苦労をされたことだろうと推察します。お疲れさまでした。それでも、このような本を書いていただき、ありがとうございます。
(2010年4月刊。1000円+税)
2010年10月30日
深海のとっても変わった生きもの
生きもの(魚)
著者 藤原 義弘、 幻冬舎 出版
海の底に、こんなにも変わった色と形をした魚たちが棲んでいるのかと、びっくり驚天です。たとえば、水深270メートルの海底に生きるベニハゼは、暗いはずなのに、派手なピンク色でアピールしています。
海底に沈んだクジラの骨の中には、ホネクイハナムシ、エビやカニ、ホシムシその他の生き物たちの棲み家になっている。海底のクジラの骨には、小さなクリスマスのようにツリガネムシがまとわりついている。クジラの遺骸は、生物の少ない深海では、大変なごちそうなのだ。スタウナギ、カニが肉を食べ、骨はホネクイハナムシ、ヒラノマクラなどが利用するなど、たくさんの生命を支えている。
長いアシをもつムンナは、まるで地上のカマキリ。長い手足は、カマキリが海底を歩いているとしか思えません。
海底には、猛毒の硫化水素を含み、300度にもなる熱水噴出効孔がある。そこに、なんと多くの生物が寄り集まっている。アルビンガイもその一つ。
深海では、赤い光が届きにくいため、赤いものは黒く見える。だから、赤い色をした生き物が多い。赤は深海では目立たない。
とっても奇妙な形をしていて、不思議な色をしている生き物が、こんなに深海の海底でうごめいて生きているとは、まったくの驚きです。
どうやって撮ったのかしらん、と思うような傑作の深海底生物の写真集です。
どうぞ、あなたも手にとって眺めてみて下さい。楽しい写真集ですよ。
(2010年6月刊。1300円+税)
2010年10月29日
鉄砲を手放さなかった百姓たち
江戸時代
著者 武井 弘一、 朝日新聞出版
秀吉以来の刀狩によって、百章は刀も鉄砲も何もかも武器というものをまったく持たなくなったという常識は間違いである。
のっけにこんな事実が摘示されて驚かされます。
刀狩は、まさに刀を取りあげたのです。なぜなら、刀は武士身分を表像するものだったからです。そして、江戸時代の百姓は大量の鉄砲を手にしていました。
江戸幕府は時として鉄砲改めを実施していた。しかし、そのとき百姓から鉄砲を取りあげたわけではない。百姓の鉄砲は没収されずに、そのまま所持することが認められた。
ところで、百姓のもっていた鉄砲が、たとえば一揆のときに人間に向けて殺傷するために使われたことはない。それは武器としてではなく、音をたてる鳴物として使用された。そして、百姓一揆のとき、領主が百姓に向けて鉄砲を使うこともなかった。そんなことをすれば、たちまち支配の正当性を失うからである。すなわち、領主と百姓のあいだには、鉄砲不使用の原則があった。
うへーっ、そうだったんですか・・・・。これって、まったく知りませんでした・・・・。
ところが、一揆にアウトローが参加するようになってくると、様相が異なる。
アウトローは、土地を失う百姓が増え、村が荒廃したからこそ生まれでてきた。
百姓にとって鉄砲は、アウトロー対策そして、イノシシなどの「害獣」対策に必要なるものとして使われたのでした。
百姓は鉄砲を村全体の管理下において、その使用を規制していた。百姓は鉄砲が武器となることを自制していた。だからこそ、当局は村に管理をまかせることができた。
害獣を防ぐための、数ある方法のなかから最適な道具として、百姓みずから鉄砲を選んだ。農具としての鉄砲が村の管理下におかれて広まり、害獣を防ぐために百姓が手にして使い続けた。
日本人の若者が若いときから人を殺すための銃を持たされることもないのは大変幸せなことなのですよね。これを平和ボケなどと言ってほしくはありません。
(2010年6月刊。1300円+税)
2010年10月28日
日米秘密情報機関
社会
著者 平城 弘通 、 講談社 出版
自衛隊に秘密情報機関があった(ある)。陸幕第二部別班、通称「別班」を「ムサシ機関」といった。日本共産党が、追及・暴露したことのある組織で、国会でも追及された。
1973年(昭和48年)に金大中拉致事件が起きたとき、KCIAとともに関わっているとみられた。
著者は現在90歳で、1964年に「ムサシ機関」の機関長となった。その体験を告白している本です。同じテーマの本として、『自衛隊秘密情報機関。青銅の戦士と呼ばれて』(阿尾博政。講談社)がある。
著者は、このような「日米秘密情報機関」が、その後、消滅したとは思えない。現在でも、この「影の軍隊」が日本のどこかに存在し、日々、情報の収集にあたっていると確信している、と書いています。これは、今もあるということを言いたいのですよね。
藤原彰教授(故人。軍事史・現代史)と陸士で同級だったし、阿川弘之(作家)も同じ部隊にいたそうです。
中国大陸で戦車大隊に所属したあと、日本で少年戦車兵学校で教えるうちに終戦を迎えます。やがて、自衛隊の前身の警察予備隊に入り、出世していきます。
1963年(昭和38年)、陸幕二部情報収集班に所属する。そして、1964年に「ムサシ機関」(正式名はMIST)の機関長となった。 MISTはアメリカ軍が必要性を痛感して出来たもの。その人材養成として、昭和29年9月から翌30年9月にかけて、アメリカ陸軍情報学校に陸幕第二部保全班の山本舜勝三佐を、昭和30年4月から8月にかけて陸幕二部在籍の清野不二雄三佐をアメリカに派遣した。MIST教育は第2段階で実施され、昭和31年からアメリカ軍の支援のもと、実質的な訓練が朝霞のキャンプ・ドレイクにあるMIST・FDD内で始められた。MIST教育は昭和35年に廃止されたが、成績優秀者を選抜して第二部付としてMISTに所属させた。秘密情報工作について、アメリカ軍側は、アドバイザーとしての立場における助言、日米チームによるAH活動、応分の資金援助をした。
「ムサシ機関」の実体は「二部別班」であり、情報員の訓練から情報収集機関に発展した。つまり、この「ムサシ機関」の発足の裏には、在日米軍の兵力削減による情報部内の弱体化を防ぎ、日米の連携強化を狙った、アメリカ軍の要請があった。それに自衛隊が便乗した。アメリカの情報機関は、警察と公安調査庁に別個のルートを持っていたので、ムサシ機関に対して国内情報収集の要望はなかったので、全部、国外情報をターゲットにした。
工作員は私服である。本来は自衛官であって、アメリカ軍と共同作業した。
昭和40年8月1日現在の定員25人に対して現在員は16人いた。
しかし、マスコミや国会で追及されても、そんなものはないと、シラを切っていた。
宮永幸久陸将補がソ連大使館に情報を売っていたことが発覚(1980年)。著者の動向をつかむために警察公安からスパイが送り込まれていた。
スパイの世界も一筋縄ではいかないようですね。いったい、誰から何を守ろうというのか、いつのまにか鈍磨してしまうのでしょう。こんな機関が今もあって、私たちを日常的に監視しているなんて怖いですよね。
(2009年2月刊。1600円+税)
松山に一泊してきました。動機の弁護士の中で古稀を迎えた人が出ています。もちろん、みな元気です。でも、夜は皆10時には寝てしまいました。そして、朝は6時に起きだします。
朝から温泉に入り、英気を養いました。NHKの「坂の上の雲」が放映されていますが、司馬遼太郎の歴史観を手放しで礼賛はできないように思います。昔の日本人が良かったとは単純に言えないと思うからです。なにより、平和な今の日本っていいですよね。朝湯につかりながら思ったことでした。
2010年10月27日
悲しみのダルフール
世界(アフリカ)
著者:ハリマ・バシール、ダミアン・ルイス、出版社:PHP研究所
スーダン・ダルフール出身の女性医師が、暴行・レイプ・虐殺などの残虐行為を生きのびた自身の半生を告白する。スーダン政府軍と民兵による、アフリカ系先住民の大量殺戮の現実がここに。
これは、オビにある言葉です。スーダンで大量虐殺(ジェノサイド)が起きている現実は以前から断片的に報道されてきましたが、この本は、自分の悲惨な体験をあからさまに語っているところに特色があります。いったい、どうしてこんな残酷な事態が続いているのでしょうか・・・。
ダルフール紛争による死者は40万人にのぼり、250万人もの人々が混乱をきわめる広大な難民キャンプ、絶望と苦難の地に逃れることを余儀なくされた。
著者の属するザガワ族は、気性の荒い戦闘的な部族で、不名誉や恥辱に比べれば、暴力による死、残酷な死、自死のほうがはるかにましだと考える。
ザガワ族は、気性の荒い戦闘的な黒人の部族だが、よそから来た人を迎えるときには、とても気さくに寛大な態度で接する。
ザガワ族の社会では、娘がザガワ族の夫を見つけられなかったり、夫に捨てられたりすることは、最悪の事態なのだ。
ザガワ族のしきたりでは、割礼は少女が大人の女性になる通過儀礼である。著者は何も知らず、花嫁のような扱いを受け、新しいきれいな服と靴を身につけた。そして・・・。
どうして、祖母と割礼師は、こんな酷い目にあわせるのだろうか・・・。私は、こういう体で生まれてきたのに、何がいけないというのだろうか・・・。
割礼を受けた性器にはひどい傷が残るので、自然分娩はきわめて危険なのだ。どうしても理解できないのは、割礼の儀式での女たちの役割だった。祖母も母も、自分の割礼のときと同じ苦しみを味わい、同じ精神的な打撃を受け、裏切られた気持ちになったはずだ。それなのに、こんな私の機嫌をとり、おだて割礼が良いことで正しいことなのだと納得させようとしたのだ。今も、このむごいしきたりは続いているようです。
学校から家(自宅)に帰ると、祖母がごほうびを用意して待っていた。じっくりと油で揚げたイナゴがたくさんのお皿に盛られていた。一つずつ手にとって、頭と羽をむしり取り、残りを口のなかに放り込んでかむと、甘くて脂っぽい汁が口のなかに広がり、次から次へと食べたくなる。
