弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年8月31日

激変の時代のコンビニ・フランチャイズ

社会

 著者 植田 忠義、 花伝社 出版 
 
 コンビニそしてフランチャイズについて、いま「日本でフランチャイズの実情に一番詳しい人」が書いた、とても分かりやすい本です。190頁ほどのハンディーな本ですし、1500円という手頃な価格の本ですので、関心のある人は、ぜひとも買って読んでみてください。
 フランチャイズというとコンビニと思われるが、実態はそうではない。1000社をこえる本部のうち、コンビニは40社ほど。加盟店は20万をこえるが、コンビニは、そのうち5万ほどでしかない。あらゆる業種にある。フランチャイズ産業全体の売上高の37%をコンビニが占めている。フランチャイズ本部の圧倒的多数は中小企業である。資本金10億円以上、様式公開という本部は、ほんのわずか。フランチャイズ関連で働く労働者は200万人をこえる。
コンビニ利用者は毎日2500万人をこえ、フランチャイズ店は、深夜の客数はきわめて少なく、割高の人件費、売れ残り、水道光熱費など、経営面で採算があっていない。一日の来客者数が600人以上、都心の店には一日に3000~5000人の客が入っているところがある。
 深夜も店に入るオーナーの平均的な一日の生活は、午後4時に起床。一人で軽く麺類を食べ、店に行く準備をする。午後8時には店に入り、翌日の午後10時まで店で仕事をする。それから自宅に帰り、寝るのは昼ころ。まともな食事も睡眠も取れない。家族との対話もない。いやあ、これって本当に大変ですよね。これが何年も続いたら、健康をこわしてしまうんじゃないでしょうか・・・・。
 昨日までの労働者が、いきなりフランチャイズ、コンビニをやるのは問題がある。経営者になる、事業を経営するというのがどういうことなのか知識がない。事業経営は、働いて資本投下しても赤字になりうることを理解していない。
それでも、この本は、コンビニ業界には将来性があるという立場で貫かれています。決して必要悪という消極的な立場ではありません。もっとも、24時間営業には消極的です。私も、その点は大賛成です。
 自立心の強い事業経営者志向の強い人には、コンビニは向いていない、ということも、はっきり書かれています。コンビニオーナーは、まさしく現代の奴隷という見方もあるのです。
 コンビニ店によっては「24時間営業」ではなく、「午前0時閉店」を本部に認めさせたところ、独自の仕入れを本部に黙認させた店もあるということです。
 そして、過大な廃業違約金を是正させた裁判例も紹介されてます。
 また、コンビニ契約の更新を本部に承諾させた店もあるとのことです。
 日本にはコンビニの数があまりにも多過ぎる気がします。フランスに行ったとき、小さなスーパーが日曜日に昼までの営業となっていて、午後2時過ぎに行ったときには閉まっていて、牛乳を買えなかったことを思い出しました。それでも、そんな不便は我慢できるものです。それにしても、今の24時間営業はムダだと私は思いますが、いかがでしょうか・・・・?
 いい本です。ぜひ、読んでみて下さい。
(2010年7月刊。1500円+税)
 泊まったホテルはリヨンの旧市街のなかにありました。旧市街には6階建てくらいの石造りの建物が並んでいて、通りは狭い石畳となっています。
 カフェーとレストランがあちこちにありますが、少し広い通りは、両側のレストランが歩道にまでテーブルを並べています。観光客が多いせいか、ここは夕方6時過ぎからテーブルがどんどん埋まっていきます。7時ころには、相当の客が座って食事しています、ざっと見渡すと300人以上はいるのではないでしょうか。夜8時といっても、まだ昼間の明るさです。
 広い通路が完全に埋まってしまいました。虫も蚊もハエもいなくて、暑くもなく、快適に食事ができます。

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2010年8月30日

鳥脳力

生き物

著者:渡辺 茂、出版社:化学同人

 鳥は恐竜から進化した動物ではなく、生き残った恐竜なのである。恐竜には、鳥型恐竜と非鳥型恐竜があるのだ。恐竜が6500万年前に絶滅するより前に非鳥型恐竜と鳥(鳥型恐竜)は共存していた。そして、鳥型恐竜は現代鳥として生き残ったのだ。
 なんと、鳥と恐竜の関係は、こんなに深いものだったんですね・・・。
 小鳥は、脳の片半球ずつ眠ることができる。これは、捕食者に対する警戒を絶やさないため。そうなんですか・・・。
 カケスは、ものを隠して、その場所を覚えているという記憶力に優れているばかりでなく、他者のものを盗むという悪知恵ももっている。いやはや、なんとういうことでしょう。
 鳥類は道具をつかう例は、哺乳類より多い。ニューカレドニアカラスは、加工した道具を携帯して場所を移動する。
 伝書鳩の原種はカワラバト。カワラバトを帰巣成績による選択交配を重ねた品種が現在の伝書鳩である。カワラバトは、崖にある巣と採餌場所のあいだ20~30キロメートルを移動する。ドバトは、伝書鳩が二次的に野性化したもの。
 ハトにGPSをつけて飛行ルートを実験してみると、一度ルートを決めたら、同じルートを繰り返す。最適ルートに近づけることはしない。ハトは最短距離を飛ぶより、熟知している、いつものルートで帰巣する習性がある。ハトが帰巣するときに間違うのは、巣の近くに駅や鉄塔など、似たようなものがあったとき。
 訓練したハトは、ゴッホとシャガールの絵を区別することができる。
 ハトは、色とか形の特定のものではなく、全体を見て判断している。
 ハトは細部にこだわる。鳥に弁別訓練を行うと、日本画と西洋画の区別ができるようになる。ハトは、訓練すると特定の音楽が弁別できるだけでなく、ある程度の音楽カテゴリーの弁別も出来るようになる。
 夜に空を渡る鳥たちは、星座コンパスをつかう。夜間飛行する鳥たちは、そのための特別な脳内機構をもっている。
 小鳥の歌には相当複雑なものもあるが、伝える情報は少ない。つまりは求愛か、なわばり宣言である。主たる機能は情報伝達であって、聴衆を楽しませるものではない。
 オウムは音楽にあわせて踊ることができる。
 カラスは鏡にうつった自分を、他のカラスだと見ている。
 カラスが毎週のようにゴミあさりにやってきます。袋をつついて破り、なかのものを散乱させてしまいますので困っています。悪知恵が働くので、今のところはゴミにネットをかぶせていますが、イタチごっこになるでしょう。
(2010年4月刊。1700円+税)

 リヨンの旧市街をを見おろす丘の上にフルヴィエール寺院があります。歩いてのぼるのは大変なので、メトロに乗ります。駅の出口から見ると、目の前に大きな寺院がそびえています。
 裏側にまわると、リヨン市街地の全体を眺めることができ、爽快です。涼しい風が吹いてくるなか、高台にあるカフェーでコーヒーを飲みました。時差の関係でしょう、夕方五時になると、いつも眠たくなります。
 寺院から少し下ると、ローマ時代の野外劇場の遺跡があります。オータンにも広大な劇場がありましたが、リヨンもなかなかのものです。観客席の傾斜はすごく急になっていて、控えの建物まで残っています。ローマ帝国の偉大さを実感します。

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2010年8月29日

これからの「正義」の話をしよう

アメリカ

著者:マイケル・サンデル、出版社:早川書房

 アメリカという国は、実にふところの奥深い国だと思わせる本です。天下のハーバード大学で史上最多の学生を集めている講義が再現された内容の本です。私はみていませんが、NHK教育テレビで連続放映され、日本でも話題になっているそうです。
 ことは、きわめて重大な「正義」を扱っています。とっつき易いのですが、その答えとなると、とても難しく、つい、うーんと腕を組んで、うなってしまいました。
 たとえば、こうです。アメリカの大企業のCEOは、平均的な労働者の344倍の報酬を手にした。1980年には、その差は42倍だった。この格差は許されるのか?
 アメリカの経営者は、ヨーロッパの同業者の2倍、日本の9倍の価値があるのだろうか?
 いま、日本の経営者(日本経団連)は、その格差を小さくしようとしています。アメリカ並みに労働者と格差を何十倍ではなく、何百倍にしようと考えています。その具体的なあらわれが、消費税10%引き上げであり、法人税率の引き下げ(40%を20%へ、半減)です。ますます格差をひどくしようなんて、とんでもありませんよね。
 アメリカの金持ち上位1%が国中の富の3分の1以上を保有し、その額は下位90%の世帯の資産を合計した額より多い。アメリカの上位10%の世帯が全所得の42%を手にし、全資産の71%を保有している。アメリカの経済的不平等は、ほかの民主主義国よりも、かなり大きい。アメリカン・ドリームなんて、夢のまた夢、幻想でしかありません。
 アメリカは、現在、徴兵制ではなく、志願制である。イラクのような戦地に勤務する新兵の出身は、低所得から中所得者層の多い地域がほとんどである。貧乏人は兵隊になって戦地へ行き、死んでこいというわけです。
 アメリカ社会でもっとも恵まれている層の若者は兵役に就くことを選ばない。
 プリンストン大学の卒業生は、1956年には750人のうち過半数の450人が兵役に就いた。しかし、2006年には卒業生1108人のうち、軍に入ったのは、わずか9人だった。ほかのエリート大学も同じ。連邦議会の議員のうち、息子や娘が軍隊にいるのは、わずか2%のみ。
 2004年、ニューヨーク州の志願兵の70%が黒人かヒスパニックで、低所得者層の多い地域の出身だった。最高4万ドルという入隊一時金や教育を受けられるときの特典は、きわめて魅力が大きい。
 いくつもある考えるべき課題を明らかにしてくれる、実に哲学的な本です。
(2010年6月刊。2300円+税)

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2010年8月28日

母(オモニ)

日本史(近代)

著者:姜 尚中、出版社:集英社

 戦後日本の実情が描かれています。著者は団塊世代の私より2つ年下ですので、そこで紹介されている在日朝鮮人の生活は私にとっても、身近な存在でした。
 舞台は熊本市内ですが、私も福岡県南部で生まれ育ったので、よく分かるのです。
 熊本と朝鮮人労務者との関係は、韓国併合よりも早い、1908年(明治41年)にまでさかのぼる。人吉─吉松間の鉄道ループ工事に数百人の朝鮮人労務者が使役された。三井系の三池炭鉱や阿蘇鉱山、三井三池染料、三菱熊本航空機製作所などで強制労働に従事していた。
 そして、朝鮮人の集落があり、そこではドブロクの密造もされていた。
 私の住む町にも、近くに朝鮮人の集落があり、豚が飼われ、ドブロクがつくられていました。たまに、警官隊が踏み込んで密造酒づくりを摘発したという話を、私も幼い子どものころに聞いていました。
 オモニは文字の読み書きが出来ない。ところが、不思議なことに、その口調にはナマリがなかった。朝鮮人を思わせるイントネーションはまったくなかった。
 総連と民団という言葉も、今となってはなつかしい言葉です。もちろん、今もこの二つの団体は存在しているのですが、30年前には、お互いに張り合っていました。どちらかというと、今と違って総連のほうが活動家に勢いがありました。同胞の面倒みの良さも上回っていたと思います。
 戦前の日本で憲兵となった著者の叔父は単身、韓国に帰った。そして、苦労して弁護士になり、大出世します。反発していた著者も韓国に渡って、祖国を見直すのでした。ただ、成功した叔父も、晩年は人に騙されて哀れだったとのことです。栄枯盛衰は世の常ですね。
 この本は母(オモニ)を主人公とした小説の体裁をとっていますから、すっと感情移入して読みすすめることができ、大変読みやすい本になっています。そのなかで在日朝鮮人の家族の歴史を理解できる本です。ますますのご活躍を祈念します。
 ちなみに、私も母の生きざまを描いてみました。やや中途半端で終わっていますので、この本のように、もう少し小説仕立てにしたほうが読みやすいのかなと思ったことでした。
 一読をおすすめします。
(2010年6月刊。1200円+税)

