弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年9月17日

邪馬台国の滅亡

日本史(古代史)

著者:若い敏明、出版社:吉川弘文館

 邪馬台国は九州にあったと無条件で信奉する私にとって、学者が「そのとおり!」と言い切ってくれる本を読むのは快感そのものです。
 著者は次のように断言します。
 古事記や日本書紀によれば、大和政権は景行天皇や仲哀(ちゅうあい)天皇の時代の二度にわたって九州に遠征している。
 女王卑弥呼が統治し、倭国に属していたことが、北部九州の地域が大和政権に服属したのは、その二度にわたる九州遠征のうちの後者、つまり仲哀天皇からその後の彼の后、神功の時期のことである。
 このように北部九州が最終的に大和政権に服属したのは、4世紀の中ごろをさかのぼらない時期であった。したがって、もし邪馬台国が大和王権であったとすれば、この時になって伊都国王が服属してきたのは不可解と言わざるをえない。
 このように考えれば、邪馬台国は畿内・大和でないことは、もはや明らかである。つまり、倭国とは、北部九州を中心とした一帯の、政治的まとまりを指すものであった。そして、著者は、うれしいことに、なんとなんと、筑紫の山門(やまと)に邪馬台国はあったというのです。ヤッホー!!
 神功皇后による山門の征服こそ、邪馬台国の滅亡にほかならない。
 『魏志倭人伝』によれば、倭国は30の国によって構成されていた。倭国とは、一種の連合国家であった。
 仲哀天皇は熊襲との戦争に敗北したあと死去した。玄界灘地帯を掌握しながらも、大和政権は内陸部の倭国中枢部を攻略しきれなかった。
 邪馬台国は、まさに大和政権に対抗する最後の抵抗の砦だった。
 その最後の砦が陥落したのは、仲哀天皇の死後、朝鮮から使者のやってきた367年から、大和政権が朝鮮に出兵する369年のあいだの出来ごとであった。
 卑弥呼の死後、120年ばかり後になって邪馬台国は滅亡した。そして、大和政権は引き続き朝鮮半島に出兵する。
 大和政権は、奈良盆地の農業共同体のなかから生まれてきたものではなく、九州からの征服によって形成されたものである。
 私より10歳も年下の学者ですが、大いなるエールを送ります。がんばってくださいね。
(2010年4月刊。1700円+税)

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