うへーっ、イナゴって、本当においしいのでしょうか・・・。私は、あまり食べる気がしません。
著者はなんとかスーダンを脱出し、イギリスにたどり着きます。ところが、亡命が認められません。意を決してテレビ局にも出演して実情を訴え、世論を動かします。それでも、今なお全面的な解決とは縁遠いようです。
最後にスーダンの中央政府の蛮行を支持しているのは中国だと指摘されています。
中国がスーダン中央政府を支援しているのは、石油にある。中国はスーダンの最大の石油輸出相手国である。そして、中国は、スーダンへの最大の 投資国でもある。中国はスーダン中央政府と癒着している。中国はスーダンから石油を買って、スーダンに武器を売却している。
スーダン中央政府は、国連安保理の決議を再三にわたって拒否し、平和維持軍の活動を妨害している。それを中国が後押ししているというのです。ひどいですね。
ともかく、スーダンの内政が一刻も早く安定化することを願うばかりです。
(2010年4月刊。2200円+税)
沖縄に行ってきました。今年三回目です。いつも一泊ですから、せいぜい国際市場と首里城くらいしかいけません。今回は久しぶりに首里城に行ってきました。モノレールの駅から歩いていくと、途中に「ハブにご注意」という看板が出ていました。こんなところでハブに咬まれたら大変だなとゾクゾクしてしまいました。
羞恥上は、うるし塗りの補修工事中でした。たくさんの修学旅行生の合間を縫って見学しましたが、殿中に新しく休憩所ができていました。
核「密約」疑惑は十分に解明されていません。今でもアメリカは有事のときには核兵器を持ちこめることになっているように思います。その持ち込み先の一つが沖縄です。沖縄の新聞を読むと、基地問題について、本土との温度差がいかに大きいか反省させられます。
2010年10月26日
封印
司法(警察)
著者 津島 稜、 出版 角川書店
1982年(昭和57年)秋に発覚して、世間で大問題となった大阪府警のゲーム機汚職事件について、当時、産経新聞大阪社会部にいて事件を追及していた著者の体験をもとにしたノンフィクションのような小説です。さすが迫真の描写です。逮捕者5人、現職警官ら124人が処分された史上最大の警官汚職事件の発端から最後までが生々しく描かれています。
とりわけ、スクープを抑えようとする新聞社の経営幹部の言動、そして、当時の府警本部長だったキャリア警察官(警察大学校の校長)の自殺に至る経過などが強く印象に残りました。ただ、「あとがき」に府警内部の「餞別・祝儀」という習慣がなくなり、網紀粛正が徹底している、と書かれていますが、本当にそうなのか、私には信じられません。今も巧妙に形を変えて残っているのではないでしょうか。狙撃された国松元警察庁長官が超高級マンションになぜ住めたのか、その謎はいまもって明らかにされていません。
そして、この本は、大阪地検特捜部を評価する本でもあるのですが、現在進行形の証拠偽造事件を知るにつけ、当時から無理な捜査をしていなかったのか、知りたいところでもあります。それはともかくとして、地検特捜部と警察との微妙な関係もよく描かれていて、大いに勉強になりました。
大阪特捜は、事件捜査について、土肥氏らが培った伝統を継承した時代から、合理的かつ効率的な立件を重視する時代へと移行しつつある。大阪特捜にも時代の転換期が訪れたのかもしれない。
府警幹部にからむ裏金の処理問題などを警察庁に正直に報告しても意味はない。自分の首をしめかねない。全国に同じような事情があることは警察庁も十分承知のところである。バカ正直な報告を受けると、建前上、警察庁も処分なり改善を指示しなければならない。だから、警察庁もそんなことは期待なんかしていない。
警察庁のホンネは、第一に無用の捜査は速やかに終結せよ、第二に、捜査の過程で予測できる疑惑については無視して凍結せよ。府警本部長が多数の業者団体から接待を受けようが、祝い金や餞別を受け取ろうが、問題ではない。それを問題にしたら、本部長は今後、異動も昇進もできなくなる。
そして、マスコミの内部ではスクープを止める力が働いた。ある経営幹部は次のように言った。
こんな特ダネはいらん。うちの社は府警に世話になっている。本社主催のイベントで大掛かりな交通整理をしてもらっているし、印刷工場周辺に信号機も設置してもらった。最近も販売局が購買部数で協力を頼んでいる。
そうですよね。マスコミと警察の癒着は目に余ります・・・・。30年近くも前の出来事ではありますが、古くて新しいテーマだと思いました。
(2010年月刊。1900円+税)
2010年10月25日
西海の天主堂路
社会
著者:井手道雄、出版社:星雲社
長崎の有名な大浦天主堂をはじめとする北九州一円の天主堂が写真とともに紹介されています。聖マリア病院の院長としての仕事のかたわら自ら車を運転して写真を撮ってまわったというのですから、すごいものです。惜しいことに、著者は2004年7月に亡くなられました。
ここでは、福岡の筑後平野のど真ん中に戦国時代以来の潜伏キリシタンがいたこと、そして、今も今村天主堂という壮麗なる天主堂があることを紹介します。
戦国時代、16世紀後半から17世紀初めにかけて筑後地方には数多くのキリシタンがいた。教会堂が久留米に二つ、柳川に一つ、今村(大刀洗)に一つ、秋月に二つ、甘木に一つ建てられた。
今村のキリシタンには大友宗麟の影響がある。1600年(慶長5年)ころ、筑後のキリシタンは7000人に達し、1605年には、久留米から秋月に至る地域のキリシタンは8000人をこえた。今日の筑後地方のカトリック信者は2900人ほどなので、当時は今よりはるかに多かった。
キリシタン禁制以降も、大刀洗の今村は潜伏キリシタンとして残った。宗門改めはあったが、久留米藩は他藩に比べると緩やかなものだった。明治になって、早い時期に村をあげてカトリック教会に復帰した。
今村の潜伏キリシタンは仏教徒を装いながら、祈りや教会暦を正しく継承して、純粋にキリシタン信仰を守った。
洗礼。子どもが生まれると、できるだけ早く水方がバブチズモ(洗礼)を授けた。水方は茶碗に水を汲み、上等の紙を細かく折って茶碗の水に浸し、子どもの額と胸につけて洗礼の言葉を唱え、洗礼式には代父か代母を立てた。葬式のときも、仏式の葬式をして、ひそかに紙で十字架を折り、懐のなかに入れて埋葬した。今村では、宿老、水方、聞き方、帳方などの役職者のいる秘密の組織体制が確立していた。
藩当局からすると、年貢のためには、重要な穀倉地帯の農民を殺すわけにもいかず、とくに目立ったことをしなければ、おとがめないと黙認していたのではないか。
潜伏キリシタンが発見されたときの問答が面白いですよ。小斎には肉を食べないという習わしこそ教会の掟であった。お互いに必死で探りあったなかで確認しあった。
ところが、今村の潜伏キリシタンが露見したとき、明治新政府は弾圧した。これを今村邪宗門一件という。今村の信者は三回も入牢させられたが、改心を申し出たので、釈放された。信者も改心届や血判状を出して出牢したら、すぐに信仰に戻るなど、あくまでしたたかだった。
このとき、868人が潜伏キリシタンだったといいますから、すごいですね。
明治14年に最初の今村天主堂が建てられた。このときの信者は1402人だった。
明治の末に今村天主堂の信者は2070人となった。
現在の今村天主堂は1913年(大正2年)に完成したもの。ロマネスク風の堂々たる建物です。残念ながら、私はまだ見ていません。
この本は、2006年に出版されたものが絶版になっていましたので、ここに新装再版となったものです。私のフランス語仲間の弥栄子夫人より贈呈していただきました。お礼を申し上げます。ぜひ、一度読んでみて下さい。
(2009年8月刊。2000円+税)
2010年10月24日
ヒマラヤに咲く子供たち
アジア
著者:内野克美、出版社:中央大学出版部
ネパールの子どもたちの実に生き生きとした笑顔にたくさん出会える写真集です。
でも、ネパールでも、ストリート・チルドレンが増えているそうです。残念なことです。
ここにも日本語学校があり、数ヶ国語を話す子どもが珍しくないとのこと。たいしたものです。
ネパールでは兄姉が弟妹の世話をよくしています。兄弟姉妹よく助けあって生きているのですね。
エベレストにのぼるときに40日間の旅をしたようです。すごいことですね。
超大型カメラで撮影したエベレスト(8848m)の写真は迫力満点です。ゴツゴツとした威容に思わず息を呑みます。
最後に、その超大型カメラがうつっています。本当に大きいですね。8×10というのは、タテ8センチ、ヨコ10センチというのでしょうか。人間の頭よりも大きいカメラをもって、ヒマラヤの自然や人間を撮りまくっているのです。すごい迫力の写真集です。
ネパールは、今、10年間続いた内戦がようやく終わって、一応平穏だということです。このまま平和が続くといいのですが・・・。
内野さん、お疲れさまですね。私と同世代のようですが、無理をしないで、また、超大型カメラで撮った写真を見せてくださいな。
(2010年4月刊。2600円+税)
2010年10月23日
靖国神社の祭神たち
日本史(近代)
著者:秦 郁彦、出版社:新潮新書
靖国神社は明治維新とともに誕生した。現在、祭神は246万余柱である。
靖国神社は、国有国営の別格官幣社から単位の一宗教法人へ衣替えして今日に至っている。
小泉首相(2001~2006年)は1年に1回のペースで参拝を続けたが、そのあとの安倍、福田、麻生、そして鳩山の各首相は公然たる参拝を控えている。
昭和天皇も靖国神社へA級戦犯が合祀されてから参拝しなかった。1975年(昭和 50年)以降、天皇の参拝はない。