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2010年8月27日

属国

社会

 著者 ガバン・マコーマック、 凱風社 出版 
 
 米国の抱擁とアジアでの孤立。こんなサブタイトルのついた本です。オーストラリアの大学教授の書いた日本論です。
 日本はアメリカの属国なのか? のっけから、挑戦的な問いかけがなされています。とんでもない。そうキッパリと答えたいところです。しかしながら、そう答えたいのはやまやまなれど、たくさんの事実がそれを憚らせます。
 日本経済は確実に下降し続けている。一人あたりのGDPは2006年には、OECD中の18位という、ぱっとしない地位にいる。持てる者と持たざる者、勝者と敗者の格差は拡大した。先進国の中で日本より深刻な貧困問題を抱えているのはアメリカだけである。
 生活保護の受給家庭は100万世帯にのぼるが、生活保護を受ける資格があるのに行政から拒否されているケースは、さらに多い。安定した仕事は激減し、労働者の3人に1人は、ディケンズやマルクスが描写したような資本主義初期の暗黒時代に労働者が終験した貧困や搾取とあまり変わらない状態にある。
 国民健康保険の保険料が支払えずに実質的に無保険状態になっているひとが1000万人もいる。社会の高齢化が加速し、少子化と相まって国力は衰退化しつつある。東アジアでも、世界でも日本の存在感は薄くなった。
 小泉、安倍両政権の特徴は対米依存と責任回避である。日米関係の核心にあるのは、冷戦期を通してアメリカが日本を教化した結果としての対米従属構造だが、小泉と安倍という二人の首相の「改革」は、これまで長年継続してきた対米依存の半独立国家・日本の従属をさらに深め強化した結果、日本は質的に「属国」といってもいい状態にまで変容した。日本独自の「価値観・伝統・行動様式」を追求するどころか、そうした日本的価値を投げ捨ててアメリカの指示に従い、積極的にアメリカの戦争とネオリベラリズム型市場開放に奔走した。
 世界中でアメリカの覇権とネオリベラリズムの信用度が急落しているなか、小泉、安倍両政権は献身的にブッシュのグローバル体制を支えた。後藤田正晴元官房長官は亡くなる前年(2003年)、日本はアメリカの属国になってしまったと発言した。
 日本占領期のマッカーサー元帥は憲法や行政機構にまで細かい指示を出した。それから60年にたっても、ブッシュ政権の高官は、今もって小泉や安倍を配下のように見ている。それにしても、日本が、憲法を改定しろとか、日本の基本法を改めろというような、内政干渉もはなはだしいアメリカ高官を「親日家」としてありがたがり、ちやほやするのは、一体どういうわけなのか。
 そのような自立心の放擲こそ、属国的思考の何ものでもない。
日本に公務員が多すぎるとはいえない。人口1000人あたりの公務員数は、イギリス73人、アメリカ80人、フランス96人であるのに対して、日本はわずか35人にすぎない。
 福祉予算のほうも、OECDのなかで、もっとも少ない国に入っている。郵政民営化、なかでも簡保の民営化ほど、アメリカが日本に執拗かつ熱心に迫った施策はない。日本政府が運営する120兆ドルの保険ビジネスは、アメリカの保険ビジネスに次いで、世界第二位の規模であり、カナダのGDPに匹敵する。そこで、アメリカの保険業界は日本市場への参入を要望し、アメリカ政府の日本政府への要求となった。
北朝鮮は110万人の軍隊を擁している。この数字だけからみると、超大国レベルである。しかし、多くの部隊が生きるために狩猟や農業に時間を費やし、装備の多くは1950年代のものだ。燃料不足は深刻で、パイロットは毎年、数時間しか飛行訓練ができない。
 小泉元首相は、北朝鮮への恐怖をあおることで利益をあおった張本人である。
 日本の原子力発電への依存度は発電量でも消費電力量でも、フランスと肩を並べて世界で一位、二位を争う。そして、日本は既に45トンに及ぶプルトニウムを貯蔵する世界有数のプルトニウム超大国だ。これは世界の民間貯蔵量230トンの5分の1であり、長崎型核弾頭に換算すると5000発に相当する。日本は「兵器転用可能なプルトニウムの世界最大の保有国なのである。
 イランや北朝鮮が同じことをしたら、絶対に阻止しなければならない、ということになるだろう。これって、おかしくないか・・・・?
 日本の国とは、どんな国であるかを改めて考えさせられる大切な本です。慣らされてしまうと、大事なことが見えなくなるものなんですよね・・・・。
(2008年8月刊。2500円+税)

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2010年8月26日

日米密約・裁かれない米兵犯罪

司法

 著者 布施 祐仁、 岩波書店 出版 
 
 この本を読むと、今の日本が本当に主権を有する独立国家と言えるのか、改めて疑問に思えてなりません。かつて大いに叫ばれていたアメリカ帝国主義からの独立というスローガンを思い出してしまいました。だって、アメリカ兵が日本人を勝手に傷つけても、日本の警察は手出しできず、アメリカ当局によってさっさと日本国外へ逃亡できるというのですからね。とんでもないことです。
 2004年8月に普天間基地のある宜野湾市で発生したアメリカ軍ヘリコプターの墜落事故のときにも、日本の警察は現場への立ち入り自体が禁止され、捜査を行うことも出来ませんでした。もちろん、この事故についての責任追及なんて、何も出来ませんでした。そして、日本政府はアメリカ政府に抗議ひとつしなかったのです。なんと情のない話でしょうか。読んで改めて腹が立ってなりませんでした。
 アメリカ兵が日本人の命を奪い、女性を強姦し、人権を踏みにじる事件を起こしても、いったん犯人が基地へ逃げ込んでしまうと、日本の警察は逮捕することができない。これは、アメリカ軍側にある、被疑者の身柄は起訴されるまでアメリカ軍の当局が拘束するという、日米地位協定が根拠となっている。
 アメリカ兵が車で日本人をはねても、それが「公務中」であれば、日本の警察がたとえ現行犯逮捕していても、アメリカ軍に犯人を引き渡さなければならないし、日本側は裁判にかけることも出来ない。「公務中」の犯罪については、アメリカ軍側に裁判権があると日本地位協定に定められているから。
 日本政府は密約の存在を完全否定する。しかし、1953年10月28日、密約が結ばれている。そして、在日米軍の国際法主席法務官は、日本が密約を忠実に実行してきたことを評価している。
 アメリカ兵の犯罪のうち、強姦、傷害致死、強盗詐欺、横領はすべて不起訴とされ、住居侵入、窃盗の大半も大半が不起訴となっていた。刑法犯のうちの起訴率は、わずか13.4%にすぎない(2007年)。日本政府の説明によると、日本がアメリカ兵の犯罪の多くを不起訴としているのは、裁判権の「放棄」ではなく、あくまでも自主的な「不行使」だというわけである。本来なら、捜査の結果、「公務中」とはっきりするまで、必要であれば犯人の身柄を日本側で確保するのが筋である。しかし、現実には、公務の執行中になされたか否か疑問であるときまで、身柄がアメリカ軍に引き渡されている。
そして、何より肝心なことは、日本政府はこの密約の存在を完全否定し、情報公開していないが、アメリカのほうは、とっくに公開ずみだということである。いやはや、なんということでしょうか・・・・。そこまで、日本はアメリカのしもべとして「忠実」なんですか・・・。あいた口がふさがりません。泣けてきます。
法務省刑事局は内部通達において、憲法で「国権の最高機関」と規定されている国会が立法した刑事特別法よりも、日米両当局間の内部的な運用準則にすぎない「合意事項」を優先するように命じている。
こんなひどい「密約」、それと一体のものである日本地位協定は当然に見直されるべきものです。そして、それは、本当に今なお日米安保条約が必要なのかを考えさせますし、軍事同盟ではかえって世界と日本の平和は守られないということに帰着するのだろうと思います。とてもタイムリーな本として一読をおすすめします。
 
(2010年4月刊。1500円+税)
 ボーヌを午後2時に観光タクシーで出発します。今日は、コート・ド・ニュイのコースです。まずはアロース・コルトン、次いで、ニュイ・サン・ジョルジュです。ブドウ畑はまだみずみずしい緑葉に覆われています。背丈は50センチほど、延々と緑のブドウ畑が広がっています。多少の起伏があるくらいで、なだらかな平地なので、はるか彼方まで見通すことができます。いよいよヴォーヌ・ロマネ村に入ります。その中心部に、かの有名なロマネ・コンティのブドウ畑があるのです。看板もなく、本当に狭い一区画ですので、案内されなければ見落としてしまうでしょう。小休止して写真をとります。ガイド女性が車のトランクから冷えた白ワインを取り出し、いっぱい飲んで喉をしめらせます。年間数千本しか作らないので、希少価値のある超高級ワインです(もちろん、飲んだことはありません)。
 クロ・ド・ヴィージョを過ぎて、ジヴリー・シャンベルタンに着きました。ここでカーブに入り、出てきて赤ワインを試飲します。飲み比べると、さすがに高いワインは舌触りも良く、味が豊かです。すっかりいい気持ちになりました。

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2010年8月25日

人材の複雑方程式

社会

 著者 守島 基博、日経プレミアシリーズ  出版 
 
 日本の企業における人材育成のあり方について問いかけている本です。
いま、企業のなかで職場が衰退し、そのなかで職場が果たしてきた基本機能が弱体化しはじめているのではないか。これまで、日本企業、とりわけ製造業の強みは、すりあわせの機能にあった。そして、このすりあわせを可能にしてきたのは職場集団の存在であった。それがしっかりしてきたからこそ、このすりあわせ能が培われ、維持されてきた。
職場は、少なくともこれまでは、メンバーがお互いに見える距離で働いていたために、そのなかにライバルを見つけるのは容易だった。職場は、協働の場であると同時に、競争の場でもあった。また、育成の場であると同時に評価・選別の場でもあった。能力のある人材は、職場のなかで評価され、チャレンジのある仕事を与えられてテストされ、勝敗が決まって、選別されていった。こうした丁寧な評価を可能にしたのも職場であった。
こうした職場の機能が、今、ゆらいでいる。しかし、職場こそ、日本企業のきわめて重要な財産なのである。職場の働きが、日本企業の強みをつくってきた。
ところが、今では、組織全体や職場が、これまでのような同質性の高い人たちの集まりではなく、もっと多様な意識と価値観や生き方を背負ってきた人たちの集まりになってしまった。多様性の高い集団のもたらす帰結のひとつは、深層での考え方や意識の違いによる不満の多様化である。
日本の組織は、過去20年間、人のつながりとしての側面を失ってきた。逆に、仕事をする場所であるという本来の機能が強くなった。いま、組織は、多様化と脱コミュニティ化が同時にすすむ場面となっている。
コンプライアンス、つまり法令遵守、そして、内部統制が重視されている。そのなかでは、従業員を信頼しない経営者が増えている。企業が、コンプライアンスの名の下に、働く人を信用しない施策を導入したとき、従業員は経営者の長期的意図を信頼せず、その仕組みのなかで期待されたとおりの短期利益志向型の行動をとる可能性が高い。つまり、従業員はルールに従うこと自体を目的をし、自律的に考えることをやめてしまう。
リーダーシップは、本来のリーダーになりたいという意欲に依存する部分が大きい。能力や資質がどんなに備わっていても、リーダーになりたくない人は、リーダーには向かない。
職場が変容し、共同体としての人と人のつながりがなくなることで、メンバー間のコミュニケーションが少なくなった。
現在、日本の企業がとりいれている成果主義には、導入プロセスに問題があるだけでなく、もっと構造的な欠陥があり、そのために多くの企業で成果主義は働く人から反発されている。人材育成、それも選抜された人材だけに限定されない人材育成が重要なのである。働く人の「夢」を維持するためにこそ人材育成は重要なのである。
多くの人にとって、自分の能力を高めて成果を出し、それが評価されることがやる気につながる。人材育成は、単に能力を高めるための施策としてだけではなく、働く人の「夢」の源泉となる経営機能なのである。
変化する日本の職場の現実をふまえて、人材育成のあり方を考えた貴重な指摘だと思いました。
 
(2010年5月刊。850円+税)

  ボーヌからワイン街道を行く観光タクシーに乗りました。前日、観光案内所で予約しておいたのです、幸いにも私たちだけで、他に客はいません。運転手兼ガイドの女性が、ブドウ畑についていろいろ解説してくれます。英語は分かりませんので、フランス語でお願いしました。よく晴れた青空の下、緑滴る広大なブドウ畑のなか、車を走らせます。本当に気持ちのいいものです。ポマール、ヴォルネー、ムルソー、シャッサーニュ・モンラッシェというワインの銘柄としても有名な村々を通っていきます。バカンス中なのか、ほとんど人の気配はありません。たまにブドウ畑でトラクターのよな機械が動いているのを見かけるくらいです。サントネー村でカーブ(ワインを寝かせている地下の穴蔵)に入り、出てきたところで、赤と白のワイン3種類ずつを試飲させてもらいます。違いが分かるというのではありませんが、飲み比べると、たしかに値段の高いほうが、舌あたりも良くて美味しく感じられます。
 コート・ド・ボーヌのワイン街道をたっぷり堪能できました。

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2010年8月24日

アテネ民主政

世界史(ヨーロッパ)

