弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年6月 8日

トレイシー

日本史(近代)

著者:中田整一、出版社:講談社

 日本軍の将兵は捕虜になるな、死ねと教えられてきた。ところが、戦場では「不覚にも」捕虜になる事態が当然ありうる。捕虜になったときに、敵に対していかに対処すべきか教えられたことのなかった日本の将兵は実際にどう対処したのか・・・。本書は、その実情を明らかにしています。要するに、日本の将兵はアメリカ軍の尋問に心を開いて、軍事機密をすべて話していたのでした。
 もちろん、これにはアメリカ軍による盗聴を生かしながら尋問するなど、テクニックの巧妙さにもよります。しかし、それより、無謀な対米作戦の愚かさを自覚したことによる人間として当然の本能的な行動だったのではないかという気がしました。
 つまり、こんな愚かしい戦争は一刻も早く終わらせる必要がある。そのために役立ちたいという心理に元日本兵たちは駆られたのではないでしょうか。
 アメリカ軍は日本の将兵を捕虜にしたあと、カリフォルニア州内の秘密尋問所に閉じこめて、といっても虐待することなく、供述を得ていき、それを戦争と終戦処理に生かしたのでした。
 捕虜たちを一人ずつ直接尋問する。そのあと、他の捕虜たちと自由に交わることを許す部屋に移す。そこには隠しマイクを設置しておき、別室で会話を聴く。捕虜は初対面だと、尋問で経験したことをお互いに話し合い、情報を交換し、それについてコメントする。ただし、盗聴はジュネーブ条約違反なので、厳重に秘匿された。ちなみに、スガモ・プリズンでも、アメリカ軍は盗聴していたとのことです。
 アメリカ軍は日本語を習得する将兵を短期養成につとめた。ただし、海軍は日系アメリカ人を信用せず、白人のみだった。これに対して陸軍は、日系アメリカ人も活用し、終戦のころには、2000人にもなっていた。
 尋問では丁寧語は使わず、なるべく相手に威圧感を与える日本語を使った。勝者と敗者の立場を明確に認識させる必要があった。
 手だれの尋問官であればあるほど、乱暴な尋問は捕虜のプライドを傷つけ、口を閉ざし、かえってマイナスになることを十分に心得ていた。尋問では、侮辱や体罰や脅しはほとんどなされなかった。
 捕虜となった日本の将兵は、自分が捕虜になったことを故郷に通知されることを望まなかった。自らの意思で、祖国や家族との絆を断ち切った。
 トレイシーと名づけられた尋問所に2342人の日本人捕虜がいた。
 太平洋艦隊司令官ニミッツ大将が1943年12月27日にトレイシーを訪問した。その重要性を認識したあと、さらに強化された。
 1945年4月、新国民放送局として、日本へ向けてのラジオ番組が始まった。30分足らずの番組だったようです。こんなトーク番組があったというのは初耳でした。どれだけの日本人が聞いていたのでしょうか、知りたいものです。
 日本人の戦前の実情を知ることのできる、いい本でした。
 
(2010年4月刊。1800円+税)

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