西郷隆盛は、その死から12年後に罪名を取り消されて正三位を贈位されたが、靖国神社には合祀されていない。
原則として天皇と天皇の統率する軍隊のために忠節を尽くした死者に限定され、反乱者や賊名を蒙った人々は対象外とされた。
日清戦争直後までは、戦病死者は「不名誉な犬死」として合祀対象ではなかった。日清戦争の戦病死者の多くは、戦地における軍の衛生管理が不十分なことに起因するのは明らかだったから、救済する必要があった。しかし、民間人でも、日清戦争で軍に雇われ、「戦病死」した人夫(軍夫)は、合祀対象にならなかった。
日露戦争のころは、捕虜と確認されるや、氏名が新聞発表されるほど、寛容だった。
昭和10年までの女性の合祀者は累計で49人にすぎなかったが、支那事変以降は急増し、2006年末までの女性祭神は5万6161柱に達する。
生存捕虜の情報を得ると、陸軍は将校の停年名簿から削除した。しかし、海軍は、終戦まで、士官名簿から外してはいない。
戦後、遺族のあいだから靖国神社の存続を占領軍に請願する動きもあったが、インフレと食糧難の生活苦にあえいでいた一般国民の関心は急速に薄れ、年間の参拝者数は、ピーク時の192万人(1944年)から25万人(1948年)に落ち込んだ。
私も一度は靖国神社に行ってみたいと思っています。それにしても、伊藤博文も、乃木希典も靖国神社に合祀されていないのですね・・・。
(2010年1月刊。1300円+税)
2010年10月22日
東大は誰のために
社会
著者 川人 博、 出版 連合出版
川人(かわひと)ゼミが20年も続いているなんて、すごいことです。心からなる拍手を贈ります。川人弁護士は、一期だけ後輩にあたります。この本は贈呈していただきました。
私自身は大学の4年間、神奈川県川崎市(古市場)でセツルメント活動に没頭していました。2年生のときに東大「紛争」が勃発しましたので、もっけの幸いとばかり、授業はほとんど受けていません。大学生として必要なことはセツルメントで地域の人たちから、そして先輩たちから、またセツラー同士のふれあいのなかで学んだと思います。ともかく、地域にある現実の重みに圧倒されました。いまの日本で毎日の食事をとれない人々がたくさんいますが、当時も同じでした。これだけ「飽食の日本」なのに「オニギリを食べたい」と叫びながら餓死した人が現にいるのです。私の学生時代も典型的貧困と現代的貧困の異同を真剣に議論していましたが、本質的にはまったく同じ現象が今日なお存在するのに改めて驚くしかありません。
川人ゼミは正式には「法と社会と人権」ゼミといいます。東大生のなかの最良の部分を結集しています。川人ゼミの卒業生は既に数百人に及びますが、そのなかの41人が手記を寄せています。すごい影響力です。官僚もいますし、医師や弁護士もいます。子育て中の人、農業に専念する人までいるのですから、まさに多士済々です。
川人ゼミの特徴は、社会との接点を大事にし、現地に出かけたうえで、文系・理系の枠をこえて議論することにある。将来の専門を問わない幅広い学びの場は、学生が自らの体験を議論を通して学問へと高める機会として、社会の辺縁でこの学び舎を巣立った若者たちの力を必要とするためにある。
川人ゼミで味わった驚き、悲しみ、喜びを思い続けていきたいと思ったし、感じ続ける感性を失いたくないと思った。これは、私が大学一年生のときにセツルメント活動に入ったときに痛感したことと、まったく同じです。
川人ゼミは驚きの連続だった。フィールドワークに参加して、自分のまわりの世界が一気に開けた気がして、爽快だった。知らなかった現実をこれでもかと突きつけられ、もっと目を開けて世の中を見ろと、目玉が飛び出るほど目をこじあけられるような思いだった。自分が本当に知っていることはごくわずかで、ほとんどのことは知っているつもりにすぎないのではないかという思い。怖れともいえる感覚を、はっきり自覚するようになった。
川人ゼミが与えてくれたもののなかで一番大事なものは、ゼミの仲間だった。私にとっては、セツラー仲間こそ、もっとも大切なものでした。残念なことに今では日常的な交流はありませんが・・・・。
川人ゼミは自らの夢や志を見つめる場でもあった。フィリピンのスラム街でホームステイして、理不尽な状況に置かれながらも、日々懸命に生きる人々の存在を、忘れ得ぬ体験として学んだ。川人ゼミの活動の本質は現場体験であり、現状を肌身で感じてくることだった。
私たちのセツルメント活動でも同じようなことを、お互いに言っていました。そして、それを文章にするのです。総括すると表現していました。
20年間も続いた川人ゼミです。必ずしもイメージの良くない東大生ですが、東大生も捨てたもんじゃないな。そう思わせる内容の本で、うれしくなりました。
弁護士会活動のなかでも元セツラーが何人もがんばっています。やはり、現実に密着して、若いうちに体験しておくことって、本当に大切なんですよね。いい本でした。
(2010年9月刊。2200円+税)
2010年10月21日
日弁連・人権行動宣言
司法
著者 日本弁護士連合会、 明石書店 出版
いまの日本で基本的人権がどれくらい守られ、また侵害されているのか、その全体状況がこの1冊を読めば、かなり分かります。本来、日本政府がやるべきことを、日弁連が代わって明らかにしているという意味で貴重な労作でもあります。
日弁連は、過去三度、『人権白書』を刊行している(1968年、1972年、1985年)。残念なことに、日本では、このような人権の全体状況をトータルに明らかにしたものは、政府発行のものをふくめて、他に見つけることができない。この本は、『白書』を補強し、現在の日本の人権状況を浮かび上がらせるものとなっている。
以下、いくつか恣意的にはなりますが、ピックアップして紹介します。
生活保護世帯数は、1996年度から一貫して増加傾向にあり、2010年4月、135万世帯、187万人となった。この135万世帯というのは、1990年代前半には60万世帯だったから、その2倍となっている。
貯蓄をまったく持っていない世帯は、1980年代に5%、1990年代に10%、2005年には24%と急増した。2009年の相対的貧困率は16%。
子どものいる一人親世帯の貧困率は54%。複数親の5倍になっている。一人親世帯の貧困率は、日本は59%であり、OECD加盟国30ヶ国のうちで一番高く、平均31%の2倍である。母子世帯は2000年に63万世帯。2005年には75万世帯となった。その平均所得は2007年に243万円で、一般世帯550万円の半分以下である。
児童虐待は、2004年度は3万件を超し、前年度比で26%増。2007年度には4万件を超えた。1990年度の30倍である。
日本に暮らす外国人は、2008年末で235万人。日本の総人口の1.8%。そのうち韓国・朝鮮籍は59万人で、その人数は年々、減少している。
難民認定を受けた人は、2008年に57万人で、ほとんどがミャンマー人。
この20年間に、死刑を廃止した国は、139カ国となり、死刑を認める58カ国の倍以上となった。死刑廃止・執行停止が国際的な潮流である。
死刑を認める国は、日本のほか、アメリカ、中国、北朝鮮、イランなど。これって、アメリカが民主主義がないと非難している国ですよね。アメリカも、同じような国じゃないのかと、つい疑問に思ってしまったことでした。
刑務所にいる無期懲役の受刑者は、1998年に45人だったのが、2006年には136人と、大幅に増加している。無期懲役刑の受刑者の仮釈放者は1998年には二桁だったのが、2007年にはわずか1人だけ。平均受刑者在所期間は、1998年に20年だったのが、2007年には31年へと大幅に延びている。受刑者の死亡も多くなった。
この本は、2009年11月に和歌山で開かれた日弁連の人権擁護大会で公表された「人権のための行動宣言2009」の解説版です。大変コンパクトなものになっていますので、日本における人権状況を参照し、引用するときに便利な百科全書という気がします。日弁連の英知を結集したと言える内容ですので、ぜひとも大いに活用したいものです。全国の法律事務所だけでなく、国と地方自治体にぜひ一冊は備えてほしいと思いました。
編集責任者である京都の村山晃弁護士が盛岡で開かれた人権擁護大会の会場外で自ら売り子となって汗を流していましたので、その熱意にほだされ、こうやって書評を書かせてもらいました。あなたも、ぜひ買って読んでみてくださいね。少しばかり高価な本ですが、その価値は十分ありますよ。
(2010年10月刊。3500円+税)
2010年10月19日
溥儀の忠臣、工藤忠
中国
著者:山田勝芳、出版社:朝日新聞出版
満州国の侍衛処長・工藤忠。ラストエンペラーから「忠」の字をもらった日本人。中国裏社会にも精通、張作霖爆殺事件の真相を握り、陸軍に疎まれながらも、溥儀に影のように付き添った男。中国と皇帝に生涯をささげた人物を通して新たな溥儀像、満州国像、昭和史に迫る。
これは、この本のオビにある文句です。一人の中国人に最後まで誠心誠意を尽くし、決して裏切ることなかった日本人が紹介されています。客観的に見て、彼の果たした役割がどういう意味をもったのかはさておき、さわやかな読後感の残る日本人です。あの満州国で、駆け引き、打算で動く日本人ばかりではなかったことを知るのは、うれしいものです。
工藤忠は明治15年(1882年)青森に生まれた。弘前にあった東奥義塾に入り、四年生、16歳のとき中退している。
上京して中学に入り、剣道を学んだ。そして、朝鮮さらには中国大陸を旅行した。
工藤は中国で生活するうちに秘密結社・哥老会の会員となった。日本人でこの秘密結社に入会できた人は珍しい。
そして、1917年、34歳のとき、11歳の溥儀と出会った。運命の出会いである。