 著者 澤田 典子、 講談社選書メチエ 出版 
 
 紀元前に栄えたアテネの民主政の実情を知ることのできる本です。今にも生きる教訓があります。
紀元前318年、アテネのアゴラ(広場)の一角にある牢獄で83歳のフォキオンは従容として毒杯を仰いだ。フォキオンは実に45回も将軍(ストラテゴス)をつとめ、志操の高潔なリーダーとして名を馳せた重鎮であった。フォキオンこそ、アテネ民主政の最後の政治家だった。フォキオンの辞世の言葉は、何も予期せぬことではない。数多くの名高いアテネ人がこのような最期を遂げたのだから・・・・。
 なるほど、アテネ民主政180年の歴史のなかで活躍した政治家のうち、非業の死を遂げた者は数えきれない。
完成したアテネ民主政においては、成年男子市民の全員が平等に参政権に与り、ポリスの重要な決定は市民の多数決によって決められた。民主政のなかで、重要な役割を果たした機関は、民会、評議会(500人評議会)、そして民衆法廷である。
民会は、アテネ市民の総会であり、文字どおりアテネの最高議決機関だった。成年男子市民の誰もが出席して発言する権利をもち、平等な重さの一票を投じることができた。まさに直接民主政をもっとも直裁に具現する場だった。
数千から数万の市民が集まる民会での審議と決定を円滑にするため、民会の審議事項をあらかじめ先議したのが、30歳以上の市民から抽選で選ばれた500人の評議員によって構成される評議会である。
 そして、アテネの司法権の中枢に一般市民からなる民衆法廷がある。抽選で選出された30歳以上の市民6000人が任期1年の審議員として登録され、そのなかから裁判の性格や規模に応じて201人や501人といった所定数の審議員が選ばれて、個々の法廷を構成した。
さらに、国政の運営に直接携わる数多くの役人も全市民から抽選で選出されていた。ほとんどすべての役職が抽選で選ばれていた。その任期は1年で、重任や再任は原則として認められず、ひとつの役職は、複数(通常10人)から成る同僚団によって運営されていた。
 数多くの市民が直接政治に携わること、特定の個人に権力が長く集中するのを極力避けること、このような直接民主政の理念がアテネでは実践されていた。公的な職務に就く者は、就任の前に厳しい資格審査を受け、任期中には、毎月の主要民会ごとに選挙採決で信任を問われた。任期中に怠慢や不正があれば、罷免されるだけでなく、裁判にかけられることもあった。さらに厳しいのが任期終了時の執務審査であり、この審査手続のときに告発されることも多く、その結果、有罪となれば、罰金や市民権喪失だけでなく、ときには死刑という過酷な処罰も待っていた。
政治家に対しては、市民の誰もが、いつでも政治家を民主制の転覆・売国・収賄などの疑いで裁きの庭に引き出すことができた。有罪になると、ほとんど死刑とされた。ストラテゴス(将軍)は、当然、戦場での戦死というリスクも高い。しかし、戦場より怖いのが裁判だった。弾劾裁判130件のうち、3割近い34件がストラテゴスに対するものであった。
 アテネの政治家にとって、政界を勇退して悠々自適の老後を過ごすなど、望むべくもなかった。常に生命の危険と隣り合わせの真剣勝負だった。アテネの政治家たちは、老いを知らない名誉心に突き動かされ、不滅の名誉を求め、ありとあらゆる危険を冒すこともいとわず、命がけでたたかっていた。 
ところが、民主政アテネにおいて、政治家としての活動は給与をともなう「職業」ではなかった。貴族たちは、給与ともなわない政治家としての活動に専念していたのである。
 ところで、アテネには陶片追放という奇妙なシステムがありましたね。
アテネ市民は、追放しようという人物を陶片に刻んで投票する。追放されるのは得票総数が6000票をこえた者。ところが、追放された者は、10年のあいだアテネの国外に追放されるが、家族や親族は処罰されず、市民権も財産も奪われず、10年後には帰国して、それ以前と同じように暮らすことが認められた。そして、追放されるのは、1年に1人のみ。 この陶片追放の目的は、貴族同士の激しい抗争を平和的に解決するための手段であった。
 アテネの直接民主政の基本的理念は、アマチュアリズムである。成年男子市民が3万人から4万人という小社会であればこそ実現できた。
ギリシャには残念ながら行ったことはありませんが、2000年前の直接民主制からくみとるべき教訓を考えてみました。
 
(2010年4月刊。1700円+税)

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2010年8月23日

アリの生態と分類

生き物

 著者 山根 正気、原田 豊ほか 、南方新社 出版 
 
 南九州のアリの自然史というサブタイトルがついたアリの写真図鑑です。
我が家の庭にもアリはもちろんいますが、厄介なのは台所にまで出没する小さなアリたちです。白アリとは違うので家屋倒壊の原因にはならないでしょうが、それでもやはり、小さなアリたちが食べ物のあるところをウロチョロしているのを見るのは目障りです。つい、「アリ殺し」を仕掛けてしまいました。
 日本ではアリは非常に良く研究されている昆虫一の群だ。南九州には124種のアリがいる。うへーっ、そんなに種類がいるのー・・・・と叫んでしまいましたが、なるほど写真を見ると、少しずつ色も形も異なっています。どうして、こんなに多様化したのか、不思議でなりません。
この本はヒアリは要注意だと警告しています。アメリカでは、ヒアリによって毎年5~6000億円もの被害が出ているとのことです。ヒアリ毒によって、毎年100人も亡くなっているというのですから、なるほど警戒しなければいけませんね。
アリは、カリバチと総称されているハチから進化し、スズメバチ類と近い親戚関係にある。
 初めてアリが出現したのは6億2500年前のこと。恐竜時代である。ハチの仲間なので、完全変態する。これに対してシロアリは、ゴキブリの仲間から進化した。したがって、ゴキブリと同じく、不完全変態する。
世界には1万1000種のアリがいる。
 アリの寿命は不明だが、実験室のコロニーで20年以上飼育した実例がある。
コロニーに複数の女王がいるコロニーのほうが一般的である。
 アリとアリが出会うと、触覚で相手をなでまわす。アリの体の表面は、所属するコロニーに特有のにおいで被われており、触覚でなでまわすことで、相手が自分と同じコロニーの仲間であるかどうかを嗅ぎ分けている。違うコロニーのアリを発見したアリは警戒フェロモンを散布するので、コロニー全体が興奮状態になる。
 逆に、社会寄生性の種の新女王や奴隷狩り部隊は、鎮静効果のあるフェロモンをうまくつかって相手コロニーの防衛力を低下させる。
 実は、多くのアリが昼夜を問わず活動している。ええーっ、アリって夜行性のものもいるのですか。ちっとも知りませんでした。
 この本には、たくさんのアリが大きく拡大したアリの身体写真とともに細かく紹介されています。すごいものです。アリ愛好家ならではの写真集です。
 我が家の庭にいるアリたちの姿を、今度じっくり観察してみようと思いました。
(2010年5月刊。4500円+税)

 ディジョンから休校に乗って30分、ボーヌに向かいました。ボーヌは20年ぶりです。駅から、まっすぐ旧市街を目ざして歩いていきます。ボーヌは小さな町です。古い城砦跡がそのまま残っています。旧市街に入ると石畳の狭い道になります。やがてにぎやかな通りに出ました。ちょうどお昼時でしたので、補導に張り出したテラス席で食事中の人々をたくさん見かけます。神の館(オテル・デュー)の近くに目ざすホテル(ル・セップ)がありました。20年前の記憶では町の中心部から外れたさびしい通り、というイメージだったのですが、実際には観光名所であるオテル・デューやノートルダム教会のすぐ近くで、はずれというより中心部にあります。
 ヴィジオトランという市内観光バスに乗って、ボーヌ見物をしました。本当に狭い路地を3両連結でよく走れるものだと感心します。日本語による解説もついて便利です。
 ホテル・デュは施療院とも呼ばれ、15世紀、百年戦争のあと、貧民救済のために作られた病院です。ブルゴーニュ建築の特徴という赤や黄色の幾何学模様が目を引く屋根をかまえています。
 このボーヌに、ゆったり3泊しました。

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2010年8月22日

古代アンデス、神殿から始まる文明

アメリカ

 著者 大貫 良夫・加藤 春建 、朝日新聞出版 
 
  古代アンデス文明の発掘調査を日本の学術調査団が50年も続けているというのです。すごいものですね。そして、地道な発掘調査のなかで金製品の副葬品を発見するなどの成果をあげています。ただ、その発掘・発見した遺跡・遺品の維持・保存には大変な苦労があるようです。現地の人々の生活との調和を図るというのは、口で言うほど易しいことではないのでしょうね・・・・。
 この本で驚いたのは、権力者が確立してから神殿がつくられたのではないという説が提唱されていることです。ちょっと逆ではないのかしらん、と思ったことでした。
 カラー写真つきで紹介されていますので、雄大な規模の遺跡であることがよく分かりす。
アンデス古代文明といっても、本当に古いのです。前2500年から前1600年前のコトシュ遺跡、前1000年から前500年のワカロマ遺跡、前800年前から前550年のクントゥル・ワシ遺跡、前1200年から前700年のパコパンパ遺跡などが紹介されています。
ちなみに、有名なナスカの地上絵は紀元前後から6世紀にかけてのものですから、かなり時代は下ります。
日本の学術調査団は、土器よりむしろ神殿に注目した。土器以上に社会発展においては神殿の役割が重要であると考えた。神殿の建設や更新、そこで執り行われる祭祀を通じて社会が動き、農耕などの生業面を逆に刺激していったと確信した。
 太陽の神殿ワカ・デル・ソルは、長さ342メートル、幅159メートル、高さ40メートル。この建造に1億4300万個の日干しレンガが用いられた。レンガに印がついている。それは、製造した村をあらわすもので、支配地域にレンガが納入を強要した証拠と考えられる。  古代アンデス文明の豊かさを知ることは、人類はかつて野蛮でしかなかったという俗説を打ち破ることにつながります。知的世界をぐーんと広げる本でした。 
(2010年2月刊。1400円+税)

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2010年8月21日

野球部員、演劇の舞台に立つ!

社会

 著者 竹島 由美子、 高文研 出版 
 
 福岡県南部、八女の茶畑の真ん中にある高校の演劇部のお話です。この高校は、今年も甲子園に出場したほど野球の強い高校でもあります。その野球部員が演劇部の助っ人に参上し、自らを鍛えていくという感動的な内容です。実は、なんだろうな、この本、何が書いてあるのかなと、失礼ながら、まったく期待することなく読みはじめたのです。ところが、なんとなんと、素晴らしい。のっけから心を揺さぶられるようなエピソードがあり、盛り上がりを見せます。わずか230頁ほどの本ですし、写真もふんだんにありますので、1時間ほどで車中一気に読み終え、猛暑のなか一服以上の清涼感に浸ることができました。
 演劇の脚本を書いている著者の筆力にもたいしたものですが、紹介されている高校生の作文が出色の出来映えなのです。一読を強くお勧めします。この本を読むと、今どきの若者なんて無気力な奴ばかりで、つまらん。などと切り捨てる気持ちにはとてもなりません。
 ことのはじまりは、元気のない演劇部の状況に悩む顧問と野球部監督の何気ない会話。
 彼らの、あの背筋を伸ばした身体や大きな胸をしたからだが舞台に立ったら、どんなに愉快かしら・・・・。
 いいですね。彼らに違った世界を触れさせることが必要じゃないかと思っていたところです。でも、台詞を覚えたり、演技をしたりは無理ですよ。違う分野になると、とたんに小心者になりますからね・・・・。
そして、本番。みていた観客から、こんな声が上がった。
もしかして、本物の野球部員じゃないの?
まさか・・・・!
野球しか知らず、本を読んだこともなかった部員が演じたあと次のように書いた。
演劇をしていくうちに知らない言葉を調べ、知る楽しさを覚えた。新しい言葉を知ることは、ある種の快感だった。知らない言葉を調べることは、知らない自分を見つけることにつながると思う。もっと言葉を知りたいと思っていたとき、本という知らない言葉がいっぱい書いてあるものと出会った。
なんと初々しい発見でしょう。まさに、未来は青年のもの、青年の果てしない可能性が掘り起こされたのです。そして、なんと、あの谷川俊太郎の前で、自作の詩を朗読する生徒まで登場します。その詩の言葉の豊かさに私は圧倒されました。ここでは、出だしの4行だけ紹介します。 
私が神様だったころ、世界はただ明るかった 
人も道も物も、ただ私のためにあった 
ある日突然、神様の私に刃向かう者が現れた
私は神なのに、私は神なのに・・・・
野球部員が舞台に登場する。鍛えられた身体と、その動きが魅力的だ。だらしないことをファッションだと言い訳しながら自分を磨くことを放棄した多くの若者に、若さ本来の美しさを改めて思い出させる。舞台上で鍛えられた身体が鋭角的な機敏さで動くたびに、それだけで会場を圧倒する。
情報誌に連載したものを一つにまとめて本にしたというものなので、各章の結末がやや尻切れトンボの感はありますが、それはともかくとして、読んで心の震える本でした。この本を贈呈してくれた敬愛する畏友・宇都宮英人弁護士に心から感謝します。
 
(2010年5月刊。1600円+税)

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2010年8月20日

モスクワ攻防戦

世界(ロシア)

