弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2010年8月20日
モスクワ攻防戦
世界(ロシア)
著者 アンドリュー・ナゴルスキ、 作品社 出版
ナチス・ドイツがソ連に攻めこんだときの戦闘が紹介されています。
モスクワ攻防戦は1941年9月30日に始まり、1942年4月20日に終結したとされている。203日間である。しかし、実際には、それをこえた期間に大量殺戮があっていた。両軍あわせると、最高750万人もの将兵が投入され、戦死傷者は合計250万人に達した。ソ連側の戦死者は190万人、ドイツ兵は62万人だった。ドイツ軍の捕虜となったソ連兵96万人は、ほとんど殺害された。ロシア攻防戦のあとに戦われたスターリングラードでは360万人の将兵が戦場に駆り出され、両軍の犠牲者は91万人だった。モスクワ攻防戦のほうが、はるかに多い。モスクワ攻防戦におけるドイツ軍の敗北によって、ドイツ兵の不敗神話が崩れ、その終わりが始まった。
そして、このモスクワ攻防戦において、日本にいたソ連のスパイであるリヒャルド・ゾルゲの果たした役割はあまりにも大きい。
日本が、少なくとも1941年から42年にかけての冬季には、東部からソ連に攻め入ることはないとスターリンに最終的に確信させることが出来たのがゾルゲだった。ゾルゲのもたらした最新情報にもとづき、スターリンはソ連西部にあけるドイツ軍との戦闘に投入するため、シベリアの前哨部隊に所属する40万の兵士を大急ぎで送り込む決断を下すことができた。その兵士たちのほとんど全員が直ちにモスクワ防衛に当てられた。
ソ連極東地域の極寒の気候に耐えうる冬の装備に身を包んだ新たな兵士たちは、ドイツ人侵略者と赤軍のあいだの戦闘の形勢を逆転させるうえで、不可欠の存在だった。すぐに勝利できると信じこんでいたヒトラーは、冬服を支給しないまま、ドイツ兵をソ連に派兵していた。そのため、ドイツ兵は冬の季節に対応するための装備の点で、はるかに勝るソ連兵が大量に投入されるころには、夏服のまま、日に日に低下する気温に苦しめられていた。
この本を読むと、スターリングラード攻防戦よりも、その前のモスクワ攻防戦のほうがはるかにスケールが大きかったこと、そして、ソ連の勝利に日本にいたゾルゲの情勢が大きく貢献したことを改めて認識させられました。
駐日のドイツ大使に信頼されていたゾルゲは1941年10月に逮捕されてしまいます。そして、日本とドイツの敗色が濃厚となった1944年11月7日のロシア革命記念日に絞首刑に処せられたのでした。今もモスクワにはゾルゲの像と記念碑があります。駐日ソ連大使そしてロシア大使は、ゾルゲの墓参を今も欠かしません。
モスクワ攻防戦の悲惨な実情が詳細に明らかにされています。モスクワ市民のすべてが勇敢に戦う人ばかりではなかったのです。
モスクワの人口は、1941年1月に422万人だった。そして、翌1942年1月には半減して203万人でしかなかった。1941年10月、モスクワ市民は雪崩をうったようにモスクワを脱出していった。このころ、モスクワ市民100人のうち98人がヒトラーは遅かれ早かれモスクワを占領すると考えていた。
当初からスターリンは、二つの戦争を並行して戦い続ける必要があるという揺るぎない信念を持っていた。二つの戦争とは、外国の侵略者に対する戦争と、国内の裏切り者や政敵に対する戦争である。要するに、スターリンとその軍隊は、敵味方を問わず、進んで人を殺す死刑執行人だった。ソ連兵は一切の退却を禁じられ、従わなかったときは射殺されることになった。スターリンは、開戦のはるか前、より大勢の軍関係者を処刑していた。これが、ドイツ軍侵攻のときに、ソ連軍が驚くほど準備不足だった最大の理由である。
軍部が粛清に巻き込まれたとき、NKVDは150万人を検束した。そのうち、あとで釈放されたのは、わずか20万人だけ。その多くは強制収容所に送られた。75万人が射殺された。スターリンは、万一、反乱が起きるとしたら、その指揮をとるのは軍人だと考え、軍部を優先的に粛清の対象とした。実物の武器を持ち、その扱いに長けている集団である軍をスターリンが見過ごすはずはなかった。
ヒトラーもスターリンも、自分が聞きたくないことについては、部下がいくら説明しても、耳を傾けようとはしなかった。スターリンは、自らの招いた政策の失敗を、ヒトラーの恐怖政治によって挽回することができた。
モスクワ攻防戦は、実は第二次世界大戦の勝敗を決めた一大決戦だったこと、それを決定したのが日本で活躍していたスパイ、ゾルゲだったことをしっかり認識しました。500頁もの大部な本でしたが、とても読みごたえがありました。
(2010年6月刊。2800円+税)
ディジョンはブルゴーニュ・ワインの名産地に接しています。美食で有名な町でもあります。ディジョン駅からも見えるサン・ベニーニュ大聖堂の高い尖塔の並びにあるホテル(赤い帽子)に泊りました。駅から歩いて10分ほど。スーツケースをがらがら引っ張って、辿りつきました。ホテルは高級レストランを併設しているのですが、なんと隣には回転寿司の店もありました。ヨーロッパ式の古いホテルです。
ディジョンの街を何回となくぶらぶら歩きました。ここは、ブルゴーニュ公国の首都だったところで、その公邸が市庁舎と美術館になっています。その前には広大な広場があり、噴水があって子どもたちが水と戯れていました。
ここにもノートルダム寺院があり、建物の角にふくろうの彫刻があります。左手をあてて願をかけると願うことがかなうとの言い伝えがあり、すっかり摩耗していました。私も、無病息災を願いました。