このころ工藤は、陸軍の機密費から活動資金を得ていた。今の内閣機密費よりさらに巨額の機密費を軍部はもち、運用していたのです。お金こそ権力の強さの源泉です。
1931年9月、満州事変が発生した。このころ、恐慌に苦しんでいた多くの日本人は、これで新たな利権先、就職先、入植先ができたと喜んでいた。軍が満州を制圧したころから、日本人が大挙して満州に押し寄せた。
1931年11月、溥儀は工藤とともに天津を脱出した。このとき、溥儀は車のトランクに隠れてイギリス租界の港に行き、陸軍の船に乗り込んだ。ところが、この船には、ガソリンを入れた石油缶が一つ、ひそかに積み込まれていた。中国側に捕まったときは、火を放って船ごと溥儀を始末してしまう計画だったのだ。そのことを、工藤は後になって知らされた。
こうして溥儀は満州に入った。このとき25歳。工藤は49歳だった。ちなみに、張学良は30歳、蒋介石は44歳であり、東條英機は47歳、満州に逃げ込んでいた甘粕正彦(大杉栄を殺した主犯)は41歳、近衛文麿は40歳だった。
このころ、工藤は、日本陸軍にとって、むしろ煙たい存在であった。しかし、溥儀を動かす切り札として使わざるをえなかった。満州国で工藤が侍従武官・中将に任命されたことについて、陸軍は不満たらたらだった。工藤に軍歴がなかったからである。しかし、溥儀は、工藤に「忠」という名前を与えて、不満を封じた。
満州国がつくられたとき、関東軍司令官(本庄中将)は、自ら傀儡政権(パペット・ガバーメント)をつくったと書いた本を出版していた。
満州国皇帝に溥儀が即位したとき28歳、工藤は51歳であった。
満州国の運営には、中国側(満)と日本側とで認識の違いがあった。外の国務院を内面指導しただけではうまくいかない。内の宮内府にも日本人をふやして、そこも完全な指導下に置こうとした。 溥儀は、常に毒殺されることを恐れていたが、工藤のもってくる食べ物については、まったく疑っていなかった。
満州国には、国籍法がなかった。「王族協和」と言いながら、日本人が満州国籍をとるのに消極的だった。さらに、満州国内の朝鮮人の位置づけが難問だった。結局、1940年に「満州国暫行民籍法」が制定され、満州にいる日本人は日本戸籍法の適用を受けた。これが満州在住日本人の徴兵の根拠となった。
1945年8月、溥儀39歳、工藤62歳だった。4月に日本に来て、満州に帰れないまま、工藤は日本で敗戦を迎えた。溥儀も終戦直後、飛行機で日本に来るはずが、ソ連兵に拘束されてしまった。
戦後も、工藤は溥儀に忠誠を尽くし続けた。満州国は完全に関東軍が支配し、日本のほうが溥儀を裏切ったという思いが工藤には強かった。
こんなに中国人に忠節をつくした日本人がいたのですね・・・。
(2010年6月刊。1500円+税)
平泉の中尊寺そして毛越寺を見学してきました。20年ぶりのような気がします。藤原三代のミイラが保存されているというのは驚きですよね。戦国時代など、よくぞ戦火の中で滅失しなかったものです。なんといっても金箔ですからね。荒らされなかったのは奇跡ではないでしょうか。
毛越寺(もうつうじ)は庭の復元が進んでいて、大宰府の曲水の宴ができるような水路まで再現されていました。
小高い義経の館跡に昇って、遠くの山の大文字焼の跡を見、かつて人口10万人もいたという、今は水田になっている広大な平地を眺めました。
国破れて、山河あり……の地に立ち、感慨深いものがありました。
2010年10月18日
となりのツキノワグマ
生き物
著者 宮崎 学、 出版 新樹社
動物写真家が長野の山で、たくさんのクマを発見。ツキノワグマって、こんなにもフツーに山にいるのですね。九州にだっていないはずはない。著者がそう言っているのを知った何日かあと、宮崎の森の奥深くでクマを目撃したという記事を新聞で見つけました。九州のクマは絶滅したと言われて久しいのですが、どうやら、そうでもないようです。
無人カメラをクマの通り道に仕掛けておいて写真を撮るのです。クマたちがフラッシュを浴びてびっくりした様子も面白いですよ。
両耳に赤と黄色のタグをつけたクマが、その年に生まれた子ぐまを連れて里にやってきた。タグをつけているということは、親グマは、お仕置きされて里にはおりてこないはずだったのです。それなのに、相変わらず里の近くに定住しているのです。クマの通り道にカメラを設置しておくと、好奇心旺盛なクマからカメラは倒されていた。そこで、その様子を別のカメラで撮ることにした。これが面白いのです。まるでカメラを構えたカメラマンのようなクマの立ち姿まであります。
クマの好みも十人十色。蜂蜜が大好きなクマがいれば、そうでないクマもいる。ニジマスの養殖場で弱ったニジマスを獲っていくクマもいる。
クマ同士は、お互いに無駄な接触を避けるため、人の耳には聞こえない超音波を出して交信している。そして、弱い方は危険を察知し、立ち去るなり、木に登るなりする。クマが移動中に口を細くあけているのは、低周波を出しながら自分の存在を知らせているのだ。
クマの個体としての寿命は、野生下では20年ほど。しかし、えさの面でもすみか(洞窟)の面でも強く木に依存しているクマは、種のレベルでは木や森の時間軸にあわせて動かなければ、生きていけない。クマが冬期穴に利用する樹洞は、できるまでに100年以上の期間を要する。そこで、クマは本能的に、未来の子孫に向けて、樹洞づくりを始める。
少なくとも長野県では、20年前に比べて、ツキノワグマは著しく増えている。近い将来にクマが絶滅する心配はない。
中央アルプスの全景を写した写真があります。そこに無数といえるほどにクマが出没した地点が表示されています。長野県はクマだけでなく、人間だって、大いに住みたい地域です。そこにたくさんのクマが棲みついているというのです。びっくりしてしまいます。
私にとってクマは動物園で会うことがあるくらいの生き物なのですが、これほど人里近くに居住しているというのですから、すっかり認識を改めました。
クマの写真が生きいきと、躍動感にあふれています。
(2010年7月刊。2200円+税)
宮崎県の西都市に出張してきました。西都原古墳群で有名なところです。今回は残念ながら古墳群の見学はできませんでしたが、すごい数の大きな古墳群が密集しています。これを見ると、なるほど、日向(ひむか)の土地こそ天孫降臨したところ、日本文明発祥の地だと確信させられます。まだ見ていない人は是非一度出かけてみてください。
西都に日弁連のひまわり公設事務所がオープンし、その開所式に参加しました。実は、6月に予定されていたのですが、例の口蹄疫騒動で延期されてしまったのです。
所長の水田弁護士は、福岡のあさかぜ事務所で1年半のキャリアを積んでいます。温厚かつ熱心な弁護士ですので、弁護士の少ない地元の要請に必ずこたえてくれるものと確信しています。
2010年10月17日
甦る五重塔
日本史(江戸)
著者:鹿野貴司、出版社:平凡社
江戸時代に建立された五重塔が見事、現代によみがえったのです。ところは身延山久遠寺です。もちろん、言わずと知れた日蓮宗の本山です。
その五重塔が竣工するまでが見事な写真で刻明に紹介されています。さすが圧倒的存在感のある建物です。
初代の五重塔は1619年(元和5年)に建てられた。加賀藩主・前田利常の生母(寿福院) が寄進・建立した。ところが、江戸時代の末期に焼失し、そのあと再建された塔も明治8年、再び大火にあって焼失。それを再建したのです。
使用する木材は国産にこだわり、高知・四万十川上流で切り出した檜を用いた。それを組み立てるのは、世界最古の企業として名高い、大阪の(株)金剛組の宮大工。
法華経の根本道場たる身延山に133年ぶりによみがえった七堂伽藍。その一角にひときわ空高くそびえ立つ123尺(37メートル)の五重塔は、身延山からお題目の輪を広めるための発信基地。
五重塔がつくり始められるときから竣工するまでの2年間、東京(千葉)から通いつめた若手カメラマンによる素敵な写真集です。さすがに8万枚の写真から選び抜かれたというだけあります。見るものにぐいぐいと迫ってきます。
五重塔を拝むありがたさが違ってくること、うけあいです。
(2010年4月刊。3800円+税)
2010年10月16日
ライオンの咆哮のとどろく夜の炉辺で
世界(アフリカ)
著者 ジェイコブ・J・アコル、青娥書房 出版
アフリカは南スーダンの民話です。紛争が絶えず、大虐殺の続くスーダンに、このようなすばらしい民話があったとは・・・・、驚きました。
人類発祥の地であればこその民話の数々です。
取り囲んでいるのは暗闇ばかり。雨が降って、雷が鳴り響き、稲妻が走る、そんな夜。すぐ近くの森からは、襲いかかるヒョウを迎え討つ雄のヒヒがフーフーと荒い息を吐きかけ、それに応戦するヒョウが喉をしぼった脅し声を立てるのが聞こえてくる。あたりでは、ハイエナがまるで人のように笑い声を立てる。ライオンが吼え、草葺き屋根の天井では、白蟻たちが恐れおののいてチリンチリンと鈴の音のような音を立てはじめ、そして思わず小屋の床にポトポト落ちてくるのだ。蛙やコオロギなどの虫たちのうたう声が、その背景に天然のオーケストラのごとく満ち満ちている。
このように語られると、昔話の語られる情景が眼に浮かんできますよね・・・・。
ロンガール・ジェルの子孫は、ゴンの人びと、あるいはパゴン氏族として知られるようになった。パゴン氏族の人びとは、今日でも、ゴン、つまりヤマアラシを温かく自分たちの家に迎え入れる。そして、ヤブに戻す前に、ヤマアラシに牛乳とバターをご馳走してやる。アチュイエル(鳶の人びと)として知られるパイィー氏族がいて、彼らは鳶(とび)を殺さない。ミイル(キリン)の人びとと呼ばれるパディアンバール氏族はキリンを殺さないし、その肉も食べない。コオル(ライオン)の人びと、つまりバドルムオト氏族は、ライオンに獣を与えたやることはあっても、ライオンを殺すことはない。