 著者 アンドリュー・ナゴルスキ、 作品社 出版 
 
 ナチス・ドイツがソ連に攻めこんだときの戦闘が紹介されています。 
モスクワ攻防戦は1941年9月30日に始まり、1942年4月20日に終結したとされている。203日間である。しかし、実際には、それをこえた期間に大量殺戮があっていた。両軍あわせると、最高750万人もの将兵が投入され、戦死傷者は合計250万人に達した。ソ連側の戦死者は190万人、ドイツ兵は62万人だった。ドイツ軍の捕虜となったソ連兵96万人は、ほとんど殺害された。ロシア攻防戦のあとに戦われたスターリングラードでは360万人の将兵が戦場に駆り出され、両軍の犠牲者は91万人だった。モスクワ攻防戦のほうが、はるかに多い。モスクワ攻防戦におけるドイツ軍の敗北によって、ドイツ兵の不敗神話が崩れ、その終わりが始まった。
 そして、このモスクワ攻防戦において、日本にいたソ連のスパイであるリヒャルド・ゾルゲの果たした役割はあまりにも大きい。
 日本が、少なくとも1941年から42年にかけての冬季には、東部からソ連に攻め入ることはないとスターリンに最終的に確信させることが出来たのがゾルゲだった。ゾルゲのもたらした最新情報にもとづき、スターリンはソ連西部にあけるドイツ軍との戦闘に投入するため、シベリアの前哨部隊に所属する40万の兵士を大急ぎで送り込む決断を下すことができた。その兵士たちのほとんど全員が直ちにモスクワ防衛に当てられた。
 ソ連極東地域の極寒の気候に耐えうる冬の装備に身を包んだ新たな兵士たちは、ドイツ人侵略者と赤軍のあいだの戦闘の形勢を逆転させるうえで、不可欠の存在だった。すぐに勝利できると信じこんでいたヒトラーは、冬服を支給しないまま、ドイツ兵をソ連に派兵していた。そのため、ドイツ兵は冬の季節に対応するための装備の点で、はるかに勝るソ連兵が大量に投入されるころには、夏服のまま、日に日に低下する気温に苦しめられていた。
この本を読むと、スターリングラード攻防戦よりも、その前のモスクワ攻防戦のほうがはるかにスケールが大きかったこと、そして、ソ連の勝利に日本にいたゾルゲの情勢が大きく貢献したことを改めて認識させられました。
 駐日のドイツ大使に信頼されていたゾルゲは1941年10月に逮捕されてしまいます。そして、日本とドイツの敗色が濃厚となった1944年11月7日のロシア革命記念日に絞首刑に処せられたのでした。今もモスクワにはゾルゲの像と記念碑があります。駐日ソ連大使そしてロシア大使は、ゾルゲの墓参を今も欠かしません。
 モスクワ攻防戦の悲惨な実情が詳細に明らかにされています。モスクワ市民のすべてが勇敢に戦う人ばかりではなかったのです。
 モスクワの人口は、1941年1月に422万人だった。そして、翌1942年1月には半減して203万人でしかなかった。1941年10月、モスクワ市民は雪崩をうったようにモスクワを脱出していった。このころ、モスクワ市民100人のうち98人がヒトラーは遅かれ早かれモスクワを占領すると考えていた。
当初からスターリンは、二つの戦争を並行して戦い続ける必要があるという揺るぎない信念を持っていた。二つの戦争とは、外国の侵略者に対する戦争と、国内の裏切り者や政敵に対する戦争である。要するに、スターリンとその軍隊は、敵味方を問わず、進んで人を殺す死刑執行人だった。ソ連兵は一切の退却を禁じられ、従わなかったときは射殺されることになった。スターリンは、開戦のはるか前、より大勢の軍関係者を処刑していた。これが、ドイツ軍侵攻のときに、ソ連軍が驚くほど準備不足だった最大の理由である。
 軍部が粛清に巻き込まれたとき、NKVDは150万人を検束した。そのうち、あとで釈放されたのは、わずか20万人だけ。その多くは強制収容所に送られた。75万人が射殺された。スターリンは、万一、反乱が起きるとしたら、その指揮をとるのは軍人だと考え、軍部を優先的に粛清の対象とした。実物の武器を持ち、その扱いに長けている集団である軍をスターリンが見過ごすはずはなかった。
 ヒトラーもスターリンも、自分が聞きたくないことについては、部下がいくら説明しても、耳を傾けようとはしなかった。スターリンは、自らの招いた政策の失敗を、ヒトラーの恐怖政治によって挽回することができた。
 モスクワ攻防戦は、実は第二次世界大戦の勝敗を決めた一大決戦だったこと、それを決定したのが日本で活躍していたスパイ、ゾルゲだったことをしっかり認識しました。500頁もの大部な本でしたが、とても読みごたえがありました。 
(2010年6月刊。2800円+税)
 ディジョンはブルゴーニュ・ワインの名産地に接しています。美食で有名な町でもあります。ディジョン駅からも見えるサン・ベニーニュ大聖堂の高い尖塔の並びにあるホテル(赤い帽子)に泊りました。駅から歩いて10分ほど。スーツケースをがらがら引っ張って、辿りつきました。ホテルは高級レストランを併設しているのですが、なんと隣には回転寿司の店もありました。ヨーロッパ式の古いホテルです。
 ディジョンの街を何回となくぶらぶら歩きました。ここは、ブルゴーニュ公国の首都だったところで、その公邸が市庁舎と美術館になっています。その前には広大な広場があり、噴水があって子どもたちが水と戯れていました。
 ここにもノートルダム寺院があり、建物の角にふくろうの彫刻があります。左手をあてて願をかけると願うことがかなうとの言い伝えがあり、すっかり摩耗していました。私も、無病息災を願いました。

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2010年8月19日

内奏

日本史(近代)

著者:後藤致人、出版社:中公新書

 上奏とは、大日本帝国憲法を最高法規とする明治憲法体制に位置づけられた奏のこと。大日本帝国憲法で上奏という用語は1ヶ所しか出てこない。
 「両議院は、各々、天皇に上奏することを得」(49条)
 上奏とは、首相・国務大臣・統帥部・枢密院・議会など国家諸機関による、法律・勅令など、天皇裁可を必要とする公文書の天皇への報告手続きであった。
 奏上は、天皇に申し上げる行為全般を指す。
 近代以降の上奏は、天皇大権と密接に関係している。
 輔弼(ほひつ)とは、憲法上、国務大臣が行う天皇の補佐を表す用語である。ほかに内大臣と宮内大臣に輔弼規定がある。それ以外の天皇補佐には、輔翼という用語を用いる。参謀総長・軍令部総長については輔弼とは言わず、輔翼と表現する。
 惟幄(いあく)上奏とは、統帥部が軍機・軍令について、直接、天皇に上奏すること。この惟幄上奏には、二つの問題があった。第一に、惟幄上奏が拡大解釈され、本来は統帥部だけであったものが、内閣の一員である軍の大臣が首相を超えて惟幄上奏した。第二に、統帥部と陸海軍省が対立したとき、惟幄上奏が軍内部の調整を経ずに行われ、政治問題化すること。
 陸軍統帥部は天皇からの御下問を極度に畏れていた。そこで御下問が、陸軍の暴走の歯止めとの一つとして作用していた。
 御前会議によって最高国策が最終決定されるのではなく、天皇の退出後、あらためて政府・統帥部が上奏手続きをして、天皇の裁可を得る必要があった。御前会議の法制上の位置づけは明確ではなかった。
 内奏とは、正式な上奏に先だち、内意をうかがうもの。そこで、これでよろしいとなると、その後、正式な上奏の形式に現れた「勅旨」になる。
 戦前そして戦中、帝国議会について、首相は天皇に内奏する習慣があった。
 天皇が発する言葉には、御下問(ごかもん)、御沙汰(ごさた)、御諚(ごじょう)、優諚(ゆうじょう)など、さまざまな表現がある。どう違うのでしょうか?
 優諚とは、天皇のめぐみ深い言葉のこと。
 昭和天皇は、上奏前の内奏段階では、かなり踏み込んだ御下問をする。しかし、上奏については、必ず裁可を与えている。
 天皇の御下問は、宮中の人間の助言を受けず、直接、内奏する統帥部の軍人に行われていた。昭和天皇は、統帥関係の御下問については、木戸幸一内大臣に相談せず、直接、統帥部に対してするのが普通だった。
 昭和天皇は、上奏については裁可すべきだと認識していたが、内奏段階では御下問を通じ、輔弼者らに意見を表明してもよいと考えていた。天皇は、参謀総長・軍令部総長の上奏・内奏に対しては、強い口調でその矛盾をつくことがあった。
 宮中側近の助言を受けずに発せられる天皇の御下問は率直であり、軍を悩ましていた。
 戦後、日本国憲法が施行されてから、内閣から天皇に法律の公布を求めるときの用語が、かつての上奏から、「奏上」「奏請」に変わった。
 日本国憲法の施行後、上奏は消滅した。しかし、内奏のほうは生き残った。
 昭和天皇は、人事への関心が深く、佐藤首相にしばしば意見を言った。
 1966年、認証式や叙勲などの天皇の国事行為の機会の前後に、佐藤首相は一般政務の内奏を行っていた。昭和天皇は、この内奏によって人事や政情について、より深く情報を得て、御下問していた。
 1969年1月の東大紛争の際の秩父宮ラグビー場での大衆団交についても、佐藤首相は天皇に内奏した。うひゃあ、これには驚きました。私は駒場に残って待機していたように思います。それにしても、こんなことまで首相は天皇と会話していたのですね。なんと言ったのか、知りたいところです。
 昭和天皇は、長く政権を担当して気心が知れる佐藤首相に対して、御下問を通じて率直に政治的な意見表明をすることに慣れていた。昭和天皇は、保革対立に揺れる保守政権を励まし、あえていうと保守政治の精神的な核のような存在であった。警察庁長官も、定期的に(年1回)天皇に報告している。そして、天皇への内奏、天皇による御下問の内容を外にもらさないことは、政府部内で暗黙の了解事項だった。
 この本を読むと、戦後日本においても天皇に対して政治情勢等について政府の説明が定期的になされ、そのことが政府の確信ともなっていたことを知ることができます。私たち一般国民にとって意外なほど、天皇の言葉は政府にとって重い意味をもつもののようです。
(2010年3月刊。760円+税)

 ディジョンからSNCF(フランス国鉄)に乗ってオータンを目ざしました。12世紀に建立されたサン・ラザール大聖堂のある大きな町です。ところが、日本で買って持っていったトマス・クックにある乗り継ぎ列車がありません。途中のエタンで立ち往生しました。駅前にタクシーが1台とまっているのを見つけて交渉し、なんとかオータンに辿りつくことができました。
 曇り空だったのが一時的に快晴になりましたので、絶好のシャッターチャンスとばかりに写真を撮りました。
 オータンにはローマ時代の劇場跡が残っていて、今も野外劇場として活用されています。背後に湖があり、階段式の観客席が大部分残っています。
 2万人収容というフランス最大の劇場跡ということでしたが、成るほど広大なものです。ローマ軍団の偉大さを偲びました。

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2010年8月18日

山本五十六

日本史(戦国)

 著者 田中 宏巳 、吉川弘文館 出版 
 
 日本海軍の連合艦隊司令長官として有名な山本五十六提督の実像を仮借なく暴いた衝撃的な本です。この本を読むと、山本五十六っていう海軍提督がなぜ、東郷平八郎と並んで有名なのか、わけが分からなくなります。
 たしかに真珠湾攻撃で華々しい戦果をあげたが、4ヶ月のあいだ勝ち続けたあとは、じりじり後退する一方であり、日本が劣勢に立たされはじめたところで山本提督は早々に戦死したため、敗戦の将にならずに死んだ。だから、山本の名声の根拠は不明なのである。
 ロンドン軍宿会議の当時、日本政府は、国民の存在が視野に入っていたとはとても思えない。うへーっ、なんだか、これって今の日本政府とまるで同じですよね。
強い軍備によって国を守るのも国家のためだが、国の財政負担を軽減させることも国家のためであり、どちらも国家のために欠かせなかった。海軍軍人は軍備にしか関心がなかっただけでなく、軍縮が外国との約束事であり、これを破れば国家間の対立を助長しかねないにもかかわらず、海軍軍人が国際通という一般論とは裏腹に、意外なほど国家間の関係に無節操だった。
日本においては、陸海軍におよる航空機開発がまったく別個にすすめられた。これは世界的にみても特異な現象であった。アメリカでさえ国家をあげてやっとB29を完成させたのに、日本では、同じような性能をもつ大型攻撃機の開発を別々にやろうとした。このとき、陸軍が支配的になることを山本五十六が嫌ったため、空軍として独立できなかったし、研究開発が一本化できなかった。山本五十六は歴史の流れに背を向けた。空軍を独立させたとき、その指導権を陸軍出身者がとり、陸軍の用兵思想にもとづく空軍になることを山本たちは危惧した。要するに、組織の縄張り争いであり、人数の多い陸軍にはかなわないが、指導権を取りあげられたくないというのが山本の考えだった。そもそも、山本は海軍航兵隊だけで戦えると錯覚していた。
日本海軍は、日露戦争の教訓をあたかも絶対的公理のように扱い、もっとも近い第一次世界大戦の教訓を究明しなかった。このため、海軍では戦訓研究の発展が妨げられ、戦略戦術思想の研究が停止状態になった。
 日本海海戦から40年たつのに、この海戦の勝利の戦訓を取り入れた「海戦要務令」は高い価値をもつとし、軍機として厳しい秘密扱いを続けた。日進月歩の軍事技術の進歩と古色蒼然たる「海戦要務令」の軍事思想とが矛盾なく整合することはありえなかった。
 山本五十六は革新性にみちた軍人ではなかった。艦隊決戦で大勝利すれば、日露戦争のように講和の機会が訪れると海軍軍人が抱いていた極楽トンボに近い楽観論に近い考えを山本五十六も持っていた。つまり、艦隊決戦にアメリカ海軍を引き込み、これに大勝すれば和平の機会があると山本も日本海軍も考えていた。総力戦では、途中の和平が不可能なことを山本は理解していなかった。
 日本海軍における艦隊決戦主義は宗教の教義みたいなもので、情勢や環境がそんなに変わっても信じられ続けた。技術の進歩や兵器の変化を認めながら、それを駆使する思想を変えようとしない矛盾に気づかない海軍軍人が多すぎた。
 山本五十六が辞職をちらつかせて要求するからハワイ作戦(真珠湾奇襲)にお付きあいはするが、本当は南方作戦が主作戦だから、ハワイ作戦で空母を損傷して南方作戦に支障が出てはたまらないというのが海軍軍令部の本音だった。だから、せっかくのハワイ奇襲も、軍令部や南雲・草鹿らによって肝心な点が骨抜きにされてしまった。真剣に勝利の機会を探し続けた山本が気の毒なほどだ。うへーっ、そうだったのですか・・・・。
昭和17年3月の珊瑚海海戦で、日本海軍が敗退した。このとき、世界初の空母機動部隊戦だった。しかし、歴史に学ばない、戦訓に学ばない日本軍人の性向が、日本の運命を左右することになった。珊瑚海海戦は、日本海海戦のように並行する戦艦中心の敵と味方の艦隊が打ち合う近代海戦を過去のものとし、空母機が相手の艦隊に対して爆弾、魚雷を放つ、新しい戦闘形態に切り替わる転換点だった。
このころ、山本五十六の声望は頂点に達しており、その一言一言がまるで神の声であるかのように海軍内にこだましていた。周囲のそんな雰囲気に山本自身も冷静な観察眼を失っていた。部下たちが浮ついていても、その雰囲気を戒め、失敗を客観視する冷静さこそ司令官の責任だったが、このころの山本には、これが欠けていた。
山本だけでなく、連合艦隊の指揮官に欠けていたのは、歴史の教訓に学ぶ姿勢、時間軸をたどって物事を考える態度であった。
山本五十六がラバウルへ飛行機に出かけるのをアメリカ軍は暗号解読で察知していたのは有名ですが、そのとき日本軍の打った電文は長く、なんと二回も発信したのでした。巡視の準備(たとえば、服装など)まで電文にしていた。これは最前線の緊迫感が欠如していたことの反映である。
なるほど、ですね。山本五十六提督と日本海軍の実像を初めてしっかり知った気がしました。

(2010年6月刊。2100円+税)

 ディジョンから車で1時間ほどかけてフラヴィニ・シュル・オズランという村へ出かけました。フランス映画『ショコラ』の舞台となったちいさな村です。フランスの美しい村の一つに選ばれているというので行ってみました。陸の孤島にポツンと浮かんでいる本当に小さな村でした。小さなスーパーが一つ、カフェが一つしか見当たりません。周囲には平穏な牧草地が広がっています。ところどころ白い牛たちが固まって点在して、いかにものどかな風景です。大きな古い納屋が食堂になっていて、人々が詰めかけ満員盛況でした。私はカフェでワインを一杯飲んでゆっくり休憩しました。
 ここで日本人夫婦とばったり出会いました。やはり同じようなことを考える人はいるものなんですね。

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2010年8月17日

極北の生命

生き物(小鳥)

 著者 前川 貴行 、小学館 出版 
 
 ギャハー、な、なんというド迫力でしょう。表紙を飾るハクトウワシの正面アップの顔と、その目つきの鋭さに、たじたじとなってしまいました。まさに迫力負けです。
強烈な風格を身にまとったハクトウワシは、アメリカの先住民にとっては神の使いであった。アメリカのシンボルであるハクトウワシは1960年代には絶滅の危機に瀕していた。家畜を襲う害獣として長年にわたって乱獲がされてきたのと農薬汚染によるものだった。今では保護がすすんで、絶滅危惧種の指定から解除されている。
 主な生息場所である海や川ぞいで、海面近くを泳ぐ魚や遡上ではねたサーモンなどを捕まえる。サーモンなどの大きな魚は、川で捕まえて、その場で食べる。サバくらいの大きさだと、易々とつかんで飛べるため、仲間に横どりされずに安心して食べることのできる樹上に運ぶことが多い。魚以外によく捕食するのが生息場所の重複するカモメ類。大きさが自分とあまり変わらない成鳥であっても、かぎ爪で「鷲づかみ」にして、ばくばくと食べてしまう。カモメのヒナもよく捕まえ、子育て中のハクトウワシは、カモメのヒナを生きたまま単に持ち帰り、自分のヒナに与える。
 ハクトウワシが子育てする巣は、まさに断崖絶壁の上にあります。そこを写真に撮ったのですから、すごいものです。いったい、どうやって写真を撮ったのでしょうか・・・・。
 いずれにせよ、大変な根気が求められることは確実です。シャッターチャンスは一度だけ。そう思いながら、何時間も、何日も、じっと辛抱強くチャンスを待ち構えたのでしょうね・・・・。心より敬意を表します。
 それにしてもハクトウワシって、なるほど、神々しく、気高い、孤高の顔つきをしています。こんな威厳を日本の首相も全身であらわしてほしいものだと思いました。恐らく、ないものねだり、なのでしょうね。 
 
(2010年6月刊。3400円+税)

 夏休みをとってフランスに行きました。パリでは日本人より韓国人、中国人の若者をたくさん見かけました。20代の日本人は、この10年間に海外旅行する人が半減したそうです。どうしてでしょうか……。やはり現地に行ってみると、いろんなことが見えます。もったいないことです。今回は、ブルゴーニュ地方を回って来ました。少しずつ報告していきたいとおもいます。

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2010年8月16日

イザベラ・バード『日本奥地紀行』を歩く

日本史(明治)

 著者 金沢 正脩、 JTBパブリッシング 出版
 
 『日本奥地紀行』(平丹社)という本があります。明治11年(1878年)にイギリス人女性(47歳)が横浜から東北地方そして北海道へ単身、もちろん日本人の通訳と従者を連れて旅 行したのを記録した本です。その当時の日本人の習慣が分かって、とても面白い内容になっています。
 この本は、このイザベラ・バードがたどったコースを自ら体験し、当時と現況の写真を添えて紹介していますので、なるほどという思いで興味深く一気に読み通しました。イザベラ・バードは、明治政府から東北と北海道を旅行する許可を得ていました。このころ外国人は居住から40キロを超えて離れてはいけないことになっていたのですが、異例の許可でした。
 人力車を3台連ねて、まずは日光に向けて江戸を出発します。
 日光から鬼怒川に出て、会津に至ります。
 ヨーロッパでは、ときとして外国は、実際の危害を受けなくても無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられることがあるが、ここでは一度も失礼な目にあったことはなく、過当な料金をとられたこともない。
 西洋人女性の一人旅ですから、当然、村の人々は関心を持ちました。ある村では、2千人をこす村人が一目みようと集まってきて、さすがのバードも唖然としました。ところが、バードが望遠鏡を取り出すと、群集は一斉に散りました。ピストルだと思ったのでした・・・・。
 新潟から秋田へバードたちは向かうのですが、ともかくどこもかしこもてんやわんやの大騒ぎとなったのでした。昔も今も、日本人の好奇心の強さは同じなんですね。
 バードの旅行に通訳兼案内人兼用心棒となったのは、当時20歳の伊藤という日本人青年です。特別に学校で学んだのではなかったようですが、バードから教えられて英語を巧みに駆使したようです。バードが高く評価した伊藤のその後について詳しいことは判明していません。それについて、宮本常一は、伊藤レベルの人なら当時たくさんいたからだろうと解説しています。ふむふむ、なるほど、そういうことなんですか・・・・、とつい納得してしまいました。
 原作を読んだあと、視覚的に同じコースをたどってみたいという方に絶好の手引きになる本です。
 それにしても、当時のイギリスにレディー・トラベラーと呼ばれる自立心の強い女性旅行家たちが多くいたということを知って、大変驚きました。
 
(2010年4月刊。1800円+税)

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2010年8月15日

過労死・過労自殺大国ニッポン

社会

 著者 川人 博 、編書房 出版 
 
 カローシが国際的に通用する日本語だなんて困ったことですよね。カラオケなら少しばかり誇らしい気もしますが・・・・。ちなみに、カミカゼやツナミもフランス語に入り込んでいて、辞書にも載っています。これもまた、ちょっと複雑な心境です。
 過労死は年間1万人は超える。その直接的な原因は、第1に労働時間の絶対量が明らかに多いこと。日本はヨーロッパより年間500時間は長い。しかも、無給(サービス)残業まである。第2に、労働の密度が濃すぎる。ベルトコンベアーが速すぎる。第3に、経済の国際化。欧米の経済活動にあわせて日本の労働者は深夜まではたらいている。
 2003年3月、大阪高裁の裁判官(53歳)が高層マンションから飛び降り自殺した。これは過労自殺だとして、遺族は公務上災害申請した。亡くなる前の半年間は、1ヶ月の総労働時間が300時間を優に超えていた。これは、1日10時間労働を毎日休みなく続けるという状況である。うへーっ、とうてい人間らしい生活は出来ませんよね、これでは・・・・。
 29歳の外科医が自殺した労働状況もすさまじいものがあります。
 外科医は、2年間にわたって、時間外労働を常に1ヶ月100時間以上しており、200時間以上の月もあり、平均して月170時間。休日は平均して月1回、ゼロ回のこともたびたびだった。大晦日も正月も仕事漬けだった。いやはや、お医者さんって、本当に大変な仕事ですよね。ならなくて良かったと今では思っています。私も高校生のころ、一瞬、なってみようかな、なんて思ったことがあったのです。
 過労自殺が減らない主たる原因の一つが、本来なら自殺予防に力を尽くすべき財界、とくに日本経団連が事態を放置しているからだ。会長を出した金業であるトヨタでもキャノンでも、技術者が自殺して労災に認定されている。
 著者は過労死問題に早くから取り組んできた弁護士です。東大教養学部で川人ゼミを開設して東大生に人権問題を考えるきっかけを絶えず与えていることでも有名です。
 私の大学時代からの知人ですが、川人法律事務所開設15周年を記念してまとめられた本書を贈呈されましたので、紹介します。ありがとうございました。今後、ますますのご健闘を期待します。
                 (2010年6月刊。1500円+税)

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2010年8月14日

日本の城

日本史(戦国)

著者 西ヶ谷 恭弘・香川 元太郎、出版 世界文化社

 日本の城の多くが、カラー国判で詳しい解説とともに紹介されています。見て、読んで楽しい、日本の城の大国鑑です。
 みなさんに、ぜひ一度は現地に行くことを私がおすすめするのは、安土城と一乗谷城です。
 一乗谷(いちじょうだに)は、越前の朝倉氏の本拠地でした。ここは戦国時代に織田信長に滅ぼされ、そのときの戦火にあったまま埋もれていたのです。現在、大々的な発掘調査が進行中です。私が現地に行ったのは、もう10年ほども前になります。ぜひ、もう一度行ってみたいと思います。
 現地には、朝倉義景(よしかげ)の館が発掘されています。また、被官の屋敷が立ち並び、さらには町屋も軒を連ねています。 
 中世の町並みをほうふつさせる貴重な発掘状況です。
 安土城には2度行ってみました。なにしろ、あの織田信長の居城となった安土城です。ルイス・フロイスの「日本日記」にも紹介されている、豪華けんらんのお城です。
 本丸御殿には、天皇を迎えるための御幸(みゆき)の間とあいました。
 羽柴秀吉邸跡とみられる場所もあります。
 天主に向かって幅広い直線一本道の大手門もあります。豪壮な天主閣を仰ぎながら多くの将兵そして町民たちが朝に夕に登り降りした道です。
 天守の跡が頂上に残っています。私は、案外に小さい、狭いと思いました。でも、少し離れたところに天主の一部を原寸で復元した建物があります。それを見ると、やはり壮大な建物だったようです。 
 織田信長が安土城に移る前に居城としていたのは岐阜城です。ここは完全な山城です。ここで、信長は、ルイス・フロイスと3時間も話し込み、世界各国の話を聞いて、大いに満足したといいます。 
 今は金華山とも呼ばれ、昔は稲葉山城とも呼ばれていました。「まむしの道三」が支配する城でした。木下藤吉郎が攻め落としたことでも有名です。
 私もこのお城に登りましたが、あまりに急峻な名山城なので、驚きました。
 「のぼうの城」で有名になった埼玉県行田市にある忍(おし)城には一度行ってみたいですね。石田光成の水攻めに耐えた壁城です。日本のお城めぐりも楽しいですよね。そのときのガイドとして大変役に立つ本です。
 
(2009年6月刊。2800円+税)