人間がライオンになり、ライオンが人間になるという前提で語られる民話があります。動物の世界と人間の世界は紙一重で、自由に行き来できるのです。
デインカの知恵の類ないふところの深さを直に本書は伝えてくれる。そこは、人生の真実を語るがゆえに、悪夢がその中に居すわるという、魅せられたる魂の物語をつむぎ出し、ライオンの咆哮ととどろく夜の炉辺で心静かに耳を傾ける人びとの住む土地なのである。
スーダンという国を知るうえで欠かせない本だと思いました。
(2010年6月刊。1500円+税)
2010年10月15日
だいじょうぶ3組
社会
著者 乙武 洋匡、 講談社 出版
あの乙武さんが小説を書いたのです。正直言って、まったく期待せず、いつものように軽く読み飛ばすつもりでした。270頁ほどの本なら、30分もあれば楽勝だと見込んでいたのです。実際、その程度で読んでいる本は多いのです。また、そうでもないと、年間500冊を読むのは無理なんです。どうして、そんなに無理してまで速く読むのかって・・・・。それは、次に読みたい、知りたいことの書いてある本が待っているからなのです。世の中って、不思議なことだらけじゃありませんか。私は、それを少しでも知りたいし、その本を手がかりにして、いろいろ考えてみたいのです。
それはともかく、この本は、30分どころじゃありません。予想以上に手こずり、その3倍もかかってしまいました。なぜか・・・・。要するに、一言でいうと面白かったからです。すごく面白くて、じっくり味読したいと私の脳が要求したのです。すると、途端に頁をめくるスピードが落ちてしまいます。30分を過ぎたところで、この本の3分の1も読んでいないのに気がついて、思わず焦ってしまいました。
乙武さんの初めての小説とは思えないほどよく出来た情景描写、心理描写があり、ぐいぐいと教室内に引きずり込まれていったのでした。私も子どものころに戻り、小学生になった気分に浸ることができました。
乙武さんは、現実にも、小学校の教師として3年間つとめました。この本は、その体験をもとにしていますし、乙武さんそのものの赤尾先生が登場します。ちなみに、赤尾っていうと、豆単、英語の小さい単語集を思い出しますよね・・・・。
-何かで一番になろうと思ったら、当然、努力が必要になってくる。でも、努力してがんばって、それでも一番になれなかったら、子どもは傷つく。自分は、ここまでの人間なんだって、天井が、自分の限界が見えてしまう。だったら、初めから一等賞なんて目ざさないと考える子がいても不思議じゃない。もちろん、そこに成長はない。でも、成長しないぶん、傷つくこともない。自分は本気を出していないだけなんだ。本気さえ出せば、いつかは何とかなる、そんな夢を見続けることができる。
-そんなの、夢って言わねえよ。ただ逃げているだけじゃん。
-一番になろうと努力することは大事なんじゃないかな。その努力が自分の能力を伸ばすだろうし、逆に、努力しても報われない経験を通して、挫折を知ることができる。
挫折って、大事だと思う。傷つくのはしんどいけれど、人間は挫折をくり返すことで学んでいくんじゃないのかな。自分がどんな人間なのか。どんなことに向いていて、どんなことに向いていないのか、なんてことを・・・・。
いやあ、これって、本当に大切な指摘ですよね。でも、あまりに重たい指摘でもありますね・・・・。
赤尾先生には、手も足もないけれど、私たちには最高の先生だったよ。
これは終業式の日、黒板に大きく書かれていたメッセージです。受け持った28人の子どもたちの一人ひとりに目を配りながら、みんな違って、みんないいという温かい目で見守り通してくれる教師の存在は偉大です。
とても心温まる、いい本でした。あなたもぜひお読みください。最近、ちょっと疲れてるな。そんな気分の人には最適ですよ。
(2010年9月刊。1400円+税)
2010年10月14日
高橋是清暗殺後の日本
日本史(近代)
著者 松元 崇、 大蔵財務協会 出版
著者には内閣府大臣官房長という肩書があります。大蔵省(財務省)のエリート官僚コースをたどっていますが、戦前の日本史もかなり勉強していて大いに勉強させられました。ただ、いくらか「陰謀史観」の悪影響も受けているように思われ、もう少し突っ込んで調べてほしいと思うところがありました。
たとえば、第二次上海事変をソ連の陰謀によって発生したというのです(本を引用しています)。これには首を傾げました。また、1940年(昭和15年)8月の中国大陸における百団大戦について、これは、日本軍と極秘の協力関係を結んでいた毛沢東の意に反したものだったとしています(コン・チアン氏によれば・・・・)。ええっ、こんな話は聞いたことがありません。本当でしょうか。著者自身が、この百団大戦について、もっと調べたほうがいいのではないかと思いました。
そんな「弱点」はありますが、戦前の日本を国家経済そして財政学の観点からみたらどうなるのか、考える材料が提供されています。
2・26事件当時、繁栄していた日本が突然、「持たざる国」になって窮乏化していったわけではない。経済原理を理解しない軍部の満州経営や華北経営が、経済的な負け戦となって、日本経済をジリ貧に追い込んでいき、日本を「持たざる国」にしてしまった。軍部による経済的な負け戦は、「贅沢は敵だ」と言わなければならないほどに国民生活を窮乏化させていった。それを英米の対日敵対政策のせいだと思い込んだ(思わされた)国民は英米への反感を強め、実はそれをもたらしている張本人である軍部をよりいっそう支持するようになっていった。そのような状況下で、本来なら戦う必要のなかったアメリカとの大戦争に突入し、国土を焼野原にされて敗戦を迎えたのが、あの第二次世界大戦だった。
この指摘にはあまり異論はないのですが、果たして2・26事件当時、日本は繁栄していたのでしょうか。東北地方では娘の身売りもあったほど、貧困問題も深刻な社会状況があったと思いますが・・・・。
戦前日本の急増する軍事費の大部分をまかなったのが公債と借入金だった。
賀屋興宣蔵相は、昭和17年1月の帝国議会において、「多くの公債を出して戦争生産が増大しうる状況が勝つために必要であります」と述べ、さらに、昭和18年2月の帝国議会では、「公債の信頼性は勝利によって獲得する敵産が裏付けとなります」と答弁して急増する軍事公債の発行を正当化した。
国民の食糧を安定確保することは、戦時中に政府の最重要の課題で、政府は米穀の売買を全面的に国家統制の下に置いた。その際、地主からの買い上げ価格と、実際の生産者からの買い上げ価格に差をつける二重価格システムが採用された。政府は、米一石あたり50円で買い入れたが、小作人(生産者)に対しては、生産奨励のための生産奨励金が上乗せされた。小作人への生産奨励金は、当初5円だったものが、最終的には200円にもなり、50円しか受けとれない地主の社会的・経済的基盤を掘り崩すことになった。この仕組みの結果、終戦時には、小作人が耕作する農地は、地主にとって、ほとんど価値のないものになり、それが戦後の農地解放を地主層に大きな抵抗なく受けいれさせる背景となった。
こんなことは私は知りませんでした。私の父の実家も少しばかりの地主で、いくらか農地解放で小作人のものになり、戦後、中国大陸から復員してきた父の弟のために田を回復してやったという話は聞いていましたが・・・・。
戦後の日本の金本位制は、実は、今日の管理通貨制度に近いもので、欧米のように金貨が流通することはなかった。日本では、江戸時代から金貨は一般に流通せず、藩札や銭が広く流通していた。
そして、商業上の決済には、為替や手形が用いられていて、金貨の利用は贈答用に限られていた。江戸では手形よりも金銀貨で商人間は決済していたが、京都では50%、大阪では99%が手形だった。為替手形は、17世紀から江戸でつかわれていた。その手数料は一両につき1~2%という低率だった。江戸時代の大阪で先物市場が創設された背景には、商人間の取引の99%が手形で決済されるという金融取引の実態があった。
大変勉強になった本でした。
(2010年8月刊。1800円+税)
親しい弁護士仲間と盛岡近辺を旅行してきました。一日目の初めは、猊鼻渓の舟下りです。天気予報によると雨の確率は高かったのですが、バスのガイドさんの名前が照美さんだったので、幸いなことに雨は降りませんでした。
平底の大きな舟に乗り込みます。中央を含めて三列、60人も詰め込まれました。船外機はついておらず、船頭さんのこぐ櫓(ろ)だけで舟は進みます。しかも、舟はまずは川を上っていくのです。川の流れはゆったりしていますが、それでも60人乗りの平底舟をこいで進めるのには、相当の力が必要なはずです。私たちの乗った舟をこいだのは、唯一の女性船頭さんでした。30分ほども進むと上陸地点があり、そこから歩いていくとすごい断崖絶壁が対岸にそそりたっています。その対岸の壁に平たい穴があいていて、そこに小石を投げ込むと招福無病息災が約束されるというのです。30メートルは離れているでしょうか。東京の本林さんが、なんと一発必中しました。私たち仲間全員に招福・息災が保障されたと信じ、みんなで拍手しました。
舟着き場に戻り、舟に乗って今度はゆるゆると川下りを楽しみます。両岸の森は紅葉にはまだ早く、緑の静けさに包まれています。
上りのときには櫓をこいで、少し息の上がっていた感のある女船頭さんが、歌を披露して下さいました。とても息の長い舟歌です。トンビがヒュルルルと鳴いて合いの手を入れてくれました。静かな川面に歌が流れ、涼しい風が肺の奥底まで澄み切った緑の香りを吹き込んでくれます。
舟の両側には大小の魚たちが伴走しています。小さいのはウグイ、大きい方はコイです。エサをなげると水面に大きな口をあけてひとのみです。このエサを目当てに伴走しているのでした。