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2010年8月13日

三池炭鉱遺産

社会

 著者 高木 尚雄、 弦書房 出版 
 
 三池炭鉱にあって、今もわずかに遺跡の残る万田坑(荒尾市)と宮原坑(大牟田市)の古い写真と今の写真が解説つきで紹介されています。
 私自身は、ここにうつっている炭住街のおかげで大学まで進学できたようなものですので、単になつかしいというより、ありがたい存在だったという感謝の念が先に立ちます。
 私の実家は、私が小学1年生のときに当時47歳の父が脱サラを図って、炭鉱で働く人々などを対象とする小売り酒屋を始めたのでした。
 私自身の記憶にはないのですが、メーデーの日などは、店の前をゾロゾロゾロと会場まで歩いていく参加者が切れ目なく続くので、母はびっくり仰天してしまったといいます。当時、大牟田市は人口22万人になろうとしていました。
 私も一度だけ炭鉱に入ったことがあります。坑道は有明海の海底深い地底にあり、真っ暗闇です。マンベルトというむき出しのベルトコンベアーに乗って真っ暗く、不気味な坑道を一時間ほどかけて採炭現場にたどり着きました。
いろんな職業がありますが、採炭現場ほど危険な職場はないのではないでしょうか。ともかく危険きわまりありません。いつガスが噴出してくるか分からない。いつ岩盤がおちてくるか、坑道の底がふくれ上がってくるか、まるで予測のつかない危険と毎日背中あわせの仕事です。ともかく、すべてが真っ暗闇の世界です。そして粉じんがたちこめているという最悪の職場環境でした。
 まだ、有明海の海底には大量の石炭が眠っているということです。でも、そこで働く人間の生命、健康の安全を考えたら、正直なところ、とても炭鉱を再開すべきだという気にはなれません。
なつかしい炭鉱社宅は、映画『フラ・ガール』にもCGで再現されていました。大牟田にせめて一画くらいも残してほしかったと思います。貴重な写真集です。
(2010年4月刊。1900円+税)

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2010年8月12日

新・雨月(下)

日本史(江戸)

 著者 船戸 与一、 徳間書店 出版 
 
 ときは幕末。戊辰戦後の実相を小説でもって生々しく語り尽くそうという壮大な小説です。明治維新を目前にして、人々がそれぞれの思いで生命をかけて戦い続けます。ここでは維新の生みの苦しみと怨念がしっかり語られている気がします。
 明治1年9月、ようやく会津藩が降伏。2日後に庄内藩が降伏した。だが、戊辰戦役はこれで、終わったわけではない。翌明治2年の箱館戦争へ引き継がれる。榎本釜次郎(武揚)が五稜郭を出て降伏したのは5月。鳥羽伏見の戦いから1年半が経過していた。
 榎本と行動をともにしていたフランス士官ブリュネがフランス本国に宛てた報告書のなかで、北海道に建設される国家は共和制になるだろうと記したうえで、その共和国をフランスは植民地化すればいいとしていた。うむむ、なんということでしょうか・・・・。
会津藩は、敗戦によって明治新政府から下北半島と三戸・五戸地方へ減知転封され、斗南藩と命名された。それは、挙藩流罪とも呼ぶべき処置であり、藩士たちは、誰もが咎人(とがにん)のような仕打ちを受け、すさまじい飢餓にさらされた。
 いずれにせよ、鳥羽伏見から箱館五稜郭まで戊辰戦役の死者数は1万5千人と推計されている。ただし、これには、戦地で徴発された陣夫や戦火の巻きぞえとなった反姓たちの死は含まれていない。そして、この死者数は、後の日清戦争に匹敵する。すごい数ですよね。日本が生まれ変わる苦しみであったことを意味します。
 会津藩の二本松攻撃の戦闘指揮をとった薩摩六番隊長・野津七次(のづしちじ)は、箱館戦争後に、野津道貫(みつら)と改名した。明治7年、大佐となって佐賀の乱に出征。西南の役では、第二旅団参謀長。日清戦争には第五師団長として出征。明治26年、大将となり、近衛師団長、東部都督などを歴任。日露戦争では第四軍司令官。後年、戊辰戦役について、次のように述懐した。
 余は数えきれないほどの戦場を駆け抜けてきたが、二本松の霞ヶ城攻撃のときほど恐怖に駆られたことはない。なにしろ十三か十四の子どもが切先をこっちに向けて次々と飛び込んでくる。剣術は突きしか教わっていない子どもが命を捨てに来る。あの二本松少年隊ほど余の心胆を寒からしめたものはない。霞ヶ城の、あの光景は絶対に脳裏から消えはせんよ。
よくぞここまで調べあげたものだと、ほとほと感嘆した歴史小説です。
(2010年3月刊。1900円+税)

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2010年8月11日

吉原手引草

日本史(江戸)

 著者 松井 今朝子、 幻冬社文庫 出版 
 
 うまいですね、すごいです。見事なものです。よしはらてびきぐさ、と読みます。江戸の吉原で名高い花魁(おいらん)が、ある晩を境として忽然と姿を消したのです。それを尋ねてまわる男がいました。吉原に生きる人々の語りを通して、吉原とはどういうところなのかが、少しずつ明らかにされていきます。その語りが、また絶妙です。ぐいぐいと引きずりこまれていきます。
 同じ見世(店のこと)で別の妓(女性)に会うのは、廓の堅い御法度(ごはっと)でござります(禁止されているということ)。
花魁が見世から頂戴してるのは朝夕のおまんまと、行灯の油だけ。部屋の調度はもとより、畳の表替え、障子や襖の張り替え、ろうそく代や火鉢の炭代に至るまで、これすべて自らの稼ぎでまかなう。紙、煙草、むろん髪の油に紅脂(べに)白粉(おしろい)はけちらず、毎月、同じ衣裳も着ていられない。
櫛簎(こうがい)の髪飾りは値の張る鼈甲(べっこう)ばかりだ。遣手(やりて)の婆さんやわっちらばかりが、引手牢屋や船宿の若い衆にも心づけは欠かせないときてる。禿(かむろ)がいれば、子持ちも同然で、一本立ちの女郎に仕立てるまでの費用(かかり)は半端なものじゃない。それでもって慶弔とりまぜての物入りがまた馬鹿にならない。花魁は皆いくら稼ぎがあっても年から年中ぴいぴいしておりやす。ちょっと病気をしたり、親元から催促されたら、たちまち借金が嵩んで・・・・。うむむ、いや、なるほど、そうなんですか。
 男は女の涙に弱いから、女郎が泣けば客もたいがいは許してくれる。だが。そうやすやすとは泣けないから、女郎は着物の襟に明礬(みょうばん)の粉を仕込んでおく。それを眼のなかにいれたら涙が出てくる。
女郎は、客の煙草の水や印籠もしっかり見ている。廓に来る客はたいてい衣裳には張り込むが、持ち物にまでは手が回らないから、本当にお金をもっているかどうかをそれで見分ける。女郎だって、客をお金で値踏みする。
昔から、女郎の誠と卵の四角はないという文句があるのを、ご存知ねえんですかい。
 最後に二つの文章を紹介します。まず、著者の言葉です。
 小説を書く何よりの醍醐味は、妄想の海にどっぷりと浸って、自身の現実にわりあい無関心でいられること。
もう一つは、書評する側の人物の言葉です。
書評をした人間の良心がどこにあるかと問われたら、それは自分の書いたことばに責任を持てるか否かにかかっている。
 なるほど、いずれも、なーるほど、そうだよね・・・・と、つい思ったことでした。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

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アマゾン文明の研究

アメリカ

 著者 実松 克義、現代書館 出版 

 南アフリカのアマゾンに実は高度な文明社会があったという驚くべきレポートです。2段組350ページの大部な本ですが、信じられないような事実が満載でした。
 アマゾンには世界最大の熱帯雨林がある。アマゾンは世界最大の河川である。そこに存在する水量を世界中の淡水の20%に達する。川が作り出す流域面積はアメリカ合衆国に匹敵する。
 アマゾン川の特徴の一つは、水源の多さである。無数といってようほど、多くの水源があるので、最奥の源流を特定するのは困難である。
 アマゾン川の河口は350キロを越える。河口に九州ほどの島、マラジョ島が存在する。世界中の生命種の3分の1以上がアマゾン熱帯雨林にいると言われるほど、生命種の多様性が存在する。
 このまま行けば、アマゾンの熱帯雨林は数十年のうちに消失すると予想される。この破壊は肉牛のための牧草地の確保と大豆などの農業地の確保による。
このアマゾンは、人間とは無縁の未開の処女地と思われてきた。しかし、最近になって、実は、この地域にかつて大規模な人間の営みがあったことが分かりつつある。アマゾンの各地で古代人が建設した大規模な居住地、道路網、運河網、堤防システム、農耕地あるいは養魚場が発見されている。
アマゾン上流には、紀元前2000年ころからモホス文明が存在した。ただし、規模が大きくなるのはキリスト誕生ころから500年までのこと。
 その過酷な自然環境を人間が居住しやすいように造りかえるという大土木工事を実施した。運河網をつくり、農業システム、魚の養殖システムを構築した。そのためにはリーダーを頂点とする強力な政治組織、統治形態が存在した。ここには、大量の土器類が存在した。アマゾン各地に非常に大規模な古代文明が存在した。これらの社会は規模の大きさからして、巨大な人口を擁していたと考えられる。
 当時のアマゾンの人口密度は非常に高かった可能性がある。各地で大規模な居住地が建設され、また食料生産のための農業技術、あるいは農耕地の開発が行われた。
 その結果、現在550万平方キロもある熱帯雨林の大半は開墾された農耕地であった可能性がある。しかし、アマゾン全域を統一するような超国家的社会は存在しなかったと考えられる。
 アマゾン地域には、コロンブス到来時には1000万人もの人口があったと言われるが、実はこれは控え目ではないか・・・・。
 うへーっ、し、しんじられませんよね。こんなことって、本当なんでしょうか・・・・。
 まあ、事実は小説より奇なり、と言いますからね、どうなんでしょう。
(2010年3月刊。3800円+税)

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2010年8月 9日

心脳コントロール社会

社会

 著者 小森 陽一 、ちくま新書 出版 
 
 テレビを視聴することは、思考を停止させ、白昼夢を視ていることと同じだ。
 私も本当にそう思います。かつて「政治改革」に浮かれて小選挙区制を強引に成立させて少数政党を閉め出し、「郵政民営化」に熱狂して自民党独裁を生み出し、今また、「消費税の値上げしか国家財政の危機は救えない」と思わされている国民のなんと多い
ことでしょう。どれもこれも、為政者による、誤解の多いキャンペーンに乗せられ、踊らされているだけではないのでしょうか・・・・。
アメリカ国民全体を、言語習得の以前、人間ではなく動物の段階におとしめて、戦争に動員するためのキャッチ・コピーが、「テロとの戦争」というスローガンだった。なるほど、
9.11のあとのイラク、アフガニスタンへの侵攻を許したのは、このスローガンでしたね・・・・。
 アメリカによるアフガニスタン攻撃は、個別的自衛権の行使という名の戦争であった。
 アメリカによる多くの軍事行動は、ほとんど自衛の名の下に遂行されてきた。
 リメンバー・パールハーバーとヒロシマ・ナガサキへの原爆投下の正当化とは、多くの
アメリカ国民にとって大衆化された社会的集合記憶のなかで対になっている。
 9.11で崩壊したワールド・トレードセンター跡地が「グラウンド・ゼロ」と命令されたが、
この「グラウンド・ゼロ」とは、原爆投下の爆心地のことである。
 すべての人間は、女の子であれ男の子であれ、おしなべ人人生最大の「不快」である「生まれ出づる苦しみ」を体験している。その「生まれ出づる苦しみ」の初体験のパニック状態のなかで、初めて肺に吸いこんだ一気圧の大気を吐き出すときの声が「オギャー」という産声である。つまり、「オギャー」という産声は、人類すべての赤ちゃんにとって、人生最大の「不快」から救済してもらいたいという、自分に対する他者のケアを要求する表現なのである。
 「オギャー」という産声を発した赤ちゃんに対して、周囲の大人は、新しい生命が生まれた喜びとともに、「アー、ヨシヨシ」など、慈愛にみちた声をかけながら、自分の腕と胸で赤ちゃんを抱きかかえる。そして、あるリズムで赤ちゃんを抱きゆすりながら、「不快」の頂点に達し、極度の緊張のためのパニック状態から抜け出せるようにする。その行為は、赤ちゃんに、体内にいたときの「快」の記憶を蘇らせる。
 ふむふむ、なるほど、そうなんですね。
夜、眠りにつく前、子どもたちが「お話」をせがむのは、夜の闇と眠りにつくことに対する大きな不安を抱えているからである。子どもは、何度も聞いたことのある、同じ「お話」をせがむ。なぜなのかと思うほど、繰り返し、同じ「お話」を聞きたがる。このとき、子どもたちは、新しい情報が欲しいのではない。新しい、もっと面白い「お話」が聞きたいのでもない。言葉で構築された「お話」の世界が、決して変わらないことを確認して安心したいのだ。子どもにとって、「お話」は言葉による精神安定剤なのである。
 そうなんですか・・・・。私は、子どもが小さいとき、絵本の読み聞かせとは別に、私の創作「お話」を聞かせることがありましたが、そのとき、私は一生懸命に少しずつ話を変えていました。同じ話だと聞いていて飽きるだろうと思ったからです。ところが、いま思うと、まったく無駄なことだったのですね・・・・。ちなみに、私の得意とした創作「お話」は、ペローの「長靴をはいた猫」のもじりでした。 
 
(2006年7月刊。680円+税)

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2010年8月 8日

山人の話

社会

著者:小池善茂・伊藤憲秀、出版社:はる書房

 新潟県の山奥にあった三面村に住んでいた人の昔語りです。残念なことに、今ではダムの湖底に沈んでしまいました。戦前の村の生活が語られています。
春はクマ猟、ゼンマイ採り、夏はカノと呼ぶ焼畑でソバやアズキ、アワなど雑穀をつくる。秋はクマの罠であるオソを切り、キノコを採る。冬は、寒中のカモシカ猟、蓑や笠、ワラジをつくって春に備える。
 昔なつかしい、そして貴重な山の生活の記録です。
 クリ林では、個人でクリを拾うのではなく、村で拾う。明日の朝、クリ拾いするざーい、と夕方のうちに触れをまわす。そして、拾ったものは、みんなで平等に分ける。これは大昔から決めてきたこと。
 壇ノ浦の合戦で平家が負けてから越後の三条に来た人が先祖。池大納言といった。
 人生わずか50年。60歳まで仕事できる人は、ほとんどいないくらいだった。
 寒中(かんちゅう)は、カモシカ狩りが主だった。
 半寒過ぎたら、山駆けるな。雪崩(なだれ)の危険がある。表層雪崩でなく、全層雪崩の危険がある。全層雪崩のときは、表層雪崩のときのように泳ぐようにしてしのげるものではない。雪崩にあわないためには、雪崩の起きるようなところを通らないこと。それ以外に方法はない。人間では、どうにも出来ないのだ。大きな木のないところは、かえって雪崩の危険がある。
 山に入る人を山人(やまど)と言って、猟に行く人だけでなく、たとえば、山に伐採に行く人でも山人と言った。
 雪の時期でも、夏でも、伐採に入るには「木伐山人(きっきりやまど)」と言った。
 山を歩くときには、お腹がすいて歩けなくなったから食べるというのではダメ。すいても、すかなくても、巻狩りする前に食べておく。そうでないとカモシカを逃してしまう。そのためには、お餅を十分に腰について持っていく。戻って来るまで残っているくらいの支度を毎日していかないとダメ。疲れても、遅くなっても、深い雪だって耐えられるけれど、お腹がすいては耐えられない。腹減ったら何もできない。だから、食べ物が一番大切。
 クマと山の中で出あったら、クマより強いんだよ、あんたより強いんだよという態度を示さないとやられてしまう。
 クマは、いよいよ食べ物がなくなると、何日もかけて自分の生まれたところへ行く。クマが休むのは、必ず尾根この上に上る習性を利用して、巻狩りは上へ上げてやる。
 山では人の血は嫌われる。山では、血というのは絶対ダメ。
猟師は山言葉をつかう。山言葉は、村の内で使ってはならない言葉である。
 山境を越えると、猟師と送り人は、言葉を交わさない。猟師は「山の人」であり、送り人は「村の人」であるため。送り人は小屋に着いたら、荷物を置いて、挨拶もせずにそのまま帰っていく。
 山の生活が、巻狩りの方法をふくめて、道具などが図解されていますので、視覚的な想像も出来て理解できる楽しい本になっています。
 つい、マンガの『釣りキチ・三平』を連想してしまいました。
(2010年4月刊。1600円+税)

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2010年8月 7日

長篠の戦い

日本史(戦国)

著者:藤本正行、出版社:洋泉社新書

 長篠(ながしの)の戦いは、戦国時代の日本史に関心のある人で知らない人はいないでしょう。
 1575年(天正3年)5月21日、三河の長篠城外(現在の愛知県新城―しんしろ―市)で、織田信長と徳川家康の連合軍が、武田勝頼の軍を大敗させた。このとき、信長は、鉄砲隊3千を3段に分け、千挺ずつの一斉射撃を行うことによって、精強を誇る武田の騎馬軍団を撃破した。これが「通説」である。
 この本は、その「通説」がまったく根拠のないものだということを改めて(初めて、というのではなく)実証したものです。私も、改めてなるほど、と思いました。
 この長篠の戦いのとき、信長は42歳で、勝頼は30歳だった。
 通説が誕生したのは、戦前の陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史』シリーズによるものだと知って驚きました。
 織田信長には、直属の銃兵のほか、大小の家臣たちが所有する銃兵がいた。つまり、信長直属の常備鉄砲隊があり、このほかに臨時編成の鉄砲隊がいた。常備鉄砲隊は、装備もととのい、火薬などの消耗品も潤沢に支給され、集団訓練も受け、強力だった。しかし、信長だけが鉄砲の威力を理解していたわけではない。鉄砲隊にも二種類あったなんて、初めて知りました。
 信長の「三千挺、三段撃ち」を初めて言い出したのは、江戸初期の儒医であり、作家であった小瀬甫庵(おぜほあん)である。
 しかし、火縄銃を等間隔で連続して射撃することは、一人でも容易なことではない。これが複数になると、等間隔の連続射撃は、いっそう困難になる。まして、実戦の場で3千人が千人ずつ、交替で連続射撃することなど、空想の産物以外の何ものでもない。著者は火縄銃の構造もふまえて、このように断言します。
 火縄銃は、発射準備が、人により、銃により一定しないのである。
 長篠の戦いにおいて、信長は自軍の大兵力を隠そうとしていた。そして、別働隊を勝頼軍の背後にまわした。
 長篠の戦いのとき、柵から押し出したのは徳川勢であり、信長の軍勢は、みな柵の内にひきこもって一人も出なかった。
 要するに、織田信長の「三千挺三段撃ち」というのは、完全な創作なのである。これを実現するには、銃兵のなかから誰一人として死傷者が出ないこと、何発うっても銃の調子が変わらないこと、戦線の端から端まで敵が一斉に射程距離内に入ること、戦線の端から端まで射撃開始の命令が連続して届くことなど、奇跡に等しい諸条件が整わない限り、絶対に不可能なのである。
 この本は、敗戦後の勝頼の行動についても紹介しています。「先衆が少々敗れただけ」というのでした。実際には、大損害だったわけですが・・・。それに対して、信長のほうは、勝頼を誇大に宣伝しています。さすがです。
 この本では、長篠の戦いで信長が勝ったことについて鉄砲は勝因の一つに過ぎないと強調しています。
 背後を強力な別働隊に占領されたうえ、退路を川でふさがれ、左右への迂回路はなかった勝頼が、他に選択する余裕のないまま圧倒的な兵力で堅固な陣地に拠った織田・徳川軍を正面から攻撃して勝てるはずはない。要するに、信長の作戦勝ちだった。 
 この長篠の戦いから鉄砲が急増したということもない。鉄砲が一挙に増加したのは、束の間の平和で軍備を整える余裕ができ、明と朝鮮の連合軍との激戦が展開された朝鮮出兵のころのことである。
 著者の本は、大変に実証的だと、いつも感嘆しています。
(2010年4月刊。840円+税)

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2010年8月 6日

日本人の戦争

日本史(戦国)

著者:ドナルド・キーン、出版社:文藝春秋

 まず、有名な著者を紹介します。
 1922年にアメリカはニューヨークに生まれました。コロンビア大学で日本文学を学び、アメリカ海軍の日本語学校で学んだあと、情報士官として太平洋戦線で日本語の通訳官をつとめました。戦後、京都大学にも留学しています。つまりは、日本語が読める、日本の研究者であるアメリカ人の学者です。
 日本人作家の日記を読んで、その分析がこの本にまとめられています。
 ここでは、私にとって「くのいち忍法」などで身近な存在である山田風太郎にしぼって紹介することにします。
 日本人が日記をつける習慣は古く10世紀にまでさかのぼる伝統である。日本人は、別に事件のないときでも、ごくあたりまえの日常の経験を、日記に書くことで残す必要を感じていた。それは老年になってからの備忘録として、あるいは子どもたちの教育に資することを願ってのことだった。
 日本軍の兵士は、新年になるたびに日記帳を支給された。アメリカの軍人は日記をつけるのを禁じられた。敵にとって有利な情報が日記に記されることを恐れたから。日本軍で日記をつけるのが奨励されたのは、日記を検閲して、思想状況を確認しようとしたから。
 山田風太郎は、昭和20年1月1日、医学部の学生として日記に次のように書いた。
 「運命の年、明く。日本の存亡、この1年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ」
 激しい空襲、また原爆が落とされたあとも、山田の戦争支持の姿勢は揺らぐことがなかった。8月15日の天皇の放送を聞いたとき、山田が味わったのは、安堵の思いではなく、苦い失望だった。
 山田は、戦時中、この戦争での日本の勝算について、客観的に考えることが出来なかった。日本の敗北の可能性について触れることは、山田には出来なかった。
 ヒットラーの死を知った山田は、ヒットラーを絶賛している。
 ヒットラーは、実に英雄なりき。シーザー、チャールス12世、ナポレオン、アレキサンダー、ピーター大帝に匹敵する人類史上の超人なりき。いやはや、なんということ・・・。
 8月15日朝、友人から天皇が放送すると聞いた山田風太郎は、いよいよソ連に対する戦線の大詔であると確信した。うむむ、ちょっとどうなんでしょうか。
しかし、終戦後まもなく、山田は人々が軍人を軽蔑の眼で見るようになったことを知って愕然とする。そして、9月1日の日記に山田は、多くの日本人が驚くほど短時間のうちに、従来とまったく正反対の態度をとるようになるに違いないとの予言を書いた。
 「今まで神がかり的信念を抱いていたものほど、心情的に素質があるわけだから、この新しい波にまた溺れて夢中になるだろう。敵を悪魔と思い、血みどろにこれを殺すことに狂奔していた同じ人間が、1年もたたぬうちに、自分を世界の罪人と思い、平和とか文化とかを盲信しはじめるであろう」
 さらに、山田は次のように予言した。
 「このぶんでは、いよいよ極端なる崇米主義が日本に氾濫するだろう」
 山田の嘲笑の対象となったのは、新たに手にした自由を喜び、軍閥によって課せられた奴隷状態の束縛から日本人を解放してくれたことで、マッカーサー元帥に感謝を捧げている類の人々だった。
 終戦時に大学生だった山田風太郎の日記を主として紹介しましたが、それは、彼が当時の典型的な軍国青年だったことを意味すると思ったからです。
(2009年10月刊。1714円+税)

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2010年8月 5日

発禁『中国農民調査』抹殺裁判

中国

著者:陳 桂棣・春桃、出版社:朝日新聞出版

 2003年に出版された『中国農民調査』は中国の内外で大きな話題を呼び、このコーナーでも紹介したと思います。
 この本は、その本が裁判で訴えられた顛末が紹介されていますが、まさしく中国の司法の寒々とした実情が実感をもって語り伝えられています。この本を読む限り、まだまだ中国は法治国家というより人治国家のようです。
 『中国農民調査』は2004年2月、中国政府から発禁措置を受けた。そして、この本で実名をあげた安徽省の党書記から、名誉毀損として訴えられた。
 2004年1月9日、裁判官2人が著者の家を予告なしで訪問した。
 ええーっ、裁判官が予告なしで被告宅に訪問するなんて・・・。日本では、まったく考えられないことです。
 訴状を送達するためのようです。この訴状は、本の出版を停止せよ、謝罪して慰謝料20万元(260万円)を支払えというものでした。
 原告は党書記、そしてその息子が裁判官になっています。そんなところで裁判を受けるわけにはいきません。まずは弁護士探し。幸い、ボランティアでやってくれるという弁護士が見つかりました。
 中国の地方行政が腐敗しているのは有名だが、この阜陽市は、なかでももっとも深刻なところ。なにしろ、市党委員会の元書記は、収賄と官職売買で死刑を執行された。その後、2ヶ月足らずで、160人もの問題幹部が発覚した。
 裁判が始まった。原告側の弁護士は自分の机の上に山ほどの証拠書類を積み上げたものの、被告への提出を拒んだ。コピー代がかさむからという理由だ。にもかかわらず、裁判所はいきなり原告側が連れてきた証人を調べようとする。忙しい指導幹部だから・・・。なんということでしょうか、まったく信じられませんね。
 そして、裁判長は公開を原則とする法廷なのに、傍聴していた2人の記者について有無を言わさず退廷を命じたのです。
 20数年になる中国における法の普及教育を通じて、現在の中国で法的知識がもっとも欠けているのは一般市民ではなく、増長した党と政府の役人たちなのである。
 残念ながら、これではそうとしか言いようがありませんね・・・。
 4日間、合計35時間にわたる裁判が終わったのは夜10時。ところが、裁判所の正門に人々がぎっしりと待っていた。応援のために遠くから駆けつけてきた人々だった。これはすごいことです。
 でも、阜陽市裁判所の独自の審理権は上部の行政機関の強い関与を受けている。多くの司法間は供応あり、収賄を紹介しあい、裁判所内は、あからさまな「賄賂の取引市場」になっていた。そこは、「お役所の門は開けても、お金のない者は入るべからず」であっただけでなく、大胆不敵な汚職司法官たちは、「訴訟ごろ」の弁護士や「訴訟屋」たちと結託して、大きなブラック・ネットワークをつくっていた。法をその手に握る彼らは、飲む打つ買うのやりたい放題、天をもあざむく非道のかぎりを尽くした。
 たとえば、重罪を犯した男を仮釈放し、その妻に土地を売らせて数千元を受けとり、そのうえ自分のオフィスで妻を強姦した。
 20数年のキャリアのあるベテラン司法官は、職位を利用して、少なくとも6人の当事者の親族と肉体関係を結び、その中には、多数の少女を強姦・輪姦した凶悪犯を逃がしてやるとして、その母親と関係に及んだ事実もあった。
 阜陽市裁判所の歴代所長3人が汚職取り締まり捜査で摘発され、起訴された。
 なんということでしょう・・・。
 中国では、全国人民代表大会を最高国家権力機関とし、権力分立を否定する体制をとっている。そこで、裁判官が裁判において憲法を根拠に国家公権力の行使を抑制することを認めていない。
 なかなか中国の前途も多難だと思いました。
(2009年10月刊。2800円+税)