アオサギが頭上を静かに飛んでいきます。運がいいとカモシカにも出会えるといいます。
往復1時間半ほど、山の中、川面を静かに楽しむことができました。まさに命の洗濯です。
2010年10月13日
カチンの森
ロシア
著者:ヴィクトル・ザスラフスキー、出版社:みすず書房
スターリンって、本当にひどい男ですね。許せません。こんな独裁者を許した国民はどういうことなんだろうと思いますが、そうはいってもヒトラーに追従したドイツ国民、そして、我が日本では天皇制と軍部が日本国民を戦争へ駆り立てていったのですから、狂気というのは、どこの国でも起きてしまうものかな・・・、と悲観してしまいそうです。
でもでも、それにしても事実を直視することがまず第一ですよね。この本には、カチンの森で虐殺され、埋められたポーランドの将兵の遺体発掘現場の写真が冒頭のグラビアにあります。目をそむけたるなる写真ばかりです。
1940年4月と5月、ポーランドの市民、将兵2万5000人以上がソ連の秘密警察(NKVD)によって銃殺され、埋められた。
ソ連がナチス・ドイツと相互不可侵条約を結び、東部ポーランドをソ連が占領したときに捕われていた人々である。
スターリンは、カチン虐殺事件をもみ消し、ドイツ国防軍の責任になすりつけようとして、史上空前の偽造・隠蔽・抹消の大宣伝工作を展開した。
ポーランド分割によって、ソ連は領土の52%、国民の3分の1を獲得した。そのなかには25万人の将兵が捕虜となった。
ポーランド捕虜の扱いについて、NKVDは、ソ連強制収容所の数百万人の囚人を管理して得た豊富な経験を最大限に活用した。自国民のために強制収容所を組織してきたソヴィエト国家の弾圧機関が20年にわたって蓄積した経験のすべてが簡潔に凝縮された指令を発した。
1940年3月には、ポーランド将校を処刑する決定が下されていた。ソ連の政治局は、ベリヤとウクライナ共産党第一書記のフルショフが共同で提案したものを承認した。
彼らは、全員ソヴィエト制度を憎むソ連の不倶戴天の敵なのである。
1940年3月5日、ソ連共産党政治局の7人の局員、スターリン、モロトフ、ベリヤ、カガノーヴィッチ、ヴォロシーロフ、カリーニン、ミコヤンはNKVD機関に対し、2万5700人のポーランド戦争捕虜を特別手続き、つまり裁判手続きなしに処理(銃殺)するよう命じた。
つまり、ソ連の指導者は、ポーランド独立のための戦いでポーランド人を指導できる者は、誰彼とわず抹殺する決意だった。
ソ連は、ポーランド将校たちを脅迫・強 ・約束で再教育し、ソ連に協力させようと努力したが、わずか24人を除いて、他はみな将来ソ連軍と戦う危険があると判断した。
ポーランドの「地域活動家」は、追放の過程で、追放された者の財産を着服することが認められることを期待して、大いに張り切ってソ連に協力した。
いやあ、どこの国にも、こういう人は少なからずいるのですよね・・・。
ポーランド共産党の指導者は全員、民族主義ないし国際共産主義運動への裏切り者とされて銃殺された。
ですから、イデオロギーの問題というより、ソ連のスターリンなどの一部の支配者の保身のためだったのではないでしょうか・・・。
1943年4月、ナチス・ドイツはカチンの森のポーランド将兵の虐殺遺体を発見して、ソ連の仕業だと宣伝を始めた。この1943年春には、戦局がドイツ軍に不利になっていたので、絶好の宣伝機会として最大限に利用しようとした。
ソ連は1941年夏に虐殺があったと発表した。しかし、現場を観た特派員たちは、遺体が冬服を着ているのに気がついていた。
西側政府(イギリスやアメリカ)の積極的な助けがなかったら、ソ連は半世紀ものあいだカチン虐殺が自らのものであることを隠し通せなかっただろう。西側政府は、入手していた情報を隠蔽し、事件を握りつぶそうと全力を尽くした。アメリカ政府は1950年代はじめまで、イギリス政府はソ連政権の崩壊まで、この態度を変えなかった。
チャーチルは、「この問題には取り組まない方がよいと決定し、カチンの犯罪は突っこんで調査されることは決してなかった」と回想録に書いた。
フルシチョフは、スターリン時代の犯罪に自分が結びつかないよう全力を尽くした。しかし、カチン事件でのフルシチョフの個人的責任は明白である。
処刑は、NKVDの銃殺執行隊によってなされた。ほとんどの犠牲者は、後頭部の正確な個所を狙って、一発の弾丸で殺されている。拳銃と十段はドイツ製のものがつかわれていた。
殺された捕虜たちは、静かに死地に向かった。死は予想外のことだった。
該当者が呼び出されると、隊伍を組んで収容所を出て鉄道駅に向かった。その多くは釈放されるとの期待から嬉々としていた。
しかし、この撤収が処刑を意味していたのは、捕虜を除いて、収容所の職員はみな知っていた「秘密」だった。
カチン虐殺にかかわったソ連側の加害者は4桁にのぼる相当の人数になると思われるのに、目撃証言は出ていない。沈黙の掟が支配している。
処刑人たちは、銃殺が終わると、食堂車で大宴会だった・・・。
NKVDのブローヒンは1926年にスターリンの目にとまり、少将にまで昇進した。26年間のうちに数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
カチン虐殺を実行したNKVD処刑人たちは、勲章をもらい、加俸された。
ソ連が崩壊して20年たっても、だれ一人として罪を問われていない。
1943年3月、ドイツ軍がカチンの森でポーランド将校の遺体を発掘しなかったら、完全犯罪のままになっていた可能性もある。
カチン事件を闇に葬り去るわけにはいかないと思わせる、貴重な労作でした。ポーランドの自主独立の回復を願いながら無念の思いで倒れた人々をしのび、襟を正しながら読み通しました。
(2010年7月刊、2800円+税)
遠野に行ってきました。昔話で有名な、あの遠野です。実は10年ほど前に、花巻から電車に乗って行きかけたことがありました。遠くて時間がかかるのが分かって、途中で引き返したのです。今回は親しい弁護士たちとのバス旅行でした。遠野は小さな町ですが、何箇所かある見るところは結構離れていて、全部を歩いて見て回るのは大変です。1泊はしてゆっくり見て回るだけの価値はあるところです。
まずは遠野の昔話を聞きました。100人ほども入りそうな小さなホールで、幸い一番前のかぶりつき席に座ってじっくり語り部の話を聞くことができました。語り部は老婆と言ったら失礼にあたる中高年のおばちゃんです。小さな舞台に一人番台に腰掛け、少し早口の遠野弁で語ります。私は半分ほどしか聞き取れませんでした。座敷わらし、雪女、とうふとコンニャクの話です。あとで遠野物語の本を読んだのですが、やっぱり半分しか分かりませんでした。語り部によると、修学旅行で来た生徒たちはさっぱり分からなかったという感想が出ることも多いそうです。無理もありません。
昼食は、遠野地方の野趣あふれたお膳でした。サンマと牛肉の組み合わせにミソをつけ、ほおの葉でつつんだものが出ました。デザートに山ブドウとアケビが出てきました。どちらも少し酸っぱく、自然そのものの味がして、子どものころを思い出させます。アケビの皮に詰め物をした料理が、前日の夕食に出ました。アケビの皮は食べられないとおもっていたところ、京都の川中夫人が店の人に尋ね、アケビの皮まで食べられるということを教えてもらいました。なんでも訊いてみるものですね。
遠野ではお祭りがあっていました。広場で子どもたちの可愛い踊りを見たあと、お祭りがあっていました。広場で子どもたちの可愛い踊りを見たあと、博物館へまわりました。水木しげるの妖怪マンガもあります。愛らしい河童が登場するのです。かやぶき屋根の曲り屋を伝承園で見たあと、歩いてカッパ淵に回りました。お寺の裏に流れる川は、いかにもカッパが出てきそうな雰囲気です。清流にキュウリをつけた釣り竿が仕掛けてあります。カッパをこれで釣ろうというのです。
遠野は昔話が現代に生きている町です。
2010年10月12日
銀狼王
生き物
著者 熊谷 達也、 集英社 出版
開拓期の北海道。老猟師は、幻の狼を追う・・・・。両者の誇りをかけた緊迫の5日間。これはサブ・タイトルとして書かれた文句です。猟師が雪の中、狼を追い続けてさまよい、ついに狼の群れに遭遇します。狼王は、連れの狼が撃たれて倒れたとき・・・・。手に汗にぎる、迫真の対決です。すごいですね、この著者の生々しい描写力には、いたく感服してしまいました。
老猟師といいますから、60代か70代だろうと思っていると、とんでもない、わずか50歳でしかないのです。これで老猟師とは可哀想です。と、いつのまにか61歳になってしまった私は思います。
北海道において、ヒグマやオオカミ猟は、とれた獲物の毛皮や肉でもたらされる利益だけでなく、直接、現金を得る手段となる。鹿狩りと違って、捕獲に対する手当がお上から出るのだ。10年前に、狼と羆それぞれ一頭につき2円から始まった捕獲手当は、すぐに狼が7円、羆が5円に引き上げられ、5年前に羆が1頭3円に下がったものの、狼は逆に1頭につき10円の手当がつくようになった。
オオカミを追うほうが、ヒグマをとるより、はるかに楽しい。本物の狩りというのは、獣と人間との知恵比べである。
北海道の冬を甘く見てはならない。しかも、ここは、標高1000メートルはある山の中だ。いったん気温が下がりだすと、どこまで凍てつくか、分かったものではない。歩き続ければ、体温の低下は防ぐことができる。実際、牧場に飼われてはいても、西洋馬と違って、厩舎をあてがってもらえない道産馬は真冬になると、夜は一晩中歩き続けて身体を温め、昼に睡眠をとることで、厳しい冬を乗り切る。