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2010年8月 4日

ニッポンの刑務所

司法

 著者 外山 ひとみ 、講談社現代新書 出版 
 
日本全国に77の刑務所があり、6万2756人(2009年末)の受刑者が収容されている。未決をふくめると7万5250人、少年院や少年鑑別所などを入れると8万456人となる。
刑事施設の収容人員のピークは2006年で、このとき未決をふくめて8万1255人、既決だけだと7万1408人だった。2008年から既決の収容率は97.6%と100%を下回るようになった。
執行刑期8年以上の長期受刑者が2003年から増加している。1998年から2008年の10年間で、3113人から6529人へと2倍以上に増えた。
 女子施設については、まだ過剰収容は深刻で、2009年末でも平均収容率が既決で114%を超えている。女子受刑者は、1974年に811人だったのが、2009年末の既決収容者は4348人となっている。収容率は114%だ。
外国人の受刑者の比率は、中国人が39%、ブラジル人とベトナム人がそれぞれ10%、韓国人とイラン人もそれぞれ9%の順になっている。外国人の受刑者が増大した原因は、日本が不況になって、彼らの仕事がなくなったから。
 外国人受刑者は、塀の中から母国へ電話をかけて話すことが認められている。1000円のテレフォンカードでイランだと13分、中国だと23分間話すことが出来る。法務官が電話をかけ、相手を確認してから受刑者と替わる。別室で会話は傍受されている。
横浜刑務所の受刑者の平均年齢は49歳、平均入所数5.1回、最多は60代の26回目の服役。最高齢は87歳。罪名は窃盗32%、覚せい剤26%。この二つで6割を占める。
 高齢者が急速に増えている。60代以上の受刑者は、2001年に12.4%だったのが、2008年には24%となった。
 寮から工場へ移動するとき、受刑者が整列し、刑務官が自ら大号令をかけて引率する「行進」はなくなった。この進行については自主性を損なうものとして批判がありました。
 30%の再犯者によって60%の犯罪が行われている。65歳以上の高齢者では、2年以内に再犯を犯すのが4分の3、1年以内が半数。55歳以上では半数、20代前半では47%が2年以内に罪を犯している。
 したがって、30%の再犯者にストップをかければ、犯罪も大きく減ることになる。この再犯防止のためには、教育と出所の受け皿、つまり帰る場所と仕事があることが重要である。
 山口県美祢にある社会復帰促進センターでは、国の職員123人に対して、民間220人、非常勤をふくめて男女520人が働いている。ここに受刑者の定員は男女各500人に対して、実際には男性281人、女性310人が入所している。美祢センターは全国はじめての男女合同施設である。収容者には高学歴の人が多く、21%が大学の中退以上。
過剰収容で収容率130%になっても暴動が起きない。刑務官が丸腰でも襲われない。これは日本人のいいところだ。そうなんですね。阪神大震災のときに暴動がなくて、世界から注目されましたよね。
刑務官の待遇改善と増員なしには再犯は減らせないと私は思います。ギスギスした人間関係から犯罪は生まれるのです。日本の刑務所を取り巻く状況を概観することのできる本として一読をおすすめします。 
(2010年3月刊。800円+税)

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2010年8月 3日

出口のない夢

世界(アフリカ)

著者:クラウス・ブリンクボイマー、出版社:新曜社

 まず、鉄砲がアフリカにやって来た。その後、ムスリムとキリスト教徒の宣教活動が始まった。そうしてアフリカで奴隷制度が始まった。組織的な人さらいの時代が400年も続いた。アフリカ大陸の歴史の暗黒部分の下手人がヨーロッパ人であったことは間違いない。
 だが、アフリカ人も、これに手を貸していた。西アフリカの諸部族は相戦っており、勝者となった族長たちは、敗者の戦士を白人に売っていた。敗者の数が十分でなく、捕虜が足りないときには族長は自身の部族民も売った。族長は兵士に村々を襲撃させ、部族民の小屋から息子や娘を連れ出した。奴隷市場で売りに出すため、つまりは族長の富を増やすためだった。多くの奴隷と交換に多くの武器が手に入った。その武器で、さらに多くの奴隷を捕らえることができた。
 奴隷制の歴史は、アフリカの歴史の核心部分をなす。トータルで6000万人の人間が絶え間なく消滅し、死亡した。火器と王たちに対する恐怖と無力感。これが記憶に刻み込まれ、それが部族を変え、民族を変え、大陸全体を変える。それは自画像も、イメージも変える。
 アフリカのイメージ・・・?
 取り残されて腑抜けの卑屈で追従的、迷信深くて怠惰、不潔で原始的。
 アフリカ大陸は、しばしばこのように見られ、記述され、扱われている。植民地を経営する国々は、アフリカには自己管理能力が欠如しているという理由をつけて植民地政策を正当化する。
 アフリカは一族郎党(クラン)の大陸だ。成功を収めた者は、分かち与えなければならない。単独であることは、アフリカでは天罰を受けるふるまいであり、呪詛を意味する。一方、集団は聖なるものだ。それは、たとえば、100ドルを稼いだ者は、50ドルを誰かに分け与えることを意味する。ここらは、日本人とかなり異なった感覚ですよね。
 ビッグ・マンという概念は、アフリカの全能の支配者。つまり諸部族の有力者、神々、虐待者をさす言葉だ。モブツ、アシン、ボカサ、ドウ、セラシェたちは、ビッグ・マンの系譜に連なる名前だ。彼らは、誇大妄想を体現する権力の象徴的人物であり、彼らの本質的な目的は、自分自身を維持することにあった。
 ハンセン病は、今日なおナイジェリアの国民的な病気であり、毎年、数千人が罹病する。その理由は、薬がないからだ。抗生物質を用いれば、ハンセン病はきわめて容易に治癒可能な病気である。
 今日、ナイジェリアは、娘たちを輸出している。少女たちは13歳か14歳だ。胸がふくらみ始めると、彼女たちは商品になる。そうなると、彼女たちは、家を、部落を、そして国を出ていかなければならない。ここでは、誰もが、それを知っているし、あまりに多くの者たちが同じことをする。
 アルジェリアは、1992年に内戦が始まり、7000人が行方不明、12万人ないし20万人が死亡した。そして今日、アルジェリアは、30以上の政党を有する民主主義国家だが、実際には、相変わらず軍事独裁国家である。
 リベリアでは、テーラー大統領による7年にわたる戦争で20万人が死んだ。テーラーは、ダイヤモンド、生ゴム、木材を売った収入で少年兵たちのための武器の購入費用に充て、残りは外国の銀行口座にためこんだ。税収およびダイヤモンド、木材取引による収入の7000万ドルから1億ドルをテーラーは自分の懐に入れた。テーラーの資産は30億ドルに上った。2006年春、テーラーはナイジェリアで逮捕され、シエラレオネに引き渡された。戦争犯罪人として裁かれる。
 ヨーロッパにおいて、1990年から2000年にかけて人口増加の89%は移民によるもの。2010年以降には100%になる。移民がなければ、ヨーロッパ大陸の人口は、この5年間に440万人減少していたはず。
 移民は、2004年に、銀行を介して1500億ドルを故国に送金した。別のルートによる送金額は3000億ドルと推定されている。
 なんと、日本にも1000万人の移民を受け入れる構想を自民党の政策チームがまとめて福田首相(当時)に提出したそうです。
 日本の人口は現在、1億2700万人ですが、50年後には、9000万人を割り込み、100年後には4000万人台になるという予測を立てて、今後50年間に1000万人の移民を受け入れて1億人の人口を維持しようという構想です。しかし、こんな議論はまったくされたことがありませんよね。
 アフリカで起きていることは、決して他人事(ひとごと)ではありません。
(2010年4月刊。3200円+税)

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2010年8月 2日

人間らしさとはなにか?

人間

著者:マイケル・S・ガザニガ、出版社:インターシフト

 脳が人間の思考と行動をどう司っているのかは、いまだによく分かっていない。数ある未解明の問題のうちには、思考がどのように無意識の深みから抜け出して意識に上るのかという大きな謎がある。
 本当にそうなんですよね。私たちの毎日の生活のなかでは、意識されてはいないけれど潜在的意識が実際の行動にとても影響をもっているということがよくありますよね。たとえば、人前で話すときに意識のなかったことが、当意即妙で話すことがあります。こんなとき、自分のなかにもう一人の自分がいると実感します。このように、人間という存在は、意識にのぼっているところだけではとらえきれないものだと私はつくづく思います。
 左脳が知性を司る半球だ。話し、考え、仮設を立てる。右脳は、そういうことはしないが、左脳より優れた技能をもつ、とりわけ視覚的知覚の領域で秀でている。
 左脳は、右脳の670グラムと縁を切っても、分離される前と同じ程度の認知能力を維持する。脳の賢さの所以は、単なる大きさにとどまらない。つまり、左半球には知覚機能で著しく劣る点があり、右半球は認知機能にさらに顕著な欠点がある。
 脳の左半球は、事象を解釈せずにはいられない。右半球には、そんな傾向はない。
 二つの脳半球は、二つの違った方法で問題解決の状況にのぞむ。右半球は、単純な頻度の情報にもとづいて判断を下すのに対して、左半球は、手の込んだ仮設を立ててそれを拠りどころにする。
 脳は、生まれたときは、成人のたった23%の大きさしかなく、成人に達するまで拡大し続ける。人間の脳の一部は生涯を通して成長を続ける。それは新しいニューロンが加わるというのではなく、ニューロンを取り囲むミエリン鞘が成長を続けるということ。
 観察から分かっているチンパンジーの社会集団の大きさは55匹である。人間の大脳皮質の大きさから割り出した社会集団の大きさは150人。今日、狩猟採集部族の典型的な規模は、一年に一度だけ伝統行事のために集結する同族集団において150人だ。
 人間は、組織階層なしに統制できるのは150~200人であることが分かっている。
 人間の会話の中身の3分の2は、自分に関する打ち明け話であることが判明している。
 他愛もない話を分析した学者がいるのですね。
 赤ん坊は、生まれてまもないときから、何よりも顔を見たがる。生後7ヶ月を過ぎると、特定の表情に正しく反応しはじめる。顔知覚は、社会的相互行為を円滑にすすめるために膨大な情報を提供する。ただし、顔を識別できるのは、人間だけではない。チンパンジーやアカゲザルにもできる。
 チンパンジー、ボノボ、人間など、多くの種では、大人も遊ぶ。いったい、なぜか?
 大人は、もう練習の必要はないのに、なぜ遊ぶのだろう。そうなんですよね・・・。
 社会的であることを理解するのは、人間というものを理解するための基本だ。イスラエルのキブツでは、血のつながりのない子どもたちが一緒に育てられる。彼らは、生涯代わらぬ友情を育むが、お互いに結婚することはめったにない。
 人間の脳は多くの点でコンピューターとは異なっている。脳の回路はコンピューターよりも遅いが、超並列処理をする。脳は100兆個のニューロン接続をもっている。これは従来のコンピューターよりも多い。
 脳は、常に自らの配線を直し、自己組織化している。
 脳は、創発的特性を利用する。つまり、行動は、カオスと複雑さのかなり予測の難しい結果だ。
 生後8ヶ月の赤ん坊の、発達過程にある脳は、ランダムなシナプスを多く形成する。そして、現実世界をもっともうまく説明できる接続パターンが生き残る。結果として、大人のシナプスは、幼児よりも、はるかに少ない。
 脳は分散型のネットワークだ。指令を下す指揮官も中央処理装置もない。脳は密接に接続してもいるので、情報の通り道は、そのネットワークの中にたくさんある。
 脳全体の仕組みは、ニューロンの仕組みよりも単純だ。
 人間と脳について深く考えさせてくれる面白い本でした。
(2010年3月刊。3600円+税)

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2010年8月 1日

新・雨月

日本史(江戸)

船戸 与一  著 、徳間書店 出版 
 江戸時代最後、幕末の日本の状況を実感させてくれる貴重な小説だと思いました。
  明治維新というのは、幾多の多大なる犠牲なしには実現しなかったのです。
明治維新に反抗したのが、たとえ後世になって「反動」と呼ばれようとも、薩摩や長州勢の言いなりにはならないという日本人も多かったのではないでしょうか。そして、新政府をかたちづくった薩長土肥その他の内部にも、また皇族や公じ家の中にも大いなる矛盾と激しい抗争が存在しました。
 この本は、その点を多面的な角度から描こうとした意欲的な小説です。私も、こんな本を1968年の「大学紛争」について小説として書いてみたいと思ったことでした。
 上巻1冊で500項もある大作です。かなり強引な飛ばし読みをしましたが、それでも丸2日間、3時間はたっぷりかかってしまいました。それだけ読みごたえのある本なのです。
 よく調べて書かれていますので、幕末から明治維新にかけての日本各地の雰囲気を知りたい人には絶好の本だと思いました。

(2010年3月刊。1900円+税)

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