食えるときにたっぷり食っておくのが、山歩きを続けるときの鉄則である。無理に我慢すると、肝心なときに力が出ないばかりか、悪くすると、食い物をたっぷり持っている状態で行き倒れになることもある。
鈍重そうに見えて、その実、ヒグマは驚くほどに知恵が回る。ヒグマに限らず、野ウサギなどもそうだが、穴に入るときには、必ずといってよいほど、留め足をつかって身の安全を図ろうとする。つまり、自分がつけた足跡を忠実に踏んで後ずさり、そこからひょいと脇にそれる。経験の浅い猟師には、追っていた足跡が突如として途切れたかのようにみえるので、獲物そのものが消えてしまったかのような錯覚をおこし、痕跡を見失ってしまう。
また、穴に入る前に、必ず沢を渡るヒグマもいる。沢に入ることで、雪につけてきた足跡が途切れ、これまた駆け出しの猟師は途方に暮れることになる。
狼の奇妙な習性は、もともと自分たちの獲物になる鹿のような動物ではない相手、たとえば人間などに出くわしたとき、気づかれないようにして、しばらくそのあとを追い続けるという習性がある。そして、逃走にかかったとみるや、すぐさま追跡に転じるのも、これまた狼の習性の一つである。いや、狼だけでなく、ヒグマやツキノワグマもそうだ。背を見せて逃げる相手を追いかけるのは、彼らの本能である。
狼は、つがいになった連れあいに対して、人間以上に情が深い。銃で仕留めたメス・オオカミから離れようとしないオス・オオカミを何の苦もなく仕留めたことがあった。
間近で見る、美しい銀色の毛並みをもったオス・オオカミは獣の王者の風格にあふれていた。後ろ足で立てば、間違いなく、大人の背丈をこえるだろう。虎やライオンとだって遜色のないだろう体軀の銀狼には、犬の親戚などではなく、猛獣そのものの威圧感がある。言葉では尽くせぬ威厳に圧倒される。
すごい小説です。こんなに迫力のある小説を一度は書いてみたいとモノカキ志向の私は思ったことでした。
(2010年6月刊。1400円+税)
2010年10月11日
卵をめぐる祖父の戦争
ロシア
著者 デイヴィッド・ペニオフ、 早川書房 出版
ナチス・ドイツに包囲され、飢餓にあえぐレニングラード。その戦いの規模は『攻防900日-包囲されたレニングラード』(早川書房)で詳細に紹介されています。この本は、そのレニングラード防衛戦の実情を、ソ連軍からの「脱走兵」とされてしまった二人の若者の奇妙な戦争を通して浮きぼりにします。なるほど、小説って、こうやって悲惨な戦争の実態を読み物にしてしまうのですね・・・・。
飢えに苦しむレニングラード市民、地雷犬の無残な死など、戦争の悲惨さがリアルに描かれている。ソ連政府の発表でも、100万人もの市民が生命を落としたレニングラード攻防戦。それでも、ナチス・ドイツに征服されることなく、守り抜いた。その陰には、多大の犠牲があった。しかし、レニングラードを防衛する軍の上層部には、娘の結婚式のためにケーキが必要だ、そのために卵を1ダース調達してこいと命令するくらいの余裕はあった。卵1ダースを調達するために、二人の若者が戦場へ生命かけて探しまわる。そんなお話です。なんともまあ、悲惨な状況での、おとぼけた話の展開ではあります。
戦場の奇妙な現実を、それなりに反映しているのだろうなと思いながら、ついつい引きずりこまれて読了しました。
(2010年8月刊。1600円+税)
2010年10月 9日
自衛隊という密室
社会
著者:三宅勝久、出版社:高文研
日本の自衛隊は死者を出し続けている。死者数でもっとも深刻なのは自殺である。1994年から2008年までの15年間で、1162人もの隊員が自殺で命を落とした。一般公務員の自殺率の2倍にあたる。
暴力事件で懲戒処分された隊員は2007年度の一年間で80人をこす。
脱走や不正外出で処分された隊員は326人、病気で休職している隊員が500人。脱走・不正外出は脱柵(だっさく)という。2007年度の脱柵による処分は272人。ほとんど1日から1ヶ月内に見つかっているが、半年以上も行方が分からずに免職になった隊員も7人いる。
自衛隊法施行規則57条第6項に、「部下の隊員を虐待してはならない」と定めてある。
「死にたい奴は死ねばいい。なにがメンタルヘルスだ」
一佐の年収は1000万円以上、退職金は4000万円。そして納入業者に役員待遇で再就職する。防衛省との契約高15社に在籍しているOBは2006年4月、475人。三菱電機に98人、三菱重工62人、日立製作所59人、川崎重工49人。
2008年度の1年間で、防衛省と取引のある企業に再就職した制服幹部(一佐以上)は、80人。三菱電機が一番多い。
三菱重工と防衛省との年間契約高は2700億円。三菱重工ほど、兵器でもうけてきた会社はいない。
まさに死の商人なんですね。ちっとも、そこにメスが入らないのは不思議です。マスコミよ、しっかりして下さいな。
日本の自衛隊のいじめ体質は、軍隊のもつ本質でしょうね。かつてのアメリカ映画『フルメタル・ジャケット』を思い出しました。新兵訓練のしごきで、殺人マシーンに仕上げられる様子がまざまざと描かれていました。それに耐えられない、まともな神経の新兵は銃口を口にくわえて、ひっそりと自死してしまうのです。
それにしても、日本の軍需産業の実態、とりわけ防衛省幹部の天下りがまったく知らされていないのは由々しき問題です。ぜひぜひ、誰かバクロして下さい。そこにこそ壮大なムダづかいが隠されているはずです。
(2009年9月刊。1600円+税)
2010年10月 8日
今、ここに神はいない
アメリカ
著者:リチャード・ユージン・オバートン、出版社:梧桐書院
1945年2月19日、硫黄島。南海の孤島は地獄と化した。散乱する肉塊、死にゆく戦友、肌にしみこむ血の匂い。「地獄の橋頭堡」の生き残り兵が戦後40年を経て初めて明らかにした衝撃の記録。
これはオビにある言葉です。戦後40年たって初めて書いたというには、あまりも生々しく迫真的で詳細です。本人はメモを書いていたようです。
アメリカ軍は開戦前、数日で制圧できると楽観視していたが、予想に反して太平洋戦争での最激戦地となった。日本軍は2万人の守備兵がほぼ全滅(戦後、捕虜となった元日本兵は1000人あまり)。アメリカ軍は、それを上回る2万8000人もの戦死傷者を出した。アメリカ軍の損害が日本軍を上回った稀有な戦いだった。
2月19日に始まった戦闘は、3月17日、日本軍の硫黄島守備は大本営に訣別を打電した。著者は海兵隊第2大隊に配属された海軍衛生兵、19歳であった。
戦闘部隊員は、顔面に毛をはやすことは許されない。それは、顔面の傷治療の妨げになるからだ。毛が傷に入ってしまうと、感染症を引き起こす。
上陸する前、隊員の態度に変化がおきた。隊員は静かで瞑想的になり、海を眺めたり、残してきた家族に手紙を書いたりして過ごした。会話もほとんどなく、めいめいが個人的な思いに沈んでいた。あるいは、これが最期の時かもしれないと・・・。
上陸した直後の海岸はひどい混乱状態にあり、地獄のようだった。そうとしか言いようがなかった。浜辺全体が多数の火を吹くような爆発に見舞われ、地面が膨れて濃い灰色の砂山となり、それが散って灰色のすすけた煙の噴出となるのだった。
人体、隊員が運んできたヘルメット、ライフル、その他の装備は、浜辺で吹き飛ばされていた。隊員たちは地面に倒れ、動いている者もいれば、じっとしている者、あるいは服から煙が上がっていたり、燃えたりしている者もいた。服に燃えている鉄片が刺さっていたのだ。第26連隊が上陸した区画は400メートルの幅があった。そこは隊員と装備でいっぱいだった。
日本軍迫撃砲手は、見事な腕前だった。彼らは摺鉢山で、アメリカ兵より高いところで北の方角から撃ってきた。
乱戦のなか、日本軍が海兵隊員の死体から制服と装備を奪い、制服を着て、海兵隊の防衛線の中に入り込んできた。そして、完璧な英語を話した。
ええーっ、これって本当のことでしょうか・・・?でも、死んだ日本兵がテキサスの短大で発行された写真つきの学生証をもっていたとありますから、本当だったのでしょうね。
海兵隊と日本兵は近接して入り乱れながらの接近戦を展開していたようです。著者も、そのなかで2時間半近くも気絶していたことがありました。九死に一生を得たのです。
重傷を負った隊員が叫んだ。
「神よ、なぜ、こんなことをお許しになるのですか?」
著者は答えた。
「神は今ここにいらっしゃらないんだ!」
2月23日、上陸5日目にして摺鉢山に星条旗がはためいた。しかし、現実には戦いは始まったばかりだった。
人により、自分の体の一番守りたいところは違ってくるのに気がついた。ある者は顔が大事、他の者は下肢、陰部、手だった。著者は手を胸の下に置いたり顔の下に置いたりして、手を大事にしたいと思った。死が一番恐ろしかったのではなかった。手足がバラバラになるのが怖かった。
このような脅威に常にさらされていると、心は体とつながりがなくなっていくように感じた。まず最初にアドレナリンが血中に入り、興奮するが、次に恐怖が来る。このような刺激が続くと、感覚が鈍ってくる。心が次第に機能しなくなり、体が動かなくなる。
自分の考えをコントロールすることができなくなり、まとめることもできなくなった。手で顔を触ることができるが、感じることができなかった。
戦友のあごが緩み、口が開き、唾液が口角からあごに流れ落ちている。目に感情の色を失い、見ているものが脳に認知されていないことは明らかだった。
砲撃を受けたあと、一度ならず泣いている兵隊、ヒステリックに泣きじゃくる隊員を見た。目の刺激に反応しない。命令や質問に応ずるのも、非常にゆっくりだ。
上陸して3日間は、ほとんど眠れなかった。ベンゼドリンの錠剤をたくさん服用したが、目をつぶることさえできなかった。まぶたを閉じようとしたが、まぶたを閉じる筋肉が動かなかった。
慣れることのできなかった恐ろしい光景の一つが、降伏を拒み掩蔽壕や洞窟から出てこない日本軍に対して火炎放射器が使われたこと。中にいた日本兵はゼリー状の火炎を浴びて、焼け焦げていく。外に走り出て、体を包んでいる炎から逃れようとする。生きながら燃えている人間の光景と音は、えもいわれぬ嫌なものである。
硫黄島で死んでいった2万人もの日本兵を心より哀悼したいという気になりました。もちろん、海兵隊の死傷者と同じように、という意味です。残酷な戦場がまざまざと迫ってくる迫真の体験記です。クリント・イーストウッド監督の映画二部作もすごかったのですが、この本も期待以上の内容でした。当時、わずか19歳だった著者が40年後に書いたとはとても思えない内容です。
(2010年7月刊。2500円+税)
2010年10月 7日
スティーブ・ジョブズ、驚異のプレゼン
アメリカ
著者:カーマイン・ガロ、出版社:日経BP社
iフォン、iパッド、iポッドを成功に導いたアップルのスティーブ・ジョブズのプレゼンは、すごいもののようです。
実は、私も一度もみたことがありません(見ても英語のダメな私には、そのすごさが分かりません)。
それはともかく、裁判員裁判(私はまだ体験していません)ではフツーの市民へのプレゼン能力が求められています。その意味で読み、また大いにひきつけられる内容がありました。
ジョブズのプレゼン能力はすばらしい。しかし、そんな能力を持って生まれてきたわけではない。努力して身につけたのだ。プレゼンには、わくわくするようなストーリーが必要だし、そのストーリーには力がなければならない。
体のつかい方、しゃべり方、服装も大事である。そして、練習だ。構想はアナログでまとめる。ジョブズは、まず紙と鉛筆からスタートする。スライドをつくる時間は、全体の3分の1以下におさえる。聞き手に訴えるのはストーリーであって、スライドではない。ジョブズは、ビデオクリップをよく使う。しかし、プレゼンではビデオクリップを使うべきだが、その長さはせいぜい2~3分にとどめる。
私も思いついたアイデアは真っ白の紙にまず書きなぐります。裏紙利用の白紙が最高です。いくら書いて失敗しても、もったいないと思わないからです。
人間の頭が楽に思い出せるのは、3項目から4項目である。だから、ジョブズは3点にまとめる。
私は、いつも指をかざして二つ言いますよ、と言っています。三つあるというと、3番目に何を言いたかったのか忘れてしまう危険があるからです。
3点ルール。たとえば、毎日、三つのことをすべきです。一つは、笑うこと。第二が考えること。三つめに涙を流すほどに強い心の動きを覚えること。という具合に・・・。
敵(かたき)役をストーリーに登場させる。そうすると、聴衆は、主人公(解決策)を応援したくなる。
なーるほど、そうなんですか・・・。
10分ルール。10分たつと、聴衆は話を聞かなくなる。そこで、話を区切り、休憩時間を入れる。聞き手の脳を休ませる。
言葉でなく、写真で考えて説明するには、度胸と自信が必要だ。
一枚のスライドはひとつのテーマに絞り、それを写真や画像で補強する。
数字は、理解しやすい文脈に入れないと力を発揮しない。理解しやすい形とは、みんながよく知っているものと関連づけること。
数字を多く出しすぎると、聞き手がいやになってしまう。文脈性が大事。数字を聞き手の暮らしに密着した文脈に置くことが大切である。
業界の特殊用語は幅広い人々と事由に意見を交換する妨げとなる。
ジョブズは、いつもやさしくくだけた言葉をつかう。
退屈なものに脳は注意を払わない。脳は変化を求める。人は、ものごとを目から吸収する人、耳から吸収する人、体から吸収する人の三種類に分けられる。デモをつかうと、三種類すべての人とつながりを持つことができる。
記憶に残る瞬間を演出するコツは、部屋を出たあとも聴衆に覚えていてほしいことを一つだけ、ひとつのテーマだけに絞ること。
うっそー、な瞬間をつくりあげる。
感動の瞬間に向けた筋書きをつくる。
聴衆と視線をあわせて話す。身ぶり手ぶりもよくつかう。大事なポイントは手の動きで強調する。そして、声は一本調子でなく、声で筋書きを補強する。
大きくしたり、小さくしたり、しゃべるスピードを変えたりして、しゃべり方に変化をつける。ドラマチックな演出には、間が不可欠である。
常に自信をもって行動すること。評価の大勢は、最初の90秒で決まってしまう。自分がしゃべっているところを録画して見る。体が発するメッセージを感じ、しゃべり方を確認する。壇上であがらないためには、しっかり準備するのが一番。話すとき、基本的にメモは使わない。
どれほど周到に用意しても、計画どおりにいかないことがある。これを失敗と認めない。失敗とは、起きてしまった問題に注目して、プレゼン全体を台無しにしてしまったときにしかいわない。小さいことを気に病まないで、先に進めてしまう。さらっと認め、にっこり笑って次に進む。自分も楽しむのだ。
なるほど、なるほど、そういうことなんだね。同感できる話が満載です。英語ができたら、本物の話を一度聞いてみたいのですが・・・。
(2010年8月刊。1800円+税)
2010年10月 6日
上田誠吉さんの思い出
司法
著者 自由法曹団、 自由法曹団 出版
ミスター自由法曹団というべき存在だった上田誠吉弁護士は、最高裁判所の長官にふさわしい人格、識見、能力だったと衆目の一致するところでした。惜しくも昨年5月10日、82歳で亡くなられました。
私の生まれた1948年に東大法学部を出て、司法修習生(2期)になりました。上田弁護士は戦後の著名な刑事事件の多くに関わっています。メーデー事件、松川事件、三鷹事件、千代田丸事件、白鳥事件・・・・。
これらの事件は、戦後日本を揺るがす大事件であったと同時に、司法界においても大変重要な事件であり、貴重な判例を残しました。そして、上田弁護士は弁論要旨だけでなく、数々の著書をモノにし、世に問うています。私が大学一年生のときに読んで、身体中が雷に打たれた衝撃を覚えたことを鮮明に覚えているのが『誤った裁判』(岩波新書)です。国家権力というのは、自己の威信を守るためには無実の人を死刑にしてもかまわないと考えること、一般市民は丸裸にされたときには、きわめて弱い存在であると痛感させられました。それまでは、警察や検察というところは人権と弱者を守るために存在するとばかり思い込んでいたのです。ひどく認識が甘いと思わされました。
その後、上田弁護士は、自由法曹団の幹事長に就任します。41歳のときです。
上田弁護士は『国家の暴力と人民の権利』(新日本出版社)を世に問いました。私が司法修習生のときでした。感激をもって必死に読み、大いに学ぶことができました。
そして、私が弁護士になった年(1974年)10月、自由法曹団の団長に就任しました。まだ48歳の若さでした。しかし、既に風格がありました。それから10年間、団長の要職をつとめました。
団長在任中、石油ショックが起こり、石油業界のヤミ・カルテルが摘発されました。東京と山形・鶴岡の消費者がこぞって裁判に起ちあがりました。弁護士1年生の私も末席に加えていただきました。上田弁護士と同じ弁護団の一員となったのです。
この灯油裁判と呼ばれる消費者訴訟は最終的に敗訴しましたが、途中で消費者の権利を認める高裁判決を勝ちとるという画期的な成果もあげています。上田弁護士は、理論的にも、運動においても、中心の柱になっていました。
上田弁護士の旺盛な著述活動は、その後も続きました。『裁判と民主主義』(大月書店)、『ある内務官僚の奇跡』(同)。後者は、上田弁護士の父親について書かれています。父親は、なんと特高課長つとめたキャリア組の内務官僚だったのでした。中国・上海総領事館の警察部長もつとめています。ですから、上田弁護士も、上海に暮らしていたことがありました。戦後、上田弁護士は、父親から左翼にだけはなるなといって、顔を叩かれたこともあります。ところが、その父親も亡くなる前には松川事件の弁護団の一人になったのでした。
上田弁護士は、63歳のときに胃がんで胃を全摘しました。しかし、その後も著述活動だけでなく、アメリカに渡った訪米団の団長として、また、警察による盗聴事件を追及して、活躍しました。最後には、自らが住民の一人として無用な道路建設に反対する運動に加わり、裁判の原告になりました。
この本は、上田弁護士の没後1年たち、「しのぶ会」の開催に合わせて、弁護士やかつての裁判の元原告たちが思い出を寄せたものです。大変読みやすく、上田弁護士の飾らぬ人柄、そして、その能力と見識の高さがにじみ出る冊子となっています。
上田弁護士は東大法学部に入学するも、学徒出陣の時代ですから、川崎の高射機関に砲部隊に配属されてしまいます。戦後、大学に戻って学生運動に参加するのでした。
大阪の宇賀神(うがじん)直弁護士が「上田誠吉さんと裁判闘争」と題して、少し長文の思い出を寄せていて、勉強になりました。
裁判闘争の基本、土台というのは、裁判で問題となっている生活事実をつかむこと、これが大切である。裁判官もまた人間である。人間がものごとを決めるときに寄るべきものは事実の認識であって、そのうえに立って道理を考える。そこでは、事実と道理、対決と説得そして共感が大切なのである。一面では対決であり、他面では説得である。説得の武器は、対決の場面もふくめて、事実と道理である。そのために知恵と力を出す。裁判官の良心を取り戻し、それに灯をともし、その灯を強めていく。それが成功するなら、裁判官は事実を素直に見るようになる。そして、救済を決意する。ここには飛躍がある。裁判所が何を考えているかを読みとること、これが実は弁護士にとって一番苦しい任務なのである。
上田弁護士をしのび、大いに学ぶべき存在であることを改めて思い知らせてくれるいい冊子です。若い弁護士に広く読まれることを期待します。
(2010年9月刊。価格は不明)